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「お父様は、まだ?」
母の葬儀から10日。娘のブリジッタが腫れぼったい目をしながら部屋から出てきても、侯爵は自分の部屋に閉じ籠っていた。間もなく仕事の忌引きも明ける、それまでには立ち直ってほしいのだが。
侯爵と言っても、王家の血をひくイザベラの血筋を遺すために創設された家だ。しかし彼女はブリジッタ一人を産んで亡くなったため、ブリジッタが後を継がねばならない。
そしてイザベラは、そのまだ幼い娘に既に厳しい教育を施していた。もちろん多忙な彼女自身ではなく、信頼のおける教師を分野毎に幾人もつけた。かなりハードなその教育もあって、ブリジッタは他の子どもより遥かに知識も考え方も熟成している。
「お父様」
家令に頼んで父の部屋を訪うと、彼は茫然自失の体で座り込んでいた。そっと近づくと、慣れない匂いが鼻をつく。
「……ブリジッタ、か……」
どんより濁った目が娘を映す。
「お父様、お母様は……何故お亡くなりになったの?」
「ああ……何故、何故だろうなぁ……ああ……イザベラ……」
頭を抱える父にブリジッタも途方に暮れる。
幾ら母のスパルタ教育を受けていても彼女はまだ幼い子どもに過ぎない。
「お、お父様、お父様。……私、お母様と約束しました。令嬢として、お母様に恥ずかしくない娘になるって」
約束は約束だ。尖った爪を柔らかい頬に食い込ませ、間近で眼を覗き込む母は正直恐ろしかったけれど。彼女の期待を裏切って省みられなくなる方が怖い。例え彼女がもうこの世にいないことを承知していても、その意に染まぬ振る舞いは出来ないと、そう感じる程ブリジッタは母を恐れ、かつ慕っていたのだ。
ブリジッタは母との約束を守ってきた。早逝した従妹を王が哀れんだのか、王家から第二王子との婚約が持ち込まれた。それもあって、彼女の受ける教育はいっそう厳しさを増したが、ブリジッタはそれをきちんとこなしてきた。果ては、机上の仕事では有能でも実地での領地経営の教育を受けておらずやる気の無い父の職務まで請け負うほど。
エルスパス侯爵家は、母の実家であるパーサプル公爵家の分家だ。イザベラの兄に当たるパーサプル公爵は多忙な人で妹の遺族にも妹自身にもあまり興味を示さなかった、もしくはその余裕がない人だった。妻でありブリジッタの伯母公爵夫人は彼女を案じて母親代わりに面倒を見てくれるが、彼女にも自分の家庭がある。公爵家の子ども、ブリジッタにとって従兄弟に当たるのは男しかいないので娘もほしかったらしい。
「本当なら、うちの子のお嫁に来て欲しかったのよ」
伯母はしみじみ宣い、ブリジッタは微かに苦笑する。
伯母の息子、つまりブリジッタにとって従兄弟は三人おり、長男はブリジッタと一回り以上年が違う。その長男は既に結婚しているし、次男にも婚約者がいる。末っ子の三男はそういう話は聞かないしブリジッタとも年は近いが、婚約はあり得ないだろう、彼は明らかにブリジッタのことを好いていない。もっとも母の死後、早々に王子との婚約が決まったブリジッタには、他者の反応をどうこう言う気もないが。
「ブリジッタ、第二王子のシモン殿下とはお会いしているの?」
「たまに王宮に伺います。シモン殿下はお忙しく、あまりお話も出来ておりませんが、王妃様や王女殿下には良くしていただいております」
婚約が整ってからというもの、ブリジッタはしばしば王宮に呼び出されている。その割に婚約者の王子に会わないのは、呼び出し相手は概ね彼の母である王妃であることが多いからだ。
ブリジッタの婚約者は無論王太子ではない、彼女の夫はエルスパス侯爵家に婿入りし、受け継いでいかねばならない。