31 推しとの旅がご用意されました1
これで推しとファンという関係ではいられなくなってしまうかもしれないが、推しを悲しませるなんてファン失格。
自分が推しを幸せにできるのなら、妻にだってなってみせる。むしろ本当の妻になりたいと初めに願ったのはフィリーネのほうだ。
驚いたフォルクハルトが振り返ってみると、顔を真っ赤にさせているフィリーネが彼を見つめていた。
「今度こそ、俺の勘違いではないのだな……?」
「はい……」
「契約は破棄して構わないのか?」
「はい……っっ!」
返事をすると同時に彼に唇を塞がれ、彼の強引な愛情表現とその柔らかさをフィリーネは初めて知ったのだった。
夏の暑さも少し和らぎを見せてきた頃。
馬車に揺られながら、カミルは完全に空気と化していた。
目の前ではフォルクハルトとフィリーネが並んで座り、歩くわけでもないのに手はずっと繋ぎ合ったままで話に夢中だ。
二人がお茶会を開いたあの日、カミルはその場に居合わせてしまったので、二人がどのような関係となったのかは理解している。
けれど、ずっと独り占めしていたフィリーネを飼い主に取られてしまったことが悔しかったカミルはその夜、決闘を申し込むためにフォルクハルトの部屋から白い手袋を拝借して、彼の足元に投げつけたのだ。
しかしその手袋を拾い上げたフォルクハルトは、カミルにこう諭した。
『決闘は構わないが、万が一にも俺が負けた場合にはフィリーネと離婚しなければならない。彼女はこの屋敷から去ることになるが良いか?』
犬のカミルではフィリーネを養えないし、大型犬のカミルはエサ代が人間並みにかかるので貧乏な彼女にも養ってもらえそうにない。
現実を突きつけられて戦う前に敗北したカミルは、今後は邪魔をしないと契約書に足形まで押す羽目になってしまった。
初恋は実らないものだと自分を慰め、今後は二人の子供というポジションで可愛がってもらおうと決意した。
正直なところ犬である彼は、フィリーネに甘えられるのなら何でも良いのだ。
「くぅ~ん」
邪魔しない程度の声を上げたカミルは、二人の間にすっぽり収まるとベンチに顎を乗せて目を閉じた。
「ふふ、カミルったら眠くなってしまったのね」
「旅行は移動時間が多いから暇なのだろ」
二人になでられて、本当に眠くなってきたカミル。
「こうしていると、俺達の子供のようだな」
「そうですね、カミルは可愛いわ」
「いつかは、俺達にも子供が授かると良いな」
「はっ……はい」
「フィー、愛している」
今、カミルの頭上で何がおこなわれているのか。彼は、考えないことにした。
彼の唇が離れて目を開けたフィリーネは、「私もです、フォル様」と頬を染めて微笑んだ。
名実ともに新婚ほやほやとなった二人は今、新婚旅行の真最中だ。
二人の気持ちが通い合ったお茶会の後、フォルクハルトは夏の休暇を取得することにした。
今年は休暇を取らないつもりだと上司や部下にも話していたので皆には驚かれたが、ライマーの協力もあり怒涛の如く仕事を終わらせ本日の出発を迎えた。
行き先はフィリーネの実家の領地であるデッセル男爵領。途中で観光をしつつ片道五日の旅だ。
フォルクハルトはデッセル家の借金を返済すると決めたが、その借金が魔獣被害によるものならば返済してもまた借金をする未来が見える。
魔獣被害そのものに対する支援が必要と考え、その視察も兼ねている。
フィリーネは十年ほど領地を訪問できていないので、成長した姿を彼女の祖父母に見せてやりたいという気持ちもあった。
彼女の両親にはまだ、契約を破棄して二人が本当の夫婦になることを伝えていない。
領地の支援計画も全て決めた上で話そうと思っている。
「フォル様、街が見えてきましたわ」
しばらくして、窓の外を見たフィリーネは歓声をあげた。
「フィーは、この街には来たことがあるのか?」
