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6.春の燔祭

 吐蕃皇国(トゥバンオウコク)首都の大都(ダイト)では、5月下旬が春祭の期間にあたる。

 その期間、普段は完全に隔絶されている感のある大都の各区域、つまり道路と水路によって区分けされた役人や高官の居住区、行政府、商業施設などの各区域が、一斉に祭色に染まる。もちろんだからといってどこにでも入れるようになるわけではないが、普段よりは気軽に各区域の境を越えて、大都の各地で行なわれるイベントを楽しむことができるようになる。

 大都で行なわれる祭は、つまり吐蕃皇国の中心である吐蕃王国の祭である。吐蕃王国を形成する民族は「吐蕃人」であり、彼らの信仰する神のための祭が吐蕃の祭で、一般に「春の燔祭(はんさい)」と呼ばれている。

 この祭の中心行事は、三日間に及ぶ(オウ)の祈祷である。そしてこの祈祷は、皇の住いでもある王城、「円城」で行なわれる。

 この祈祷の期間、普段は閉じられている円城の城門は一般民のために開かれる。城門を入るとすぐが城の前庭であり、そこに特設の祈祷壇が設けられる。祭の期間、皇はそこで日に五度、神への祈祷を行ない、その年一年の国の安泰や豊作を祈願するのである。

 この祈祷は年によって日は多少前後するが、毎年5月の最終週に行なわれている。


 そして今年も、春の燔祭の中心行事、皇による三日間の祈祷が始まった。



 その朝、早朝トレーニングから戻った紅珠(コウジュ)は、『天藍(ティエンラン)』の天幕が何やら騒がしいことに気が付いた。何事かと足を向ける紅珠に気が付いた『天藍』の団員が、彼女を呼びに駆け寄って来る。

「良かった、あんたを待ってたんだよ、紅珠」

 興奮しているのか焦っているのか、どちらにせよ落ち着かない様子で紅珠の腕を引く。何事があったのかと思いつつ、紅珠はそのまま中心テントに連れて行かれた。

 天幕に入ると、そこには吐蕃の役人らしき二人の男がいた。彼らは武器を携帯している様子はなく、更にこの場にあっては場違いといえるほどに優美な着物を身に着けていた。どうも武官や警察ではなく、どちらかといえば文官のようである。しかしそれにしては着ているものが上物であった。

(役人…というよりは……)

考えている紅珠に、役人たちに対していた団長が近付いてきた。

「紅珠、王城からの使いだそうだ」

 そっと耳元で囁かれ、紅珠の胸中で不審感が募る。

(…王城?ということは皇の使い?では彼らは役人ではなく、皇の側仕えか?)

どちらにせよ、紅珠にはそんなものが自分を訪ねてくる理由に心当たりがない。不審に思いつつ、それを表には出さないまま、紅珠は彼らに向かい合った。

「おお、その方が噂に名高い『砂漠の舞姫』か。なるほど、噂通り、美しい女子(おなご)じゃ」

「…」

 使者の台詞の内容と口調に引っかかるものを感じつつ、紅珠は静かに表情を消して軽く頭を下げた。

「その方、どうやらこの大都でたいそうな人気を得ておるようじゃのう。町中の者が噂をしておる。『砂漠の舞姫』はたいそう美しく、その舞う姿はまるで天女のようであると」

「それは、ありがとうございます」

紅珠はにっこりと笑顔をみせる。礼儀と尊厳を完璧に守ったその姿には奇妙な貫禄すらあった。使者の男たちが一瞬言葉を詰まらせたのに気付き、紅珠は内心で嗤う。何やら無意味な咳払いをしてから、彼らは続けた。

「そ…そこでだ、その噂を耳にされた皇は、その方にたいそう興味をもたれておる。ぜひとも町中で噂の舞姫の舞を見たいと仰せられておるのだ」

周囲で聞いていた団員たちの間から、おお、とざわめきが上がる。紅珠は表情を変えないまま、言葉の続きを待った。

「そこでわれらが皇の使いとして参ったのだ。『天藍』の「砂漠の舞姫」よ、皇の御前に参上して皇のお心をたの愉しませる役目を申し付ける」

周囲のざわめきが強くなる。紅珠がこっそり見回してみると、どの顔にも戸惑いと期待の表情が入り混じっていた。紅珠は僅かに視線を落とした。



 正直に、紅珠は皇の使者の命令に迷っていた。そして迷っている自分自身に戸惑っていた。

 「王の心を愉しませる」とは何を意味しているのか、分からないほど初心(うぶ)ではない。しかしそんなことに戸惑うほど潔癖な人間でも、紅珠はなかった。むしろ彼女がこの大都に来てやろうとしている目的のためには、願ってもない状況であったりするのだ、実は。


