12 推しを自給自足したい1
フィリーネは結局、あまり寝付けないまま朝を迎えていた。
前世の七海はイベントなどで推しを思う存分に補給すると、いつもその後はぽーっと夢の世界へと旅立ってしまっていた。
今のフィリーネもまさにその状態で、ひたすら頭が推しのことで回転しているせいで眠れなかったのだ。
(まさかフォル様に、ファンサしてもらえるとは思わなかったわ……)
彼の照れた表情は、彼女にとっては立派なファンサだった。
前世では彼を演じる声優や舞台俳優も、フォルクハルトになりきりファンサは滅多におこなわない主義だったので、フィリーネは貴重な体験をしたのだ。
何度も思い出しては、幸せに浸っていた。
ただ昨夜の件について、フィリーネはあくまで推しのファンサを受けた事に対して喜んでいただけで、それが恋心かといわれると全く別物だった。
七海にとって推しとは応援する対象であり、本来なら画面越しでしか会えない彼が自分に対して何かしらの感情を抱くなんてことは想定していないので、愛情は注いでいるけれど恋愛対象ではないのだ。
前世の記憶が戻る前のフィリーネは結婚相手とはそれなりに愛のある家庭を築きたいと思っていたが、前世の記憶が戻りフォルクハルトを推そうと決意した時にその感情は捨て去っていた。
一方、フォルクハルトは彼女が人目もはばからず堂々と告白をしてきたと思っており、使用人達は二人が惹かれあっていると思っていた。
この認識のずれについて、正確に理解できている者は残念ながらどこにもいないのだった。
フィリーネは昨夜の感動を形に残そうと思いベッドから出ると、スケッチブックを取り出して絵を描き始めた。
七海はイベントなどへ参加した際には、必ずレポートのイラストをSNSにアップしていた。
推しを演じている者の仕草を脳内で推しに変換して、イラストに残すのだ。
そのため、洞察力と記憶力にはそこその自信があり、昨夜の照れたフォルクハルトも忠実に再現することができた。むしろ、脳内変換する必要がないので彼女にとってはまさに朝飯前。
(わぁ……、本当に描けてしまったわ)
完成した絵を見て、フィリーネは軽く感動を覚えた。
前世の記憶が戻る前の彼女は、絵など子供の落書き程度の実力しかなかったけれど、記憶が戻り絵に関するテクニックを知ることができた。
実際に手が動くのか心配だったけれど、何となく感覚としての記憶も残っているおかげで、難なく描くことができた。
(推しを常に見ていられるなんて、素晴らしいわ!)
フィリーネが自分で描いた推しに見惚れていると、朝のお世話をしにアメリアが部屋に入ってきた。
いつもならベッドの中にいるフィリーネが寝間着姿で机に向かって何かをしていたので、どうしたのかと思いながらアメリアは声をかけた。
「フィリーネ様、おはようございます。何をされていたのですか?」
「おはよう、アメリア。見て、昨日のフォル様を描いてみたのよ」
顔をほころばせながらフィリーネが見せてくれた絵は、まさに昨日の光景そのものだった。
この国では絵を教えるという職業がないため、絵はごく個人的な趣味として独学で楽しむものであり一般人のレベルはとても低い。
本職の画家ともなれば前世の世界にも負けない画力があるけれど、彼らは商売敵が増えないように才能ある親族にしかその技術を継承していなかった。
そのため一般人であるフィリーネの絵は才能に溢れる作品として、アメリアの目には映った。
「素晴らしいです、フィリーネ様!このような才能がおありだとは、驚いてしまいました」
「ふふ、ありがとう。後で、色をつけてみようと思うの」
推しを描けたのだから、次はカラーの推しが見たい。フィリーネは一気に創作意欲に目覚めた。
朝食とフォルクハルトの見送りを終えたフィリーネは、メイドと犬と共に自室の隣の部屋へと向かった。
フィリーネはローデンヴァルト家へ嫁いできた際に一通りの持ち物は持ってきたのだが、フィリーネに与えられた部屋には日常生活に必要なものが全て整えられていたので、フィリーネの身以外は必要なくなってしまった。
