4.砂漠の舞姫2
同じ手を二度くってはならない。それは傭兵としての心得である。失敗は即、死にも繋がる世界なのである。
そう考えると私は既に二回は死んでるってことだな。紅珠は舌打ちすると、腰の物入れから携帯ランプと火打ち石を取り出した。
あの日。何が何だか分からないうちに地下水路に落とされ、闇の結界に捕らわれ、そしていつの間にか追い出されていた日。
あの日以来、紅珠は地下水路の、その周辺を重点的に調べていた。
あの結界の術が、どの程度の効力範囲を持つのか分からなかったが、素直に考えれば、あの結界の張られていた周辺に術者はいるはずである。
してやられた前回を反省していて、彼女はあることに気が付いた。闇に落とされたとき、確かに手にしていたはずの灯りは、手の中にはなかったのである。そして闇が晴れたとき、手には元通り灯りが握られていた。つまり、闇に落とされたとき、彼女の視覚も、もしかしたら感覚全てが幻術に捕らわれていたのである。
それを反省して今回は前回以上に手を打ってここまで来ていた。それにも拘らず、今また彼女は闇の結界に捕らわれている。彼女にとっては、不本意以外の何ものでもなかった。
人一人は確実に震え上がらせそうな仏頂面で、紅珠は灯りを点けようとした。しかし何度やっても火は点かなかった。紅珠は眉を顰めた。火打石もランプも、今朝、持って出る前に確認している。地下を歩むうちに湿ったわけでもない。やはり術の効力で、灯りを点けることはできなくなっているようだ。
「導きの光は待っていたって現れないよ」
突然脳裏に声が響く。知らずめまいを覚え、紅珠は二、三歩足を踏みしめた。頭の中に響く声は確かに気持悪かったが、二度目なので動揺も酷くはなかった。
「灯りくらい点けさせろ」
『隠者』が再び現れたのだ、そう確信した紅珠が闇に向かって怒鳴る。彼女の周囲は前回と同様、上下左右全く何も見えない暗闇である。二度目とはいえ、足の下に踏みしめるべき地面が見えない状況というのは、気持ち悪い以外の何物でもなかった。
「何?何か問題ある?」
むしろ楽しんでいるような口調に、紅珠はむかむかする。
不愉快でもあるし、実際に脳内でわんわんとこだまする声は脳内を掻き乱して内臓が揺さぶられるような感覚で、胸が気持ち悪かった。
この声の主がどんな奴であれ、性格が悪いということだけは絶対に疑いようがない、と彼女は確信していた。
「当たり前だろう」
むかむかする感覚を撥ね退けて、紅珠が怒鳴る。返る声は相変わらず楽しんでいるようであった。
「そもそもここは真っ暗じゃないか。何も見えはしないよ」
「灯りがないと落ち着かないだろう」
そう返すと、ふと周囲の空気が変わったような気がした。
気持ち悪さをこらえて、紅珠は身構えた。
「何故落ち着かないか知っているかい?」
急に声が深くなった気がして、紅珠はぎゅ、と唇を噛み締めた。
声は答えを待たず、続けられる。
「本当は見えているからだよ」
「最も厭なものが何か」
「最も己が恐ろしいと思っているものが」
「そして、あなたは、知っている」
「闇に潜んで、あなたを狙っているものが何か」
「やめろ!」
怒鳴り様、右腕を振り上げた。がん、と壁を殴った拳がびりびりと痛んだが、そんなことはどうでも良かった。もしかしたら血が流れているかもしれなかったが、それだってどうでも良かった。
「貴様が何を知っている!貴様が私の何を知っていると言うのだ!知った風な口をきくな!」
紅珠の声は元々アルトの、耳に心地よい美声であった。それはどんな汚い言葉を使っていても、どんなに怒鳴っていても、変わりはなかった。
しかし今、彼女の声は、普段とは少し違っていた。いつもより更に美しく、艶めいて、威圧的なその口調は、思わず平伏してしまいそうな、威厳とでも呼ぶべきものすら、感じられた。
大多数の人間が怯んでしまうであろうその声に、しかし闇の中の声の主は全く動じた様子がなかった。
「知っているよ」
その声は、いっそ清々しいほどであった。
「知っているよ」
「あなたが、何者か」
「あなたが、どんな人か」
「あなたが、どうしてここまで来たか」
「あなたが、今までどうしてここまできたのか」
「みんな、知っているよ」
「私は、何でも分かるんだよ」
(……!!)