 一介の芸人にとって、王侯貴族をパトロンに持つということは、目標の一つであると言える。特に名声を得たいといった野心を持つ者にとって、金銭面や宣伝の面で、これほど好都合なことはない。もちろん世の中は持ちつ持たれつであるから、芸人側もパトロンに提供するものがある。それが女なら、その内容は言わずもがなであろう。

 紅珠は正確に言えば、芸能を本業としているわけではないから、特にパトロンを得る必要などない。しかし本業である傭兵として生きていくにも多少は似たような事情がある。また、旅から旅に生きている身分は、一言で言えば相当低い。貧民窟(スラム)の住人と紙一重の、世間の裏面を生きる人間なのだ。奇麗事ばかりでは生きていけない。

 紅珠は、決して自分自身に後ろめたい生き方はこれまでしてきていない。しかし、大抵のことは清濁併せ呑んできた。彼女の傭兵としての信条は、目的を達成するためには最善の手段を選択する、といったものであった。


 そんな紅珠にとって、皇の命令は願ったり叶ったりで、普段ならすぐにでもそれに乗ったであろう。

 しかし今、彼女は迷っていた。もっと正確に言えば、嫌悪感が大きかった。

(何故だ?王城に乗り込むのにこれほど都合のいいことはないではないか。プライドがどうとか言うほどのことでもない)

 実際、砂漠の民が皇に召されるのはよくあることである。皇に限らず公や貴族含め、貴人にはよくあることである。それは正式に側室や妾として迎えられる場合もあれば、単に一夜の伽の相手としての場合もある。しかしそれだって、決して砂漠の民にとって不名誉なことではない。彼らの尊厳はそんなもので汚れるほどやわなものではなかった。

 それでは何故、紅珠はこんなにも迷っているのか。こんなにも皇に対する嫌悪を感じるのか。

(ああ、そうか、私は吐蕃皇が嫌いなのだ――)

ふっと心に湧いた言葉であったが、どうもそれが一番自分自身の心に沿っているように、紅珠は思った。

(特に、皇の性癖だ――)

 紅珠の聞き及んでいる皇の性癖とは、端的に言えば好色であるということである。

 皇が複数の妻を持つのは当然のことである。紅珠はそれ自体を問題とはしない。しかし今上皇の好色さは、紅珠の感覚からすれば常軌を逸していて、単純に嫌なのである。

 皇の後宮に数多いる妃、その他城勤めの女たち、更には町に住む女。年齢の上下や貴賎を問わず、皇の眼鏡に適った女は片っ端から召し上げられているという。もちろん伝聞ではあるが、貧民窟(スラム)の住人や砂漠の民からも同様の情報を得ている。恐らく間違いはないだろう。

 紅珠は皇が好色であろうと構わないとは思う。そんな貴人はいくらだっている。しかしあまりにも見境がないと思う。

 紅珠が聞いた話で特に不快だったのは、現在の皇の第一寵姫である火晶(カショウ)のことである。

 火晶が皇の許に嫁いできたのは吐蕃暦328年頃のことらしいが、その時やっと彼女は11歳くらいであったという。吐蕃暦331年現在、火晶妃は14歳と公表されているので、計算は合う。

 吐蕃皇国では、女子は12歳頃から婚姻が成立する。しかしそれは働き手を少しでも多く必要とし、少しでも多く口を減らす必要のある農民、漁民などの話であり、貴人の婚姻年齢として、11歳はいくらなんでも若すぎる。しかも翌年には既に火晶に対する皇の寵が噂されている。事実はどうであるか、確認する手立てもないし、特に確認することでもないと思うが、それだけで紅珠の皇に対する嫌悪感の理由としては充分であった。


 実際に紅珠が迷っていた時間は、そう長くはなかった。おもむろに視線を上げると、返事を待つ使者の顔があった。その視線の色に、紅珠の心は更に固まる。

(それに――)

 思ったのは、踊り手としての紅珠のプライドであった。

(私の舞を見たいというなら、その視線は何?)

