10 推しを遠くから見守りたい4
その日、フォルクハルトが帰ってきたのは夜遅くだった。
今朝はフィリーネが見送ってくれていると知った彼だが、あれは従兄妹であるライマーに向けてだったのではと思っていた。
そうは思っていたけれど何となく気になってしまったフォルクハルトは玄関ホールへ入ってすぐ、吹き抜けの二階部分へと視線が向いた。
そこにはフィリーネが彼の愛犬と共にこちらを見下ろしていて、フォルクハルトと彼女はしっかりと目が合った。
彼女は夜も、吹き抜けからこっそりとフォルクハルトを出迎えていたのだ。
フィリーネがにこりと微笑んだのを見た彼は、すぐに視線を逸らしてしまった。
執事長と少し会話をした彼は、すぐに二階の自室へと向かってしまう。その間、一度もフィリーネに視線を向けることはなかった。
「フォル様も、ライマー様のように手を振ってくださってもよろしいのに」
「わぉん」
彼が見えなくなったのを確認してからアメリアが不満げに呟くと、カミルも賛同するように鳴く。
「私達の推しは、デレないことで有名なのよ。むしろあの素っ気なさが素敵だわ」
勝手に同担として数に入れられている事には少しの疑問を感じるメイドと犬だが、完全に乙女の顔でフォルクハルトが去った方を見つめているフィリーネには何も言えない。
二人はむしろ、『けなげにフォルクハルトを推すフィリーネ』を推しているのだが、それこそファンサうちわでも作ってアピールしなければ伝わらないだろうとアメリアは思った。
書斎へ入ったフォルクハルトは、少し困惑しながらソファーに腰かけた。
今もフィリーネが出迎えてくれていたということは、ライマーではなく自分を迎えてくれたのだ。
毎日届けられる手紙といい、あの日以来フィリーネはどうしてしまったのだろうと思った。
さらに嫌われるならまだしも、彼女が自分を気にかける理由に全く心当たりがなかった。
そんなフォルクハルトを後目に執事長は今日の報告を彼にした後、いつものようにレタートレーにフィリーネからの手紙を置こうとしたが、積みあがっていた手紙が空っぽになっていることに気がついた。
「本日のフィリーネ様からの手紙でございます」
「ん……」
執事長はもしやと思い直接フォルクハルトに渡してみると、あれほど頑なに拒否していた手紙を彼は素直に受け取るではないか。
驚きつつも彼の行動を見守っていると、フォルクハルトはその場で手紙を開いて読み始める。そして、彼の頬が僅かに緩んだのを執事長は見逃さなかった。
他の者が見ればいつも通りの冷たい表情だが、フォルクハルトが生まれる前からこの家に仕えている執事長には、その僅かな表情の変化すら読み取ることができた。
これは良い兆候だと思った執事長は、フィリーネの話題を出してみることにした。
「フィリーネ様は本日、お買い物を楽しまれたそうでございます」
「ほう……、やっと渡した金を使う気になったのか」
フィリーネ担当の執事から、一度も給料に手を付けていないことはフォルクハルトも報告を受けていた。
より条件の良い男の元へ嫁ぐために貯めているのかと思っていたが、貧乏令嬢が大金を手にして欲しい物はいくらでもあるはず。誘惑に勝てなかったのだろうとフォルクハルトは思ったのだが――。
「文具店で、色画用紙などを購入されたのだとか」
「……はぁ?」
フォルクハルトにとっては、あまりに予想外の買い物だった。
必要最低限のものは全て用意させたが、女性のファッションに関する欲求は底が知れないことは彼も承知していた。
当然そういった物に使ったのかと思えば、彼女が購入したのは紙。
この国ではさほど高価でもない紙だった。
困惑した様子のフォルクハルトを見て、執事長は確かな手ごたえを感じた。
アメリアによって使用人中に知れ渡ったフィリーネの計画は、もちろん執事長も把握済み。
フォルクハルトの両親が「スローライフがしたい」と領地に引きこもって以来、お茶会もなければ夜会も開かれなくなり使用人達は刺激に欠ける毎日を送っていた。
そこへ現れたフィリーネという存在。
