針子姫 其の二
皓然は善は急げとばかり、早々に梁家を訪れた。しかし、間の悪い事に当主も当主の叔父夫妻──針子姫の両親──も所要で出掛けており不在との事だった。
諦めて皓然が帰ろうとすると、奥から女が一人出て来て、皓然を呼び止めた。
「──お待ち下さいませ」
女は童顔でよく見れば愛らしい顔立ちをしている。どことなく梁家当主と顔立ちも似ているので、恐らく梁家親戚筋の者だろうという事はすぐに察せられた。
──もしや、この女人が針子姫か?
「当主も両親もおりませぬが、張家の御当主様である皓然様にお茶もお出ししないままお帰り頂くのは申し訳が立ちません。なんのお構いも出来ませんが、お茶だけでも召し上がっていって下さい」
女は申し訳無さそうに言い、皓然の方も彼女が目当ての針子姫かもしれないという期待もあったので、言われるまま上がっていく事にした。
「一つお伺いするが、貴女が針子姫と呼ばれている女人か?」
皓然は珍しく気を使う物言いをした。彼女の仕立てた着物を持ち帰られなければ、叔母にちくちくと小言をと言われるのは明白だったからだ。
「ええ、まあ。そう呼ぶ方もいらっしゃるようですが、そんな大層なものではございませんのよ」
女は顔を袖で隠し、苦笑いを浮かべた。
「それは良かった! 今日伺ったのは、貴女に用事があったからなのだ。貴女が居るのならば問題ない」
「私に? もしや、誰が良い方に着物でも仕立てられるのですか?」
針子姫の言葉に皓然はうっと言葉を詰まらせた。
「お、叔母にだ」
「まあ、叔母様思いなのですね」
そう言ってころころと針子姫は笑ってくれたので、皓然はとちょっとだけ気不味さが薄れた。
「まあな」
皓然が明後日の方向を見ながら言うと針子姫は察したのかころころと笑った。
「──さあ、お召し上がり下さい」
家に上がると客間に通され、針子姫がお茶を出す。
この茶を出す間も一言二言交わすと針子姫が当たり障りなく答えてくれるので皓然は気分が良くなった。
何時もは大体の女人が、気分を害してしまう──ほぼ皓然のせい──のだが、針子姫はおおらかな人柄の様で気にした様子はない。
「ところで、張当主様。叔母様にはどのような着物を仕立てればよろしいのでしょうか?」
「どの様な?」
「はい。好みなどご存知ではありませんか?」
「…………」
──叔母上の好みなど知らんぞ!
皓然が黙ると針子姫は頬に手を当てて「困りましたわ」と呟いた。
「張様の叔母様の好みがわからないと仕立てようがございません」
「そうなのか? 貴女の仕立てた着物は評判良いと聞いた。貴女の好きな様に仕立てても叔母上は喜ぶと思うが……」
「そんな訳には参りませんわ。仕立てさせて頂くには、採寸もせねばなりませんし……、どうしましょう。私は病がちで中々家から出る事も叶いません。来て頂いても対応出来るかどうかも定かではありません。折角ご依頼頂いたのに……」
針子姫が残念そうな顔をするが、直ぐにはっとした様に皓然を見た。
「もしよろしければ張当主様が胡蘭様の採寸をなさってくださいませんか?」
「わ、私が……か?」
針子姫のこの提案には皓然は面食らった。
「はい、きっと胡蘭様もさぞかしお喜びになる筈です! 張当主のことを如何に叔母様思いか皆に自慢する事でしょう!」
針子姫そう言われ、あの小言の多い叔母が自身を褒めちぎる様を想像すると少々面倒ではあるが嫌な気は起きなかった。
皓然は針子姫の頼みを承諾し、その日は梁家を後にした。