足の先から頭の天辺まで、嘗め回すような視線。本人たちは隠しているつもりかもしれないが、その絡みつくような視線は、紅珠から見ればあからさまにいろ艶を求めているものでしかない。それは時として彼女が武器に使うものでもあったが、安売りする気は毛頭なかった。

(私の舞はそんなものを売るのが目的ではない)

 紅珠の心は決まった。

 目の前には二人の皇の使いの男が立っている。周囲には成り行きを見守るざわめきがある。それらを充分に認識した上で、紅珠はゆっくりと口元を笑みの形に動かした。



「…よかったのか?」

 天幕を出る皇の使者を見送ってから、団長が紅珠に囁く。

「……あんたらしくもない。絶好のチャンスだったんじゃねえのか?」

 もったいない、とぼやく団長の顔を見て、紅珠は小さく吹き出した。もったいないなどと言いつつ、その表情はがっかりしたものや怒っていたりするものではなかった。百戦錬磨の狸の表情の中に、気遣う表情を器用に読み取って、紅珠は内心で団長に感謝する。

「かまやしないわよ。私はそんなに自分を安く売るつもりはない。本気で私を欲しがるのなら、側仕え程度を使者に寄越すんじゃ不足だわ。最低、書状の一つでも持たせることね」

 紅珠が冗談めかした台詞で人の悪い笑いを作ると、団長は吹き出し、豪快に笑った。

「前言を撤回しよう。あんたらしい、いや、実にあんたらしいよ」

 団長の豪快な笑いに、天幕の中にまだ残っていた何人かの団員が思わず視線を向ける。

 団員の間に漂う雰囲気は、実に複雑なものであった。しかしそれでも紅珠の返答に安堵した者もやや多かったようだった。

「――余裕ね」

 しかし近くで聞こえた言葉に、紅珠は表情を収める。そんな紅珠を、仁王立ちで睨みつけているのは茘枝(リージー)であった。

「何で断るのよ。貴族サマなんかじゃなくって皇から召されたっていうのにさ。何が不満なのよ」

「茘枝、紅珠は――」

 紅珠に対して敵意を顕わにする茘枝に、団長が厳しい視線を向ける。しかし紅珠はそれを遮った。

「あなた何なのよ。そりゃ、あなたは最高の踊り手だわ。最高の舞姫よ。でも思い上がってんじゃないの?あたしたちはたかが踊り子なのよ」

 紅珠には茘枝の感情はよく分かっていた。その複雑な反発心は、よく理解していた。しかし紅珠はそれに正面から対することも、できかねた。

(悪いわね――)

「悪いけど、茘枝、私の舞は皇に独占させるものではない。私の舞は皇を愉しませるためなんかに奉げるものではないんだよ」

 紅珠は偽りを口にすることはなかった。ただ、真実をはっきりと口にできないだけである。それは不誠実なことだと重々理解していたが、今の彼女はそうするしかないと思っていた。しかし茘枝は、その言葉の裏に含まれた意味を察することが、今では、できるようであった。

「――それは、あなたが砂漠の舞姫、だから?」

『砂漠の舞姫』という部分に不自然なほどアクセントを付けて、茘枝は紅珠を睨み上げる。そんな少女に、紅珠はただ静かに微笑を返した。

 茘枝は不意にぱっと頬に朱を上らせると、くるりと踵を返して天幕を走り去って行った。そんな茘枝の後姿に、紅珠は少しだけ悲しそうに表情を翳らせた。




 昼前の大都、円城。普段めったに入ることのできない場所とあって、物見遊山の人々でごった返している中に、明青(ミンセイ)はいた。しかし既に彼女は後悔していた。

(何なの、この人ごみは――!)

