21話 湯煙の語らい
翌日、一行は孝安の街を出た。馬車を走らせながら、紫芳が後ろの慧英に問いかける。
「……あれで良かったんですか?」
「ん?」
「結局、僕等に茶を飲ましたやつや護符……いやあれは呪符ですか。それをばらまいていた奴は野放しのままではないですか」
「……そこまで面倒見る気はないさ。偽りの夢に酔っていたと気付いた時にきっと苦しむだろうから」
慧英がそっと覗いた時、李烓から振る舞われていたのはおそらく茶に混入されていた幻術の触媒のようなものだろう。だがそれを与えてくれる李烓はもう居ない。
その時に彼らがどうなろうが慧英は知った事ではなかった。
「……とかいって、あの宿の女将に解毒剤を渡していたでしょう」
「萌麗がどうしてもと言うからだ」
慧英はそう言ってぷいと横を向いてしまった。それを不満げに見る紫芳に陽梅が声をかける。
「紫芳、いいじゃないの。あんたが怪我した訳でもないんだから」
「……ある意味怪我みたいなもんだよ」
どうやら紫芳は龍になったと幻覚を見て二回もはしゃいだことを根に持っているらしい。
「ごめんなさいね、紫芳、でももうできるだけ誰にも苦しんで欲しくなかったの」
萌麗がそう言うと、紫芳はちょっと俯いて前を向いた。
「別に、僕も苦しめなんて思ってません!」
そう言って馬車の速度をあげる。馬車は小石を跳ね上げてがたんと揺れた。
それから北上すること二日。二つの街を経由して街道を進んでいくと次第に気温が下がっていくのを萌麗は感じた。
「萌麗様、上着を」
「ありがとう。あ……」
休憩がてらに寄った村で、陽梅に上着を羽織らせて貰った萌麗がふと空をみると、白いほこりのようなものがちらりちらりと舞ってきた。
「あら、初雪ね」
萌麗は手のひらをかざした。か弱い雪はそんな萌麗の手の温度ですっと消える。
「……雪」
「僕、はじめて見ました」
慧英と紫芳は首をあげて曇り空を見上げている。
「天界に雪はないのですか」
「ああ、天帝のいる山は常春だ。氷に閉ざされているところもあるが紫芳は行った事がないな」
「はい。思ったより冷たくないですね」
「これからいっぱい振って地面にも積もるの。そしたら寒くなるわ」
「へぇ……」
紫芳は好奇心を隠せない顔でまた空を見た。そんな紫芳を見てくすりと笑いながら、慧英は馬車に乗り込んだ。
「それじゃ、そろそろ進もう。本降りになる前に次の街に行かなくては」
「え、もうですか? もう少しゆっくりしても大丈夫だと思うんですけど」
そう、ここまでの道のりは順調だった。予想以上に前進したと言っていい。きょとんとする紫芳に、陽梅が言い添えた。
「紫芳、新雪は柔らかくて馬車が動けなくなるのよ」
「ありゃ、やっかいなものなんだな」
「おそらく次の街で何日か足止めを食らうわ」
「そっか、では出発します!」
紫芳は全員が馬車に乗り込むのを見届けて馬を走らせた。ゴトゴトと揺れる馬車の中で、萌麗は冷えた指先に息を当てて温める。
「足止めは困ったことね」
「でも、萌麗様。これから冬になるのですしそれは仕方ありません。……それに」
「それに?」
「うふふ……次の街には『温泉』があるのです」
「温泉……!」
萌麗の顔がぱっと輝いた。萌麗の生まれ育った宮殿には温泉はない。でも詩歌に物語に、出てくるそれを萌麗は知識としては知っていた。
「……陽梅は行ったことあるのよね」
「ええ。父の湯治について行きました。あったかいお湯が湧き出るのが不思議で……」
「まぁ」
いずれそういう土地に嫁がされでもしない限り、お目にかかれないと思っていた萌麗は、今も苦しんでいるだろう義兄に申し訳ないと思いながらわくわくしてしまう気持ちを抑えられなかった。
そんな萌麗の微妙な顔色を見て、慧英は頬杖をつき微笑みながら言った。
「なに、どうせ身動きがとれないのだ。この際、湯にたっぷり浸かって英気を養おう」
「あ、そうですね……慧英様」
萌麗は心の内を見破られたか、と少し恥ずかしくなりながら頷いた。
「慧英様、そろそろ次の街です」
そんなやり取りをしている間に馬車は街にたどり着いたようだ。どうせだからといっとういい宿を選んで、四人は部屋に入った。
「それでは湯に行って参ります」
「ああ、行っておいで」
萌麗と陽梅は一足先に温泉に向かった。人払いをした温泉には誰もいない。
「では、御髪をあげて。お背中をお流しします」
「あら、一緒に入りましょうよ、陽梅」
「ええ……? 叱られます」
「誰もいないわ。旅の最中だし、ね?」
そう言って萌麗は陽梅の手を引いた。
「仕方ないですねぇ……」
「きっと二人の方が楽しいもの」
萌麗にそう言われた陽梅はしぶしぶと服を脱いで萌麗に付いて行った。そこは岩に囲まれた湯船に白い湯を湛えている。
「ああ、本当にたっぷりとお湯が……どこから出てくるのかしら」
「地面からだそうですよ」
ざぶんと肩まで二人は温泉につかる。冷えた体にジンジンと温かいお湯が染み渡る。
「はぁ……いい気持ち」
「ここのお宿の女将さんが、ここの温泉はお肌に良いと言っていました」
「あらじゃあお顔に塗ってあげる」
「萌麗様も」
互いにぱしゃぱしゃと湯を掛け合って、二人はふふふと笑いあった。
「……なんか久し振りね」
「何がですか?」
「ほら、ずっと恒春宮では二人きりだったのに、ここのところあんまり無かったわ、と思って」
「そうですね」
この旅に出るまでは滅多に人も訪ねてなどこない、忘れられかけた宮で二人寄り添って暮らしてきた萌麗と陽梅であった。
「この数日で色んなことがありましたね」
「そうね。私……まるで生まれ変わったような気持ちがしているの」
「萌麗様……」
「私は何も出来ないって馬鹿にされてもしかたないって……そんな風に思ってた。だけど……慧英様が……」
そんな時、いつも慧英が声をかけてくれる。萌麗はそれが頼もしく、また嬉しかった。
「良かったです。萌麗様」
「あ、陽梅にも感謝しているのよ。こんな所まで付いてきてくれて。それに……この間の幻覚を見た時に、泣いてくれたでしょ」
「あのことは……」
「自分のことじゃなくて、私のことで陽梅は泣いてくれて、あなたはたまったもんじゃなかっただろうけど……私嬉しかったの」
小雪のちらつく中、温泉に浸かりながら旅の最中は落ち着かなくて話せなかった思いを萌麗は陽梅に吐き出した。
「ありがとう……ございます」
陽梅は湯のせいか照れたせいか顔を赤くしてどぷんと首まで湯に浸かった。




