39話 皇帝の目覚め
「でも、一番大事なのは今までのことよりこれからのことです」
俯いていた萌麗は顔を上げた。
「お義兄様……この国は汚職にまみれ、民は重税に苦しんでいます。それをどうにかできるのは皇帝たる栄周兄様だけなのです」
そうして玉座の上の皇帝に向かって歩き出した。
「……東方朔は死んだ。呪縛はもう解けているはずだ。萌麗」
萌麗は慧英を見上げて頷いた。
「お義兄さま。栄周兄様……起きてください」
そしてそう声をかけた。
「暗い夜は終わりましたよ、義兄様」
萌麗は何度も何度も声をかける。きっと目覚めると信じて。その声が届いたのか、皇帝の瞼がぴくりと動いた。
「ん……なんだ……」
「お義兄さま!」
「……ほ、うれい?」
皇帝は目覚めた。その頬はこけ、唇はかさつき、開いた目はうつろだ。
「み、水を……」
「まて、萌麗」
慧英は慌てる萌麗に声をかけて、太白から金の椀を出し、そこに辰星から出した水を満たした。
「ゆっくり飲ませてやってくれ」
「……はい、ありがとうございます。慧英様」
萌麗は金の椀を皇帝の唇に当て、こぼれた水を袖で拭きつつゆっくりと水を飲ませていく。
「ごほっ……」
「お義兄様、大丈夫ですか」
「すまない……」
「ああ、謝らないでください……」
青ざめた皇帝の顔色に血色が戻って来た。そしてうつろな目には光を宿しはじめた。
「……ひどく気味の悪い夢を見ていた……とてもだるい……」
着物の袖から覗く腕は驚くほど細い。慧英は今度は歳星を取りだした。
「皇帝よ。この緑の如意宝珠は萌麗が守っていたものだ。これでそなたを救うことを萌麗はずっと願っていた。どうか、元の壮健さを取り戻せ」
すると歳星は輝き出す。柔らかく美しい緑の輝きが皇帝を包む。
「……これは」
髪は艶めき、頬はふっくらと、萎えた手足はしっかりとして、皇帝はあっという間に元の健康な姿を取り戻した。
「そなたは?」
皇帝は驚き、自分の手足を確かめた。そして目の前にいる慧英に目を移す。
「我が名は慧英。天帝陛下の使いにして天の軍勢を率いる神龍将軍である」
それを聞いた皇帝はばっと玉座から立ち上がり、すぐさま跪いた。
「……これは、大変失礼を」
「顔を上げてくれ、皇帝よ。そなたを救う為に俺はここに来たのだ」
「なんと……」
「すべてはそこの……萌麗の願いゆえ……」
皇帝は横にいる萌麗を振り返った。
「まことか、萌麗」
「はい……陛下……陛下をどうしてもお助けしたく、この慧英様のお力を借りました」
「そうか」
皇帝は俯いた。そして再び慧英を見る。
「慧英様、私は皇太后に操られた愚かな皇帝です……何も、何も出来なかった」
「己を責めるな。……一体何があった」
「それが……」
皇帝は今までのことをとつとつと話し始めた。
「ある日、皇太后が東方朔という道士を連れてきたのです。そして居室の位置から着るもの食べるもの全てに口を出してきた。……あれでも義母です。胡散臭いと思いつつ追い払うことも出来ずにいると、次第に頭がぼんやりしてきたのを覚えて居ます」
「そうして少しずつ術をかけていったのか……」
「おそらく。気付けば自分で話す事も出来なくなっていました。なのに言葉が勝手に出るのです。まるで悪夢のようだった」
「お義兄様……そんなにつらかったのに……私……」
「いや、私を救おうとしてくれたのは萌麗、お前だけだ。誰もが皆おかしいと思っていた筈なのに……」
皇帝は唇を噛んだ。
「これからこの国は大変だ。お主はそれを治めていかなくてはいかん」
「……ええ。動かない体で、皇太后の話は横で聞いておりました」
皇帝はすっと立ち上がると、少し離れた所で突っ伏している皇太后を見た。
「この……女狐が」
皇帝はつかつかと皇太后に近づくと、その髪を掴んだ。
「ああああ! 陛下ぁ!」
「黙れ!」
「ぎゃあっ」
皇帝はその頬を張った。皇太后は芋虫のようにその足元に取りすがる。
「申し訳ありません、申し訳ありません……だって、あの女達が追いかけてくるぅ……」
「お前を恨んでいるのはお前が追い詰め殺した後宮の女達だけではないぞ。圧政の中で清く身を立てていた廷臣どもも土の中でお前を恨んでいよう」
「ああああっ……」
「誰か! この者を冷宮に! 沙汰は追って下す」
皇帝は冷たい目をして人を呼んだ。どこからか人がやってきて、皇太后を引き摺っていった。
「慧英殿。容易い事ではないが、私はこの国を一から作り替えるつもりで政にあたろうと思う」
「……そうしてくれ」
皇帝の真っ直ぐな目を見つめ返しながら、慧英は頷いた。
「萌麗」
「……は、はい!」
「この慧英、しかとそなたの願い果たしたぞ」
「ありがとうございます、慧英様」
「私からも改めてお礼を、慧英様」
皇帝と萌麗は慧英に頭を下げた。そこに降って来たのは紫芳の声である。
「でもさ、宮殿ボロボロなんだけど簡単に頭さげちゃっていいの?」
「これ、紫芳!」
「それは……東方朔を倒すのにしかたなかったのでは」
「萌麗殿は甘いな。これから国を立て直すんでしょ? こんなところで政治が出来るの」
「え、えーと」
萌麗は頬を掻いた。確かに中央殿も広場も東方朔と慧英が暴れたせいで無茶苦茶なのである。
「という訳で、出し惜しみは良くないと思います、慧英様」
「まったく……物の順序というものがあるだろう」
慧英は紫芳の頭を軽く小突きながら、手を広げた。その手から光が溢れ、破壊された建物が元に戻っていく。
「……ほれ、これは俺から皇帝への祝いだ」
「ありがとうございます」
皇帝から再び頭を下げられた慧英は少し照れくさそうに頬をかいた。
「……じゃあ行くか、紫芳」
「え? は、はい!」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
そのままくるりと背を向けた慧英に、萌麗は追いすがった。
「まさかこのまま行ってしまうのですか?」
「……天帝の任務も終えた。皇帝も正気にかえした。もう……地上でやることはない」
「そんな……そんな」
あんまりだ、と萌麗は口に出しそうだった。国中を巡って一緒に旅をしたのに、別れがこんなにあっさりだなんて。
そんな萌麗の心の内を知ってか知らずが口を開いたのは皇帝だった。
「慧英様。せめて数日逗留してください。送別の宴でも開かないと私が笑われてしまいます」
「……わかった」
慧英は苦虫をかみつぶしたような顔をしてその言葉に頷いた。




