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7.祭の終焉〜砂漠の舞姫 3〜

 祭も三日目を過ぎていた。しかし『天藍(ティエンラン)』の踊り子、茘枝(リージー)は戻って来ていなかった。

 一日目の夜、公演を終えたときまでは確かに彼女はいた。しかしその後ぱったりと姿を消してしまったのである。

 『天藍』の団員は、団長以下裏方に至るまで全員が、公演の合間を使ったり、何とか時間を作っては彼女の行方を捜してきた。しかし三日目の今に至るまでその行方は杳として知れない。


 三日目。二回目の公演の準備をしながら、紅珠(コウジュ)はふっと視線を宙に彷徨わせる。

(何処へ行ったんだか…)

 何をこんなに気にしているのか、紅珠自身にもよく分からなかった。

 茘枝は彼女よりも歳若いとはいえ、決して子供ではない。それどころか砂漠の民として生きてきた茘枝は、並の人間よりはるかに人生経験を積んできている。危険にぎりぎりまで近付いてチャンスを掴む術も、危険をかわす術も自然と身に着けてきている。そういう娘である。確かに気にしすぎることはない。だがしかし、何かが紅珠の胸に棘を刺す。

(気にする、というよりも…)

「不安だわ」

 ぽつりと紅珠は呟いた。

 目の前の鏡に映る彼女は、衣装も髪もすっかり整って、後は化粧を施すまでになっている。白粉を塗って、瞼にシャドウを塗って、頬に紅を刷いて、この顔は「砂漠の舞姫」となってゆく。しかし今鏡の中の顔は、とても「舞姫」には見えなかった。視線に宿る光は限りなく鋭く、全身の感覚が全ての違和感を逃さぬよう、研ぎ澄まされている。それは彼女本来の姿、「沙漠の戦士」のものであった。

 紅珠もこの二日間、何とか時間を見つけては大都の町中を走り回った。しかし『天藍』の団員には正直なところ、余計な時間などはほとんどないのであった。特に祭の三日間は動くこともできないといって過言ではない。紅珠も正式には『天藍』の団員ではないとはいえ、今ここに所属している以上は彼女も『天藍』のために働かなくてはならない。何よりも、自分自身の演目を持っており、それが評判となっている以上、自分勝手に動き回ることなど、できるわけがなかった。

 しかしいくら気になるとはいえ、いつまでもぼうっとしているわけにはいかなかった。気を取り直すために大きく息を吐いた。

(!!……)

 瞬間、紅珠は覚えのある違和感を身に感じた。背から包み込まれるような喪失感。

 はっと振り向いた紅珠は、闇に意識を飲まれる瞬間、確かに何かの悲鳴を聞いた。




「っ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」

 苦悶の呻きを上げながら、紅珠は非常に不本意な表情で周囲を見回した。何が不本意といって、この自分が一言も発することができずに呻いているしかないという状況が、である。

 目が回る。内腑がひっくり返ったようにむかむかする。地面に蹲ってぐらぐらくる頭を抱えて、紅珠は何とか頭を上げた。その視線の先に忘れようもない姿を認めて、ぎり、とその姿を睨みつけた。

「大丈夫ですか?」

その肩の布人形がぱたぱた腕を振ってしゃべる。

「…大丈夫なわけないだろう!」

吐気を忘れて紅珠が怒鳴る。

「いきなり心構えもなしに空間を移動させられる身にもなってみろ!私を殺す気か!?」

 転送術とはあるものをある一点から別の座標へ移す術である。その方法には様々なものがあって、目に見える速度で空間を移動させるものもある。

 しかしこの隠者・エックの用いる術は、物体の再構築、ないしは存在の位相ごと変換させている可能性がある。でなければ地上にあるものを地下に移動させたり、閉ざされた空間に物体を現出させるということなどできるはずがない。それでなくとも転送対象には負担のかかる術である。何の心構えも事前の準備もなく、有無も言わさず転送させられては、身体がおかしくなっても不思議ではなかった。

 本気で腹を立てている口調の紅珠に、仮面にマントの人物、隠者ことエックの声が答える。

「申し訳ありません。なにぶん緊急事態であったもので」

その口調の真剣さに、紅珠は眉を顰めた。言いたいことは山のようにあったが、気分の悪さもあって普段の勢いが出なかったせいもある。

 何とか身体を起こした紅珠は、少し離れたところでやはり蹲っている人物に気が付いて、はっとする。石畳の床に広がっている淡い色の長い髪や、その書生の衣装には見覚えがあった。それでもまさかと思いつつ、呟く。

「……明青(ミンセイ)?」

 ぴくりと蹲っている人物の肩が震えた。ゆっくりと身を起こす。乱れた髪の間から覗いた瞳は菫色。間違いなく明青であった。

「やっぱり明青、どうしたの!?何故こんなところへ…!?」

 何故こんなところに、『隠者』の空間に、一般人である明青がいるのか。不思議に思いつつ、紅珠はまだ重い身体を引きずりながら、彼女の方に近付いた。

 一方、顔を上げた明青は、蒼白な表情で、ただその大きな目だけをいっぱいに見開いた。そしてわなわなと身を震わせた。

「ミンセ…!」

紅珠が呼びかけるより早く、明青が悲鳴を上げる。そして驚いて固まる紅珠に、力一杯しがみついてきた。明青はこの華奢な体のどこにこんな力が、と思うほどの力でしがみつき、声にならない悲鳴を上げながら泣きじゃくる。

「…何があった!?」

 戸惑ったままではあったが、さすがに固まった状態からは脱した紅珠が、側に佇む隠者に鋭い視線を向ける。明青はとても問いに答えられる状態ではないと彼女は判断していた。小さな子供のようにしがみついてくる明青を抱きとめながら、紅珠は隠者に説明を求めた。

「…私にも、詳しいことまでは分からないんですよ。ただ、彼女の声が聞こえたんです」


 彼は普段彼の空間、吐蕃皇国(トゥバン)首都・大都(ダイト)の地下のどこかにある、外部からは閉ざされた空間から出ることはない。しかしその中にあって外部の状況は絶えず入手している。

 しかしだからといって大都で起こっていることの全てを入手できているというわけではもちろんない。大都の住人数千人、その全ての声が聞こえるわけではない。

 しかし時に、意図しないものが聞こえることがある。それはとりわけ強い想い、気持ちであることが多い。今日彼に聞こえたのも、そういったものであった。

「あなたを、呼ぶ声が聞こえたのです、紅珠」

「…私?」

 突然聞こえてきた声に、彼は意識を留めた。そしてその声がどこから聞こえてきたのか、声の主は誰かを探った。そして見えたヴィジョンは、蒼白になって助けを求める一人の少女。その切羽詰った感情に、彼は迷わず彼女を保護することを決めていたのだという。

