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あぶく。

作者: 庚午澪

 ユメはあぶく--


 はんてんの下に洋服を着たちぐはぐな組合せの格好で、縁側に出て雪の残る庭を一人眺める。

 夏に育てた野菜の支柱が刺さって残されたままの畑は、春に花を夏に野菜、冬はこうして雪をかぶり世話もせず冬を越す。

 秋には蜻蛉が訪れ、どこから種が飛んできたのか、庭の端にピンクのコスモスが咲く。

 それほど広く無い庭の周りは、隣の家の壁や塀で囲まれ、端には小さな倉庫がある。倉庫と言っても、家から一部屋切り取ったような造りの離れのような建物。

 チチチチチッ……という鳥の鳴き声に顔を木に向ける。

 何の木なのかは知らないけれど、庭の畑にしている脇に木が一本植わっていて、背は一階の屋根よりは高い。

 その枝には毎年冬に、食べ切れなかった林檎を刺しているので、この時期は晴れた日に鳥がついばみに姿を見せる。

 数えている訳ではないけれど、スズメの他に何種類かの鳥がやって来る。倉庫の本棚に図鑑などがあるけれど、わざわざ引っ張り出してまで野鳥を調べる気は無い。

 普通に眺めているだけで充分だからだ。

 不思議とカラスは寄りつかず、いつも控えめで可愛らし鳴き声に耳を澄ましている。

 しばらく枝に止まり、林檎をついばむ小鳥を見つめ続けた。

 まだ長くいると寒くてならないが、一年を通して縁側から見下ろす景色は嫌いじゃない。

 まれに外から人通りの気配や聞き取れないくらいの喋り声、自転車や自動車が通過する音が聞こえるが、基本的に穏やかな時間が流れる。


 縁側の続きでミシンや色とりどりの布、糸やボタン、見本の洋服や資料の本などが集められた部屋がある。

 その部屋を自分が使うことはないけれど、中に入って探索するだけでも楽しく、心が弾むので誰に怒られる訳でもないのに、こっそりと室内に忍び込んでは覗いていた。

 下ろした腰を上げて、縁側から部屋の中に戻ると遅めの朝食がテーブルに用意されていた。

 四つ椅子のある席の中から、朝食が並ぶ目の前の背もたれを引き、そこに座る。

 今日は洋食でトーストに目玉焼きとソーセージにサラダ、ミルクを入れたコーヒーが用意されていた。

「今日もありがとう」

 準備してくれた目に見えない妖精たちに小さくお礼を口にして手を合わす。

「いただきます」

 あまり実感はないけれど、形式的に命に感謝して朝食を摂る。

 家の事はだいたい妖精たちがしてくれる。家事全般なので洗濯や掃除、食事など、種生殺与奪権を握られてしまっていたりする。

 だから家で自分のやる事は数えるほど無い。

 フォークでサラダを口に運び、少しトーストをかじっては目玉焼きに手を付け、ソーセージに歯を立ててはコーヒーを一口飲む。

 毎日普通の食事だけれども飽きない。

 ちなみに偏食の気があるので食事の面でも生殺与奪の権利は妖精たちに握られている感じだ。

 チョコレートだけとかコンニャクゼリーのみとか、白米だけあれば生きて行けると思う時期もある。

 偏食はなおらないけれども、本当チョコレートは食欲が無くても食べられるから凄いと思う。

 そんなことを口走ったら、ガーネットに小言を言われそうだが、今は何も言わず言えず、壊れたままこちらを見つめ返してくれるだけ。

 自分と同じ年齢の姿をしたオートマタ、ガーネットはもうずっと前に壊れたまま、じっとしていた。

 本来は自分の相手をしてくれるように造られたが、ある日突然動きを止めてしまった。

 たまに服を着替えさせたり、髪を解かしたり、一緒に湯船に浸かったり、話しかけたりもするのだけれど、アレキタイプの宝石が埋まった赤紫色の瞳は変わらず一点しか見つめない。

 それでも一緒に居てくれるだけで気持ちが落ち着き安心する。

 たぶんこの世界でたった一人、心を許せる存在だから。

 身の回りのこともガーネットはしてくれていたけれど、妖精たちがいてくれるので今のところ不自由していない。

 修理出来ないし、妖精たちに頼めばもしかしたら動くようになるのかもしれないけれど、そうはしないでいる。

 頭に入って来ないテレビを観ながら、トーストの最後の一欠片を口に放り込み、コーヒーをすすって流し込む。

 椅子を引いて気だるく立ち上がり、コーヒーカップやサラダの盛られていた皿を流しに持って行く。

 あとは妖精が洗って片づけてくれるので、本の続きを読むため、窓辺のソファに身体を沈めた。



 眠気に誘われて手にしていた本が滑り落ち、気づくと階段の大鏡の前に一人で立っていた。

「学校? なのか……?」

 肌に触れる空気や雰囲気から、学校ではないかという直感が働いた。

 ぼーっとする頭で鏡に映る自分を眺める。

「ガーネット……」

 少しの不安と寂しさから、思わずオートマタの名前を呟いてしまう。

 すると次の瞬間、場所は変わらず時間帯だけが変化を見せる。

 夕暮れになり屋内の階段は薄暗く、立っている場所は夕日に照らされていた。

 鏡に浮かぶ姿。青緑色の瞳が見返している。

 音楽室や体育館からは喧騒が聞こえているのに、階段から続く廊下は窓からの日差しを落とすのみで、物悲しいくらいに無音が横たわる。

 早くここを出なければと直感が叫び、大鏡に背中を向けて踵を返す。

 胸に押し寄せた焦燥感で足を一歩踏み出すとーー屋台の準備をする神社の境内に瞬間的に移動していた。

「……」

 しかも視点が普段よりも高く、見下ろすと大人の身体になっていた。

 一瞬で場面転換しただけでなく成長までしてしまうと言葉も無いが、どこか納得に近い疑問に思わない自分がいた。

 秋祭りなのか陽射しが鋭い割に空気が暑くなく、大きな狛犬の影に入れば涼しいくらいだった。

 太陽の傾き具合から昼を回って間もないくらいだろうか? 

 ランドセルを背負った小さな小学生が境内を通り抜ける。

 何の出店があるのかチェックするように辺りを見回し、よそ見を隠そうともせず通り過ぎて行く。

 習うように考え無しに彷徨うような足取りで境内を進むと、正面から鬼ごっこでもしているかのように同じ背格好の男の子と女の子が飛び込んで来て、前を走っていた元気いっぱいな男の子とぶつかりそうになる。

