旅立ちの日
「──俊宇よ。本当に行くのが?」
「はい、師匠」
そう問われた俊宇は目の前に立つ彼の師匠であり養い親である女性を真っ直ぐに見て頷いた。彼の答えに一切迷いは無かった。今日のこの日が来るまで何度も俊宇と彼女間で交わされたやり取りであるからだ。
俊宇はこの日、育ったこの山を下りる。そして、もう二度帰ることは出来ないと覚悟していた。
師匠は俊宇の意思が変わらないのを確認すると少し悲しげに彼を見た。
「餞別として一つ伝えておくべき事がある。この山を越えた場所妖魔が跋扈していた山があるのは教えただろう?」
師匠は遠くの山を見ながら言った。
「はい、師匠。確か、私が生まれた頃に強大なる妖魔がその山に飛来し山の主になった。その後、その山にいた妖魔達は鳴りを潜め、人を襲う事は無くなり、山の麓に住んでいた民はその妖魔を神獣として崇めるようになったと習いました」
俊宇も師匠と同じ様に遠くの山を見た。
「ああ、そうだ。俊宇よ。この山を出るならその山を通る事になるだろう。もし、その山の主と出会っても決して敵対してはならぬぞ」
俊宇は首を傾げた。師匠の言う言葉よく分からなかったからだ。
俊宇はその山を通らねばならないとしても、その山の主を害そうなどと微塵も考えた事が無かった。そもそも、その山の主は人語を解していたという。それだけの知性のある妖魔は非常に強力だと聞いている。まともに相手をするなど棺桶に自ら足を突っ込むようなものだ。
俊宇自身、自分は其処まで愚かではないと自負していた。
「山の主、神獣と崇められようが、妖魔は妖魔だ。だがな、あの者は違うのだ」
「違う、とは? それよりも師匠は山の主にお会いになった事があるのですか?」
「うむ、まぁな。会えば分かる。あの者は人が触れて良いものではないのだ」
彼女は一瞬歯切れの返答をしたが、その目の真剣さが仙人となったほどの彼女を持ってしても、山の主がどれ程の強力なものなのかを物語っていた。
──気を引き締めなければ。
そう思う一方で、俊宇は内心こうも思っていた。
──それ程の山の主がそう易易と人前に出てくる筈はないだろう。
俊宇のその考えは容易に覆される事になった。
それは師匠との最後の別れの挨拶を終え、彼女に見送られながら山を旅立ったその後、数刻もしないうちの出来事だった。