「そしてあなたにも来ていただくべきだと思ったのです、紅珠。今、この少女にはあなたが必要です」

「…その、切羽詰った状況とは何だ?そもそも、この子は一体どこにいて何があったというんだ?」

彼の説明は要領を得ない。やはり詳しいことは明青自身に聞くしかないようであった。

 ようやく悲鳴もおさまり、しゃくりあげるように泣いているばかりの明青の体を優しく離し、紅珠はできるだけ優しい声で何があったのかを尋ねた。

まだしゃくりあげながら顔を上げた明青は、ようやく紅珠に気が付いたような表情をした。

「紅珠…何でここへ…」

言ってから自分の言葉にはっとしたように、表情を堅くした。

「そうだ!大変なのあの人…そう、茘枝!あの人が…!!」

その言葉に、紅珠の表情も変わる。

「茘枝?あなたあの子を見たの!?」

紅珠が問い返すが、明青の耳にはちゃんと届いていないようであった。紅珠の腕をぎゅっと掴み、縋るような、必至な表情で言い募る。

「お願い、あの人を助けてあげて。死んじゃうわ!」

「それはどこ?一体何があったの?」

紅珠は問うが、明青は答えることができない。ただ死んじゃう、殺されちゃう、助けて、と繰り返すだけであった。

 紅珠は明青を落ち着かせるようにぽんぽん、と優しく背を叩く。

「…じゃあ、明青、何も言わなくていい。ただ頭を振ってくれるだけでいいから、答えて」

明青が強張った表情のまま、こくんと頷いた。

「茘枝がいるのはこの大都なのね?」

明青が頷く。

「町中にいたの?」

その問いに、明青は少し迷ってから頭を左右に振った。

「では、町の外?」

しかし明青は今度も頭を振った。

(町の中でも外でもない?……)

紅珠の胸にじわりと不安感が広がる。頷いて欲しくないと願いながら、問いを口にする。

「……まさかとは思うけど、城の中?」

明青が頷く。紅珠は背中に冷たいものが走るのを感じた。そして不意に理解した。彼女が(オウ)に対して抱いていた不審感、拒絶心、それは紅珠一人だけの問題からではなかった。

(天藍にとって…いや、私たちにとって、皇とは、この国とは『危険』、なのだわ!)

 紅珠が跳ね上がるように立ち上がった。

「お待ちなさい、姫!」

そのまま駆け出そうとする紅珠を、隠者の声が鋭く止めた。

 振り返ってきっ、と睨む紅珠に対し、隠者はあくまで平静であった。

「どこへ行くというのです。あなたが冷静さを失ってどうします」

紅珠は何か言いたげな表情で、しかしぐっと口をつぐんだ。

「…だがほうっておくわけにはいかない。行かねばならんだろう」

限りなく苦い紅珠の口調に、隠者が頷いた。表情も見えなければ肉声も聞こえない隠者であったが、何故か微かに笑ったような気がして、紅珠は眉をしかめた。

「分かっています。ですから私はあなたをここへ呼んだのですから」

隠者がまだ床に座り込んだままの明青に仮面の顔を向けた。びくっと体を震わせる彼女に、隠者が穏やかに声をかける。

「あなたも手伝ってください、明青」


 隠者・エックの転送術は、術者である彼のもとに何かを転送してくるには精密だが、転出させるのはぐっと精度が落ち、出現地点に誤差が生じる。しかし他にも能力者がいれば誤差を修正することが可能なのだという。その能力が強いほど誤差は少なくなるし、その能力者自身が転送対象であれば、尚好条件なのだという。つまり、隠者・エックは紅珠と明青の二人を王城内へ転送しようというのである。

 明青を連れて行くことには、紅珠はやや迷った。こんなにも怯えている彼女を、再びその恐怖に直面させることには、ためらいがあった。しかし明青自身はほんの少し迷ったものの、すぐに承諾した。そもそも最初から紅珠を連れて行くつもりだったのだと言われ、紅珠は思った以上に心の強い明青に、感心すらした。


「それではしっかり手を繋いで離さないように。転出箇所にずれが生じてしまうかもしれませんから。それからもう一方の手をこちらに」

そう言って隠者が二人の目前に掌を差し出した。

 明青がぎゅっと紅珠の手を握って、もう一方の手を隠者の手に重ねた。そんな様子を黙って眺めている紅珠に隠者が顔を向け、うながす。

「あなたの手も」

紅珠は一瞬鋭い視線を隠者に向けたが、無言で二人の手の上に自分の手を重ねた。

 隠者が明青に言う。

「術力を手に集中させて。そして行きたい場所を強く念じてください」

手を繋ぐ三人を光が包む。紅珠は自分たちを囲む光の帯が規則性のある形を作っていくのを見た。

 そして次の瞬間、全てが真っ白な光の中に消えた。




 何もない空間に突然白い光が弾けた。そして光が消えたとき、そこに二人の人物が出現していた。


 石畳の鋪道に放り出される瞬間、紅珠はとっさに体勢を整えて着地した。間を置かずに跳ね起き、周囲に目を遣る。

 彼女が転送されたのは、見覚えのない場所であった。

 鬱蒼とした木立。黒い湿った土の匂い。見上げた視界には木々の間から覗く薄暮の空。振り返ると舗道の先に、一際高い建物が見えた。巨大な白壁に瑠璃色の瓦葺。そのたくさんの窓は全てに明かりが灯され、煌々と輝いていた。それを見て、紅珠は今自分がどこにいるかを悟った。今日は祭であるから特別だとはいえ、吐蕃広しといえどここまで贅沢に灯りを使うことができるのはただ一ヶ所、吐蕃王城・円城だけである。

 城が巨大すぎて全くその向こうの様子をうかがうことはできないが、遠くさざなみのように人々の歓声や楽の音が聞こえる。記憶している大都の地図と照らし合わせて、どうやらここは城の北側、裏庭と呼ばれる場所なのだと紅珠は判断していた。

 視線を転じて改めて目の前を見ると、舗道の突き当たりにこじんまりした建物があった。高床の、白い壁の建物で、屋根は丹色の瓦で葺かれていた。瓦の丹色はその建物が宗教建築であることを示している。

(確か円城の北にはお社があったはず。位置的に見てこれがそうなのか?)

