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「……そうだな。……では、ブリジッタ・エルスパス」
「はい。……ご無沙汰しております」
名指されては隠れている訳にもいかない。もっともブリジッタとしては、隠れているつもりもなく、ただ自分とは直接の関わりはない話と判断して目立たないよう控えていたに過ぎないのだが。
「……!」
顔色を変えたシモンが腰を浮かせかけるが、国王と公爵、そしてカレルの鋭い一瞥に硬直した。
「……さてブリジッタ嬢。その方、改めてエルスパス領を治めるつもりはあるか」
さっと息子から視線を外した国王の言葉に、ブリジッタは少し考えた。
「お気遣いありがとうございます、陛下。……私も、考えては見たのですが……今更ながらエルスパス領に戻りましても、役には立てないかと。申し訳ございません」
深々と頭を下げる。
この辺りについては、カレルやパーサプル公爵とも話し、了承を得ている。彼らもブリジッタを気にかけてくれているのは確かだ。
その上で、エルスパス領からは手を引きたいというブリジッタの望みを納得してくれた。今のあの土地に残っているのは、王族のシモンから利益を得ようと執着する者、あるはずの援助を何とかかすめとろうとするような者ばかりだ。それらの下に位置する小作や下請けには、既に監査官から話が通っていて近在や他の領地に移ることが決まっている。領民には被害が及ばぬよう、極力気を遣ってはくれたらしい。上の意向に逆らう術のない彼らには有り難いことではある。
彼らのほとんどが土地に依存しない業態だったことも大きい。牧羊は畑作ほど土地に頼らない、家畜さえ同道できるならこの領地にもそこまでこだわらない。こだわる価値を見失ったとも言える。
この短期間でここまで領地が荒れることも珍しい。
元はと言えばシモンの人望の無さが原因なのだが、ついでにこうした世間知らずの領主や代官に集る詐欺師を摘発するため敢えてそれらしい噂を流したりもしたという。簡単に収入を増やし領地が栄える方法を伝授する、などと宣って顧問料や教授料をせしめる類いだ。
「陛下、私からもよろしいでしょうか」
カレルは王弟として、自分の立場をよく弁えている。例えばそれはきちんと礼を示すなどの振る舞いに現れる。
元々第二王子とは言え、母は位の低い女官だった。学業も平均よりは良い程度を保持し、騎士団で名をあげた後はさっさと辺境に引っ込むほどに目の利く男でもある。
「如何したか、カレル」
「はっ。我がデザスタ領に、ブリジッタ嬢は必要な人間です。彼女を慕い訪ねてきた領民も多く、また彼女の知識あって我が領は生産力がついて参りました。……何とぞ、その点をお含みいただきますよう、お願いさせていただきます」
丁寧な礼をとるカレルをブリジッタは困惑する目で見上げるが、現状の立場として下手なことは口に出せない。それをわかっている彼女に対し、未だに理解の及ばない者もいる。
「な、何を……!叔父上、それはどういう意味ですか!私がその女より劣るとでも!?」
「現状を見る限り、自明の理だと思うが」
あっさり言って退けてカレルは甥に冷ややかな眼を向けた。
「領地の運営は、教書通りにいくものではないし、その土地ごとの特色やそれまでの来歴があるものだ。それを無視し、自分の手腕が活かされないのは領民が悪いなどと騒ぐ領主は、むしろ領民の方で願い下げだろう」
同じ王太子とならない王子でありながら、彼らは見事に異なっていた。
確かにカレルは兄王子と年齢も離れた異母弟で、細かい状況はいろいろ異なる。しかしもっとも大きいのは、彼には自分を含めた状況を見る客観的な視点があったことだろう。
対してシモンは、経験が浅くしかもその自分の欠点を認めることができない。自分は優れた才能ある存在であり、それを活かせないのは周囲が悪いと本気で信じている。そしてその自負心を肯定する者しか側におかない。よっていっそうその思い込みばかり強化される悪循環に陥っていた。
「いずれにせようちにはブリジッタがいてくれるととても助かる。どうだろう、ブリジッタ」
「……お許しいただけるのでしたら、是非。このままお世話になりたいと、思います」
カレルの言葉に素直に頷き、それからふとブリジッタはシモンを見た。