 思わず足を止めて衝突してしまう覚悟もしたが、息を飲んでいる間に男の子は身体を捻り、寸前のところでかわした。

 しかしぶつかる事は免れたが、彼はランドセルを下敷きに背中から地面に倒れた。

 女の子の方はぶつかるだいぶ前で止まり、地面に転がった子をそのつり目がちな目元で見下ろした。

「だから寄り道しないで帰ろうって言ったのに」

 子ども特有の大人ぶった叱り方で怒る女の子だったが、地面に大の字になった男の子は馬耳東風と言った感じで、女の子を見上げたまま可笑しげに笑い声を立てた。

「ほら、お兄ちゃんいつまで寝てるの。あとでカエちゃんと一緒にお祭り来るんだから、早く帰ろう」

 そう言い含めて手をつかみ、地面から引き剥がしにかかる女の子。

 二人は兄妹で仲が良いことが感じられた。

 それは言うことを聞かない勝手な相手を放って帰ることも出来るが、こうして引っ張ってでも一緒に帰ろうとする辺り、手を払い退けない辺りがそう見せている。

 まだ縁日が気になるらしい背中をランドセル越しに女の子に押され、二人微笑ましく帰って行った。




 ふとソファから身を起こすと回っていた洗濯機の音が止んでいるのに気づく。

 一度身体を伸ばし、腕をついて起き上がり、そのまま床に落ちた本を拾う。

 寝ぼけ眼で身体を確認し、腕の長さも背格好も普段通りに戻っている事を確認して小さく息を吐く。

 それから、ぼーっと遠い眼で過ごし、なんとなく地元のお祭りで歌われる歌を膝を抱えて口遊んだ。

 

 別の日の穏やかな昼下がり。

 うとうととソファでうたた寝をしていると、目で捉えられないが妖精たちの気配が騒がしくなった。

「……ッ!?」

 まどろんでいて反応に遅れ、ソファと一体化していた身体をバネのように引き剥がして飛び起きる。

 久しぶりのこともあり、感知も遅れ衝動的に急いで部屋を移動し、目についた押し入れに飛び込む。

 しかも下段に積まれた布団の間に挟まるように身を隠す。

 妖精たちも蜘蛛の子を散らすように居なくなった室内に、何やら霞の様に薄く黒い人影が出現して徘徊を始める。

 その存在はよく分からなく、予兆も無く霧散した状態の霞の中から人型を形成する存在で、妖精たちも怯えて姿を消す。

 輪郭の境界線が曖昧で、声を発することは無く、目の位置は霞に塗りつぶされているのに視線は感じる。

 探すように彷徨う影に、見つからないよう胸の中で唱え、布団の間から様子を窺う。

 いつも不意に現れては家の中を探すように歩き回り、しばらくすると霞のように消えていなくなる。

 直感けれど影のそれからは、魂を狙っているかのような恐怖を感じていた。

 勝手に自分の家に足を踏み入れられた不快感より、影の存在感から来る恐怖が上回る。

 息を殺して早く居なくなって欲しいと怯えながら身を隠す。

 不気味な存在に声を立てて気づかれないように。

 見つかってしまう恐怖から、静かに身を縮まらせる。

 今回は特に長い気がして、途中から強く目を閉じて祈った。

 必死に祈っている内に眠ってしまう。

 押し入れのように暗く、まして布団にはさまれているとなれば、緊張が長続きする訳もなく眠くなる。

 目を覚ますと豆電球の明かりに、薄暗い室内が照らされていた。

 もうあの黒い霞のような影の姿は無く、妖精たちの気配も帰って来ているようだった。

 ゆっくり布団の間から抜け出すと、畳の上に一度身体を横たえて立ち上がる。

「久しぶりだったから、油断した……」

 壁掛けの時計に顔を上げて時間を確かめた。

 夜の七時を回った辺りだった。

 昼下がりからかなり寝てしまっていた。微妙な時間帯に睡眠を挟んでしまったので、時間経過の感覚に気持ち悪さを覚える。

だらだらと日の傾きだけが時間を教えてくれ、日の暮れた夜を待つのだけに時間を浪費する。

 朝日は新しい一日が始まった絶望感しか与えてはくれず、やる気が無くなる。

 夜が好きだ。寝静まった中で虫の音やたまに感じられる人や物の気配、暗闇で吹く風が心地良いところが好きだ。

 ずっとずっと夜の中で生きたい。

 静かな雨音の夜も好きで、月明かりの眩しい月夜も好きだった。

 そんなことを考えていたからか、気づくと夜の海に立っていた。

 砂浜の方を何気なしに振り向くとガーネットが膝を抱えてこちらを見ていて、星明かりに照らされた瞳をそれこそ星の様に輝かせ、何の感情も読めない眼差しを向けられていた。

 もう壊れて動かないオートマタを誰が運んだのか? なぜ砂浜なのか? 分からず首をかしげてみる。

 考えても仕方ない気がして、暗い水平線に目を戻す。

 二人だけの海なのか、さざ波に足元の砂がさらわれ、その繰り返す波音以外何も聞こえない。

 すると一瞬で景色が切り替わり、暖かな海風が身体を包み、視界半分を青い空と白い雲が覆いつくした。

 夏の熱気とセミと船の汽笛と潮の香りが質量を持ったかのように押し寄せ、瞬時にもろもろ体感する。

 足元は芝生で公園の広場らしい。

 変わった服装の人が多く、その変わりようは普段着ではあり得ない見た目で、中には暑そうな格好やゴテゴテした姿で、模造品の武器らしい物を手にした人まで見受けられた。

 いわゆるコスプレと呼ぶ物らしいと思い至る。

 その何もかもを混ぜ合わせたようなコスプレーヤーの集まりの中から小さな女の子の声が上がる。

「パパー、ママー!」

 見ると人だかりの先にタキシード姿の男性とその隣にドレスに身を包んだ女性の姿があった。

 女の子は可愛らしいドレスを着ていて、頭より高い位置で手を振る度、気持ちを表すかのように背中まで伸びた黒髪が揺れる。

 女の子が手を振る二人は十代と言っても、おかしくないくらい若く見えた。パパと女の子に呼ばれたタキシード姿の男性は、堅実そうな眼差しで隣に目配せして口元で微笑を浮かべる。

