ソメイヨシノは実をつけない
バスを降りて道なりに進むと、やがてだらだらした坂にさしかかる。
この道は何度か通ったことがある。二度目からはヒールの低い靴を履くようにしていた。
ようやく坂のてっぺんに一軒の家が見えた。目的地はここだ。
四月の陽気の中、わずかに汗ばんだ額にハンカチを当てる。呼吸を整えてからチャイムを鳴らした。
しかし、反応はない。
ドアノブをひねると何の抵抗もなく開いた。
「有栖川先生、女性の一人暮らしなのに鍵をかけてないのは危ないですよ」
机に向かう背中に声をかけると、ようやくこちらを向いた。
「時間厳守だね。本当にキミは優秀な編集者だよ」
「先生が適当なだけなんですよ」
「そうかな? これでもちゃんとやっているつもりなんだが」
文句をいうわたしにすっと紙の束が差し出される。
「はい、原稿たしかに受け取りました。不思議です。仕事は完璧なのにどうして私生活には反映されないのでしょうか」
「私生活を作品に反映させた結果だよ」
「はぁ、先生はそういう人でしたよね」
原稿をカバンにしまうと、代わりにビニールの包みを差し出す。
「差し入れです。あんこは苦手じゃないですよね」
「桜餅か。いい色だね。お茶を用意するから少し待っていてくれ」
「やりますよ。先生は座って待っててください」
皿や食器がすくない台所でお湯を沸かす。
テーブルに座る彼女の前に湯のみを一つおいて、わたしも着席した。
話題は最近の編集部についてや、今後の作品についても軽く触れる。
彼女の作品には初期から携わってきた。アカデミックな話題を交えた作品が多く、編集者であるわたしも勉強が必要となった。
「ところで、ここに来る間に桜並木は通ったかな?」
どうしてと思っていると、先生がわたしの肩を指差した。紺のスーツに白い花びらがひとつ張り付いていた。
思い出す。
桜の木々が両脇に立ち並び、頭上は真っ白な花びらに蓋をされていた。
しばらくその光景に圧倒されていた。風でゆれた花びらがこすれる音がまだ耳に残っている。
「地元では有名な場所だ。あれを見たものは必ず立ち止まる。そして目に付いた和菓子屋の出店で桜餅を購入していく。うまい商売だよ」
「そんな言い方いじわるですよ」
感動を共有できるかと思ったが、反応はかんばしくない。
偏屈とは言わないが変わっている。一般知識にとぼしく生物学について詳しい。こういった偏りが作品のおもしろさを生むのだろうか。
「キミの感動に水を差すつもりはなかったんだ。ただね、キミの近所にある桜も今日見た桜も変わりはないはずなのに不思議に思ってね」
さすがの極論に抗議を口にする。
「同じ桜ですけど、咲き方とか周囲の風景とかで印象も変わるじゃないですか」
「ああ、いや、そうではなくて品種についての話だ」
どういうことかと首をひねっていると彼女の説明が続く。
「あの桜並木で花を咲せていたのはソメイヨシノという品種だ。街中でみかけるものは圧倒的にこれが多い」
開花情報もソメイヨシノを基準にしてるらしい。おそらく桜と言われてみんなが連想する姿は同じなのは確かだ。
「ソメイヨシノという桜はエドヒガンとオシマザクラを交雑させて生まれたものだ。いま日本中で花を咲かせているのはその中から一番特徴的なものを接木で増やしていったクローンなんだ」
「じゃあ、うちの近所にあるものもさっきみた桜も完全に同じものってことですか?」
「そういうことだ」
ここまでの説明を聞いたがまだ納得できない部分もあった。
「でも、自然に増えることだってあるんじゃないですか?」
「では質問だ。桜の花が散った後、実をつけているところは見たことがあるかい」
「そういえば、みたことないですね」
昔はサクランボが桜の実だと思っていて両親に笑われたことがあった。観賞用の桜と果樹用のサクラはちがうものらしい。
「結実するには受粉をしなくてはいけない。周囲にあるのは同一個体のみ。つまり自分同士でセックスをするということになる」
セックスという刺激的な言葉に反応しそうになるが、目の前の相手はまったく気にした様子もない。
「……それはいやだなぁ」
「今のキミと同じことをソメイヨシノは考えているのだよ。近親相姦への忌避、被子植物においては自家不和合性というのだけれど、それがソメイヨシノの遺伝的性質にも強く出ている。だから、ソメイヨシノ同士での子供は生まれることはなく、花を咲かせても実をつけることはない」
美しい風景もこの人にとっては興味の方向が違うらしい。
初めて会ったときは編集者としてその距離感をつかもうとした。話すうちに知識と興味の偏りが気がつき始め、やがて「この人はひょっとして世間知らずなのでは」と思うようになった。
「どうして先生が恋愛作品をかけるのかが不思議です」
「失礼だね。恋愛ぐらいしたことはあるよ。片思いだけれど」
「えっ!? 先生が!」
絶句してまじまじと先生の顔を見てしまう。片思いだなんてこの人もかわいらしい一面があるのだなと意外に思った。
その物腰から勘違いしそうになるが、先生はまだ二十代前半の女性だった。
「よろしければお話を聞かせてください」
担当編集者として、なにより一個人としてこの人の恋愛に興味が湧いた。
「キミも物好きだね。つまらない話だよ?」
「ぜひに」
ずずいとテーブルに身を乗り出して先生の目を合わせると、いやがるように顔をそらした。
「キミはときどき押しがつよいね。それじゃあ、お茶請けとして適当に聞いてくれ」