頭の中のその声に、紅珠ははっとした。
一瞬の内に頭が冷める。冷めたことで、自分が今まで相当熱くなっていたことを悟る。
声の主に、熱くさせられていたということが、分かる。
(『賢者』……)
――その者なら、お前の力になるだろう。何故なら、彼は全てのことを見通す、『賢者』と呼ばれた者だから。もっとも、普段は全く他人と関わりを持たないから、『隠者』と呼ばれるのが普通だがね。――
紅珠の養父でもある師匠は、そのときそう、<エック>のことを彼女に説明した。
(私のこと、が、分かる、と?)
紅珠の心の中の声に呼応するように、声が聞こえる。
「私は、あなたを知っているよ、『お姫様』」
「……」
揶揄する響きさえ含まない、その声に、つい先ほどまでなら反発して怒鳴っていたであろう紅珠が、じっと目を据えて闇を見詰めた。
「………お前は、私を『お姫様』と呼ぶのか?」
ややあって発せられた紅珠の言葉に、おかしそうな声が返る。
「だって、あなたは『姫様』でしょう?」
「…違う」
紅珠は軽く頭を振った。
「私は、紅珠だ。私は『姫』ではない」
決然とした声であったが、怒りは含まれてはいなかった。その表情は、ただ静かに、ただ否定していた。
「あなたは、聡明なお姫様だね」
くすくすと笑うような波動に、紅珠が顔を顰める。
脳内がくすぐられるように、気持ち悪い。
「お姫様に教えてあげよう」
「待っていたって、光は導いてくれないんだよ」
「手に生み出した光は足下を照らしてはくれないんだよ」
「光は」
「あなた自身が照らさねば」
「道は」
「見えないんだよ」
はっと気が付くと、紅珠の周囲の闇は晴れていた。そして目の前には水路の壁に設けられた梯子段があった。
「…また逃げられたか…」
ため息を吐いた紅珠は、手の中で結局使われることなく握られたままだった灯りの道具を元通りしまうと、梯子段に手をかけた。
『天藍』の天幕に戻った紅珠を、団員が呼び止めた。
「あんたに客人だぜ」
「客?」
この大都で、わざわざ白昼会いに来るような知人に心当たりはないのだが、と不思議に思いながら、彼の示す先に目をやった紅珠は軽く目を瞠った。天幕の陰に華奢な少女が佇んでいた。少女が紅珠に気が付いて、表情を変えた。やや頬を染めながらぺこりと頭を下げるその姿には、確かに見覚えがあった。
「ああ、なんだ、あなた…明青?」
紅珠の言葉に、少女は近づきながら頷いた。
明青は先日、紅珠が助けた少女である。
例の地下水路に落とされてさまよったあの日、地下から出た紅珠は、獣に襲われている少女を助けた。それが明青であった。
その日は明青を落ち着かせると、彼女が泊まっているという宿舎へ送り届けてそのまま別れた。彼女に会うのはその日以来である。
「一人で来たのか?」
紅珠の問いに、明青が頷く。紅珠は少しばかり感心してしまった。
『天藍』は「砂漠の民」の移動芸能一座である。こういった職業の者は、大体の場合、一般よりも低い身分とみなされる。宮廷お抱えの立派な舞台に立つ芸能者が、立派な屋敷や高給を与えられるといった厚遇を受けているのに対して、移動芸能者は大体において賎民扱いされ、一箇所に長逗留することは好まれない。その芸は民衆を喜ばせ、祭などの時には喜ばれ、時にはわざわざ招かれたりもするが、例えば何か事件が起こったりすれば、真っ先に疑われるのが彼らなのである。
今回だって、『天藍』は一ヶ月ほど大都に留まっているが、これは興行の評判が良すぎるという事情があり、更に今が春祭りの最中であり、ただでさえ芸能者がもてはやされる時期であるという事情が重なっているから、許されているのである。しかしそれでも移動芸能一座である『天藍』に許された興行場所は大都の最も南、移動職能者たちの集められたエリアなのであった。ここはどちらかと言うと、治安の悪い場所とみなされる。大都の城内であるだけ、まだましだとされているのである。