 腰まで流れる白い髪を輝かせたドレス姿のママと呼ばれた女性は恥ずかしくも厳かに微笑み返した。

 一度見つめ合った二人は、子どもの女の子を始め、周りで祝福するコスプレイヤーに手を振り返す。

 皆から祝福され、笑顔を返す二人。

 芝生に置かれた看板があり、目を通すとイベントに企業参加しているウエディング業者の体験会のプログラムの一環らしかった。

 結婚への意識が失われつつある昨今、結婚への興味をもって欲しいとの趣旨で企画されたイベントらしい。会場になっている芝生の端には簡易の試着室が置かれている。

 そして、どうやら娘に祝われている二人は式をあげた経験がない様だった。

 明らかに初めての知らない他人からも祝われているようで、何人かは二人の様子を見てウエディングドレスの試着体験の列に並んでいた。

 そして二人の近くにいる何人かの女性は、悔しそうな顔をして今にも青空の下相手の手を取り、この披露宴から連れ去ろうと考えているように見えた。

 大人しそうな顔立ちの中にも、意志の強そうな瞳をした母親に女の子が大きな声をかける。

「ママー、きれいだよ!」

 そして女の子は指輪の乗ったクッションのような物を両手に近づき、きらきらした瞳で両親を見た。

「葉桜ー、大きくなったらパパと結婚する!」

 女の子は笑顔で、定番のセリフを口にした。

 微笑ましい光景を前に、場面が昼の違う場所に移動した。

 さっきまでの場所の近くのようだけれど、目の前には特徴的な建物が飛び込んで来る。

 その建物を背に白を基調とした姿の女性がいて、正面には対峙するように男性が立っていた。

 どうやら先ほどの二人らしく、少し月日が経っているのか、どことなく顔つきが大人びているように見受けられた。

 周りには数え切れないほどの人が地面に倒れ、ちらほらと動く人影が見てとれる。

 夏場に倒れているのも心配だが、どうもイベント会場にいる者たちの魔力が目の前の彼女に吸収され続けられている様だった。

 人の数に対して異様に静かな広間に彼の声が響く。

 どうやらある計画を実行する集団に彼女は魔力を集める器に選ばれ、手伝う代わりに彼女の願いを叶える条件を約束していた。

 集団の計画は世界の在りようの書き換え、改変。その中で彼女も書き換えを望んでいた。

 世界の書き換えを実行するには大量の魔力が必要不可欠。

 そこで魔力を受け入れる器が必要であり、それだけの魔力を採集するのに同人誌イベントが候補地に選ばれた。

 この同人誌イベントは魔法使い及び賢者が多く、大賢者すら珍しくないので、魔力を搾取する場所として選ばれるのも道理だった。

 日本国内で最大規模であり、四日間もの間開かれ訪れる人の数も類似イベントで並ぶ物がない。

 しかも、特性上一般的に魔法使いや魔術師と呼ばれる人種が大半を占めるため、魔力を集めるには格好の場だった。

 それに会場は元から魔法が使えないような対策がとられており、魔法を日常に活用して運動の補助にしている人にも魔法が使えない仕組みをイベント側が行っていることを知っているが故に、自身から魔力が失われて多少身体が鈍くても疑問を抱かなかった。

 器も大量の魔力に耐えられるモノが必要であり、機械や術式だけで補おうとすれば大規模な物になり、気付かれてしまう。

 だから人であり、以前に他の組織から人間界に魔王を受肉させる母体に選ばれた彼女に白羽の矢が刺さるのは当然と言えた。

 もう二度と彼女が儀式の犠牲にならない様、彼は情報を集めて事前に不穏な動きを潰していた。

 しかし、自分から危険に飛び込む彼女までは止められない。

 彼は彼女の名前を呟いた。

「ミオ」

 魔王を人間界に受肉させるための母体に、今は三日間来場者から少しずつ魔力を吸い、四日目の今日すべての来場者から魔力を吸い上げ世界を書き換える魔力を蓄える器たる彼女。

 その姿は神仏にも天使でも無いが、異形の魅力と妖しさに溢れていた。

 それはきっと白魔術師と黒魔術師の魔力を大量にその身に集め、翼のようなフレア状に漏れ出るほど過剰供給をしているからだろう。

 尚も供給は止まらない。

「……兄さんは時たま辛そうな顔をして、悲しい眼をする。そんな顔をさせてるのは、縛りつけている私がいけない。だから、世界を書き換えて私から解放して、救わないといけないの!」

 痛みとも恍惚とも取れる瞳で彼を見下ろす。

 自身由縁の苦しみから対峙する彼を解放すると、自分自身を責めるように彼女は叫ぶ。

 悩みにつけ込まれ、利用されているにしても、苦しみから解放させるため、世界の改変を望む彼女。

 彼女の訴えに彼は真剣に言葉を投げかける。

「それは二人の罪だ。痛みだ。そんな顔をしてしまってごめん。苦しかったのに何も出来ずごめん。だけど、だから、世界を書き換えるなんて間違っている。少なくとも、俺は望まない。もう止めてくれ」

 願いを色濃くした瞳を向けた。

 本来では祝福されない二人。彼女の左手の指にはあの時の指輪がはまっていた。

 最終日に会場に訪れた者は軒並み倒れ、魔法使いでない少ない人が大人数相手に寄り添っているが、いつ魔力が尽きて命を落とす状態になるかも分からない。

 魔力は通常な人の体力や精神力と変わらない。減れば命の危機にもなりえる。

 誰かの命を奪ったとなれば、今以上の彼以外の罪に彼女が耐えられるとは思えない。

「私とサクラちゃんと一緒にいると辛いんでしょう!」

「そんな訳ない!」

 本当にそんな訳がない。子供が健康に産まれる事を望まない親がいないように、娘が弊害もなく産まれて来てくれた奇跡に感謝しても感謝しきれない。

 言い返すが相手は他人から魔力を吸い上げ続け、言葉を聞かない彼女を見上げ、彼は決意を固めた瞳で見据えた。

「話を聞けないというなら。お前を倒してから、その思い込みを否定してやる」

 身体の前で拳を握り、最小限の量しか彼の魔力を吸ってこないえこひいきの彼女を睨む。

「それにサクラちゃんと約束したからな。一緒にお祭りに行く約束を破ったお母さんを絶対に連れて帰るって」

 全力で挑まなければならないので、家で留守番をしているサクラにはルスカをつけてある。

 ルスカは彼と一緒に戦うことを望んでいたが、いつ彼女を魔力を集める器にした一味が人質など利用するために現れないとも限らないので、護衛を頼み込んだ。

 上級悪魔のルスカを守りにつけとけば、まずサクラの身の安全は問題ない。契約主の彼より強いルスカなら。代わりに悪魔らしく条件を引き換えに望みを要求されたが。

 娘のサクラと約束を交わした彼は、術式を構築しながら踏み出す。

「間違ったミオを止めて、必ず連れ帰る!」

 瞬時に魔法同士ぶつかり合って紫電のような光が空中に走り、彼が身を沈めて駆け出す。

 追って彼女が溢れ出す魔力を振り抜き攻撃を放つ。

 彼は交わしつつ近づくが、彼女との攻防に入らざるえず、激しい一進一退を繰り広げる。

 守られて来た彼女は、彼の魔法や先方を知っている。

 無限に近い魔力が空気を震わせ、黒魔術師という強い分類に位置する彼も強力だが有限の魔力を駆使して、魔力を込めた短剣を振るう。

 魔力で武器を作り出せるが、維持に魔力を使い武器の大きさなどを調整出来るけれど実戦向きでは無い。ましてや長くなるような戦いでは魔力切れが勝敗に大きく影響する。

 今戦う場所は周りに比べて立体構造になっているので足元が高く、離れた位置にある芝生の広がる公園の一部が見えていた。

 そこでも戦闘が行われているのか、遮蔽物の隙間から窺えた。

 彼女に器を求めた団体の本体らしい。

 今回は会場の一部ではないらしく、彼女の魔力供給の範囲外らしいけれど、邪魔者を排除するために魔方陣を構築する気のようだった。

 顔を戻すと彼女と彼の衝突は激しさを増して行く一方だったが、いつも通り急に意識が薄れ出す。




 縁側で閉じていた瞼を開くと雨で水溜まりを作る庭が視界に入り、雨音に混じり外の喧騒がうるさくて眉をひそめる。

 最近、外界の音がうるさくなっているような気がして胸がざわつく。

 気づくともう夕方で、背を向けて家に入る。

 晩ごはんを食べた後はお風呂に入り、濡れた髪をドライヤーで乾かす。

 壊れて動かないガーネットも湯船に入れてあげたいが、重心移動の出来ない今の状態では、気を失っている人を担ぐようなもの。重くて一人では難しいし、妖精達に手伝ってまでは、と考えてしまう。