 紅珠が状況を把握している間に、ようやく明青が立ち上がった。どうやら彼女は先ほど転送されたときに着地に失敗したらしく、涙目で腰を押さえていたが、彼女は今の切羽詰った状況を、全く忘れてはいなかった。目の前に見える社殿に表情を強張らせながら、ぎゅっと紅珠の服を掴んだ。そのまま無言で紅珠を引っ張りながら歩き始める。

 並んで歩きながら、紅珠はふと気が付いて自分の衣装の上着を一枚脱ぐと、それを明青の頭に被せた。薄物の衣装では顔をすっかり隠すことはできないが、ないよりはましであろう。明青は戸惑ったように紅珠を見たが、紅珠は気にするなと頭を振った。

(私はどちらにせよ顔は売れている。だがこの子はこれから大都で生きていく人間。こんなことでこの子の人生を駄目にするわけにはいかない)

 紅珠はそう思っていたが、今はそれよりも重要なことがあった。

「落ち着け、明青」

 紅珠が自分の袖を引っ張りながら歩く明青の肩を掴んだ。そして舗道を離れ、脇の木立に入る。確かに周囲に人の気配はほとんどないが、目の前の建物は皇族専用の社殿である。堂々と近付いてよい場所でもないはずである。

 明青は抗議したげな表情で見上げてきたが、紅珠は黙るように、と身振りで示す。

 明青が焦っているのは分かる。そして焦るだけの理由があるのだろうとも思う。しかしそれ以前に捕まったりしてはどうしようもない。傭兵として生きてきた紅珠にとって、既にこれは身に付いた当然の配慮である。

 木立の中を近付くと、社殿の様子が明らかになってくる。

 こじんまりした社殿の中では今正に盛大な儀式が行なわれている最中のようで、閉ざされた扉の隙間や透明な硝子の嵌め込まれた窓からは明るい光が漏れていた。経文を唱える声や奏楽も響いている。

 社殿は「こじんまりした」とはいえ、それは大都中の建物、特に宗教関係の建物と比較しての話であって、建物としては結構な規模になる。特に明青にとっては、故郷では見たこともないほど大きなお社と映っていた。

「あそこの中だな?」

 紅珠の囁きに、明青が頷いた。

「どうやって近付くつもりだ?」

紅珠が更に問うと、明青は少し言葉に詰まったが、軽く首を振って言った。

「裏から。中で儀式が行なわれているから、あまり外に人はいないはず。さっきもいなかった」

言うが早いか、もう歩き始めている。紅珠は肩を竦めると、それに続いた。

(警戒は当然されていると思うが…)

 明青に何があったかまだ詳しいことは聞いていないが、大方想像はついている。恐らく明青はこの社に忍び込み、何かを目撃したのだ、そして誰かに発見され、助けを求めた声が隠者・エックに届いたのだろう。不審人物を取り逃がしたのだ、当然警戒は強化されているだろう。

(私が守ればいい)

紅珠は改めて心を決めていた。



 結局、社殿に忍び込むまでに二人の見回りを回避し、一人を気絶させた。

 紅珠は出会い頭にのした男を木立に放り込んでから、明青に続いて社殿の裏口から忍び込んだ。屋内に入った瞬間、紅珠は強い香気を吸って軽く咽た。それは眩暈を覚えるほどの濃さで、しかし決して不快なものではなかった。

 入ったところは土間になっていて、水場が設けられているようであった。そして大きな岩で作られた上がり框の向こうに板戸があり、その向こうから外でも聞こえた儀式の音が聞こえていた。

「ここから見える」

 明青のまねをして、紅珠も板戸の隙間から覗く。

 見えたものはたくさんの白い服の人物と、彼らの囲む中心にある、一際立派に飾られた祭壇。板戸の場所から短い廊下の先が本殿になっているようで、儀式はそこで行なわれていた。しかしその廊下にも白服の人物――恐らくこの社殿の神官や巫女たち――がいっぱいで、なかなか全体の様子を窺うことは難しかった。しかし息を潜めて見ているうちに、紅珠にも大体の様子が分かってきた。そして分かると同時に、思わず息を呑んでいた。

「あなたが見たのは…これ?」

 答えなど分かりきっている問いを、紅珠が口にした。さすがにその表情は強張っている。明青は無言で頷いた。こちらは見るからに顔面から血の気を引かせている。

 中央の祭壇の周囲では盛んに炎が上がっていた。そして一段高くなった壇上では幾人もの人が激しい身振りで踊っていた。炎の照り返しで見辛かったが、その身には色鮮やかな衣装を纏っていて、一見、大都中の社殿で見かける神職人のように思えた。

 しかし髪を振り乱し、舞い踊る一人がふらりと足を乱すと、壇の縁に立った。そしてそのまま彼女は、真っ逆様に炎の中に落ちた。その様に、室を埋め尽くす白装束たちは歓喜の声を上げ、楽奏が更に激しくなる。

 紅珠の隣で明青が声もなく息を呑んだ。

 合唱のように響いている声名(しょうみょう)の内容は、紅珠には分からなかった。しかし似たようなものは聞いたことがあった。この大都でよく聞くもの、神の恵みを寿ぐ経文の一節に節を付けたものである。しかし普段は楽奏などはない。こんなにも賑やかで華やかですらある儀式は、あるものを連想させる。

(これは吐蕃の春祭の儀式ではないのか?)

 紅珠は吐蕃の信仰について、聞いたことはあったが詳しいことは知らなかった。彼女は吐蕃国民ではなかったし、大都まで来たのも今回が初めてであったからである。

 しかし今回とて人探しと『天藍』での仕事に追われ、必要なこと以外はほとんど知ることができずにいた。都市の様子は歩き回っていれば大体掴むことができる。しかし信仰のような心の内面のことは、とてもではないが知り得ないものである。今回の皇直々の祈祷すら見逃している彼女にとって、つまり今目にしているものが、初めて見る本格的な吐蕃の宗教行事であったのだ。

(吐蕃の宗教とは生贄を用いるものだったのか)

 中央の祭壇は見上げるように高い位置にあった。そこで舞い踊る巫女や神官たち。彼らは身も心も神に捧げる存在。

 祭壇の周囲で声明を上げ、鼓や笛を奏する神官たち。彼らは神を悦ばせる者。

 また一人、壇上から炎に飛び込む神官。声明が一際大きくなり、びりびりと建物が震える。

 それにしても、と紅珠は思う。

「祭の祈祷は皇が行なうのではなかったか?」

 紅珠の囁きに、明青が何度か息を吸い込んでから細い声で答える。

「皇は表の広間で皆の前で祈祷の儀式を行なわれるの。でも本当に、神様の前での祈祷はここで行なわれているのだって。ここは皇のためのお社だから。吐蕃で一番格の高いお社なの」