 何しろ明青の出身地は東部海岸地帯の小さな村である。彼女の精一杯の表現では、村の全人口を集めたよりも、今ここで、彼女の視界に入っている人間の方が、何倍も多かった。

それでも彼女はここまで、何とかがんばってみたのだ。

 まず宿舎からここへ至るまでの間に街角で行なわれている小楽団の演奏を聴いたり、吐蕃皇国や大都の成り立ちを、節をつけて語る、町辻の芸人に拍手を送ったり。

 人ごみに入るとまったく向こうを見通せない小柄で華奢な身体で、それでも人の間をすり抜けて列の前まで出て皇が祈祷を行なう姿を見たり。

 しかしそろそろ体力も忍耐も限界かもしれなかった。


(――気分悪い―――)

 人波に酔った明青は、無意識に人の少ない方へと足を向けていた。

(だいたい、馬鹿どものくっだらない嫌がらせに腹が立ったから気晴らしに出て来た筈だったのにーー!!)

 気分の悪さが、むかむかと腹立たしい気持ちを誘引する。

 二重の意味でむかむかしながらふらふらと石畳を踏んでいた明青は、しばらくして風景があまりにも変わってしまったことに気が付き、ようやく足を止めて視線を上げた。

(あれ、ここは…?)

 既に足下には綺麗に磨き上げられた石畳はなくなり、両側には埃っぽい高い壁が迫っていて、なんとなく荒んだ雰囲気がその場に漂っていた。

(しまった、入っちゃいけなかったんじゃ…)

 内心やや青褪めながら、明青はそっとその場を立ち去ろうとした。こんなところを城勤めの誰かに見つかって、それで罰を受けたりなんかしたら、割に合わない。いや、単なる罰ならまだしも、受験資格を剥奪されたりなんかしたら、それこそ冗談ではない。

 そっと足音を忍ばせて元来た道をたどろうとした明青であったが、ふと何かの物音を耳にして、思わず立ち止まった。

(何、これ…)

 低い音だった。それも一つではなく、複数の。しかも――

(ちょっと待って、これは人の気配…?)

呻き声。密かな忍び泣き。身動きする音、鈍い衣擦れ。

 不吉、だと心が警鐘を発していた。見てはいけない、近付いてはいけない、そう警告の声が聞こえる。しかし明青の足は理性に反するようにじりじりと動く。足音を忍ばせて、物音の聞こえる方へと。

 行く手に壁の切れ目が見えてきた。明青はそっと壁に身を寄せて姿を隠しながら、そっと足音を忍ばせながらそこへ近付く。彼女の理性が盛んに警鐘を鳴らすが、どうしても足を止めることができなかった。

 壁の切れ目にたどり着き、そっと様子を伺う。

 そこからはまず、水路が見えた。勢いのよい水音と軽い振動が伝わってくる。そこには大都の北を流れる大河、明江(ミンコウ)から水路に水を引き入れる口があった。しかし明青はそういったことは知らなかった。ただ、その辺りから、明青を導いてきた物音が聞こえている。彼女は意を決して、そうっと顔を壁の切れ目から覗かせた。

「…………!!!」

 明青はとっさに口を両手で塞いだ。そして慌てて壁に身を隠す。

(何なの、あれは――!)

 どきどきと胸が拍を打つ。

 明青がそこで見たのは、水路の岸に設けられた大きな檻。そしてその中に入っていたのは動物なんかではなく――

(何で、何で人間が――!?)

 明青にはそれが何なのか、分からなかった。しかしそれは見てはいけないものであると、本能が告げていた。

 すばやく周囲に視線をやって、人の気配がないのを全身の感覚で確認すると、明青は走ってその場を逃げ出した。

 ただ、自分の見たものが怖くて、不吉な予感に全身がきりきりと締め付けられるような気がして、ただただ無性に恐かった。




 祭のメイン行事が始まって、大都への人の出入りが激しくなっていた。

 大都の全ての門は常に開かれ、出入りする人の列には切れ目がない。

 この祭の期間に一儲けしようと乗り込んでくる商人や芸人。一年、あるいは一生に一度の旅と、世界一の都とも呼ばれる大都、そして円城を見るのを楽しみにやって来た観光客。人種も職種も様々入り乱れて賑わう様は、なかなかに壮観であった。