 たたまれた洗濯物がテーブルに置かれていて自室に運ぶ。

 戻って窓辺のソファに座り、開けた窓から雨音を聞きながら途中だった文庫本を開く。

 垂れて邪魔な前髪をかきあげて読む準備を整える。

 ちらりとガーネットが気になり、文庫本を一旦閉じた。動かすだけならとガーネットをソファまで運ぶ。

 端に座らせてガーネットに寄りかかるように自身もソファに腰を下ろす。

 そして少し安心感を覚えながら、再び文庫本を手に読書を再開する。

 静かな夜と本さえあれば他に何も要らない。たまに寂しくなる時もあるけれど、ガーネットが側に居てくれるなら大丈夫な気になる。

 あと目に見えないが妖精達もいることだし。

 ゆっくりと更けていく夜に浸る。



 曇天の空に巻き上げられた土くれが、雨のように頭に降り注ぐ。

 ボタボタ、カラカラ、ドサドサと木々や植物の葉にも分け隔てなく。

 騒がしい……

 一番始めに視界に入った状況を目の当たりにして思った感想だった。

 しかも、頭に落ちて来た物は身体に当たらずすり抜けた。

 土も砂も、石や植物の破片や木の根もそのまま地面へ落ちる。

「……」

 自身の身体を見下ろすと透けている。見えることのない向こう側が透けて見えていた。

 周囲を振り向いて確認すると、見慣れない植物と背後にそびえる山。山は山でも草木の生えていない山肌を覗かせたもの。

 どこからともなく詠唱が響き、立て続けに周囲の木々が地面ごと視界の中で吹き飛んだ。

 何かを狙ったかのような規則性。

 土や枝が落ちてくる中、プレートアーマーを装備した人間が、両刃の剣を片手に携えて駆け抜けた。

 その先にはドロドロと腐り果ててもまだ形を残して活動する化け物の姿。

 周囲を汚染し、腐臭をまき散らす。

 すると鎧をまとった騎士だろう人物が、周囲に向けて言葉を放つ。

「バベルロードがもうじき到着する! 単独で相手をするな。距離を取りつつ包囲しろ! 逃がすんじゃないぞ! 教団殲滅の別部隊の邪魔にだけはなるな! 本能しかないと言っても邪神の眷属だ。油断すると命を落とすぞ!」

 飛ばされた檄に剣士などが剣を構え、腕を突き出して魔法を行使する。

 見た目の禍々しさ、恐ろしさなど物ともしないように更に叫ぶ。

「神を異次元から呼び出し、世界を一度壊し造り変えようとする教団の計画は何としても食い止めろ!!」

 切っ先を邪神の眷属だと言った腐り果てても形を取り動き続ける化け物に向けられた。

 神と呼ばれる存在が地に落ち、もう全ての神が世界からいなくなった世界。

 話からするに。そこで世界の在りように不満を抱いた者たちが、神の召喚を企てているらしい。

 神はいなくなったーーこの世界の住人なら誰もが知る事実。遠い昔に存在しなくなり尚、まだ神の居ぬ世界で人は神を求める。

 世界の破壊と再生さえ担ってくれたら、邪神だろうが関係なく、今の世界に救済を救って欲しいと求めた結果なのだろう。

 だから、呼び出せるなら邪神も神の内。

 騎士に邪神の眷属と言われた化け物は、手当たり次第に近づく兵士を攻撃していた。

 緩慢な動きで振るわれた腕なのか触手なのだかで、一振りされる度に腐敗した粘液が飛沫状に飛ぶ。

 邪神の眷属の体液は、物を汚し汚染する。

「体表を飛散させる攻撃及び魔法だけは行うな! ここまで周囲に攻撃を放ち移動させたのだ! あとわずか足止め出来ればいい……!」

 先ほどの地面をえぐる威力の魔法は、化け物を誘導させるための物であり、攻撃を加えて討伐する物ではなかったらしい。

 見れば森の木々がある程度吹き飛ばされ、対峙するにはいい広さに開けていた。

 すると木の枝を盛大に折る音と共に、ライトブラウンと赤茶色の配色された大きな影が飛び出す。

 それは人間の様に四肢を持ち、鎧の様な形状の巨人だった。

 全高は邪神の眷属や木々と同じで、相手を打ち倒すという意志のもと全身から圧を感じた。

「バベルロードだ! 包囲は継続。バベルロードの戦闘に巻き込まれるような馬鹿は出すなよ!」

 そんな発破の声が上がり、今現れた物がバベルロードと知る。

 見ればその右手には刀身がトリガー部分に至るまである銃剣だった。

 バベルロードは大きさの割に俊敏で、眷属の一振りを後方に跳んで躱し、着地の瞬間を狙ったかのような横薙ぎの触手を銃剣で切り飛ばした。

 切断された端は空中を舞い蠢いていたが、銃剣の切っ先に貫かれると浄化されるのか、発光するように薄く透明になって行く。

 他にも銃剣もそうだが、その装甲も邪神の眷属たる化け物の腐敗した粘液も問題ないようだった。

 まるで虫を叩き潰そうとするかの様に、触手をバベルロードに向けて振り回す眷属。

 考えなどく本能だけで繰り出す眷属の攻撃を、巨人は易々とかいくぐり距離を詰める。

 そして次々に銃剣を本体に突き刺しては、弾丸を打ち込んでいく。

 撃ち込まれた部分が発光し、浄化されるのか斑に光が漏れるように透けた。

「気を抜くな! 油断して負傷した者は置いて行かれると思え!」

 確かに周囲からは安堵と高揚の気配が漂う。

 警戒を怠るなとの叱咤も虚しく、その場にいる邪神の眷属、騎士や兵士たちにも攻撃が降り注ぐ。

 鋭く色々とりどりのガラス片が人の身にまとう鎧を貫通し、眷属の触手を切り落とすか寸断寸前まで傷つける。

 見れば浄化作用があるのか、ガラス片が刺さった部分や汚染された地面や木々までも淡い発光と共に浄化された。

 ガラス片が飛んで来た方を振り仰ぐと、その中空には教会のステンドグラスで構成された翼が視線の先に浮かんでいた。

 羽ばたくこと無く音も無く、しかも翼以外の部位は無く空中に存在し、ただただ神聖で高圧的な存在感を放っている。

 その翼からのプレッシャーに天使という言葉が頭に浮かぶ。

 バベルロードはガラス片の攻撃に装甲の傷だけで済み、敵意を感じ取り回避行動を取っていた。

 足元の地面にガラス片が刺さっているが、それ以降の周りには攻撃の痕が残されていない。

 眷属の汚染を浄化した翼は、すでに神の存在しない世界の天使だった。

 光を透かしてステンドグラスの身を輝かせる姿に、誰かの驚愕する声が上がる。

「あれは……ッ!? 先日、軍神とも呼ばれた隣国のサンサーラを堂々と正面から出向き、サンサーラを殺したという天使かっ!」

 攻撃を受けた時点で、騎士たちバベルロードを率いた者にとって味方でないことは明白だった。

「天使までも呼び出せるのか、教団のヤツらはッ……」

 隣国の軍神の命を奪った天使を前に、邪神の眷属も相手にする絶望を与えて、天使という存在は容赦ない攻撃を誰に等しく浴びせた。

 ステンドグラスの身を砕くように散らすガラス片、それが雨のごとく降り注ぎ、眷属はみるみるうちに浄化され、プレートアーマーを着けた人々は後退するが断末魔を上げて地面に倒れて行く。

 バベルロードは一人でも多く逃がそうと、天使に銃口を向けながら攻撃を行い阻止、敵天使の注意を引こうとする。が、広範囲の攻撃は防ぎ切れず、バベルロードの装甲は火花を散らして削られた。