 吐蕃皇国とはほぼ政教一致の国である。皇は最も格の高い神官の位も兼ねていて、春祭をはじめ、国家のための主要な宗教的行事を主催する。

 ほぼ、というのは、数年前から政治の場から宗教勢力を切り離そうとする流れとなっているからである。三代前の皇の御世からそれが顕著となっており、前皇(センオウ)の御世では、特に強力に宗教勢力の縮小が図られた。前皇、隠居した現在は霊山(リョウザン)侯と呼ばれる前皇は名君として現在でも国民に敬愛されているが、同時に宗教関係者からは強く憎まれてもいるのである。

 しかし現皇は特に宗教勢力への対策を採っていない。実はこの春祭の儀式も、現皇になってから特に盛大なものになっているのである。


「なるほど、格の高い神官の称号を有する皇が儀式を行っているという形式が大切ということか…

 それにしても生贄とは…確か吐蕃の神は大地の神、豊饒を司るものだったな。信徒からの供物を得て豊饒の恵みを与えるというわけか」

 紅珠の言葉に明青が大きく目を見開いた。

「違うわ!」

激しく否定する表情は、怒りとも傷付いたとも取れるものであった。

「だが、現にここでは生贄が捧げられている。――別に、珍しいことではないぞ?生きている人間を捧げるというのは、さすがに初めて見たが」

「違う、違うの!」

明青が激しく頭を振る。

「神様に生贄を捧げるなんてこと、私は知らない!私の国ではやってなかった!」

「……」

「た、確かにお魚や鳥とか神様に捧げるけど!生きてるものなんてお供えしない!ましてや人間なんて…」

「聖職者が自らの身命を神に捧げることを信仰の至上のかたちとすることはよく聞くが」

「だって…でも!あれは巫女なんかじゃないもの!」

必死な明青の言葉に、紅珠は眉をしかめる。

「私、見たの。あの人たちはどこからか連れて来られた、浮浪者なの。城の外に檻があって、そこに捕らえられていた人たちなの!それに、あの中にあの人、あの人が…」

「あの人?…茘枝のことか!?」

紅珠ははじかれたように祭壇に視線を戻した。もう一度、今度は視線を凝らして壇上の人影を見極めようとする。

(茘枝は、いない。でも…)

紅珠は、踊る中の一人に注目した。その神官は片頬が大きく削げているようだった。

(確か、あの男を私は見た。そう、確か、(シン)を訪ねて貧民窟(スラム)に行ったとき…)

 そうだ、確かにあの男だ。紅珠ははっきりと思い出していた。

 昔戦に行って顎を砕く大怪我をしたのだと言っていた。あの生気に満ちた、しかし憤りに満ちた彼の存在は、忘れることなどできない。

(まさか、そんな…)

 しかし疑惑は消すことができなかった。

(確かに、この間の貧民窟にはほとんど人の気配がなかった。しかしまさか――)

 必死に悪い考えを追い払おうとしている紅珠の袖を、ぎゅうっと明青が引っ張った。紅珠は祭壇に目をやって、大きく目を見開いた。

(茘枝!)

 祭壇上の人垣が大きく二つに割れ、間から一人の巫女姿の人物が歩み出ていた。見慣れない衣装だったが、その顔は紛れもなく、『天藍』の仲間、踊り子の茘枝のものであった。

 隣で明青が声にならない悲鳴を上げながら大きく息を吸い込んだ気配がした。紅珠は悲鳴こそ上げなかったが、さすがに顔から血の気が引いているのが自分でも分かった。

 どこかおぼつかない足取りで茘枝が祭壇上に歩み出る。声明と楽奏が一際激しく、大きくなる。祭壇上には茘枝以外の姿はなくなっていた。

 炎に照らされた祭壇上、茘枝は一人舞う。楽の音と、たくさんの声が、舞の仕草一つ一つと重なってゆく。そして徐々にそれは大きく、激しくなる。

 そして。突然糸の切れたように動きを止め。そして壇上からその姿が、消えた。

 濃密な香の香りが流れてくる。

「…きゃあああああああぁぁ!!」

 紅珠の背にしがみつき、明青が甲高い悲鳴を上げる。そしてしがみついたまま、がたがたと震えながらしゃくりあげる。紅珠は、ようやく呪縛が解けたようにはっとした。

 鼻先に甘い香が触れる。花に似て、しかし自然の花にはありえない複雑で、どこか刺激のある香り。間違いなく人工の香りであった。紅珠は思わず咽た。咽ながら、紅珠は胸中に濃い疑念がわだかまっているのを強く感じた。

(―――香?)

 嫌な感じだった。香り自体は良いものだと思うのに、何故そう思うのか、説明することはできなかったが。

(――そんなことより)

 冷静になった紅珠は、現在の状況がはなはだまずいことにすぐ気付いていた。

「明青、戻るぞ」

 そろそろ儀式は終わる。恐らく、先ほどの茘枝が最後の供物なのだ。彼女の衣装も、踊りも、全てが他と比べて特別であった。

 しかし明青はとても冷静に行動することなどできない状況であった。この華奢な身体のどこにこんな力があったのかと思うほどの強い力でぎゅうっと紅珠にしがみついていて、紅珠が何を言っても耳には入っていないようであった。

 仕方なく、紅珠は明青の体を抱え上げると、社殿を脱出した。




 明青が目を覚ますと、そこは見慣れぬ天幕の中で、側に黒髪の女性がついていた。

「ああ、目が覚めたのか。気分はどうだ?」

 ほっとしたような表情で、紅珠が微笑みかける。そのどこか痛々しい表情で、明青は自分が今まで悪夢を見ていたわけではないことを再認識した。いたたまれなくて、上掛けを引っ張って蹲った。すっぽりと寝具に包まれて、ようやく少しだけ心が落ち着くような気がした。

 そんな明青の様子に、紅珠は聞こえないように溜息をついた。

「――ごめんなさい」

そっと寝具に包まれた明青の頭を撫でてやりながら、ぽつりと紅珠は謝罪の言葉を口にする。

(もっと気遣ってやらなければならなかった――)

 紅珠は後悔していた。明青がひどく怯えているのを分かっていながら、彼女の勢いに押されて彼女の身心をいたわってやれなかったことを。

(いくら気丈な子だからといって、あんなものを見て、平気なわけがない)

下手をすれば一生心に残る傷を負わせてしまったかもしれない。それはプロにあるまじき行動だったと、紅珠はあの時少なからず動揺して、冷静な判断を下すことのできていなかった自分を、恥じていた。



 あのとき、社殿を出て紅珠はすぐにあることに気が付いた。あからさまに空気が違っていたのである。

(あの、香だ――)

