1話
剣と魔法、奇跡溢れる夢の場所、それが私にとっての異世界だ。ファンタジーの世界とも言う。
もし私が異世界に行ったなら、動物と仲良くなれる魔法が使いたい。魔法が使えたら特に犬と仲良くなりたい。犬か狼と友達になりたい。そのためなら死ぬ気で練習する。
(side'騎士)
奇跡の技で魔王を倒す眩しい存在、それが俺にとっての勇者様だ。
俺は勇者様に会って勇者様のお側にお仕えしたい。
その為に本だってたくさん読んだし、本来俺は剣だけでいいがオーラも修行した。
絶対、絶対に勇者様に仕えるのはこの俺だ。
今日は金曜日。今日仕事に行けば連休である。研修に次ぐ研修中で仕事内容を覚えたり、人の名前を覚えたりと大変だった。ようやく一段落し念願の丸々連休を貰えたのである。
職場まで電車で20分。時間は少し余裕がある程度。ばっちりナチュラルメイクとばっちりスーツを着てシンプルな姿見でチェックする。いつもの没個性新入女子社員の出来上がりだ。今までの人生、彼氏もいなけりゃ好きな人もいない隠れ喪女の身嗜みなんてこんなものですよ。
「うん、まぁ大丈夫、でしょう。…あれ?」
鏡面に写る私が心なしか揺れている。
私はおそるおそる指先で鏡に触れた。
頭上には青く広がる空にぽっかり浮かぶ雲。頬をかすって髪を弄ぶ風が仄かに冷たい。
場所は大きな宮殿前の跳ね橋、そのど真ん中。
見慣れない光景が広がる衝撃にどうやってここへ来たのか忘れた私の後ろには、自立できるよう支えが付いた大きな姿見があった。金縁の装飾が細やかで鏡もぴっかぴかである。いったいお幾ら万円するのか、庶民育ちの私には検討もつかない。
鏡の後ろには長く広い階段がありこの宮殿が坂の上にあることがわかる。階段の下は広場になっているようで、そこから道が伸びレンガ造りの家や看板がかかる店へ続いているようだ。
真っ白な宮殿含め美しい町である。
そして再び前を向くと、ベテランの職人が今生の最後の作品として魂込めて作った彫刻のように整った顔立ちをした男性が、にこにこと私を見つめていた。青いビー玉をはめたような瞳は宝石のようだ。
その後ろには頭に兜を被った全身鎧の四人が控えている。物々しい雰囲気なのに、青年の優しい春の雰囲気で中和され、私は不思議と怯えていなかった。
「はじめまして勇者様。謁見の間へ勇者様をご案内させていただきます、サファイアの騎士エレニアンと申します」
そう言って恭しく私の前に膝を着いた背の高い美青年の騎士の頭には、その綺麗な銀灰色の髪と同じ色の猫耳が生えていた。
「え、あっ。はい、どうも。長于 さえと言います。…あの、は、はえ?え?本物?」
つられて自己紹介をするも、ぴくぴくと動く猫耳から目が離せない。
どうみてもエレニアンは私と同年代で、20歳前後だろう。遊びで猫耳姿を披露するには、私と初対面だし変人だと思われる。なのに細部まで凝っている。髪も染めたりカツラという訳ではなさそうだ。
「はい、私は猫のヒューマン系にあたりますので」
爽やかな微笑みと共に彼は、耳とお揃いの銀灰色しっぽを私に見せてくれた。
「…おーう」
これは夢だろう。恐らく夢だ。覚醒夢だ。
でなければこんな、こんな私がずっと来てみたかったファンタジー世界に来れるはずないのだ。
揺れる鏡に触れてみたらくぐれたから来ちゃった、みたいな、小説の主人公みたいな事があるはずないのだ。夢の外の私は鏡に頭をぶつけて今頃気絶しているに違いない。
となれば心配する事はない。私の夢なら心行くまでこの素敵な世界を楽しませてもらおう。人魚を見たり、魔法を使ってみたり、犬をモフモフしたりするのだ。
私は一呼吸置いてにっこり余裕の笑みを浮かべて頷き返そうとしてエレニアンが言った言葉を思い出した。
「え、勇者?」
が、満面の微笑みで聞き返してしまった。
勇者というのは国中を旅しモンスターを倒し魔王を倒す、あの勇者だろうか?