 ふと、木々の合間に目を向ける。

 暗がりにバベルロードと天使の攻防を無表情で眺めるローブにフードをかぶる人影が立っていた。

 怯んだ騎士の言葉にも無表情に見つめるだけで、その危険でしかない場所に無防備にも立ち尽くし続ける。

「現人神は神では非ず。どんなに人から崇め奉られようと人は人、神には成れず。なぜなら現人神は人々がいくら切望して願っても、現人神は助けてくれないのだから……」

 眷属もバベルロードも天使の前に為す術が無く、一方的に蹂躙されていく。

 もう見届ける必要すら無いとばかりに、ローブの人物は攻防から目線を外す。

「やっぱり、あいつら邪神を崇拝するヤツらが使うのは汚くて嫌。すごく臭いし」

 天使を呼び出せるだけ、信仰心はそうとうなはず。

「……………………………………?」

 こちらが見えているかのように動きを止め、フードを目深にかぶった信者が見つめて来た。

 更には口元に何の表情も浮かべず、緩慢な動きで手を無言で伸ばして来る。

 近づかれて覗いた眼光の鋭さに、思わず肩を竦めて目をつむる。

 フードの人物と視線が合うと耳からでなく頭に直接響くように声が、様々な言語で祈りが流れるように聞こえて来た。

 手で耳を塞いでも聞こえ、その声と切なる祈りに身体だけでなく、心まで押し潰されそうになる。

 特にお経のような祝詞が耳について、めまいを起こして息が苦しくなった。


 葬式が嫌いだ。死人に口なしとばかりに人は亡くなった人の悪口を言葉にして口に出す。

 精進落としで故人の話をしてその人をしのぶとか、魂を見送るとか何とか言うが、結局のところ人は他人の悪口が好きで、死んでいるからと悪口に配慮という遠慮がなくなる。

 いくら問題のある人だったからとこれ以上評判を落とすような、嘲りや叱責、悪口などまさに死人にムチ打つような人は、それを死者の前で喋る自身がどれほど滑稽で脳味噌のたりない存在か鏡を見たらいい。

 哀れなほどの愚かしさに気づくべきだ。

 だから、葬式は嫌いだ。まるで悪口を許される場かのように、暗黙の了解で交わされる言葉が大っ嫌いだ。その渦は濁り汚い。

 お経らしき声が耳に響き、強く目を閉じる。

 すると突然、脳に響いた喧騒が無音になり、その静けさに恐る恐る瞼を押し上げた。

 すぐに焦点が合わず、視界がぼやけ眼を眇める。

 目の前に広がるのは人気のない部屋で、置かれた物や棚に積まれた資料から、雰囲気的に学校の倉庫室のような気がした。

 窓から指す日が、チリ埃を輝かせている。

 小さく息を吐き、その場に膝を抱えてしゃがみ込む。

 誰かの声が、幻聴が、自分を探す気配が、世界の騒々しさに身を押し潰されるような錯覚に震えた。

『また授業を抜け出して。勉強しないで将来困るのは、あなたですよ』

「うるさい……」

『どこ行ったのー! 降参だから出て来てよー!』

「どうして、放っといて! 早くあっち行って……!」

『ーーあははっ、でねー』『笑える。でも、へー、すごいじゃん』

「うるさい……っ!」

 人が苦手だ。声も聞きたくないし、姿が目に入ったり、喋るなんてもってのほか。

 恐怖で耳を塞いでしまう。

 一概に言えないが例として人見知りは、子どもの頃は相手がどんな人なのかを知らない事の怖さ、大人は相手から自分がどう見られるかが由来の怖さらしい。

けれども、小さな頃は両方に怯えていた。


 こんなに苦しいなら、全部記憶を無くしてしまいたいーーーー辛いのは人がどんな生き物なのか知っているからだ。なら、忘れてしまえば胸の痛みに悩む事もきっと無い。

 全て記憶をリセットすれば、人の醜さ愚かさを目にしても不快感を覚えずに済むはず。

 経験の蓄積による現象であれば、今の恐怖は解消される。




 どれだけの時間が経ったのか、身体を丸めて倒れていた。

「…………」

 頬を床につけてフローリングの上で眠っていたようで、顔にかかった髪を払う。

 状況を確認して腕の力だけで上半身を起こす。

 本棚に端に積まれた物たち、少しほこりっぽく、自分が倒れていたのは物置小屋だと頭が認識する。

 室内に日が差し込み、その日差しの感じから早朝だと予測が立った。

 ゆっくり立ち上がり、縁側に出るガラス戸を開ける。

 庭に裸足のまま出て、ひんやりと澄んだ空気が肺を満たした。

 植物と土のにおい、風は少し強めで、空は晴れていた。

 空を見上げると流れる雲と一緒にまだ月が浮かぶ。

 まるで一瞬で世界が変化してしまうような、ずっと時が止まってしまう直前のような、現実と幻想の狭間のような光景に息が漏れる。



 外的要因のストレスがかかると食欲が落ち、チョコレートしか口に出来ず、バカみたいにチョコレートを摂取してしまう。

 それはもう生命線かのような度を超えた量を、湯水の様に止まることを知らないかのように食べる。

 今もチョコレートを一粒食べ、妖精の煎れてくれたコーヒーを一口飲む。

 そしてファッション誌を広げたまま、もう一粒包みを開けて口に放り込む。この摂取ペースでは、また半日も保たず、チョコレートが一袋終わりそうだ。

「ガーネットに怒られちゃうな。『またお菓子ばかり食べて! ご飯を残すのは無しだからね』……ってさ。…………怒ってよ、ねぇ、ガーネット」

 静かに懇願のニュアンスで呟くが、見つめて来るばかりで、寂しげにすがるような声に応じてくれる声はない。

 こういった気分の時は、開いたページの文字が頭に入らないので、絵本や写真集、ファッション誌など見て楽しむ本を読む傾向にある。

 溜め息と同時にテーブルに倒れ、頬をテーブルに押しつけ、卓上の金魚鉢に目を向ける。

 金魚鉢の中には水草と砂利、それと小さなエビが数匹泳いでいた。

 金魚鉢を通して赤紫色の宝石の瞳が見つめ返し、ぼーっと時間を浪費するように覗き込む。

「またしばらく、平和だといいな。そうだ……! 今夜は流星群らしいからラジオ聞きながら見よっと。屋根に登る脚立を用意して、一応羽織る物と飲み物。二人で見るために屋根へ引っ張り上げるのは、無理かな。さすがに」