 社殿の中は、ひどく濃い香が充満していた。無意識に吸い込むと、咽てしまうほどの。それはあの時、屋内に入ったとき、すぐに気が付くべきものであった。ただ、そこは儀式の行なわれている場であり、吐蕃に限らず宗教儀式には何らかの香、或いは煙などがよく用いられることは知っていたので、格別不思議と思わなかったのだ。だからあの香の異常に、気付けなかったのである。

 紅珠は首飾りに使われている小さな紫色の石を一つむしり取ると、明青の口に含ませた。

(解毒効果のある石だから――手遅れでなければいいのだけど―――)

 紅珠は、明青の様子に格別の異常がないのを確認すると、彼女を連れて急いで『天藍』に戻った。そして今に至る。



「――香の毒気はそんなにひどいものじゃなかった。念のため、解毒薬も作ったから、後で落ち着いたら飲んでおくといい」

 紅珠はそう言って、明青の枕元にどろりとした液の入った小さな器を置いた。寝具の上掛けに包まった明青からは、何の反応もなかった。

「――済まなかったな」

 再び詫びの言葉を口にする紅珠に、明青がのろのろと肩を動かした。

「―――何で謝るの?」

 上掛けの隙間から顔を出した明青は、顔色も悪く声もぼそぼそとして力のないものであったが、混乱はしていないようであった。その様子に、紅珠は少し安心する。

「――私が来てって言ったんだもん。私が連れてったんだもん――謝ることなんか―――」

ぼそぼそと明青が言って、軽く咳き込む。紅珠は冷やした布でそっと明青の額を押さえる。

「喉が渇いているだろう?薬で悪いが、少し飲むといい」

紅珠の言葉に明青は頷くと、のろのろと半身を起こして枕元の薬を飲んだ。

 薬を飲み終えて再び横になった明青は、ぼうっと視線を天幕に漂わせながら、おもむろに口を開いた。

「…知らなかったの。あんなことが行なわれてるなんて――」

 紅珠は黙って明青の顔を拭いてやりながら、彼女の言葉を聞いていた。

「私が今まで住んでたくにでもお祭は色々あったけど、あんなこと、知らなかったの――皇様が、神様みたいな方だということは小さい頃からずっと聞いていたけれど――神様が、人の命をお望みになるなんて、知らなかった…。何で、何であんなことができちゃうの―――」

 紅珠は無言で聞いていたが、その表情は思案するように堅かった。

 彼女は吐蕃の通常の宗教儀式がどのように行なわれているのか、聞いたり読んだりした知識でしか知らなかった。しかし改めて冷静に考えると、いくらか疑問に思う点が出てきたのである。しかしそれは口にせず、じっと明青の言葉を聞いていた。

「茘枝を、見かけたの――」

 しばらく口を噤んでいた明青が、ぽつぽつと語り始めた。




 明青は祭の初日、円城に遊びに行った。しかし皇の祈祷を見ているうちに人の多さからか気分が悪くなり、人気の無い方へ無意識に歩いて行った。そしてこの門の外で、気分の悪さも吹っ飛ぶくらい驚くものを目にした。

「檻が、あったわ。そして中に、―――人が、人がたくさんいた」

「檻?…人?」

 紅珠がいぶかしそうな表情で明青を見た。明青は堅い表情で真っ直ぐ前を向いたまま、微かに頷いた。

「人がいっぱいいた。みんなぼろぼろのかっこうしてた。――びっくりして、ほんとにちらっとしか見てなかったけど」

それでも人間が人間の姿をしていて、そんなに離れていない場所から見て、見間違うはずもない。

 そのときは驚いてとにかく逃げ出してしまった明青であったが、やはり自分が見たものが気になって仕方がなかった。宿舎に戻っても上の空で、勉強になど身が入るはずもない。二日目をそうして悶々としてすごした彼女は、三日目の今日、意を決して、再び円城に行ったのだという。

 しかし祭の最終日である今日は、皇の奉げる祈祷も最も重要な意味を持っていた。そのために城の警備は普段より厳しいものとなっており、祭とは関係なく庭をうろつくことは許されなかった。

 警備の厳しさに、明青は王城に入るのを諦めた。がっかりしつつ、同時に奇妙な安堵感を覚えつつ、彼女は踵を返して歩き始めた。ふと雑踏に向けた彼女の視界に、見覚えのある女性の姿が映った。

(え、茘枝?)

 それは確かに先日天藍で会った踊り子であった。しかし何やら様子が変だった。たった一日かそこら前に会ったときよりも印象はげっそりとやつれ、虚ろな目をした茘枝は、両脇を男たちに抱えられ、どこかへと連れて行かれていた。

 反射的に明青はその姿を追って歩き始めていた。

 人ごみの中を小柄な体ですり抜けながら、明青は茘枝たちの姿を追った。遠目で彼らの様子はよく見えなかったが、茘枝は何だかとてもぼんやりしていて、男たちに引かれてようやく歩いているという感じに見えた。

 しかし途中で彼らを見失ってしまった。それでも何となく諦められなくてうろうろしていた明青は、城の外れの勝手門に出た。

 先日紛れ込んだときとは別の方角からやってきていたので、最初は自分がどこに出たのか分からなかった。しかし壁の向こうの大勢の人の気配に気が付いて、明青はここが先日たくさんの人を見た場所であることに気が付いた。

 先日と同様、その辺りには人影がなかった。あの時見たものが何だったのか、確かめなければならない。半々の好奇心と義務感から、明青はそっと壁の隙間から外の様子を窺った。

 そこには確かに檻があった。そして捕らわれていたのは紛れもなく人間たち。塵芥やらなにやらに汚れくたびれた衣服を身に纏って、虚ろな表情をしていた。

 彼らが何者なのか、明青には分からなかった。ただ、老若男女、様々いたが、幼児や老人は少ないように見えた。そして女性よりも男性の方が多いように見えた。そして彼らは一様に表情に精気がなく、動作ものろのろとしていた。

 どきどきしながらその様子を見詰めていた明青であったが、彼らが移動を始めたのに気が付いて、その動きの先を追った。

 檻の北側に、木戸が設けられていた。それが開いていて、側に真白な衣装を着た人物が立っていた。どうやら門の両側に立っている彼らが、檻の中の人たちを招いているらしい。早くしろ、とろとろするな、といった罵声が聞こえて、明青の胸をきゅっと締め付けた。

 しかしある光景を目にして、明青は息が止まるかと思うほどびっくりした。

「茘枝……!」

 思わず叫びそうになって、慌てて口を押さえた。周囲に視線を遣るが、誰かがいる様子はなかった。再び壁の向こうに視線を向けて、明青はばくばくいう心臓をぎゅっと押さえた。