そんな場所であるから、よほど用がない限り、女一人で訪れたりすることは避けられるのである。
「あなたが『天藍』で働いていると言ってたから…」
明青がまっすぐに紅珠を見ながら言う。つまり私に会うためにわざわざ一人で来たのか、と更に紅珠は感心してしまった。今までにも「砂漠の舞姫」に会いに来た人間はいたが、それは下心ありありの助平共だけだったので、容赦なく追い返していたのである。
余談ではあるが、そうやって追い返された者の大半は、益々「砂漠の舞姫」の虜となって、昼に夜にと通い詰めているようである。とりあえず紅珠の身に危害が加えられるわけでもなく、更には『天藍』の売り上げに貢献しているわけだから、放置しているが、更にコアな者が出ないだろうか、というのが最近懸念されるところである。
それはともかく、明青のことである。何かあったに違いないと紅珠は思った。
明青は皇立研究所の研究員となるための試験を受けるため、上京してきた娘である。
この試験は世界一難しく、かつ厳しいとされる。しかし合格して研究員、あるいは官僚になることができれば、それは大変な名誉である。と同時に、生活の面では、衣食住の全てが完全に保証される。そして能力さえあれば、受験資格に制限はない。立身出世を志す者が、試験に合格するために人生を賭けるのも当然であろう。
受験者は試験までの約一ヶ月は専用の宿舎に入らなければならないことになっている。ここは全室個室になっている。これは試験までの最後の追い上げをする受験者に配慮したもので、それ以外にも様々なものが備えられていた。もちろん滞在費用は免除である。
吐蕃皇国の東の田舎から出てきた明青ももちろんそこに入っている。紅珠が気にするのはそこで、当然受験者は試験当日まで宿舎で勉強を続けているのが普通である。それこそ生活の他の面を全て切り捨てている者の方が多いと聞く。そんな環境に居るはずの明青が、なぜこのような場所に、しかも一人で来ているのか。
「姫に会いに来たらしいよ」
天幕の陰から顔を覗かせた雑技師の男がにやにやと笑いながら言う。
「紅珠、あんたどこでこんなかわいい子をひっかけてきたんだよ。随分思いつめた顔で待ってたんだぜ、この子」
いつの間にか大勢の団員が彼女たちの周囲に集まっていた。彼らの好奇の視線にさらされて、明青が頬を紅潮させる。紅珠はといえば、皆の好奇心に呆れ顔である。
「あーあ、何で男だけじゃなくていい女までうちの舞姫さんは引っ掛けてくるんだろうなあ。一人でいいからこっちにも回してくれよ」
「誤解を招く言い方はよせ…」
猛獣の世話係である大男につつかれて、紅珠がさすがにげんなりした声を出す。明青はといえば、頬を真っ赤にして、おろおろしている。
無理もない、と紅珠は思った。
紅珠は、自分は相当世慣れしてすれているという自覚がある。こういった品の無い冗談を流せる余裕もある。しかし明青は普通の少女である。もちろん彼女は相当な美少女だから、今まで全くからかいの種になったことがないとも思えないが、こういった状況で、明らかに普通じゃないタイプの人間に囲まれて、注目を浴びるなどということは初めての経験であろう。
明青は確かに美少女である。体つきも華奢で、淡く長い髪の毛が肩の辺りでふわふわ揺れているところなど、同性である紅珠の目から見ても、相当可愛らしい。
そんな彼女が思いつめた表情でじっと人待ち顔に佇む姿は、それは絵になるであろう。ただしこの場合、思いつめたような表情は、慣れない移動芸能者の舞台裏にもぐりこんでしまったという緊張感であり、更には一度しか会ったことのない人を待っている緊張感であったろう。また、彼女をここに来させる原因も、彼女の表情を冴えなくさせていた原因であろう。決してからかいのネタとなるような歪んだ妄想の登場人物にはしないでもらいたいと、その妄想の一方の登場人物にされてしまっている紅珠は思った。
