07 推しを遠くから見守りたい1
「ついに振り向いてもらえましたね、フィリーネ様!」
推しに気がついてもらえたことに至上の喜びを感じながら彼が去った玄関のドアを見つめていたフィリーネだったが、メイドのアメリアもまた興奮気味に胸の辺りで握り拳を作っていた。
フィリーネが朝の見送りを始めたのは、前世の記憶が戻った次の日から。
初めの頃は吹き抜けの端にある壁に隠れてこっそりと覗いていたけれど、ライマーに気がつかれてからは毎朝彼に手を振るのが習慣となっていた。
「わんっ!」
カミルがアメリアに賛同するように声をあげた。
この世界の犬は前世の世界にいた犬よりも利口で、人間の言葉を完全に理解している。
そのため人間の都合で売買することは禁止されており、野生に生息している彼らに意思確認をしてから家族になってもらうというのが一般的だが、フォルクハルトの場合は事情が少し異なる。
士官学校で初めての野外実習で森へ行った際に、まだ子犬だったカミルがひょっこりと姿を現したのだ。
本来ならば、犬はもっと山奥に生息しているので親とはぐれてしまったのだと思ったイケメン達は、こぞってカミルを飼おうと勧誘を始めたけれど、カミルは誰の誘いにも乗ることはなかった。
けれどカミルは、実習の間ずっとフォルクハルトの後をひょこひょことついて歩いたのだった。
『なぜついてくる……。家族になってくれと頼んだ覚えはないぞ』
『わんっ!』
『君は不愛想だけれど根は優しいから、この犬もそれを見抜いたのかもしれないね。まさか子犬の彼をここに置いていったりしないだろう?』
第一王子のアルベルトにそう言われてしまい、フォルクハルトは渋々カミルを引き取ることにした。
これはゲームのエピソードでも公開されているため、フィリーネは前世の記憶が戻ったことで二人の出会いを知ることができた。
前世の世界ではオールド・イングリッシュ・シープドッグという犬にカミルが似ていたため、一時期は作品の影響でちょっとしたブームになっていた。
ただ、元々ペットショップでの取り扱いが少なく大型犬という飼いにくさもあり、七海も飼いたかったが家族に反対されて断念するしかなかったようだ。
前世では叶わなかったが、今は本物のカミルとオタ活をするまでに仲良くなれたことにフィリーネは幸せを感じていた。
カミルの頭をなでながら、フィリーネはアメリアに視線を移した。
「えぇ。けれど私は大勢の中の一人に過ぎないわ。イベント会場では誰もが推しと目が合ったと思ってしまうものなのよ。私は毎日、フォル様の後ろ姿を見られるだけでもじゅうぶんに幸せよ」
アメリアは、はて?と考えた。
この場にいるのはフィリーネとメイドと犬。誰に目が向くかと言ったら当然妻であるフィリーネのはず。
けれど、フィリーネが見ている世界と自分が見ている世界が違うことも彼女は理解している。
フィリーネが倒れて以来、おかしな発言をするようになったのは彼女の専属メイドであるアメリアが一番よく知っていた。
夫に受け入れてもらえない事へのストレスでついに頭がおかしくなったのかと思ったが、毎日楽しそうに夫を見送り、手紙を書き、出迎えもこっそりしている姿を見て、この家へ嫁いできた日の朗らかな雰囲気の彼女が戻ってきたようで嬉しくなった。
少しでも彼女の気が晴れればと、アメリアはオタ活についての知識をフィリーネから伝授してもらい、少しは彼女と話をあわせられるようにはなっていた。
「フィリーネ様は、もう少しご自分に自信を持ってくださいっ!フォル様にはじゅうぶんに顔と名前を憶えてもらえたと思います。次の段階に踏み込んでもよろしいのでは?」
メイドが主を愛称で呼ぶなどもってのほかだけれど、フィリーネに「ファンの子は皆フォル様と呼んでいるの。アメリアもこのジャンルの沼にハマるつもりなら、フォル様呼びは必須よ」と言われ、沼の意味はよくわからなかったアメリアだったが二人きりの時限定でそう呼ぶようになった。
「そうね、ただ見守るだけでは私がフォル様推しだとわかってもらえないわ。体調も戻ってきたことだしそろそろ本格始動しようかしら。アメリア、朝食を終えたら買い物に付き合ってくれないかしら」
階段から落ちた怪我も治り三ヶ月で衰弱した体も復活したフィリーネは、医者から外に出ても良いと言われたばかりだ。
フィリーネがこの屋敷へ来てから外出したいと言い出したのはこれが初めてのことだったので、アメリアは驚きつつも喜んで付き添うことにした。
朝食後。玄関を出ると、用意されている馬車の前には御者と共に護衛のハンスが晴れ晴れとした表情で立っていた。
「やっと俺の出番ですね!」
「ふふ、ハンスには今まで暇をさせてしまったわね。これからは積極的に外出しようと思っているの。今日はよろしくね」
「はいっ!このハンス、命に代えてもフィリーネ様をお守りいたします!」
フィリーネがフォルクハルトの元へ嫁いだ際に、彼は魔導士団から引き抜かれてこの家に護衛として雇われた。
下位魔導士の彼は魔法が不得意な代わりに剣術が得意なので護衛として向いているのだが、下位魔導士では良くあることだったりする。
人気の職業である王宮魔導士で生き残るには魔法の弱さを補うプラスアルファが必要となるので、同じく下位魔導士であるフィリーネの父クラウスも魔法より剣術が得意な魔導士だ。
フィリーネの護衛についてフォルクハルトから人選を任されたクラウスは、自分が護衛となりたい気持ちをぐっとこらえて、部下の中で一番剣術が得意なハンスに娘を頼むと託した。
ハンス自身もフォルクハルトに憧れを持っていたので快く引き受けたのだが屋敷でフィリーネと対面した際に、彼はころっと恋の沼に転げ落ちてしまったのだ。
同じ男爵家なので家格は見合う。二十三歳の彼は少しフィリーネと歳が離れているが、本人は全く気にしていない。
二人の離婚後は俺が彼女を救い出そうと心に決めたハンスだったが、ライバルがいる事にはまだ気がついていないようだ。
想い人の初護衛に気合が入っているハンスを見たカミルは「くぅ~ん」とフィリーネの腰にすり寄った。
「あら、カミルも一緒に行きたいの?」
「わんっ!」
「私もカミルと一緒にオタ活をしたいけれど、お店へ犬を入れても大丈夫なのかしら?」
フィリーネはこてりと首を傾げた。
犬は限られた者しか手に入れられないので飼っている人が少ないため、彼女は買い物の際に犬が店内にいる姿を見たことがないのだ。
「大丈夫ですよ、フィリーネ様。カミル、フィリーネ様の言うことをよく聞いてお利口にするんですよ?」
「わんっ!」
アメリアの指示に元気よく返事をしたカミルは我先にと馬車へ飛び乗ってから、顔を出して再度「わんっ!」と吠えた。
まるで早く行こうよと催促をしているような態度が可愛くて、フィリーネとアメリアは顔を見合わせてくすりと笑ってから馬車へと乗り込んだ。