屋敷で働いている使用人の多くが、この面白そうなイベントを楽しみにしていた。
それから数日はフォルクハルトの仕事が忙しかったので、なかなかチャンスはめぐってこなかった。
その間、フィリーネはファンサうちわの量産に励んでいた。
『バーンして』『投げキッスして』『ハート作って』その他いろいろ。どれもフォルクハルトには伝わりそうにないけれど、本人が楽しそうに作っているのでアメリアもカミルも口出しはしなかった。
そして数日後。
ファンサうちわに書いてある内容がどのような仕草なのかをフィリーネがメイドと犬に伝授していた時、フィリーネの部屋のドアをノックする音が聞こえた。
アメリアがドアを開けにいくと、そこに立っていたのは執事長だった。
「フィリーネ様、フォルクハルト様がそろそろお帰りになります」
現在は、まだ日が沈み切っていない夕方。
老眼鏡の奥にある瞳をキラリと光らせた執事長の言葉は、決行の合図を意味していた。
フィリーネは緊張した面持ちでうなずくと、テーブルに広げられているファンサうちわの数々を見回した。
「バーンも捨てがたいけれど、今回は推しだと伝えなければね」
『大好き』と『バーンして』のうちわを両方手に取ったフィリーネは、苦渋に満ちた表情で『バーンして』のうちわをテーブルに戻した。
吹き抜けから一階の玄関ホールを見渡せる位置に陣取ったフィリーネとカミル。
アメリアは少し離れた壁の陰に隠れたが、今日はアメリアだけではなく数名のメイドも一緒に成り行きを見守っていた。
吹き抜けの向かい側にある壁の陰にも使用人が隠れているのが見える。恐らく一階でも隠れて見ている使用人がいるのだろう。
「緊張してしまうわね。フォル様は今日も視線を向けてくれるかしら」
ファンサうちわを胸の辺りに掲げているフィリーネは、『ライブでは後ろの人に迷惑がかからないよう、ファンサうちわやペンライトは肩より上にあげてはいけない』というオタクルールをしっかり守っているようだ。
カミルもフィリーネに作ってもらった『フォル様愛してる』うちわをしっかりと咥えて、こくりとうなずいた。
屋敷内にいる者達の誰もが玄関ドアに注目する中、玄関の外からはかすかに馬の鳴き声が聞こえてきた。
(いよいよ始まるわ……!)
まるでライブでも始まる時のような胸の高鳴りを感じているフィリーネに向かって、執事長が軽く手を上げてから玄関ドアを開けた。
「おかえりなさいませ、フォルクハルト様」
「ただいま」
いつも通りのやり取りですら、フィリーネにとってはライブのMCを聞いているようなものだ。一言たりとも聞き逃すまいと耳に全集中する。
挨拶のやり取りが終わり執事長がドアを閉めている間に、フォルクハルトはここ数日の日課となってしまったフィリーネに向かって視線を上げる動作をおこなった。
けれど、いつもより三秒ほど長く見つめた彼は、眉間にシワを寄せて唇を噛みしめると視線を彼女から逸らしてしまった。
壁際からメイド達の残念そうな声が漏れ聞こえてくるが、フィリーネは未だかつてない胸のドキドキを感じていた。
フィリーネから視線を逸らしたフォルクハルトは、執事長を睨みつけた。
「執事長、あれは何だ……」
「ファンサうちわというものだそうでございます」
「そうではなく」
あれの名称などフォルクハルトにとってはどうでもよかった。問題なのはその内容だ。
フィリーネが堂々とあれを掲げているということは、執事長も把握済みのはず。何の意図があるのかと問いただしたかったのだが――。
「読んで字のごとくかと」
「…………」
しれっとそう述べた執事長を一層険しく睨んだフォルクハルトは、そのまま足早に自室へと向かってしまった。
この場の気温が十℃は下がりそうなほどの冷たい表情を見た使用人達の大半はこの作戦は失敗したのだと思ったが、執事長としては大収穫の作戦だった。
フォルクハルトは嫌なことがある時に唇を噛みしめる癖があるが、実は照れている時にも同じ仕草をする。
それを知っているのは執事長だけと本人は思っているが、フォル様推しであり前世の記憶があるフィリーネもまた、彼の癖については熟知しているのだった。