「とりあえず、ここじゃ話もできないな…」
紅珠は言いながら明青に手を差し伸べた。
「待たせてしまって悪かったね。外へ出ようか。ここじゃ落ち着いて話もできない」
うなずく明青を連れてその場を離れる紅珠の背に、どよめきのような声がかけられる。
「…なんであのヒト、ああいう仕草が様になっちゃうの?」
その様子を少し離れた天幕の影から眺めていた茘枝が呆れ顔で呟く。
明青に向かって差し伸べた腕をさりげなくその背中に回して導く姿は、まるで肩を抱いて歩くような姿になっていたのだ。
さりげない行動一つ一つが決まりすぎれば、からかうしかしょうがなくなるという事実を、茘枝は目の当たりにして納得してしまったのである。
***********
亜麻色の髪の少女が一人、楽しげに踊っている。花摘みをして遊んでいるらしい。
そのとき、どこからともなく全身黒の者たちが現れ、波に巻き込んで流し去ってしまうように少女を連れ去ってしまう。
少女は振り返りながら両手を天に差し伸べ、悲鳴を上げる。
『かあさま、たすけて!』
しかしそれも空しく、少女の姿は舞台から消える。
母の許に娘の助けを求める声が届いたのは、娘が居なくなって、既に大分経ってしまってからであった。
母は驚き、嘆き悲しみつつ、娘の行方を捜して、方々を彷徨い続ける。
舞台上に、一条の光が射す。そこに照らされ現れたのは、薄汚れたみなり身形の一人の女。目深にベールを垂らし、トーガと呼ばれる異国の衣装を纏っていた。
背筋を曲げ、杖を突いて足を引きずるその姿は、哀れみと同情を見る者に催させる。
弦楽器の物悲しい音楽の中、ずるり、ずるり、と女は舞台中央に歩み出る。
『ああ、私はもうどれほどこの地上を流離ったのだろう?』
立ち止まった女が、天を仰ぎながら慨嘆する。
『髪はこんなにも霜降り、背も腰も足も私のものではないように痛む』
女の手が、自らの身体を頭の天辺から足の先まで撫で擦る。手首から先現れた指は、ごつごつと節くれ立ったように強張り、うずくま蹲るように屈み込みながら、不器用にくるぶし踝を撫でた。
自分の爪先をじっと眺めていた女が、やがてのろのろと頭を上げる。その視線がぐるりと周囲に向けられる。その表情は疲れ汚れて強張っていた。既に何にも動じないほど絶望し切った表情であったが、その時その瞳に、更に新たな悲しみが表れる。
『――ああ、ああ』
悲鳴のような慟哭が女の喉から漏れる。
『この大地の荒れようはどうだ。この大地を凍えさせる白い氷。この大地を荒らす灰色の草木はどうだ。かつてこの大地を覆っていたあの緑はどうしたのだ。この大地はいつからこんなにもごつごつした岩だらけになってしまったのだ。こんなにもひび割れて干からびてしまったのだ』
舞台中央で嘆く女の傍に、音もなく一人の少女が現れていた。
客席から見ていた明青は、突然増えた光線が照らし出した少女を見て、驚いた。それほど女の一人芝居に意識が奪われていたのだ。
新たに現れた少女は、透けるように美しい、柔らかそうな薄物一重の衣装をまとっていた。頭上の小さな冠をはじめ、全身をきらきら輝く装飾品が飾り、薄汚れた最初の女と比べて、まるで正反対の軽やかで美しい姿をしていた。
『申し、どうなされました、お方様』
少女が蹲る女に優しく声をかける。その声は女と比べて少女らしい、甲高いものだった。
(ああ、この声は確か、茘枝さん……)
明青は昼間会った、踊り子の少女の姿を思い出して、頷いた。
一方、声をかけられた女は、少女を縋るように見上げる。
『――おお、そなたは川の妖精か。そなたに尋ねたいことがある。私の娘がどこかへ連れ去られたのじゃ。私は娘を探してずっと旅を続けておる。そなた、もしや、私の娘を見かけなかったかえ?