 門を出て行く人間たちの戦闘に、先ほど追っていた茘枝の後姿があった。他の人間たちとは違い、衣服は汚れてはいなかった。むしろこの場にあっては場違いなほど色鮮やかで綺麗な衣装に見えた。しかしやはり後姿はふらふらとしていて、両脇を白服の人物に抱えられ、門を出て行った。

(どうしよう、どこに連れて行かれちゃったんだろう…)

 明青が見ているうちに、檻の中の人間は全員、門の向こうへと出て行ってしまった。明青の見ている場所からは、彼らがどこへ連れられていったのか、分からなかった。

(…でも多分、この先……)

 明青は木立の中に消える壁沿いに視線を辿った。

 そろそろと足音を殺して壁伝いに歩いた明青は、やがて先の森が拓かれていることに気が付いた。

 手前で足を止めて、木の陰に身を隠しながら様子を窺うと、細い道があった。それは真っ直ぐ東西に伸びている。明青は木立の中を、道に平行に進んだ。

 いくらも行かないうちに、行く手に大きな建物が見えてきた。それは明青が見たことのないものであった。しかしその形はいくらか見覚えのあるものであった。

(お社だ…)

 明青の故郷にもあった、神様をお祀りする社がそこにあった。もちろん彼女の故郷のものは今目の前にあるものとは比較にならないほど小規模なものであったが、建物の形や色は同じものであった。

(そういえば、お城の裏側には皇族の方々がお参りされるお社があるって聞いたけど…これがそう?)

 しかし何故今、こんなところに出てきてしまったのだろう?不思議に思いつつ、何故か心のどこかで冷たい不安感が凝っているのが彼女には分かった。

(まさか、そんな。神様のお社で…)

思いつつ、明青は視線をそこから外すことができなかった。

 そして彼女は見たのだ。


「――お社の、窓も扉も開いていた。そして人が出入りしていた。その中に、確かに白い服の人たちと檻の中にいた人がいたの。それで…」

 後のことは思い出したくなかった。しかしそんなことは、既に意味のないことだった。



「――どうして?同じ人間なのに――どうして、あんなことができちゃうの?あんな、惨いこと――」

 そう言うと、明青は耐え切れずにぼろぼろと涙と零した。既に泣きはらした眼元は真っ赤で、涙の塩気が痛いであろうが、そんなことは気にならないようであった。

「…同じ人間、とは思っておらぬのであろうよ」

紅珠が堅い声で言った。

「あれは、確かに正式な神職に就いている者たちではなかったな。恐らくあの壇上にいたのは貧民窟(スラム)の住人や異民族――吐蕃国民ではない者たちだ。吐蕃の皇や神官たちにとっては彼らは人間ではない、別の生き物なのだろう。だから、殺せるし、生贄にもできる。――彼らにとってみれば、最高級の神への供物なんだよ、あれは」

 吐蕃皇国ほどの大国で、そのような考え方は奇妙かもしれない。しかし反対に言えば、対等な人間として見ていないからこそ、たやすく異国や異民族を襲い、生命を奪い、その生活を破壊し、併呑することができるのである。砂漠で、戦いの中で生きてきた紅珠には、そう考えてしまえばすっきり納得できるものがあった。

 しかし納得は理性の賜物であって、感情はそういうわけにはいかなかったが。

 明青は納得した様子ではなかったが、反論の言葉は出てこなかった。枕に顔を伏せてしゃくりあげる明青の背中を、紅珠はそっと撫でてやった。

「――どうしよう?私、これからどうしたらいいの――?」

(それは、あなた自身が決めなければならないことね)

 紅珠はそう思ったが、今は何も言うべきではないと思った。

 ただ明青が落ち着くまで、いたわりと慈しみをこめてその背中を撫でてやっていた。




「お嬢さんは、落ち着いたかい?」

 天幕を出た紅珠に、団長が声をかけた。

「ええ、やっと眠りました。――ごめんなさい。迷惑かけます」

紅珠はぺこりと頭を下げた。公演前、忽然と姿を消したと思ったら、ぎりぎりになって戻ってきて、しかもぐったりした少女を抱えていたのである。紅珠は様々な理由で『天藍』には迷惑をかけまくってしまったのである。

「気にしちゃいねえよ。今夜も成功だったしな」

団長はにやりと笑うと、ぽん、と軽く紅珠の肩を叩いた。確かに今夜の公演は大成功だった。紅珠の踊りにも全く動揺は感じられず、観客からは惜しみない賞賛とたくさんのおひねりが飛んだのである。

 紅珠も吊られたように微かに笑って見せると、しかしすぐに表情を戻した。

「団長、一つ確認したいのだが――」

団長の表情も、一瞬で真面目なものに戻る。

「例の、王城からの使い。彼らはあの日私が会った一回だけではなかったのではないか?あの前…はどうか知らないが、あの後も、何度か来ていたのではないか?」

紅珠の問いに、団長は厳しい表情で頷いた。

「――ああ、あんたはたまたま会えないときばかりだったが――来ていた。そして踊り子を皇に召し出せと言っていた。俺は気に食わなかったから、全部追い返してやっていたが…」

「それを、誰か――団長以外の人物が聞いていたりしたか?」

「ああ、もしかしたら聞いとったかもしれんな。天幕に入れなかったときもあるし。何しろこの数日忙しかったからな――」

「そいつらが来なくなったのはいつ?」

「ああ、確か――三日前か?少なくともこの二日間は全く見ていない。まあ、もし来ていたとしても俺も出てばっかりだったから会えなかったのは間違いないが――」

「…茘枝が、いなくなってからね――」

「ああ、そういうことになるな」

紅珠は頷いた。その表情は限りなく沈鬱で、痛々しかった。



 茘枝は、紅珠に敵対心を抱いていた。

 それも当然であろうと、紅珠は思う。

 茘枝はほんの小さい頃からこの『天藍』で育ち、踊り子として修練を積んでいた。そして最近では『天藍』を代表する踊り子の一人にまで成長していたのだ。

 そんな彼女の事情からして、突然『天藍』に入り込んできた女がいて、しかもそれが自分よりも実力のある踊り手であったら、どう思うであろうか。とてもではないが、ただ無邪気に笑ってなどいられるはずがない。

(それに、多分――)

 茘枝は同じ踊り手として、紅珠について、あることに気が付いていたのだろうと紅珠は考えている。そしてそれは、茘枝の自尊心を傷付けるものであったのだろう。

 しかし紅珠は茘枝のことが嫌いではなかった。むしろ、正直な茘枝を、気に入ってもいた。茘枝とて、完全に紅珠のことを嫌っていたわけではないのだろう。――今となっては確かめようもないが。