 そして人が増えるのに比例して、商売人たちは益々忙しくなる。

 それはもちろん、『天藍』も例外ではなかった。

 公演日程は今までと同じ日に二回だが、一回に入る人数が普段より二割程増しており、『天藍』にとってはうれしい悲鳴といったところであった。


 昼の公演を終えた紅珠は、彼女にしては珍しく疲れていた。

 珍しく舞台でアンコールに応えて舞を披露したということもあり、公演後には客を見送る誘導をしたり、また手が足りなくなっている動物の世話を手伝っていたり、と普段より働いていたということもある。しかし恐らくそれだけではなく、ここ連日のトラブルで、多少神経を使っていたということもあるだろう。

 ようやく労働の手から離れ、パンとお茶を手に就寝用の天幕に潜り込んだ紅珠は、荷物の箱に背をもたれさせて大きく息を吐いた。

(私らしくもない――)

 ふっと思って自嘲げな笑みを浮かべる。

 どうも大都に来てから調子が狂わされっぱなしだ、と紅珠は思う。そもそも一つのことにこれほどにこだわって時間をかけているというのも彼女にしては珍しいことであった。普段ならもっと効率的な方法を選んでさっさとことを進めるのが、「砂漠の戦士」である紅珠なのである。その方法が多少無茶でも、少々手荒でも、やや怪しげでも。最善の方法で短期に物事を解決する。それが砂漠での彼女の生き方であったはずだ。

(今朝だってそうだ。何で私はあの時――)

 皇からの誘いを受けたとき。正直、心が動いたのは事実である。堂々と王城の、皇の身辺に潜り込める。これほどに良い条件はない。それなのに何故、あの時理性は頑なに拒否をしたのか。

(方法を選んでいるほどの余裕なんてないはずなのにね――)

 勝算などない。全ては出たとこ勝負。それだけだって充分彼女にとっては珍しい行動であるというのに。

(でも、多分、あの夢がなければ――)

 昨夜見た夢のことを思い、紅珠はふっと拡散しそうな意識を引き止める。

『あなたに道を開きましょう』

 そう、確かに夢の中で『隠者』の声は彼女に告げた。しかしそれがどういう意味だったのか、そもそも夢は単なる夢だったのか、それも彼女には判断が付かなかった。しかしそれでも、皇の使者を目の前にして、紅珠の心を最終的に引き止めたのは、その隠者の言葉であった。

(さすがにここ数日は地下水路なんて行けないしな…)

 しかしこの祭の機会を逃しては、そうそう自由に動き回ったりなどできないことを、彼女はよく分かっていた。

(あの言葉が、本物のお前の言葉なら、隠者よ――)

 私に道を開いてくれ、そう紅珠は心の中で叫んだ。念じた。


 途端、ふらり、と体が揺れたような感覚が紅珠を襲った。

視界の隅から白いもので覆われてくる。


 突然、紅珠は辺りが真っ暗なことに気が付いた。驚いて足を踏み出して、自分が立っていたことにも気が付いて更に驚いた。

 そこは天幕の中などではなく、手にしていたはずのパンもお茶もなかった。


 紅珠はぐるりと視線を回らせた。そこは真っ暗で、湿っぽかった。足下はどうやら石畳か何かのようだが、そこもしっとり濡れているのが分かるし、すぐ近くで水音も聞こえる。音の方に目をやると、闇の中に微かにちらちらと揺れる影が見えた。水の匂いが空間に充満していたが、どうやら臭気ではない。息苦しくもなかった。

(ここは地下水路…か?)

 思っているところに、突然足下に明かりが灯った。

 驚いて半歩下がりじっと様子を伺うが、熱くもなければ襲ってくるようでもない。ただ、ぼんやりと明るい白い光の玉であった。

(何らかの術か?)

 思ううちにぽう、ともう一つ、闇の中に明かりが灯る。そしてもう一つ、もう一つ。紅珠のいる辺りからずっと前方に向けて明かりが続けざまに灯っていく。

 薄ぼんやりと明るくなったところで改めて見ると、やはりそこは紅珠が何度も潜り込んでいた大都の地下水路であった。

 紅珠は明かりの灯った地下水路を、誘われるまま進んだ。

 何歩か進んだところで、急に周囲が眩しくなり、思わず目を眇めたところでまた普通の明るさに戻った。まるで眩い光の門をくぐったように、紅珠は感じた。紅珠は周囲を見回した。


「いらっしゃい、ようこそいらっしゃいました、姫」


 急に呼びかけられた。紅珠は思わず身構えながら更に周囲に視線を向ける。

 そこは先ほどまでの地下水路ではなかった。床、壁、天井は石で造られていて、ひんやりとして湿っぽかった。

 そこはちょっとした広さの部屋のようになっていた。室内のあちこちに先ほどの水路で見た明かりが灯されていて、充分な明るさがある。

 そして紅珠はようやく声の主を見た。

 見て、絶句した。そして不意に腹が立った。

(ふざけてるのか?)