そう前置きすると。とつとつと語りだした。
相手は小さい頃からよく見知った相手だったそうだ。
住んでいる場所も近くいつも一緒だった。
中学に上がったころから次第に相手を意識するようになった。
中学、高校と二人はずっと一緒だった。だけど、二人は別の進路に進むことになった。相手は東京の大学に合格した。
想いを告白するつもりはないまま、別れの日がやってきた。
そこまで話すと先生は言葉を切った。すっと息を吸うと静かに息を吐いた。
「その日に相手からソメイヨシノの花を贈られたんだ。とっくに私の思いはばれていて、フられたのだなと思った」
「え? どうしてです? 素敵な贈り物じゃないですか」
「確かに花はキレイだった。だが言っただろう。ソメイヨシノは永遠に孤独な花だと。あの頃の私はそれを拒絶と受け取った」
だれとも結ばれない一人ぼっちのソメイヨシノ。
「でもそれは相手に聞いてみないとわからないはず」と言葉を重ねたが、先生はしずかにかぶりを振った。
「今となってはわからない。それっきりだよ。さっきもいった通り盛り上がりに欠けるつまらない話だっただろう」
湯のみをことりとテーブルにおく。それで落ちがついたとばかりに先生は肩をすくめた。
先生にとっては忘れ得ない話だったのだろう。表情には出さないけれど寂しげな雰囲気を見せる彼女にそれ以上詮索することもできなかった。
「さて、あまり長居していると原稿の遅れを編集長に心配されてしまうぞ」
時計をみるといい時間になっていた。
原稿を持ってこのまま編集部に戻るべきだったけれど、もやもやは残ったままだった。
坂を下った後、なんとなく足は桜並木に向かっていく。桜の花びらが散る道を歩いていると足が止まった。
「あれ? 先生?」
平日の中途半端な時間なせいか人は少ない。
その中に一人、見覚えのある女性を見つけた。
桜を見上げる横顔はまちがいなく先生だった。
しかし、声をかけると不思議そうな顔で見返されてしまった。
「有栖川先生ですよね?」
確認してみるが首を横に振られた。人違いを謝ると彼女は苦笑を浮かべる。
その表情は見たことがないもので、やっぱり別人なのだと思った。それにしても似ている。三日前のエイプリルフールだったら先生が演技していると信じられるほどだった。
気がつけばかなりの長い間じっと見てしまっていたようで、彼女は困ったようにこちらを見ている。
「あっ、すいません。ほんとに似ていたもので」
「いいですよ、間違われるのは昔から慣れていますから」
その言葉はこちらへのフォローと受け取った。こんな人はそういないだろう。
のばした黒髪は艶やかで美しい。和風美人という言葉が似合い、桜の木の下にいると絵になる人だった。
「お仕事の帰りですか?」
人違いをした気まずさを誤魔化そうと話をふる。微笑みを浮かべ世間話に応じてくれた。
「ええ、はい。約束していた相手と会ってきた帰りに立ち寄ったところです。久しぶりにこの桜が咲いているところを見られてよかったです」
「以前も来たことが?」
「ええ、ここに住んでいたことがありまして」
何かを思い出す彼女の顔は寂しげに見えた。すぐにもとの微笑みを取り戻す。
「そういえば、桜の花言葉をご存知ですか」
「えっと、清純、高貴、精神美だったでしょうか」
「お見事です。それと、フランスではこうも言われているそうですよ―――」
それを聞いた瞬間、さまざまなイメージが連なりだす。しかし、急速に固まりだした考えにストップをかける。
ありえるのか、そんなことが?
だけど、有栖川先生ならと思ってしまう。
「その言葉を知ってから、桜を見るとどうしても寂しさを感じてしまいます」
会釈して離れていく彼女の背中を見送った。
一人で残り、ソメイヨシノたちを見上げる。彼女たちはみな同じ顔でキレイに花を咲かせている。
ある人はこれを見て、『孤独』だと言った。
ある人はこれを見て、『寂しい』と言った。
わたしはすぐに先生の家に走った。
「先生!」
坂を急いで上りきる。息を乱しながら戻ってきたわたしに先生は怪訝そうにする。
「どうしたね、忘れ物かな?」
「ちがいます。さっきの話。ソメイヨシノの花を贈られたって話です」
ソメイヨシノはずっと一人きりで散っていく花。
だけど、そんな桜を見て違うことをいった者もいた。
―――『私を忘れないで』
満開の花の散り際の切なさと儚さ。別れを惜しむことで作られた花言葉だった。
それを教えると先生はジッと考え込んだ。それから、細く長く息を吐き出した。
「……花言葉、か。それをいうためだけに走ってきたんだな」
「気に障ったならすいません」
「いや、キミは優秀な編集者だと思ってね。本当に」
肩の力をふっと抜くと彼女は口元をほころばせた。
満開の笑みを浮かべる先生はまったく想像できない。
「そうですとも。これからも先生のサポートなら任せてください。作品作りのためなら労は惜しみません」
「まったくキミには敵わないよ」
有栖川先生の行動は、目的がハッキリしている分ときどき読めることがある。
だけれど、今日一日で何度先生に意外と思わされただろうか。何よりも先生の作品を読むたびにいつも驚かされている。
「次回作もがっつりお願いしますよ」
「ではそうだな、プロット段階だが双子の姉妹の恋愛を考えていてね」
思わずむせ返りそうになった。
やっぱりこの人の行動は読めそうもないと思うのであった。