 許せない。そう思った。

 本来なら、そう思うことは――少なくとも、紅珠が今まで生きてきた中で身に付けてきた考え、すなわち他国の事情には必要以上関わらない、というものにはいささか背くことになるが、しかしもうそれを抑えることはできなかった。

 紅珠は心を決めた。


「団長、また迷惑をかけることになるが――許してくれるか?」

 強い瞳で真っ直ぐに見詰められ、団長は頷いた。

「――あんたの頼みとありゃあ、きかねえわけがないだろう?」

 団長がにやりと人の悪い笑みで応える。

 生粋の、「砂漠の民」の表情であった。




   ******************




 祭の明けた吐蕃皇国首都・大都の空は雲一つなく晴れ渡っていた。

 まだ薄蒼く翳る大都の一角、町を南北に貫くメインストリート「夜光の道」、そこに紅珠は立っていた。

 地面に裾が付くほどに長い、墨のように真っ黒な衣装。長い黒髪には何も付けられておらず、そのまま下ろされていた。装飾品といえば本当に少なくて、胸に下げられた銀色の小さな円鏡が一つに、手にはめられた、銀の小片を何十何百と連ねた手甲、裸足の足首にはめられた銀の足輪、そして耳にはいつもの紅玉が三つ連なった耳飾りが揺れている、それだけである。

 周囲には誰もいなかった。

 紅珠はじっと瞳を閉じて立っていた。ただその口元が、音を発することなく、小さく動き続けている。

 早朝の人気の無い町の中。蒼い光の中に立つ姿はどこか神々しく、つくりものめいていて近寄りがたかった。


 ふ、と紅珠が目を開けた。

 彼女の濃い紫の瞳が、いつにも増して鮮やかに映えた。

 すうっと紅珠は一歩を踏み出した。

 薄い黒の衣装がさらさらとなびき、白く脚の形を透かし出す。

 ゆらり、と片腕が天へと差し伸べられる。

 しゃらしゃらと鈴に似た澄んだ音が響く。

 掌が空で何かを掴む仕草をすると、それを脇へ投げ捨てるようにぶんっと振る。

 澄んだ音がまるで舞の楽のように辺りに響く。

 唇からは絶えず小さな声で何か歌うような音が零れている。しかしそれは吐蕃の言葉ではなかった。

 ゆっくりと歩を進めながら、紅珠は観客のいない舞を続ける。



 茘枝の死には自分も責任がある。紅珠はそう、団長に謝罪した。

 茘枝が紅珠を意識していたのは知っていた。しかし紅珠はこれから先も『天藍』と行動を共にするわけではなかった。予定外に長期に大都に留まることになってしまったが、どちらにせよ祭が終われば移動せざるを得なくなっていただろう。そしてそのときには紅珠は彼らと別れることになる。だから、そんなに気にすることはないと思っていた。

 大都という都市の魔力と茘枝の心の鬱屈の深刻さ、それらに気が付いていれば、あるいはこんな悲劇は起こらなかったかもしれない。

 もちろん、茘枝が実際には紅珠のことをどう思っていて、何を言われて、何を考えて王城からの誘いに乗ったのか、今となっては推測することしかできないが、それでもきっと回避する方法がどこかにはあったはずなのだ。

 償えるものではないが、とにかく自分には謝ることしかできない。紅珠は『天藍』の団員全員が見守る中で団長の前に跪いて、深く頭を下げた。

 団長は、『天藍』の団員は皆、彼女のことを責めはしなかった。少なくとも口に出しては。彼らはほんの一ヶ月ほど前に知り合った紅珠とは違い、茘枝が幼い頃から共に生きてきた者たちである。仲間ではなく、家族であった。悲しみも憤りも紅珠のものよりもよほど深く激しいに違いなかったが、責めないでいてくれる彼らを、紅珠は本当にありがたいと思った。

 最後にもう一つ、迷惑をかけることになるが、どうか許して欲しい。そう紅珠は彼らに告げた。

「何をやっても茘枝の命の償いにはならない。でも今、ゆっくりと報復を計画することは不可能だ。早晩我々は大都から、皇の手の範囲から逃れねばならない。その前に、一矢報いてやりたいのだ。『砂漠に手を出す者には相応の報いを』例え吐蕃皇国の、大陸一の国家の長とて、砂漠の尊厳を踏みにじることは許されない。それをほんの少しでも思い知らせてやりたい」

「…そうだな、皇の誘いを蹴った我々だ。ただで済むはずがない。祭が終わった今、あちらも動き出すな」

 団長が頷く。彼は、紅珠が直々に皇の使いを拒絶する前から、彼らの要求をはねつけ続けていたのだ。当然、皇の感情を害しているであろう。

「…済まないね。私一人が皇に従えば、それで事は済むのかもしれないけれど――」

しかし皇がそんなに甘い人物であるとは、彼らの誰一人として到底思えなかった。

「それに、あんたを皇に差し出してそれで全てを収めようなど、我らの誇りが許さない」

団長の声は重々しく天幕中に響いた。

「我らを砂漠の民と知っての今回の茘枝への、そして姫への皇の狼藉、これは我が砂漠に対する侮辱とみなされる」

天幕の中に一瞬、静寂が過ぎる。

「報復を」

ぽつりと、団員の一人が声を発する。

「報復を、紅珠」

踊り子の女がぎらぎらとした瞳で紅珠を見上げる。

「報復を。我らが砂漠を冒すものに報いを」

猛獣使いの男が野太い声を張り上げる。たちまち天幕中が騒然となった。

 彼らが静まるのを待って、紅珠は彼らに告げた。

「あなたたちは翌早朝、門が開くのを待ってそれぞれ大都を脱出して。決して目立ってはいけない。――改めて私が言うまでもないことでしょうけど。私は私で用が済めばさっさと脱出する。多分、当分会わない――でも、きっとまた必ずどこかで会うだろう」

そう言うと、紅珠はふわりと笑った。

「――我らが我らである限り」



 両の(かいな)を宙に差し伸べ、虚空をかき抱く。

 仰向く顔が、天の一点をじっと見据える。


  ~天のいと高き処に栄光の御座(みまし)~

 