使い慣れた物があればとアメリアが気を遣ってくれたが、フィリーネの持ち物はこの屋敷に置くにはどれも不釣り合いすぎたので、今は隣の部屋にまとめて保管されている。
結婚はあり得ないほど急に決まってしまったが、事前にそれだけの準備をしてくれていたことにフィリーネは幸せを感じ、これから妻としてフォルクハルトのためにがんばっていこうとあの日はそう思っていた。
引っ越してきた日を思い出していたフィリーネだったが、途中で思考を停止させた。
今の彼女は、推しであるフォルクハルトを見守ることができるだけで幸せだ。
「あったわ、この服に着替えるわね」
荷物から引っ張り出したのは、貧乏令嬢時代の服だった。
普通の男爵令嬢ならば、質はどうであれ普段からドレスと名のつくものを着ているが、フィリーネが持参してきた服はどれも平民が着るような服ばかりだった。
フィリーネの家は地方に領地を持っており、今は先代の男爵――フィリーネの祖父が主に管理をしているが、魔獣被害が多い土地柄なので常に領地運営は自転車操業で利益など滅多に出ないような状態だ。
代々領地運営に苦しんでいたため祖父はそこから何とか脱却しようと考え、無理をして息子のクラウスを王宮魔導士にしたのだが、残念ながら彼には魔法の才能がなかったので生活が楽になるほどの稼ぎを得ることはできなかった。
それでもクラウスの地道な努力のおかげで、徐々にではあるが領地の負債は減っていた。
そんな家で育ったフィリーネなので、ドレスを着たがるような子にはならなかった。
古着屋で買った服を綺麗に繕う技術はなかなかのもので、荷物から取り出した服も平民が着る服としては上等なものに見えた。
その服を、絵具を使う際の専用服にするつもりのようだ。
ドレスを汚したくないとアメリアに説明すると、彼女も快く了承してくれた。
部屋も汚したくないのでこの物置と化している部屋を、絵を描く部屋にすることにした。
「お部屋なら、別にご用意できますが……」
フィリーネの部屋周辺は好きなように使って良いとフォルクハルトから言われているが、フィリーネは首を横に振った。
「いいのよ、ごちゃごちゃしているほうがアトリエみたいで雰囲気が良いわ」
フィリーネは木箱を重ねてテーブルとイスを作ると、満足そうに自室からスケッチブックと絵具を運んだ。
それからのフィリーネは、ひたすら絵を描くことに没頭した。
怒涛の如く完成していく絵はどれも素晴らしい完成度だったが、アメリアはどうしても気になっていたことを尋ねてみた。
「フィリーネ様、とても素敵な絵ですがなぜ同じ構図ばかりなのでしょうか?」
彼女が描く絵はどれもあの日のフォルクハルトだ。どうせ描くならいろいろな構図を描けば良いのにと、アメリアは思った。
「同じ絵を並べると、統一感があるのよ。それに表情を少しずつ変えてあるの」
フィリーネは完成した絵を一束にまとめて、ぱらぱらとめくって見せた。
「わぁ!動いて見えます!」
「わわん!」
この世界で初めてとなるアニメーションであり別名パラパラ漫画は、メイドと犬を驚かせるにはじゅうぶん過ぎたようで、一人と一匹は何度も食い入るようにそれを見た。
パラパラ漫画の内容はフォルクハルトが照れてから表情を変えて笑顔になるというもので、他の使用人達からも大好評を得た。
絵が動くというのも衝撃的だったが、フォルクハルトの笑顔もまた衝撃を産んだ。
特に女性の使用人に受けが良く何度も見たがったので、フィリーネはそれらを束ねて綴り使用人の休憩室に寄付した。
(本当は、壁一面をフォル様で埋めたかったのだけれど……)
オタクはなぜか、同じ絵柄を並べたがる。
フィリーネもそれをしてみたくてせっせと同じ構図を描いていたのだが、今回は使用人に喜んでもらえたので良しとした。
自分の心を満たすのも大切だが、布教――推しの良さを広める活動も重要だと思いながら。