「いいえ、ふざけてなどいませんよ、姫」


 紅珠の心を読んだかのように、壁に作られた棚に座った布人形が、パタパタと腕を振りながら答えた。さすがに驚いて、紅珠が後退りすると、その布人形はくすくすと笑うような仕草をした。いや、実際笑っていた。

「ああ、驚いていますね」

 布人形は女の子の姿をしていた。大きさは紅珠の掌より少し大きいくらいであった。古ぼけた、ややくたびれた感じの人形であった。

「…驚かないわけないだろう」

 紅珠の声は地を這うように低く、どすが利いていた。

 わざと声を出すことで自分の中の動揺を抑えつつ、紅珠は何とか体勢を整えた。

「まさかとは思うが、それが本体ではないだろう、『隠者』。お前は何処にいる?」

すると布人形がふわりと宙に浮いた。パタパタと腕を動かしながらすいっと宙を飛ぶ。やはり驚いたが、少しは免疫ができたのか、動揺も小さいまま、紅珠はそれを目で追う。

 布人形の飛んでいく先の影から、ゆらりと誰かが姿を現した。その肩に人形がちょこんと座る。

 肩に人形を乗せたまま、人影が近付いてくる。だんだん灯りの下に顕わになるその姿に、紅珠は今日何度目かは既に忘れたが、驚いた。

 紅珠の目の前に立って、布人形がパタパタと腕を動かした。

「お初にお目にかかります、姫。御無礼の段は平にお許しを。私は私の口からしゃべることはしないのです。代わりにこれにしゃべらせております」

『隠者』がその場に跪き、深々と頭を下げる。

 やや呆然としながら、思わず紅珠は問いかけていた。

「…おまえは、私を姫と呼ぶのか?」

それに、目の前の人物は跪いたまま答えた。迷いのない答えであった。

「なれど、あなた様は姫でありましょう?」

「…」

 紅珠は気を取り直すと、表情を引き締めて、じっと目の前の人物に目を据えて問うた。

「…改めて、名乗ろう。私は、紅珠だ。沙漠のちち養父よりそなたの話を聞き、そなたの力を借りたいと思い、探していた。

 これまでの経緯より、そなたの力の質、そなたの力の強さを私もある程度は知ることができた。

 誰も姿を見たことのない者、未来を見通す者、人の運命を語る者、世界の秩序の外に在る者。『隠者』と呼ばれ、或いは『賢者』とも呼ばれる者。暗闇に潜む『魔術師』とも呼ばれる者。

 砂漠の隊長よりそなたの事を聴き、そなたの力を借りたく、そなたを探していた。

 『隠者』よ、そなたに間違いがないのなら、私に力を貸して欲しい」

紅珠の言葉を受け、『隠者』は身体を起こした。

「存じております、姫。あなたのことも、砂漠の隊長のことも。

私は顔の無い者。声の無い者。とつかわ外側に在る者。故にこそ遍く知り得る者。

魔術士と呼ばれ、賢者と呼ばれ、隠者と呼ばれし者。<エック>の名で呼ばれし者」

目の前で身を起こす人物を、紅珠はじっと見詰めていた。

 つるりと仄かな明かりをはじく白い仮面。頭の先から足の先まですっぽりと覆う黒いマント。素顔も身体の線すらも見えない。人形を通して語られる声は妙に特徴がなくて、男なのか女なのかも判別しがたい。ああ、そういえば頭の中に響いていた声も中性的だった、と紅珠は思っていた。