 ようやく流星群によって少しやる気と元気がでる。

「天気天気、新聞新聞っと」

 今夜の天気予報を確認しようと新聞に手を伸ばしかけた瞬間、黒い霞のような影の予兆を直感で感じ取った。

「どうしてこんな時にっ……!?」

 せっかく気持ちが持ち直し、元気になったのに嫌な影が現れるなんて。

 座っていた椅子を押し倒す勢いで立ち上がり、早く身を隠すために踵を軸に返す。

「あうっ……!!」

 察知が早かったにも関わらず、前回も逃げ込んだ押し入れの手前に霞が空気中に集まり出していた。

 急ブレーキからの高速ターン、元来た部屋に引き返す。

 影を目にした瞬間、心臓を摑まれたように息が止まり、一気に全身から汗が噴き出していた。

 妖精たちは影に怯えて既に姿を消している。

 脚と腕が震え、隠れる場所を探して視線を走らす。

 ソファは隠れる所は無く、考えるまでもなくテーブルの下はとても見つからないとは思えず、台所やトイレに潜むのは問題外だった。

 霞が形を成して影になり、移動を開始した気配を感じ取り、焦って縁側に飛び出す。

 相手の動きは歩くよりも遅いが、確実に近づいて来るし、移動速度を早めないとも限らない。

 最悪な予測は見つかったら一瞬で目の前に現れて迫るという可能性だ。

 叫び出したい恐怖を抱え、静かに音を立てないよう縁側の戸を開閉させる。

 外に続く庭は影の出現なんて関係ないとばかりに穏やかで、空気もにおいもいつも通りだった。

 縁側経由でミシンや布の置かれた部屋に飛び込む。

 特別なにおいに包まれて、それでも危機感は一向に治まらず、布のかかったトルソーたちの中に飛び込み姿を隠す。

 並べられたトルソーたちと同じように、白い布を頭からかぶり息をひそめる。

 この部屋自体に霞が集束してできた影が来ないように、必死に胸の前で手を組んで祈る。

 何体か床に転がされた中に隠れたので、人間ほどの知能がなければ大丈夫だが、こちらを察知する器官や何かあった時には逃げられない。

 いつものように脅威に怯え、必死に胸の中で祈っていたその時、今までに感じた事の無い耳鳴りに襲われた。

「なに……?!」

 次に頭が割れそうな痛みが走る。とっさに強く閉じた目の端に涙が滲む。

 今までに経験した事の無い現象に、ガーネットを放っておいてはいけない直感を覚えた。

 影は正直言って恐ろしいが、ガーネットだけは無視できない焦燥に駆られる。

 隠れていた部屋から飛び出し、焦る気持ちに脚をもつれさせて、今日もソファに座るガーネットに駆け寄る。

 直後、視界の端に影が映る。

「ーーーーっ!」

 振り向かなければいいのに、反射的に顔を向けてしまって、目があったような感覚に息を呑む。

 霞の塊でかろうじて、人型を保っているだけで目鼻立ちなど分からないのに、視線が合ったことだけは理解できた。

 一瞬で恐怖が全身を駆け抜け、ガーネットの身体が震え、ソファから滑り落ちる。

「あっ……!?」

 とっさに声を上げて手を伸ばすも、鈍い音を立てて床にその身体が転がった。

 恐怖で腕が震えたけれど、必死の思いで抱き抱える。

 危惧したような影が一瞬で距離を縮めるような事態にならなかったが、しかし影はゆっくりと確実に迫って来ていた。

 きっと物を投げつけても、殴りかかっても無駄だという気はして、守れるかは分からないけれど、ガーネットの身体を強く胸に抱く。

 恐怖で目が離せなくっている中、突如として足下から光が溢れた。

 一般的に魔法陣と呼ばれる類の物が、光輝き二人を下から照らす。

 同時に頭の中で響いていた声が激しさを増し、魔法陣の光が更に強さを増す。

 呼んでいる。呼ばれている。叫ぶように、祈るように、懇願する意識が勝手に呼びかけてくる。

「っ……うるさい……!」

 悪態を吐くように叫んだ。

 頭痛に小さく呻き、絶対に離さないとガーネットを強く引き寄せる。

「そんなんじゃないっ! 貴方たちが思っているような存在なんかじゃないんだって! かまわないで! 静かに放っといてよ!」

 風すら吹き出した魔法陣に手を伸ばす影。

 光を放つ魔法陣に影を弾き、寄せ付けない効果は無いようで、影からも魔法陣からも逃げられそうになかった。

 影に捕まるのが先か、魔法陣に呼ばれるのが先かだった。

「止めて……放っといてよ。お願いだから…………」

 すぐそこまで影の手が伸び、呼び声が頭が割れそうなほど大音量で響く。

 目の前に迫る謎の脅威に怯え、頭が割れそうな痛みに襲われ、吐き気も催し、心が圧迫されるような錯覚に壊れそうだった。

 声も出せず恐怖に閉じた目元から涙が流れる。


「もう呼ばないでーーーーーー」

 心の中でか、実際に声に出してか分からないが、叫んだ瞬間意識が暗転した。 




 森の木々をなぎ倒しながら、役目を終えて消えていく魔法円から身体を起こす。

 魔法の淡い光の残滓の中、頭が割れそうな痛みがまだ消えずに続く。

 そして召喚の影響を受けて姿が変化していた。身体が丘ほど大きくなり、肌は大理石のような質感の見た目に変わり、表面に彫刻のような模様が施されている。およそ生物らしさからかけ離れた物質のように見受けられた。

 しかし、実際何で構成されているのかは分からない。

 それでも無機物感は表面と大きさであり、身体の曲線からは生物らしさを見いだすことができた。

 更に変化の影響は他にも表れ、地平線の向こうまで視認でき、聴力は視野より少し遠くまで聞こえ、この星の半分ほど意識を向ければ知覚出来た。

 ところどころ人の骨格の丸みが覗き、衣を流したようなシルエットは人が神と讃えられるだけの存在感を見せていた。

「あれは……間に合わなかったか」

 やはりそう見えるらしく、召喚の妨害をしていた中から、そんな言葉を漏らした。

 禍々しくも美しいその姿を目の当たりにし、待ち望んだ者たちは口々に恐れと喜びの混ざり合った感情で「神様」と口にする。同時に悲鳴と怒号、混乱状態の絶叫が無意識に無遠慮に頭の中に響く。

 流れ込むそれらは雑音でしかなく、人々の思念までも否応なく押し寄せる。

 止めどない騒音に恐怖と怒りをにじませ、苦しげに首を振り声が強く響き、感知する場所に目を止めた。

 周辺で一番近い喧騒に矛先を向け、強く声を知覚した市街地を目指して移動を始めた。

 目に付く限り苦痛を与える原因を排除するため、知覚した直感に動き従う。

 近辺には邪神の眷属と天使が、それを阻止するためバベルロードがいた。

 動き出した方向には天使と眷属を相手にバベルロードが戦っていたが、見えてないというよりも注意を払うべき対象ではないかのように、止まることなく争い続ける中に向かって前進する。

 バベルロードは交戦する敵を無視して飛び退り、迫る神に対して回避行動を見せた。

 顕現した禍々しくも神々しい紙一重の姿に、誰かが驚愕に震えた声で呟きを漏らす。

「本当に世界からいなくなったと言われている神……なのか?」

 脇に避ける知性がない眷属は森を行く神に巻き込まれ触れて浄化され、天使はその身に触れただけでたやすく、それこそステンドグラスのように容易に砕け散った。

 そこに神の召喚を企てた集団の阻止に動いていた別働隊のバベルロード数機が躍り出る。

 街に行かせないよう阻止するために。

 見た目は装甲も構造も全て同一だが、各機戦術の観点から装備された武器に違いが窺えた。

 刀や槍の近接、射撃のためのライフルや砲撃と盾を一体化した物まである。

 バベルロードは進行速度に合わせて一定距離を保ちつつ、森を抜けるまでに街への被害が出ないように数機での編隊を組む。

 そして同時攻撃の連携を取り、それぞれの武器を構えたバベルロードが挑む。

 直後、虫を振り払うかのように動いた腕の一振りの下、地面に叩きつけられてしまう。

 叩きつけられたと表現するよりも、振り抜かれた腕の衝撃にバベルロードは火花を散らして砕け、破片が地面へ突き刺ささる。

 遠距離による攻撃も効果は見られず、傷一つつけられないどころか、たった一振りの衝撃で機体は砕け散った。他のバベルロードも無傷とはいかず、飛散した部品に巻き込まれ、機体に損傷を負う。