娘は川べりで遊んでおったのじゃ。花を摘み、小鳥たちと戯れ、いつものように遊んでおった。なのに、突然、娘の姿が消えたのじゃ。
側におった者どもは、大地が裂け、そこから現れた一団が娘を攫って、再び大地に消えたと申しておる。だがそれ以外、一向に行方が知れぬのじゃ。私はこの大地の方々を探し回り、せめて娘の姿を見た者がないかと訊いて回った。だが誰も見ておらぬという。
ある者は言った。もうむすめご娘御は生きておられぬのではないか。
ある者は言った。もう諦めてあなたは本来の場所へお戻りになられた方が良いのではないか。
しかし、娘が姿を消したのは川べりなのじゃ。誰も見ておらぬなどあろうはずもない。ゆえに私は諦め切れぬのじゃ。
そなた、川の妖精よ。そなたはどうじゃ?何か見ておらぬか?何でも良い。知っておることがあれば私に教えて欲しい――』
しまいには泣き崩れるように、ただ訴える女の姿に、少女――川の妖精は胸を打たれたようだった。
蹲り、身体を震わせる女の傍らにひざまず跪き、その肩をそっと抱くようにした。
『お気の毒に、お気の毒に、お方様――』
女同様、涙を流しながら、川の妖精は女を抱き起こす。
『お気の毒に、お方様。大地の女神であらせられる貴女がこんなにもお心を痛めておられるなんて。こんなにも大地が荒れ果ててしまうほど、貴女がお心を苦しめられているなんて。私は何とかしてお力になって差し上げたい。分かりました。私の知っている限りのことをお話いたしましょう』
女が――川の妖精が「大地の女神」と呼んだ女が――ば、と顔を上げる。その勢いで頭を覆っていたベールが外れ、素顔が現れた。光の下に晒されたその表情に、客席の明青は思わず息を呑んだ。
(嘘…あれが、あの、紅珠…!?)
彼女はぽかん、と口を空けてただただ食い入るように視線を舞台上の光景に釘付けにする。
ベールの下から現れたのは、げっそりとやつれた女の顔。ただ、その美しく結い上げられた髪にたくさんの綺麗なかんざしがささっていたり、額や耳を美しい装飾品で飾っていたりする辺りに、向き合う「川の妖精」の少女同様、否、それ以上の高位の女性であることがうかがえる。
大地の女神は、強張った表情の中、ただその瞳だけをらんらんと輝かせて、目の前の川の妖精である少女に詰め寄る。
『教えて、そなたは何を知っておるのじゃ?私の娘を見たというのか?』
(凄い…恐い……)
その剣幕に、明青は全身を撃たれたような衝撃を感じた。舞台に立つ、「大地の女神」が、昼間会話を交わした紅珠という女性であり、「川の妖精」が、やはり昼間会った茘枝という少女であるということは分かっていたが、舞台に立つ二人は、まるで別人であった。
『申し訳ありません、申し訳ありません、私共をどうかお怒りにならないでください。どうか私共を責めないでください。私共も心苦しかったのでございます。ですが私共に何ができましょう。口外するなとあの方に言われて、口を噤む以外、私共に一体何ができたでしょう。
ですが、私にはもう我慢できません。貴女のそんなお姿を見て、そんなおいたわ労しい姿を見て、貴女をこれ以上苦しめるようなことはできません。私の知っていることを、目撃したことを、貴女にお話いたします。ですが、どうか、お約束ください。決して、あの御方をお恨みなさらないでくださいまし――』
泣きじゃくりながら川の妖精の少女が語ったのは、大地の女神の娘を攫ったのは、地下深い宮殿に住む、死の神たるおんかた御方であるということ。死の神はずっと以前から大地の女神の娘に懸想していた。その心を知った、娘の父親である天の神が、彼に娘を与えたというのである。
死の神は娘を乗せた馬車で、地上と地下を何度か行ったり来たりしながら自らの住居である地下の宮殿に向かった。その道すがら出会った川や草木の妖精、または地上の動物、空を舞う鳥たちにすら口止めをしていった。口止めをされた者たちは、死の神と、そして天の神を恐れて、口を噤んでしまったというのである。
『何ということ…』
どうか怒らないで、と何度も言い残しながら川に消えた妖精の姿を見送りながら、大地の女神は呆然と呟いた。その姿はやはり薄汚れていたが、表情は一変していた。