 顔も無く、声も無い。全ての己の真実をたった一枚の幕で覆い隠して。なるほど、確かにヒトの外側にいる人物だ、と紅珠は思った。

「私をここに招いたのは、お前の術か」

紅珠の問いに、『隠者』は頷く。

「あなたの声を、私は聞くことができました。

 私は私があなたのため、何らかの力になることができることを知りました。

 故に、あなたをここに招く“道筋”をつけました。

 あなたの声が私を呼んだとき、あなたをこの場に転送することができるように」

「…『転送術』!?」

 紅珠の声が驚きに高くなる。


 術の中には人や物を、ある地点から別地点に転送させる術、つまり『転送術』というものがある。

 しかし一般にこの術は最高難度のものとされており、紅珠が今まで知り合った中では、他に転送術の使い手などいなかった。

 噂では、皇立呪術研究所には何人もの『転送術者』がおり、また三公国にも公直属の術者として転送術の使い手が必ずいるという。そして皇より危急の召集がかかったときや、あるいは隠密裏に行動するときになど、その術者たちが活躍するという。

 しかし転送術とは非常に難易度の高いものであるという。小さなものを転送させる術なら一人で行なうことも可能だが、通常、成人一人を転送させる術というのは、少なくとも四〜五人の術者が必要だといわれている。また、「陣」を組んだり場合によっては「結界」を作ったりといった事前の準備も必要である。

 

 つまり、この目の前の人物が紅珠をここに呼び寄せた手段が『転送術』であるとするなら、彼は相当強力な『転送術』の使い手であり、紅珠にとっては初めて出会う『転送術者』であり、初めての『転送術』の体験であったわけである。

 驚くなという方が無理である。

「あなたの望みをうかがいましょう、姫」

信じていいだろう、と紅珠は思った。だがしかし。

「ひとつ、言っておくが、私はお姫様ではない。紅珠だ。姫と呼ぶのはやめてくれないか」

むっとした表情でいう紅珠に、エックの声に笑みが混じる。

「承知しました。あなたがそう望むなら」



「下働きに入りたい?王城の、後宮に?」

 紅珠が口にした願いに、エックが首を傾げる。声は人形から聞こえてくるのに反応は仮面に黒マントの人物から返ってくる。紅珠はとりあえず頭からその奇妙な構図を追い出して彼に相対していた。

「知りたいのだ。この国がどんな国なのか、ひいては皇とはどのような人物なのか」

「それを知って、あなたはどうしようというのですか?」

彼の反問に、紅珠は軽く肩をすくめた。ごまかしではなく、実は本当に彼女にも説明しがたかったのである。

「皇にとりいろうというなら、そんな回りくどい手を使わなくともよいでしょう?あなたなら」

「それは嫌だったのだ。皇に私の存在を知られるのも避けたい」

ごまかし、隠し通す自信はあった。素性も、本性も、素顔も、本当の目的も。反対に、隠し通さねばならない気もしていた。この吐蕃という国は、決して彼女には優しい国ではない、そう感じていた。

 エックには彼女の希望をかなえることは、可能であった。しかし彼は断った。


 紅珠の望みを叶えるのは可能だが、今は奨められない、と言うエックに、紅珠は不審な表情で彼を見据える。

「私には後宮で働いている『目』と『耳』がいるのですが…」

「『目』と『耳』…?」

反問しながら様々な意味で紅珠は驚く。

「彼らからの連絡がここ最近途絶えています」

「……」

(これが、彼の「預言者」或いは「魔術師」と呼ばれる所以なのか…)

「彼らは相当に優秀な者たちです。ですから彼らの身に何かがあったとは考えていません。ですが外部と連絡の取れない状況であることは間違いありません」

 エックの声には揺るぎがなかった。そのことが余計に紅珠に戦慄を覚えさせる。

「…一体後宮はどういう状況にあるんだ?」

 思わず呟いていた。

 いかに砂漠の民が吐蕃国中に散らばっていて、互いに情報の遣り取りをしているとはいえ、吐蕃王城は一種の聖域。更に後宮ともなれば幾重にも衣を被せられた、秘中の秘。むしろ後宮の内情が世間に知られているともなれば、その国は終わりであると断じて良いだろう。