「はい、謁見の間にて王が詳細をお話してくださることと思います」
だから着いてきてください、と微笑むエレニアンはやはり美しかった。
エレニアンの後ろに続いて宮殿に入った。大人が五人は横に並んで通れそうな通路の奥へ進み、広間のような円形の玄関ホールへ出た。磨きぬかれた床も真っ白で高い天井から吊るされたきらびやかな照明の光を反射している。白い床に鮮やかな赤いじゅうたんが廊下やホールの真ん中の大きな階段の上まで続いている。
玄関ホールの半円部分はホールを囲う壁がガラスになっており、ガラスの向こうは2階の陰になっている中庭が見え艶やかな花が咲き誇っている。
「この階段を登ると謁見の間になります。よろしいですか?」
「はい、まぁ」
聞かれても、何を準備すべきかわからず私は頷いた。
金の手すりが付いた階段を登るとそこは謁見の間といううより大広間だった。学校の体育館よりもよっぽど広い長方形の部屋の奥に、それはそれは立派な一つ椅子がある。
なぜ、一つしかないのか?答えはすぐにわかることとなる。
そこに座る唯一の人物へエレニアンが声をかけた。
「王都騎士団が第4位サファイアの騎士、参上いたしました」
「よい。近くへ」
答えた声はまだ少年のものだった。
エレニアンと他の騎士さんたちと、私は玉座の前へ向かった。
近くで見た王は平凡な人間の少年そのもので、町で友達と駆け回っていてもおかしくはない。ただ、そのオレンジの瞳だけが知恵を湛えてきらきらしていた。
「余はこのリースワンド王国を統べる唯一の王だ。異世界から来た勇者よ、よくぞ参った」
声に似合わない言葉だが妙な貫禄がある。
とにかく私はぺこりと頭を下げ愛想笑いを浮かべた。例え見た目がどうであれお偉いさんには変わらない。
「長于さえと申します。詳しい事を教えていただきたく存じます」
「はっはっは!そなたまで余に堅苦しい言葉を使う必要は無い」
王は器がでかいらしい。もしかすると見た目どおりの年齢ではないのかもしれない、と今更思った。
そして王は髭も生えていないツルツルの顎を撫で、にこやかに言った。
「詳しいこと、詳しいことな。まずそなたはここを夢だとか考えているだろうが、それは違う」
「うそ‼(うそー、うそーうそー…)」
思わず大きな声が出て広間に響いた。私の斜め後ろに立つエレニアンが、頭に手をやりその三角の耳を塞いだのが少し見えた。
夢じゃないって何を言ってるんだ王様は?日本じゃない動物耳の生えたイケメンがいるここが夢じゃない?私が勇者っていう話も夢じゃない?っていうかなんで私が夢だと思ってるってわかって?
「嘘でもない。これはそなたが見ている夢ではなく、現実だ。簡単に言うと、死ぬ」
「死ぬ」
「場合によってはな。もちろんそなたに死なれると困るので、我々もサポートは前面にしよう」
にこやかに偉そうに言うことじゃないぞ、王様。
つまりサポートが無ければ死ぬということか。
冗談じゃない。これが夢でもゲームでもない現実だというならば、私にはしなくてはならないことがある。そう、会社に行くのだ。
「…元の世界に返してもらっていいですか?」
「無理だ。我々はそなたを勇者にするために召喚したのだ。もうそなたでなくてはならん」
「即答ですか」
一刀両断で切り捨てられた願いだったが想定の範囲内だった。
死なれると困るということは居なくなられても困るということだとわかっていたからだ。
「では場合によっては死ぬ、という意味を教えてください」
「ああ。簡単に言うとそなたが強くなれなかった時だ。最低でも死なない程度にはな」
「強く、ですか?私、今全然強くないんですけど」
「知っておる。だが、この世界にはモンスターと呼ばれる破壊衝動のみで理性を持たない生き物が居る。これ自体は、訓練した者ならば倒せる、食料にも薬にもなる生活の一部だ。人が集団で住んでいるところに自分から現れることは稀だ。だが、町を出ればそこらへんにうようよ居るぞ。姿かたちや特性は様々だ」
「訓練しなくちゃモンスターに倒される、ってことですか」
「それもあるがな。厄介なのはこれらを操り世界の滅亡を望む者、魔王の存在だ」
「魔王。でもモンスターが倒せる人がこの世界にたくさん居るなら魔王を倒せる人も居るんじゃ?」
「魔王はただのモンスターではない。この世界で生まれ育った力を消し去ることができ、なおかつこの世界で生まれ育った者の攻撃は届かない」
「チートですか」
私の呟きに、幼顔の王は不思議な表情をした。
「あぁ、チートだ。とにかく我々にはそなたの力が必要なのだ」
「魔王が無敵だから、この世界で産まれ育ってない私しか魔王を倒せない、ということですね」
「そういうことだ。ちなみに次に召喚ができるのはそなたが死んだときと、そなたが役目を果たしたときだ」
「死なないように気をつけますが。私、殴り合いの喧嘩すらほとんどしたことが無くて」
「もちろん今のままのそなたでは弱いモンスターにも倒されてしまう。よってある程度強くなるまでは、そこのエレニアンと共に鍛練を積むのが良いだろう」
「不束者ですがよろしくお願いします」
耳に心地よいエレニアンの声が入ってきた。
しかし私は渋い顔をするしかなかった。
「げ、まじか」
「何か言ったか?」
私は普通のアラサー一歩手前の女で、運動経験は高校時代にバスケをしていたくらいだ。そんな人間がモンスターを倒そうと思ったら、どれ程鍛練しなければならないのか。
私は終わりが見えないだろう鍛練に思いを馳せ、溜め息を吐いた。