山中の宿 其の一
「──どうされましたかな?」
羅羽は踏み出そうとした足を引っ込め、ひと呼吸置いて振り向いた。
何時からいたのだろうか。彼の背後には一人の柔和な顔立ちの翁が立っていた。
「どうされましたか?」
翁は心配そうな顔をして羅羽を見ている。
──女人では無い?
「えっと、この屋敷は貴方のですか?」
羅羽はどうにか言葉を絞り出して尋ねた。すると、翁は首を左右に振った。
「いいえ、とある高貴なお方のお屋敷です。私はこの屋敷の管理を任されている林辰とい申します。珍しい方がいらっしゃるので、声を掛けたのですが、驚かせてしまった様ですね。申し訳ありません」
「いえ、此方こそ申し訳ありません。山奥にこんな美しいお屋敷があるとは思いませんでしたので、つい見入ってしまいました」
羅羽はそう言うと林辰は「ほほほ」と破顔した。
「そうでしょうとも。麓の村とは交流もありませんし、こんな山奥に屋敷がある事もご存知ない筈です」
羅羽は林辰の言葉に「ん?」と首を傾げた。
「何故交流が無いのですか? 不便ではありませんか?」
羅羽の疑問に林辰はにこやかに答えた。
「実はこの屋敷はこの山で修行する修験者達の為に建てられた宿なのでございます。修験者達は俗世と縁を絶ち、厳しい修行に取り組むのです。必要な物は修験者達が持って参りますし、此処には庭園だけでなく畑もございますので、衣食住に困る事はありません」
「なる程」
──では、村の言い伝えにあった屋敷は修験者達の宿だったという訳か。
羅羽は感嘆しつつ、少し落胆した。この林辰の言う事が本当ならば、村の言い伝えの真相は案外呆気ないものだからだ。
「ですから、村から此方に来る道も無かった筈。貴方様がどうやって此処に辿り着いたのか、それが不思議でなりません」
「ははは」
羅羽は苦笑いを浮かべながら、頬をかき、「実は……」と山に入った経緯を林辰に説明した。
「──そういう事でしたか」
羅羽の予想通り林辰は呆れた様な何とも言えない表情をする。
「羅羽殿、老婆心から申し上げますが、好奇心は9つの魂を持つ猫をも殺します。古くから言われている事です。御自愛下さいませ」
「はは、気を付けます」
気不味そうに相槌を打つ羅羽に「ですが」と林辰は続ける。
「折角、此処までいらしたのです。この宿で一休みしていかれませんかな?」
そう言った林辰の表情は何処か狐狸の類を連想させた。




