山の主
「──やぁ、坊や。お使いか?」
俊宇は唖然としたまま固まった。一匹の獣が彼に声をかけたからだ。
獣は精々中型犬くらいの大きさで真っ黒な毛並みをした一見何処にでもいそうな狐であった。
しかし、それが何時から其処にいたのか俊宇は全く気が付かなかった。気配が無かったのだ。
「坊や、我の言葉は聞こえぬか?」
岩の上に座った狐は金色の瞳を俊宇に向ける。それだけで俊宇は息が詰まる様な感覚を覚え身動き一つ取れなくなった。
──これが、山の主……!?
彼の師匠が会えば分かると言った理由は容易に理解出来た。ただ問題はどうやってこの状況を打破すれば良いのか全く検討がつかなかった。
「ふむ」
黒い狐が嘆息し、視線を逸らすと息が詰まるような圧迫感がなくなり、不思議と身体が動くようになった。
「かはっ」
俊宇は息を吐き出すと咄嗟に頭を下げた。
「山の主様とお見受けします。私のような若輩者にお声掛けくださるとは露程も思わず、ご無礼致しました」
俊宇は出来る限り丁重な口調で山の主に対する。
「構わぬ。して、坊やは何故此処にいる?」
「私目はこの度山を下り、各地を雲遊する所存です」
「雲遊とは、また奇特な。修行に励むなら、山の方が適しているだろう? 何故わざわざ俗世を選ぶのか」
「私はもっと広い世を知り、腕試しをしたいのです」
俊宇が真剣に言うと黒い狐はくつくつと嗤った。
「腕試しとな? 山で温々と育った小僧が俗世に出てやっていけるとでも? 悪い事は言わぬ。さっさと山にお帰り。今ならまだお前の師匠も受け入れてくれようぞ」
俊宇はこの山の主の物言いに酷く腹が立ったが拳を握り締め何とか堪えた。カッとなって食って掛かったとしても太刀打ちできないのは明白だったからだ。
少し頭が冷静になってくると自身の師匠の顔が頭を過る。
──師匠にも、同じ事を言われたな。
ただし、師匠はもっと穏やかな表現をしていたが。
「それでも私はもっと広い世界を見てみたいのです」
殆ど呟きに近いものだったが、其処には俊宇の強い決心があった。
「そうか」
俊宇は黒い狐に再び嘲笑されるのではないかと身構えた。しかし、返って来たのは驚くほど優しい声だった。
「広い世界を見るのは悪い事ではない。誰かに言われて揺らぐような決心なら山に引きこもっている方が良いと思ったが、決心が本物ならば我は言う事はない」
俊宇は僅かに顔を上げて山の主を見る。岩の上の狐は微笑んでいるように見えた。
「ありがとうございます!」
俊宇は自身を認めて貰えた気がして嬉しくなり、心から感謝の意を述べた。
「だが、やはりそなただけでは心配だな! 我もついて行こう!」
「……は?」
俊宇の感動が吹き飛び、そのまま暫く呆然としていたのは言うまでもない。
そして、俊宇は後に思うのだ。
この時、引き返しておけば良かったと──
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