 故に、紅珠は自身が後宮の内側に入ろうと考えたのである。後宮からは王城が、そして皇国中が見える。

 しかし今、『隠者』の口から漏れた後宮の姿は、予想外の部分で紅珠に衝撃をもたらしている。

「分かりません。先ほども申したような状況ですので。ただ、こうなる以前に知り得た情報ではこのようなものがあります。

 皇は大変火晶妃を大切になさっています。以前、妃のことをよく思わない後宮の姫がいました。当然嫌がらせも相当激しかったと言われています。

 ――その姫は不敬罪で処罰されています」

 当然この事件は表沙汰にはなっていない。処刑は秘密裏に行なわれ、姫君の実家にはひっそりと遺品が送り返されたという。当然、その家は現在吐蕃皇国においての力を失っている。

 その他にも、火晶妃の関わる人物で、何らかの罪で処罰された例はかなりの数になる。それは後宮内部のみならず、王城に勤める者にも及んでいるという。中には彼女を邪まな目つきで見詰めたというだけで鞭打たれた男もいたという。

「…一体、火晶妃とはどういった人物なのだ?」

「お考えの通りです…と言いたいところですが。実はどうにもよく分からない、というのが本当のところです。――姿が、見えないのです」

 ただ現在明確な事実は、後宮内で火晶妃の影響力が強まっているということ。それはともすれば「王妃」である東の姫君をも凌駕するものになりつつあるということ。そこには皇の偏寵が強く影響しているのは明白であるということ。最近の後宮では、火晶妃に倣うかのように香と西域風の風俗を好む姫君が増えつつあるということ。そのためか、後宮の建物の側を通っただけで香が匂うほどだということ。

「…香?薫香か?」

「はい、そのように聞いております」

「……」

「ともかく、現在の後宮は以前よりはるかに物騒になっております。確かに私にはあなたを後宮の中に潜り込ませることは可能です。しかし全く保障もできませんし、一旦後宮に入ってしまうと、助力することもできません。

 加えて現在は、二ヶ月後の『皇公会議』を控え、それでなくとも王城の警備は厳しくなっております」

 エックが、面に覆われた顔でまっすぐ紅珠を見据える。

「そのような不穏な場所に、いかにあなたとはいえ、いえ、あなたであるからこそ、送り込むことはできません。今は、その時ではありません」

「時間と、タイミングを待て、と?」

「その必要があります」

エックが頷く。紅珠は唇を噛み締めて、視線を落とした。




 エックの潜む空間から地上に出た紅珠が立ったのは、スラムの一角であった。

 人間一人を『陣』や長時間の呪文詠唱などの準備なしに移動させるエックの『転送術』も万能というわけではないようで、ターゲットを彼のいる結界内部に招くことは完璧にできても、結界外に転出させる場合には転送先を明確に設定できないのであった。

 しかしもちろん全くどこに出るか分からないというわけではなく、ある程度の制限はある。彼いわく、半径50キロメートル以内で、転出者本人が強く心に念じた場所の近辺に送り出すことができるのだという。誤差はプラスマイナス2キロメートル内だという。

「…私は『天藍』を念じたはずだったんだがな」

 紅珠は軽く肩を竦めたが、この程度なら許容範囲内だと納得した。


 改めて周囲を見回すと、そこは彼女の見知った場所であった。ここ一ヶ月近く、何度となく足を運んだ場所であったからである。

「ああ、ここは(シン)の近くか…」

 風景を確認して、紅珠は頷いた。

 とは言え、今現在は彼に用事があるわけではないし、何よりも紅珠は次の公演の仕度にそろそろ取り掛からねばならない。ここから『天藍』の天幕までは歩いて20分ほどかかる。

 迷わず『天藍』へ戻るために踵を返した紅珠は、しかし気になることがあって足を止めた。

(…やけに閑散としているな……)

 彼女の知っているこの辺りの貧民窟は、もっと人間が多かった。活気こそないが、姿の見えない者も含めて多数の人間の息づく気配で空間が飽和しているような、そんな密度があったはずである。

 それが現在は、風すら妨げるものもなく、乾いた空気がひっそりとそこにあった。

 確かに気にはなったが、さほど重要なこととも紅珠は思わなかった。貧民窟の住人が集団で労働に駆り出されることだって、あるのだから。


 不審に思いつつ、紅珠は『天藍』へと足早に戻った。



 その夜の『天藍』の公演も、変わらず盛況のうちに幕を下ろした。

 そしてその夜、『天藍』ではある事件が起こった。

 踊り子の一人である茘枝が行方不明になったのである。


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