幽鬼
私は何処に行く事も出来ずただその場に佇んでいた。此処は何処で、何時から此処にいたのかも分からない。何処に行けば良いのかもわからず、私はただその場にいた。
ふわりと風が吹き、芳しい花の香りが鼻腔をくすぐる。
──良い香りだ。
きっと私の周りは美しい花々で満ちているのだろう。暗闇の中で、その香りが私を少しだけ癒やしてくれた。しかし、私の心は慰められない。訳のわからない焦燥感と諦念が私の心を渦巻いていたからだ。
「──貴方様は此処で何をなさっているのですか?」
若い女人の声がした。
此処に来てから時折人の声はしていたが、私に話し掛ける者は誰一人としていなかった。
ただ一人でぼんやりと過ごし、無駄に時間を浪費しているだけだった。
初めて声を掛けられた事に私は驚き半分嬉しさ半分で声の方を向いた。
「娘さんこそ此処で何を? こんな月も無い夜に一人で出歩いては危ないですよ!」
「…………」
私は親切心から言ったのだが娘の返答は無く、訝しんだ。
「娘さん?」
私はもう一度問い掛けた。そうすると彼女は私に驚くべき事を伝えた。
「……今は昼時ですよ? 貴方様はもしや目が見えていらっしゃらないのですか?」
「え……?」
私は娘の言葉に啞然とした。私は今の今まで自分が目が見えない事も忘れてしまっていたのだ。衝撃で言葉を失う私に娘は続けた。
「お困りのところ申し訳ありませんが、何処かに行って頂く事は出来ませんか?」
「なっ、何故ですか?」
私は酷く狼狽した。見ず知らずの娘にいきなり何処かへ行けと言われたのだ。
「貴方様が此処にいると困る人達がいるのです。私は……その方達に頼まれて貴方様に声をかけたのです」
私は更に茫然としてしまった。
──私は知らぬ間に人々に迷惑をかけていたのか!?
「そっ、それは申し訳ない事を……」
「謝罪はいりません。幸い、貴方様は話の分かる人の様です。無理矢理追い払ったりは致しませんが、出来るだけ早くこの場を離れていただきたいのです」
狼狽える私に娘は尚も淡々と続ける。
「だが、私は何処へ行けば良いのか分からないのだが……」
娘は少し考えてから言葉を紡いだ。
「貴方様は何処から来たのですか? 名前は?」
娘の幾つか質問をするが、私は答えられず首を振った。
「では、何か覚えいる事はありませんか? 些細な事でも良いのです」
私はこの妙な焦燥感、罪悪感について語った。
「貴方様は何か未練がある様です。ですが、貴方様はその未練が何かすら忘れている様です」
「未練、ですか?」
私は戸惑いながら、彼女尋ねた。
「貴方様は既に逝去されています。つまりは幽鬼で未練があり、この世を彷徨っているのです」
彼女の言葉に驚いたものの、思いの外その言葉はすんなりと受け止められた。
──そうか、私は死んでいるのか。
「何処に行けばいいか分からないなら、私について来ますか?」
私は彼女の言葉に頷いた。
「さあ、手を伸ばして下さい」
彼女の声のする方へと手を伸ばすと、身体が強く吸い込まれる様な感覚があった。
「──どうですか?」
「今一体何が?」
気がつけば私は彼女の掌の中にいた。何かしらの媒体の中に入ったらしい。新しい身体の感触を確かめていると、私のすぐ近くで声がした。
「──ふふっ、流石は邪視の子よ」
「──持つべきは道士の友ね」
「──放っておけば自然に消滅したでしょうに」
薄ら寒い笑い声にその時、私は彼女に助けられたのだと悟ったのだ。