自分を騙した天の神、死の神、そして地上の全てを彼女は憎んだ。彼女の憎しみは瞬く間に地上に広まり、大地は凍え、死の沈黙が広まった。大地の豊饒を司る彼女が大地を呪ったために、生命の営みが停止してしまったのである。
舞台中を、大地の女神が狂ったように舞い踊る。女神以外に踊るのは、大地を駆ける動物や草木、そして川や風たちである。彼らは女神を宥めようとし、また呪われて止まっていく生命の営みの一つ一つに深く悲しみ、そして動きを止めてゆく。
女神は狂い、舞い踊る。身体を厚く覆っていた長衣は一枚一枚、剥ぎ取られ、ベールは引き裂かれた。
そのしなやかな腕が、髪を留めるかんざしを掴み、引き抜いた。ばさり、と髪の房が垂れ、その表情とあいま相俟って鬼気迫る様相を呈した。
弦楽器や笛の演奏は彼女の動きに合わせるように盛り上がり、哀切な、激しい音を響かせる。そしてそれらに合わせるように、客席のボルテージも上がっていく。
客席にいた明青は、四方からこずかれ、どぎまぎしながら、それでも舞台から視線を離せなかった。
彼女はこのような舞台を、生まれて初めて見た。それ以前に、一人で見世物小屋に来たことすら初めてであったのだ。周囲の、彼女から見れば異常なほど興奮している観客たちに、正直怯えていた。しかし、そんな彼らの興奮が分からないわけではなかった。
紅珠の踊りは心を惹きつける。その声はどんな音や声にも紛れず、するりと耳に滑り込んでくる。狂女を演じていても、それが確かに鬼気迫るものであっても、その姿は目を、耳を、心を、全身の感覚を惹き付ける。心を掴まれて放せない。
「これが、『砂漠の舞姫』……」
視線を舞台に釘付けにしたまま、呆然と明青の唇から言葉が漏れる。
舞台上では、動きを止めた踊り手たちが、まるでたくさんの彫像のように立ち並んでいた。その中央で、大地の女神は緩やかに舞っていた。
かんざしは全て落とされ、乱れた長い髪の毛が、しかし美しく、顔から肩へ、そして腕や胸に絡まって腰へと流れ落ちていた。その身にまとうのは薄物一枚で、肌の色すら透けて見えそうなその姿に、男たちは興奮しているように、明青は思った。しかしその姿は、同性の目から見ても、厭らしいというよりもむしろ美しくて、つい見惚れてしまっていた。そんな姿で、しかし額の飾りは外されないまま燈火に煌めいていた。
大地の女神の嘆きと怒りと呪いに、大地の全ての生命は活動を停めてしまった。それに困ったのは、天の神と死の神である。天の神は大地の女神と死の神の間を取り持って、和解させた。大地の娘は、年の半分は地上の母の許で、もう半分は地下の夫の許で暮らすことに決まり、女神は渋々ながらも呪いを解いた。
舞台の燈火が一旦、全て消された。ややあって再び明るくなった舞台上に、一人の女が佇んでいた。舞台の中央で、緩やかな長衣を優雅にまとい、頭には透けるベールを被り背に長い髪を流したその立ち姿は、先ほどまで狂い踊っていたはずの、大地の女神の姿であった。
(衣装…変えた?ううん、あれはさっきの衣装だわ。ただ、着方が違うんだ。お化粧も…変わってる、はずない。そんな時間なかった。ただ、表情が違うだけなんだ…!!)
明青はぞくりと背筋が震えた気がした。
舞台に新たに一条の光が射す。その光に一人の少女の姿が浮かび上がる。大地の女神と瓜二つの衣装。しかし上に纏う外套は大地の女神の純白に対するように真っ黒であった。
『ああ、愛しい娘、私の娘……!!』
『おかあさま!!』
二人が弾かれたように駆け出す。そしてしっかりと抱き合った。
舞台を照らす灯りが全て燈された。それと同時に舞台の四周から一斉に踊り手たちが飛び出した。彼らは女神の呪いで凍り付いていた者たちである。
花や木、動物や鳥、そして川の精や風の精。大地の全ての生き物たちが大地の女神とその娘の喜びに呼応して舞いを舞う。
喜びの舞いは客席をも巻き込んだ。舞台から客席に手が伸ばされ、何人かの観客が舞台に飛び込んだ。舞台に出られない者たちも、その場で喜びの歓声を上げ、身体を揺らす。
舞台上と同じ盛り上がりを見せる周囲の様子にやや戸惑いながら、明青はやはり舞台から視線を外すことができなかった。
演者が退がっても観客の興奮はなかなか収まることがなく、『天藍』の天幕は、結局その夜、一晩中燈火を落とすことができなかった。
