22話 偶然のいたずら
「それはもう、驚く光景でした。お湯が尽きる事無く湧き上がって……体の芯から温まりました」
温泉から出た萌麗は興奮気味に感想を慧英に伝えていた。
「それは良かった」
「先を譲って戴いて、申し訳ございません」
「いやいや、喜んでいるようで良かった」
慧英は小さな少女のように手を振りながら見てきた光景を報告する萌麗を見て微笑んだ。
「雪の温泉か。私もそれは初めてだ。さて、紫芳我々も行こうか」
「はいっ」
慧英の呼びかけに、紫芳は待ってましたと立ち上がった。
「湯から上がったら食事にしよう」
「はいっ」
紫芳は慧英の後ろを飛び跳ねるようにして付いて行った。
「さて……少し眠たくなってしまったわ」
「湯疲れしたのかもしれませんわ、少し横になられたら」
「そうね……」
萌麗は慣れない温泉の入浴に反って疲れてしまったようだ。寝台に身を横たえているうちにうとうとと眠ってしまった。
その頃、温泉の湯船には慧英が浸かっていた。変化の術を半ば解いたその姿は尖った耳と肩から背中にかけ、鱗とひれが付いている。
「……」
「どうした紫芳、一緒に入ればいいではないか」
「え、ええ……」
慧英の背中を流した後、じっと控えていた紫芳は慧英にそう言われて湯船に足を差し入れた。そして急いで首までつかるとじっと慧英を見た。
「どうした? 紫芳」
「いえ……立派な鱗だと……」
そう言って紫芳は自分の背中を振り返った。半龍である紫芳の鱗は首筋から背筋にそって少しあるばかりである。
「龍になればこのように揃うさ」
「ええ……」
紫芳は微妙な顔をして首筋をさすった。慧英はそんな紫芳の姿に軽く微笑みながら語りかける。
「紫芳、この旅はどうだ」
「……予想外のことが多いです。特にあの二人のことは……」
「ははは、調べ物にも限界があるな。で、人界はどうだ」
「うーん……ごちゃごちゃしてへんな匂いがして……混乱します」
「そうか」
慧英は俯いた紫芳の濡れて貼り付いた前髪をぐいっとあげた。
「その経験はお前が龍になった時に役に立つだろう。もうしばらく辛抱するんだな」
「はい、慧英様」
「……にしても、温泉に天界も人界もないな」
「ええ」
二人はうーんと体を伸ばして、湯の中を漂った。
その後、宿が用意してくれた食事を取り、久々にゆったりとした気分で一行は部屋で寛いでいた。
窓の外の雪は本降りになっており、柔らかな新雪が静かに積もっている。移動するにしても雪がやまない限り動けない。
「宿の女将の話じゃ三日くらいは待機しておいた方がいいみたいです、萌麗様」
「まあ、じゃあなにか……刺繍でもしましょうか」
「ええ、では準備いたします」
萌麗と陽梅は暇つぶしに刺繍をはじめた。
「ほう、大した腕だ」
慧英は二人の刺繍する様子を覗き混んだ。
「陽梅は刺繍の名手なのです。私も陽梅に習ってここまで上達しました」
「ほう」
スイスイと萌麗が絹地に縫い込んで行くのは赤い椿の花。
「それでは俺も特技を披露しようか」
慧英は白の如意宝珠『太白』を一振りすると、胡弓を取りだした。
「さて、紫芳。一差し舞って差し上げろ」
「はい、慧英様」
慧英は弓を弾いて胡弓を奏でた。甘く、切ないような懐かしいような旋律に合わせ、紫芳が踊る。
「まあ、どちらも上手」
「紫芳は天界でも随一の舞手なのだ」
萌麗と陽梅は針を進めるのも忘れて、慧英の胡弓と紫芳の舞に釘付けとなった。
「……素敵ね、陽梅」
「ええ。賑やかですね、萌麗様も琵琶をお弾きになれば?」
「ああ、萌麗もおいで」
「え……でも……」
「いいから」
慧英が琵琶を取りだし萌麗に渡す。萌麗は戸惑いながらもその弦をつま弾いた。
「上手いではないか」
「……母が教えてくれたのです。弾くのは久し振りです」
亡き母を思い出してしまうからと次第に遠のいていた琵琶の音。泣いてしまうかも、と一瞬思った萌麗であったが、慧英の胡弓と音を合わせるとそんな気持ちは吹き飛んだ。
「……楽しいです」
「そうか、それは良かった」
こうして雪をやり過ごしながら、一行は宿でゆっくりと過ごした。降りしきる雪は翌日には止んだが、新雪に馬車の車輪が取られるのを避けてもう一日滞在することになった。
「今日でこの街ともお別れね」
と、なれば最後に思う存分温泉につかりたい。そう思った萌麗は早朝、そっと部屋を抜け出して温泉に向かった。
「こんな時間だもの……誰も居ないわよね」
湯煙で白い視界に目を細め、萌麗はあたりを伺った。どうやら誰もいないようだが、念には念を、と萌麗は湯船に近づいた。その時である。風が拭いて湯煙がさっと晴れた。
「あ……!」
「……萌麗……?」
そこには湯に浸かった慧英が驚いた顔でこちらを見ていた。
「あっ、ごめんなさい!」
萌麗は大慌てで、温泉から逃げ出した。
「はぁっ、はぁ……まさか慧英様が居るなんて……」
久し振りに人化を解いた慧英の姿を見てしまった。いや、問題はそこではない。うっかり目にしてしまった慧英のたくましい上半裸を萌麗は思いだし、カッと頬が熱くなるのを感じた。
「萌麗」
「ひゃっ!?」
萌麗が一人でドギマギしていると、慧英がその後ろに立った。
「もう服を着ているから」
「あ、そ……そうですか。失礼しました……」
「温泉に入るなら行っておいで。人がこないかここで見張っておくから」
「は、はい」
萌麗は慧英の目もろくに見る事も出来ずに温泉に向かった。
「入浴どころじゃないんだけど……」
とはいえすぐに戻れば慧英はおかしな顔をするだろう。萌麗はしぶしぶお湯に入ったがすぐに頭が沸騰しそうになった。
「あー……もう……」
萌麗は火照る顔を何とかしようと岩に積もった雪を頬に当てた。
「さーて、ようやく出発です!」
荷物を運び込んで紫芳が元気に皆に声をかける。
「北壁の砦はあと少しで着きます! ……萌麗殿、どうしました」
「あ……いえ……」
「まぁとにかく出発!」
無邪気な紫芳と真逆に萌麗は慧英の隣で気まずそうに肩をすくめるのだった。
 




