29 推しの様子がおかしい3
彼が提案してきたことは、どれもフィリーネが嫁いできた頃に彼に提案して拒否されてきたものばかり。
フォルクハルトはそれを今になって、一つずつ叶えようとしてくれているのだ。
フォルクハルトは今までの態度を改め夫として相応しくなろうという気持ちから、このような態度に出ているのだと理解したフィリーネ。
そうとわかれば、話は早い。
フィリーネはフォルクハルトに向けて笑顔を作った。
「フォルクハルト様、お気遣いにはとても感謝いたします。けれど、お忙しいフォルクハルト様に時間を割いていただくのは申し訳ないです。私は今まで通りでも楽しく生活できますので――」
フィリーネが望んでいるのは夫としてのフォルクハルトではなく、推しとしてのフォル様だ。
それを伝えようとしてみたが、言い終わる前に彼が口を開いた。
「今までの俺は、君にひどい態度を取っていたからな。そう恐縮するのも無理はない」
「そのようなつもりでは……」
「言い訳するのは男らしくないが、今まではしがらみがあったので君と上手く接することができなかったんだ。結婚もそうだ。陛下の憂いを晴らすためとはいえ、君には辛い思いをさせてしまい申し訳なかった。これが普通の政略結婚だったなら、俺はもっと君を大切にしたかったんだ……」
大聖堂の控え室でフィリーネと出会った際に彼女に一目惚れをしてしまったのだと、素直な気持ちになれたフォルクハルトは気づいてしまった。
あの時は様々な事情があったために、その感情を無意識のうちに心の奥底に押し込めてしまっていたのだ。
結局は従者の想い人を取ってしまう形となってしまったが、そのライマー本人によって自分の気持ちに気づかされたフォルクハルトは、もうフィリーネに対する想いを押さえることができない。
フォルクハルトはフィリーネの手を取り、真剣な眼差しで彼女を見つめた。
「フィリーネ、昨日の今日でこのようなことを言うつもりではなかったが……。心の片隅にでも留め置いてほしいんだ。契約期間終了後も、本当の妻として俺の傍にずっといてくれないだろうか」
すでにかなりの量のお酒を飲んでいるフォルクハルトだが、彼がお酒に強いことはファンなら誰でも知っている。この発言がただの酔っ払いによる戯言ではないことくらいは、フィリーネにも理解できた。
「あの……」
「返事は契約終了時で構わない。それまでゆっくりと考えてくれ」
「はいっ……」
推しとの適切な距離を取ろうと思っての発言だったのに、とんでもない提案を引き出してしまったフィリーネ。
(推しの本当の妻になるだなんて……。私は夢女子ではないのに……)
自室に戻った後も複雑な気分でいたフィリーネだったが、いろいろと考えるうちに結婚式前後の自分を思い出していた。
フォルクハルトのことは、ライマーが尊敬している先輩だったのでずっと前から耳にしていた。
たびたびライマーがフォルクハルトの話をしてくれたので、素敵な方なのだろうと好印象を持っていたフィリーネ。
その彼と突然結婚することになったが、性格はそれなりに承知しているつもりだったし、容姿は頬を染めてしまうほど素敵な方だった。
そんな彼との結婚生活に期待をしていたフィリーネだったが、ライマーから聞いていたよりも冷淡な性格のフォルクハルトと、一年間だけのお飾りの妻という状況に苦痛を感じていた。
前世の七海の記憶が戻ったことで彼を推そうと決意したが、自分が置かれている状況を全て受け入れていたかといえば、そうではなかった。
彼女は七海の人格に依存し、それまでの辛かった気持ちは心の奥にしまい込んでいただけ。
毎日のように楽しくオタ活をして、彼は住む世界の違う推しだと言い聞かせ、推しと一緒に暮らすという貴重な体験をさせてもらっているのだと、無意識のうちに自己暗示をかけていたのだ。
そのことに気づかされたフィリーネの心には、七海に依存しない素の彼女が現れた。
素のフィリーネが結婚して以来、ずっと望んでいたことは一つしかない。
(私、フォルクハルト様と本当の夫婦になりたかったのだわ……)
翌朝。朝食を終えたフィリーネは、厨房で料理人達と共にお茶会で出すお菓子作りに精を出していた。
「フィー」
フィリーネが作るのはまたも、フォル様クッキーである。
せっかくなら彼の好きなチーズケーキをと思ったのだが、フォルクハルトはフォル様クッキーが気に入ったらしい。
「フィー」