「街の入り口は見たことがありますが、領地へ向かう際は東に逸れた村を経由していましたので」
フィリーネ家族が領地へ訪問する旅は、決して豪華なものではなかった。
基本は乗り合い馬車か徒歩で、道行く荷馬車にお願いして乗せてもらうこともしばしば。むしろそれ狙いで、なるべく徒歩を選んでいたほどだ。
宿泊先もなるべく宿には泊まらず、村の民家にお世話になっていた。
彼女の父であるクラウスは学生時代からそんな方法で帰省していたので、各村に泊めてくれる知り合いがいるようだ。
そんな冒険者のような旅がフィリーネは結構好きだったのだが、徐々に魔獣の出没が増えてきたために危険な旅はできなくなってしまった。
街へ入った馬車は宿に向かった。
侯爵家の旅行ともなれば馬車一台で済むはずがないので、四台連なっての移動だ。
後方の馬車にはアメリアやハンスも乗っているが、ハンスは想い人の新婚旅行に同行しなければならないという生き地獄を味わっていた。
二人が本当の夫婦になることはまだ正式に使用人達へは告げられていないが、二人の様子を見ていればこの新婚旅行が本当の意味での新婚旅行であることは、使用人の誰もが察していた。
宿へ到着して外へ出たフィリーネは、王都の高級宿と負けず劣らずの外観に驚いた。
通された部屋も、落ち着きがありながらも高級感溢れる内装。
部屋は居間を挟んだ両側に寝室が一つずつあり、その横に使用人の控え室もある。
寝室が二つあることに、フィリーネは少しほっとしてしまった。
本当の夫婦にはなったが、初夜はまだ迎えていない二人。
結婚式から半年以上も経ってからお互いの気持ちを確かめ合ったので、完全にタイミングを逃していた。
「フィー、こちらへ」
バルコニーへ向かったフォルクハルトに手招きされて、一緒にバルコニーへ出たフィリーネは瞳を輝かせた。
「湖だわ。こんなに大きかったなんて知りませんでしたっ」
この街はこの湖が有名で、王都から気軽に来られる避暑地としても人気の場所だ。
湖には手漕ぎボードを楽しむ人たちや、豪華な見た目の遊覧船なども航行している。
「湖の周りは遊歩道になっているんだ。散歩にでも行こうか」
「はいっ」
宿の裏側は湖を囲む大きな遊歩道になっている。
夏の休暇時期からは少し遅れているが、それでも何人もの人が遊歩道を散歩したり、ベンチに座って湖を眺めたりしている。
「あまり遠くへ行くなよ」
「わんっ!」
カミルは宿の裏庭へ出ると一目散に遊歩道へと走っていき、大好きなトンボを追いかけ始めた。
必死な様子のカミルを眺めつつ、フィリーネとフォルクハルトは手を繋いで湖の淵まで移動した。
「とても綺麗な水だわ。お魚が見えますね」
「あぁ。カミルには見せられないな」
「なぜですか?」
「あいつは、何でも食いたがるからな。一度、川に連れていったら大変な目にあったことがある」
フォルクハルトは懐かしそうに笑いながら当時のことを話してくれたが、フィリーネにもそのできごとには記憶があった。
作品のエピソードで、カミルを飼い始めた頃のフォルクハルトが領地へ戻った際に、川へ散歩に行くというものだ。
そこで川の中にいる魚を見つけたカミルがバシャバシャと川の中へ入ってしまったが、まだ小さいカミルが流されてしまわないか心配になったフォルクハルトが慌てて追いかけて、全身ずぶ濡れになってしまったのだ。
「ふふ、目に浮かぶようです」
例え知っているエピソードでも、推しが語って聞かせてくれることがフィリーネはとても嬉しく感じた。
自らの身の上を進んで話したがるような性格の推しではないので、妻として少しでも信頼してくれているのだろうか。
もっといろいろな話をし合える夫婦になりたいと、彼のような濃い青の湖底を見つめながら彼女はそう思った。
湖を眺めながら遊歩道を進んだフィリーネとフォルクハルトは、船着き場や店が立ち並んでいる一角へとたどり着いた。





