ある男の話 其の一
──お前は何も見ていない。何も見えない。
それは母や周りの女が俺に何度も言い聞かせた言葉だ。それがどういう意味を持つのかは、数年後に嫌でも理解することになった。
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──賀州の寺院
「──なぁ、爺さん」
「師匠と呼べ」
生意気そうな小僧が境内を掃き掃除しながら、彼を見張る和尚に話しかけた。
「母さん達はもう戻って来ない」
小僧が唇を尖らせて言った。和尚は一瞬目を瞠ったものの「……そうか」とだけ答えた後、ガシガシと小僧の頭を撫でた。
きっと、和尚にはそれがどういう事なのか理解していたのだと小僧は後になって知った。
小僧の名は丹。彼の母親は特殊な一族──先見の巫女の一族と呼ばれている──であり、彼はその力を受け継がなかった為、寺に預けられた。という事になっている。
一族の女は皆嘘つきだと小僧は思っている。
事実、女にしか受け継がれないと言われているその能力を男の丹は引継いだ。母も含めた女達は皆、それを知っていて隠し、更には丹を寺に追いやった。
──良いわね? 和尚以外の人に言っては駄目よ。何があってもよ。
──貴方は何も見えない。見ていない。良いわね?
寺に来る前、嫌という程、母から言い聞かせられた言葉だ。何故駄目なのかは師匠から教えられ、漸く理解できた。
「あの家の者は先が見える分、説明を省く癖がある。説明せずとも必ずそうなると知っているからな」
説明しながら和尚は呆れていた。
──師匠は母さん達と親しいんだな。
その姿を見た時、丹が感じたのはそんな事だ。
恐ろしく結束が固く、異常な迄に排他的な──それこそ、子供の丹から見ても分かる程度に異常な──一族と親しい和尚との関係がいまいち分からなかった。
寺院に預けられてからは暫くは静かに過ごしていた。
その時までは──。
──その日も丹は境内の掃除をしようとしていた。
寺院の門の前に和尚が立っているのが見え、声をかけようとした時、丹は妙な浮遊感に襲われた。
丹は倒れない様に箒を支えにしてぐっとその場に踏ん張る。その間にも視界はぐにゃぐにゃと変化していく。漸く落ち着いたと思った頃、目を開き息を呑んだ。
目の前に見たこともない恐ろしい生き物がいたのだ。
丹はそれを目にした時、全身で本当の恐怖とはどういうものなのかを体験した。
自分の身の丈よりも数倍も大きな獣は、黄金の瞳で和尚を見下ろしている。その獣は冷たい炎を纏いどんな生き物よりも恐ろしく、憎しみに満ちていた。その獣と目が合った瞬間、丹は自分の命が誰かの手中にあるとひしひしと感じた。
──アレが此処にやって来る!
そう感じた時、既に丹の身体は動いていた。自分の世話をしてくれる和尚や仲間の僧侶、小僧の事など頭の片隅にも浮かばなかった。
その日、丹は寺院から逃げ出したのだ。