 頭に響く悲鳴に耐えきれず、敵意を向けた先に攻撃を放つ。

 力が口元に集束して球体を作る。力が球体表面を高速に法則性無く駆け巡り、街に忌々しい目線を投げて撃ち出す。

 一瞬で攻撃は街に着弾した。

 そして地面に線を引くように、攻撃が街並みの中を走った。

 その一閃は地面を揺らして火柱を上げ、苦痛の原因でざわめきを絶つために放った攻撃だったが、むしろ逆に街を襲った火柱の威力を前に悲鳴が倍増してしまう。

 街中の恐怖に怯えた叫びに比例して、頭の中の悲鳴も濁流の様に荒れ狂い大きくなり、余計に頭痛が酷く増して咆哮を上げた。

 咆哮は球形状に空気を震わせ、木々や川の水、取り囲むバベルロードの装甲さえ振動させる。

 振動が治まったタイミングを見て、バベルロード数機による攻撃が再開する。

 けれど、まるで焚き火の火の粉かのように軽く振り払われ、虫を追い払うかのように攻撃もバベルロードも容易くはたき落とされる。

 立ち向かえば向かうだけ被害が拡大し、とうとうバベルロードの阻止も虚しく街の外壁を破り、建物を巻き込みながらの進行が始まった。

 多くの住民が逃げ惑う中、騎士や兵士、警官など所属を問わず、その者たちは一般人の避難を誘導する。

 より鮮明になった悲鳴や神を求める祈りに苦痛が酷くなる。胸を押し潰されるような圧迫感にも同時に襲われていた。

 苦しみから逃れる代償行動として、再び口元に渦巻く光球を生む。

 次弾も狙いも定めず、出鱈目に力を撃ち出す。

 二度目の衝撃と一直線に走る火柱。確実に住民が減っているはずが、悲鳴や祈りが反比例の結果を見せていた。

 唸るように頭の中に直接反響する人々の声。悲鳴、怒号、歓喜、騒音。

 首を振っても叫んでも、流れ込む感情のうねりに押しつぶされそうになる。

 どんな異形に変化しても、まるで丸められる紙にでもなったかのように、抵抗が絶望になるくらい潰されそうな錯覚を起こす。

 いくら足掻いても抜け出せない無力感に襲われるが、それでも嫌だと直接頭に響く声に叫ぶ。

 苦しみ悶えて動くだけでも、建物は壊れ街は火に呑まれる。

 存在するだけで厄災のようなそれは、一種の神その物だった。

 その止まる気配が無い惨状は、まるで神の怒りを買い天罰が下ったかのようだ。 自分たちの街が壊滅に追い込まれる事態に恐れる声がある中、世界創世前の破壊が始まったと歓喜する祈りが捧げられていた。

 召喚の際に意思関係なく神の如きに変えられてしまった視界の端で、何かが光り、点滅したと認識した次の瞬間、横方向から側頭部に衝撃を受けた。

 身体が揺らぐほどでは無いが、首が傾き攻撃を受けたことを認識させられる。

 それを皮切りにカメラのフラッシュを焚くように、巨体の周りを次々に光が包み、轟音を立てて爆発が空気を震わす。

 巨体を包む規模の爆煙。

 立て続けに爆発、一斉に鳴り響いた爆音を経て、あちこちで上がる喧騒は続いているが、静かになったかのような錯覚を覚える。

 それほどに集中した攻撃だった。風に流され巨体を覆い隠した煙が引いていく。

 爆煙が晴れた先には変わらず巨体が立ちずさみ、攻撃を受けた側頭部方向に首を回した。

 そこには上位機体と思われる翼の付いたバベルロードが飛翔、浮遊していた。

 周囲を取り囲むように、軽く見ても数十機の存在を知覚する。

 視線の先には側頭部へ直撃を食らわせた一門の砲台が、バベルロードの上位機の奥に仰々しく砲口を晒していた。

 砲台は移動可能で、空中に小山ほどの大きさで浮いている。

 そこに高らかに傲慢な強い口調で声が上がった。

「もう我らの世界に神などいらない! 甘言ばかりで、求め祈れども願い叶わず。その様な神など不要だ!」

 本当に信仰心ばかり搾取して、叶えられたとしても一握り。争いも何も治めない神に宣言する。もちろん、攻撃にあたる人々を鼓舞するように。

「世界には争いも飢餓もあるというのに、傍観を決め込む神。人間から祈る気持ちだけ搾取する神。世界は求める志と努力、結ばれる契約によって願いや平和がもたらされる! 神など信じられるものか! この世界は我々が築く。今さら神が出てくる幕も無い。攻撃用意!!」

 かけられた号令から一拍置き、光の閃きが巨体を囲い爆発を起こす。

 続けて四方から少数の隊列を組む翼付きのバベルロードが、刀や槍を手に召喚された巨体へ飛翔した。

 迫り来る機体を振り落とそうと腕を上げる。

 すると側頭部に撃ち込まれた砲撃が、持ち上げた腕に直撃して阻まれてしまう。

 爆撃に轟音を響かせ、攻撃を阻害された腕。

 進撃を続行するバベルロード。

 ただ攻撃されることを甘んじるはずもなく、咆哮を上げてその圧力で一部軍勢を押し戻す。

 そして一息に薙ぎ払おうと光球を口元に集中させるが、翼付きのバベルロードがフラッシュを閃かせて炸裂。誘爆を生んで攻撃を阻む。

 断続的に絶えず閃きと爆発が巻き起こり、腕を持ち上げる度に腕か胴体に砲撃が撃ち込まれた。

 数え切れないほど繰り返された波状攻撃に意識が遠退きそうになる。

 ひときわ大きな攻撃を受けた後、視界が遮られるほどの爆煙に包まれた。

 咆哮を上げて威圧感を伴って放ち、邪魔でしかない煙を吹き飛ばす。

 一瞬で爆煙を散らし、開けた視界に砲撃が目に飛び込んでくる。

 気づいた時には撃ち落とすことも、回避することも間に合わず直撃をくらう。

 これまでの砲撃とは桁違いの威力があり、強く輝いた後、巨体を飲み込んで余りある爆発が起こった。

 街すら巻き込み、地面を震動させて抉り、爆風が吹き荒れるーーーー


 気がつくと地面に立ち、目の前の街並みと自分の対比が正常のものになっていて呆けてしまう。

 つまり神と呼ばれた体躯ではなかった。

 ほとんどの建物はボロボロで、無事で無い建物しかあらず、地面には瓦礫が散乱していた。

 ところどころで小さな火が燃えている。

 そして視線を上に見上げるようにし、驚愕に眼を見開き言葉を失う。

 今まで自分であった物が宝石の瞳に映り、淡く光る魔法円によってその巨体が拘束されていた。

 魔法円は六つの層状に、各円の外周には拘束の魔法を構築する翼付きのバベルロードが六機ずつ、そして魔術文字を表面に発光させる砲台。

 攻撃の増幅効果のためか、六芒星の魔法円が砲口の正面中空に構築されていた。

 ついに各魔法円が光を増して唸りを上げ、これまでで最大級の砲撃が、分解と力任せの濁流のような一撃が放たれた。

 大気を世界をも震わせ、耳をつんざき、暴力の本流が、神と崇められ疎まれた体躯を包み込みーーーー 暗転した意識の端に何か触れ、歓喜に震える声が聞こえた。悪魔の哄笑の声が。


 ーー殺した。殺した。やってくれた。殺した。神を殺し、屠った! 人間がやってくれた! 殺す! 殺し! 殺した。邪魔な神をまた! 一体消してくれた。人間を使って邪魔者を排除してやった! 莫迦な人間が神を! 殺した! 殺し、殺した。ちょろい人間が操られてるとも知らずに! 騙されてるとも疑わず! また神を殺してくれた!! 殺し、殺す、殺した。ファッハハハハハハハハハハハハハハァァァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!