彼の名誉のために言っておくが、決して彼はナルシストなわけではない。フォルクハルトを思いながらフォルクハルト型のクッキーを作るフィリーネが気に入ったのだ。
そんな事情は知らないフィリーネだが、彼からのリクエストを受けたのでせっせと生地を作っている最中だ。
「フィー、それはなんだ?」
「ひゃぁ!?」
青くなるハーブの粉末が入った袋を手に取ったフィリーネだったが、突然後ろから抱きしめられて耳元で囁く声に驚き、袋をドサッとテーブルに落としてしまった。幸いにも袋の口は空いていなかったので大参事には至らなかった。
「今のは悲鳴か?フィーは可愛いな」
耳元で紡がれる推しの声はなかなかの破壊力があり、フィリーネはそれだけで気が遠くなりそうになるのを何とかこらえた。
「フォルクハルト様……」
「フォルと呼んでくれるのではなかったのか?」
「フォル様……、なぜこちらへ?」
昨日はあの後、愛称で呼び合うという約束までさせられたフィリーネ。
先ほどからフォルクハルトに呼ばれていたが、聞き慣れないのか気がつかなかったようだ。
「フィーが料理している姿を見たくなってな。見学しても良いか?」
「はいっ、どうぞ」
そう返事をしたのは良いが、フィリーネから離れる気がなさそうなフォルクハルト。
料理人達は何も見ていないと言いたげな雰囲気で、もくもくと作業を進めている。
そんな気遣いが、ますますフィリーネの恥ずかしさ増幅させていた。
先ほど尋ねられたハーブの粉末については、演習場で説明したものだと話す。
「入れる量によって青色の濃さが変わるのだな」
「はい。フォル様は髪の毛も瞳も濃い青ですから、たくさん入れています」
「なるほど」
そういってフィリーネから離れたフォルクハルト。
やっと離れてくれたことにフィリーネがほっと胸をなでおろしていると、フォルクハルトは次に彼女の髪の毛を一束手に取った。
「フィーの髪の毛も、そのハーブで表現できそうだな」
「少しだけ入れたらできると思います……っ!」
フォルクハルトがフィリーネの髪の毛に口づけをするので、今度は手に乗せていた青い生地がぼてっとボールの中に落ちた。
そんな彼女の様子を気に留める様子もないフォルクハルトは、流し台へと向かい手を洗い始めた。
「では俺は、フィークッキーでも作るとするか」
「フォル様にはクッキー作りのご趣味が?」
「いや、菓子どころか料理自体初めてだ。フィーが教えてくれるだろ?」
まさかフォルクハルトがお菓子を作ってみたいと言い出すとは思わず驚いたフィリーネだったが、これもきっと自分の趣味に付き合ってくれているのだろうと思うと、フォルクハルトの優しさがとても嬉しく思えた。
「はいっ、お任せください」
生地作りから丁寧に教え、フォルクハルトも不器用ではないので問題なく生地は完成した。
生地を半分に分けて、フォルクハルトは青いハーブを練り込んでいく。
フィリーネの髪色は白銀に少しだけ水色を足したくらいの薄い色なので、フォルクハルトは慎重にハーブの量を調節していった。
絶妙な匙加減でフィリーネ色のクッキー生地が完成したので、しばらく冷やそうと思ったフィリーネだが――。
「待て、冷やすだけなら俺がやろう」
「えっ……?」
フォルクハルトは生地の上に手をかざすと、ゆっくりと空気を混ぜるように手で円を書き始めた。
生地の周りから発せられる冷たい空気が、フィリーネの体にも伝わってきて心地よい気分になる。
「こんなものかな?」
確認するように言われたので、フィリーネは生地の塊を半分に割って中心部を触って見たが、生地は中までしっかりと冷えていた。
「冷たい……、フォル様素晴らしいですっ」
間近で魔法を見られたことが嬉しくて顔がゆるゆるになりながらフォルクハルトを見ると、彼はフィリーネに褒められて照れたのか唇を噛みしめた。
今、彼の頭の中は『フィー可愛い』で埋め尽くされている。
生地を伸ばしたらクッキーの型抜きだ。
顔はフォルクハルトの型を使ったが、フィリーネの髪の毛は型がない。
フィリーネが作ってくると提案したが、フォルクハルト自分自身で表現してみたいとナイフを手に取り、フィリーネの髪の毛っぽくなるように切り抜き始めた。
デフォルメされたキャラに馴染みがない世界の人間にしては、上手くフィリーネを表現できているクッキーが完成した。
侯爵家の跡取りともなれば、何でもそつなくこなしてしまうようだ。
焼きあがったクッキーは、お茶会でお互いに食べてもらおうと約束をした。