 紅珠の唇から澄んだ、耳に心地よい歌が流れる。


  ~そは荒ぶるもの

   流れるもの

   うつろいゆくもの

   そはその力もて総てを動かすもの

   そは我らが王

   我らが愛しむもの

   そは風となり、雨を呼ぶもの~



 皇に報復をすると言っても、そこまで大それたことはできない。紅珠はそう判断していた。

 皇の周辺の警護が厳重であることは疑う余地がないし、それを今日明日でかいくぐるなどということは不可能である。そもそも例え皇を亡き者にしたとて、すぐに替わりの皇が立つだけのことである。それでは何の解決にもならない。それに自らの命が確実に危うくなるような方法を採ることも、紅珠の選択肢にはなかった。

「私が望むのは皇の権威の否定」

 一体何をするつもりなのか、尋ねた団長に紅珠は答えた。

 皇が皇の権威をもって自分たちを虐げるなら、その権威を否定する。そのためには何をするのが効果的か。

 その権威の因る基盤たる、皇の威力を打ち消してしまうのがよい。

 例えその行為自体が直接的に皇の名を汚すことがなくとも、皇自身に、皇室そのものに、心理的に屈辱を味あわせる。それだけのことでも、必ずやそれは布石となる。紅珠はそう考えていた。

「私は、諦めない。そして決して許さない」

 一瞬、紅珠の紫の瞳がぎらりと光った。

「今、できることがこれだけとしても、決して私はこのことを忘れない。今、この思いを忘れない」

いっそ静かですらある紅珠の言葉は、しかし内に抑え難いほどの熱を持って、静かに威を放っていた。



 夜は徐々に明けていった。

 踊りながら歩む紅珠が大都の真ん中辺りまで来た頃には、一日の行動を始めようとする者たちが表に出て、踊りながら歩む紅珠に気が付き始めた。

 中には彼女が移動芸能集団『天藍』の踊り子であることを知っている者もいた。

「何だ?何かまたやるのか?」

 次第に沿道には人が集まり始めていた。


  ~我は王に代わりて地に立つ者

   我の手は王の手なり

   我はこの手もて王に代わりて汝らに願う

   我らに恵みを

   我らに慈しみを

   我らがこの乾いた大地に汝の恵みを与えたまえ~


 紅珠の歌は吐蕃の言葉ではなかったので、誰にも意味は分からなかった。しかしその美しい歌声は、誰をも魅了した。

 しなやかな腕が天を抱き、辺りを払う。そのたびに澄んだ鈴のような音が響く。

 裸足の足が黒い敷石を踏むたび、その足首の足輪が、やはり澄んだ音を響かせる。

 それらは歌声と相俟って、まるで楽の音のように響いた。

「綺麗だねえ…まるで天にいるという天女様のようだ…」

 老若男女問わず、沿道の全てを魅了しながら、紅珠は真っ直ぐ北へと歩みを進めていった。

 晴れ渡っていた空の一部に、不穏な黒い雲が湧き始めているのに、誰も気を留めていなかった。



 皇の威光とはつづまるところ、この吐蕃という国を富み栄えさせるというものである。だからこそ、皇は最高位の神官として神と交感し、民に豊作と一年の気候の安寧を約束する。それが吐蕃の春祭、『春の燔祭』である。ここで皇は神に好天と豊作を祈願する。

 何故好天であり、雨乞いではないのか、それはこの国の首都の位置が関係する。

 現在の首都・大都、前首都・江州(コウシュウ)共に、吐蕃皇国では北部に位置する。そして町の周囲には河や運河がある。

 北部地域は年中の温度差が激しいが、どちらかといえば寒冷な気候である。そして乾燥しがちな土地である。しかし明江(ミンコウ)はじめ大河やその支流、そこから水を引いた運河などの存在で、土地は潤されている。

 特に春は雪解け水で普段より水量も多い。故にこの時期、雨乞いをする必要はないのである。それよりも春とはいえまだ寒さの残っているこの時期、晴天が続くことの方が必要なのである。

 故に、皇は好天を祈願した。

(ならば、私はそれを否定する)

 呪力による威光ならば、呪力によって打ち消す。それが最も効果的であろう。



  ~天の御座にて我らを見守る王よ

   我らに慈しみを

   我らが一部であったもののためにその情けを

   我らが愛しむ者のためにそのお慈悲を

   心有るならばそのお恵みを

   我らが一部で在りしもの

   その心を慰めんがために

   どうかあなたのお心を

   我らの上に降らせたまわん~


 夜が明けたときには雲一つなく晴れ渡っていたはずの空を、黒雲が覆い始めていた。それは南から湧き上がり、徐々に大都の上空を覆い始めていた。

 大都の南門から始まった紅珠の舞は、今、王城『円城』の門前に達していた。

 時ならぬ騒ぎに、門を護る衛兵たちはすっかり困惑していた。

 紅珠はふわりと広げた腕をそろえて天に掲げた。天を仰いでしゃん、と両の手甲を鳴らす。


  ~荒ぶる神よ

   慈しみを垂れる王よ~

(神よ、私に力をお貸しください)


 紅珠の歌声が切ないほどの響きを持って天に捧げられる。

 既に沿道どころか、周囲の建物、果ては「夜光の道」を北上する紅珠の後を追う群衆で、周囲は騒然としていた。しかし彼女の声は、雑踏に紛れることなく、美しく、力強く、そして切なく、聞く者の耳に、心に届いた。


  ~我はその栄光を讃えん

   その慈しみを讃えん~

(神よ、もし私たちを愛してくださっているのなら)


 紅珠は天に捧げた両腕をゆっくりと下ろしながら、その場でふわりと一回、ターンをした。そしてそのまま地面にぬか額づく。

 黒い薄物の衣装の裾がふわりと舞って、花びらのように黒の敷石に広がった。

 優雅で艶めいた仕草に、周囲から歎声が漏れる。


  ~王よその御手もて

   我らが上にそのお恵みを~

(神よ、私にそのお力をお貸しください)


 跪いた紅珠は、しばらくそのまま動きを止めていた。

 周囲の群衆も、何が起こるのかと固唾を呑んでその様子を眺めていた。

「おい、お前…」

 ややあって衛兵が紅珠の前に進み出ようとしたとき、天が裂けた。

 白光と地を揺るがす轟音。群集のあちこちから悲鳴が上がり、何人かは頭を抱えて地面に蹲った。その上に、ぽつりぽつりと雨粒が落ち始める。

「…雨だ!!」

 次々と声が上がった。悲鳴を上げて逃げ出す者、呆然として天を見上げている者。




 雨は一気にその勢いを増す。地面にはじけた雨滴が跳ね上がり、周囲が急に白く煙り始めた。

 その騒ぎの中、黒髪黒服の舞姫は、忽然とその姿を消していた。

 そしてこれ以後、大都で『砂漠の舞姫』の姿を見た者は、いなかった。


   ― 三.春の燔祭・完 ―


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