 気持ち悪くてクラクラして、また意識が途切れた。




 放課後の廊下に帰宅や塾、部活へ向かう生徒で騒々しい中を駆け抜ける。

 秋も深まり廊下に冷たい空気が漂い出す中、走りながら熱い息を吐き出し、人目はばからず叫ぶ彼女。

「待てー! 大人しくしなさい!」

 追って来る女子の静止しろと、観念しなさいという声が背中にかけられるが、無視して同級生の間を潜り抜ける。

「呼び出しの放送を無視するせいで、副担任のわーちゃんから『お願い』って頼まれちゃったんだからね! 早く部活へ行きたいのに」

「知らないよ! ボクにかまってないで部活行っていいよ!」

 バスケ部だからか生徒の中をフットワーク軽く、ステップを踏み、追跡者の彼女はショートカットの毛先を躍らせて諦める様子がない。他のクラスメイトは巻いたというのに。

 ちなみに副担任は生徒指導の女性教師だ。

「いい訳ないでしょ! 『放送で呼び出しても無視して来ない』『休み時間に捕まえようとしても姿をくらます』『下駄箱で待ち伏せしても鞄の中に他の靴を持っているのか逃げられる』って、あんな困った顔で『委員長ごめんなさい。首輪を着けてでも連れて来て』って頼まれたんだから! 断れる訳ないでしょ!」

 その副担任の愚痴は身に覚えしかなかった。

 けれど事情が何であれ、逃げない理由にも、部活へ急ぐ彼女に素直に捕まってあげる理由にもならない。

 しかもクラスメイトの協力付きで、最初席で囲まれた時は何かと思ったが、本能的に逃げ出して正解だった。

 委員長に協力していたクラスメイトは、たまにプリントを回したり、実験の授業などグループや一人二組にならなければならない限り、二三こと言葉を交わす程度の仲だ。

 一通り各学年の廊下を駆け回り、一階の移動教室の前を走り抜け、階段を一段飛ばしで上がった後は、自分たちの教室に舞い戻る。

 教室の手前で途中で脱落したクラスメイトが塞ぐように腕を広げていたが、それで止まるとその女子は思っているらしく、予想を裏切り勢いをつける。

「えっ、うぇっ? はひっ……?!」

 廊下の中央で腕を広げた女子は、足を止めるどころか勢いを落とす様子がないのを察して、怯えを見せて腕を引っ込め身をすくませた。

 その脇を通り抜け、教室に飛び込む。

 女子の後ろに二段構えで男女の二人で廊下を塞がれてはどうしようも無い。

 教室にはまだ少しクラスメイトが残っていたが、真っ先に黒板寄りの換気で開いている窓に目を止める。

 背中に委員長の気配を感じながら、窓に駆け寄って手すりに手をかけ、迷うことなく窓から身を乗り出して中庭に飛び降りた。

 中庭には一部土が盛られた場所があり、ちょうど飛び降りた窓の下が芝生の覆った小山になっている。

 だから、実質二階の窓から地面まで二メートルあるかと言ったところ。

 追いかけっこで熱くなかった頬に、秋の冷たい空気が触れた。

 手足をついて着地の衝撃を和らげるが、バランスが崩れたのを感じて、とっさに前転をして身体を起こす。幸いケガは無かったが、それでも脚にそれなりの衝撃が走った。

 これでひとまず巻けると、頭の中で彼女の悔しげな顔が覗く窓を想像し、見上げる形で振り返り、目の前に飛び込んで来た光景に息をのむ。

「ーーーーっ!?」

 副担任のお願いを受けた委員長は、何の躊躇も無く同じように窓から身を投げていた。

 空気抵抗を受けてスカートが広がり、バスケ部で鍛え始めた脚やその奥が見えてしまう。

 毎年、中庭の小山に面した教室からバカな男子学生が遊び半分で度胸試しをしてケガ人が出ると教師の間で周知の事実だが、女子生徒が飛び降りるのは珍しかった。

 案の定彼女も着地に失敗し、足を滑らせて前のめりにバランスを崩す。

「えっ……!」

「あ、ちょっ!?」

 お互いに拍子抜けな声を上げ、彼女の大きな眼が更に大きく見開かれ、身体が上に覆い被さるようにぶつかって来た。

 窓の方から委員長の名前を叫ぶクラスメイトの声が聞こえた。

 そして目の前を覆われ、背中全体に地面の感触を覚え、強かに身体を打ちつけて、またしても意識が暗転する。



 気づくと家の庭で膝を抱えていた。

 感情を無くしたような肌寒い空気に、俯く首筋に冷たい雨が当たる。

 後ろ髪が前に垂れ、晒したうなじにポツポツと雨が降る。

 気怠く身体を伸ばし、手のひらを無気力に見下ろす。

 雨粒を受け止めるガーネットの手。

 細くしなやかそうな指の手のひらと血管の筋の無い白く滑らかなオートマタの腕。

 いつも触れ、たまに見下ろすガーネットの手。

 本当の一人になってしまった事実に、胸が押し潰されそうに苦しくなる。心細くなっても、悲しくなっても、もう取る手が無い。

 だからと外界に手を伸ばす気は、心にあるはずない。

 妖精たちが心配してか、集まって周りを漂うけれど、彼らと意思疎通は図れない。

 優しく漂うだけで、身の回りの世話を焼いてくれるだけで、寄り添ってはくれない。

 雨に混じって頬を撫でた風が、春の訪れを知らせてくれた。

 隣に誰もいない、ガーネットのいない春に、この先を思うと胸がきゅっと締め付けられる。

 この体が朽ちるのが先か、魂が消滅するのが先か、どちらにしても終末はだいぶ先の話になりそうだった。

「とうとう、ひとりぼっち……か」

 寂しさ悲しさの呟きを零し、ただ今は空を仰ぎ眼をつむった。

 服が濡れて徐々に肌に張り付く。

 雨粒を顔に受けながら、小さくオートマタには必要の無い呼吸をする。

 雨あしが強まり、妖精の気配が散って行く。

 地面や屋根、出来はじめた水たまりに落ちる雨音が周囲を埋め尽くす。

 雨に打たれて髪の毛の先と指先から雫を落とし、眼を開けたアレキタイプの青緑の瞳を濡らした。


 --生まれては破裂を繰り返すあぶくのよう。



          (完)

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