とうとう警備の役人がやってきて警告を受けてしまった。その際、一部では小競り合いさえ起こったという。
***********
観客と団員と吐蕃の役人とで混乱している『天藍』の天幕を、どうやってだかうまく抜け出した紅珠と茘枝と明青の三人は、広場の少し離れた場所からその様子を眺めやった。
「…凄いことになってるわね」
明青が伸び上がって、天幕の様子を眺めながら言う。
一方、その騒ぎの元凶ともいえる紅珠は、まるで他人事のように、側の大木に寄りかかってその様子を眺めていた。
「役人まで出てきてしまったのはまずかったな…」
ぽつりと呟く紅珠に、一体誰のせいなんだか、と茘枝は誰にも聞こえない声でぼやく。
「でも、分かるわ。凄い舞台だったもの。みんな興奮するのも当然だわ」
明青が言って、紅珠と茘枝をかわるがわる見詰める。
「さすが、大都一の役者ね。私、劇とか踊りとか、そんなに見たことなんてないけど、分かるわ。あなたたちの舞台は本当に凄い。私、鳥肌立っちゃったもの」
その時の興奮を思い出したのか、やや頬を紅潮させながら、明青がにっこりと笑った。
「「砂漠の舞姫」なんて、大げさだなんて思ってたけど、全然大げさじゃないわね。あなたは「舞姫」の称号に相応しい人だわ。私、踊りを見て感動したのなんて初めてよ」
「…それは、ありがとう」
真正面から賛辞の言葉を浴びせられて、さすがに紅珠も照れたような表情を見せた。
「それにしても、不思議な舞台だったわ。聞いたこともないお話だったし。あれはあなた方の創作なの?」
明青の問いに、紅珠が微笑を浮かべながら、頭を振った。
「いや、あれは西の国の神話劇なんだ」
紅珠の言うところによれば、先ほどの話は、この吐蕃から遠く離れた西方、バルジャの一地方に伝わる神話の一説であるという。かの国では芸事が盛んで、大きな劇場では、神話を題材に採った話や、現実の事件を脚色した舞台が頻繁に行なわれており、市民は気軽にそれらを楽しんでいるという。
中でも今回紅珠が演じた舞台は、その国の神話で、冬と春の所以を語るもので、その国でも限られた者だけが春を迎える祝いに演じる、特別なものなのだという。
「私は今回、この『天藍』で、ずっと「春」をテーマに演目を選んでいるんだ」
「…ああ、そうか、今大都は春のお祭をやってるから…」
紅珠の言葉に明青は素直に頷いたが、茘枝は眉を寄せて首を傾げる。
「…でも、あなたは何故そんなお話を知ってんの?あたしだってそんなお話、知らないわ」
茘枝は「砂漠の民」の踊り子である。
「砂漠の民」は出身地も様々だし、生活も、基本的に一つところに長く留まることなく、旅を続けながら生きている。だから「砂漠の民」は大陸中の多種多様な文化に触れ続けて生きており、「砂漠の民」の文化は、それらを貪欲に吸収し、取り込んだものとなっている。
茘枝も幼い頃からこの『天藍』のメンバーとして、大陸各地を旅して育ってきた。西の国にも行ったことがあるし、彼女だっていくつか、西国の歌や踊りを身に付けている。
しかし紅珠が『天藍』で演じるものは、茘枝が全く知らないものばかりであった。実は茘枝も、もしかしたら紅珠の演目は紅珠の創作なのではないかと、密かに思っていたりしたのである。しかし茘枝の視線に、キャリア年期が違うよと、紅珠は苦笑を返す。
「それにしても、まだ騒いでるね…」
明青が再び伸び上がって天幕の様子を見る。紅珠も少し視線を上げてそちらを眺めやった。燈火は相変わらずそこだけきらきらしく、真っ黒な人影がたくさんうごめいているのが見えた。時折怒号とも歓声ともつかないものが聞こえてくる。それでも先ほどよりは大分静かになったようだ、と紅珠は思った。
明青はそんな様子を眺めながら、公演中の様子を思い出していた。
「みんな凄かったなあ…客席の人たち、みんな踊ったり大きな声出したり…」
「そういえば、恐くはなかったか?」
紅珠が少し表情を改めて明青に振り向く。
公演前にはあまり時間がなかったために、後でゆっくり話をしようということで、紅珠はとりあえず明青に舞台を見ていってもらうことにしたのであった。控室で待っていてもらうという手もあったが、公演中の戦場のような裏方ではかえって明青も気を遣うし、危険ですらある。そこで紅珠は、客席の中でも比較的安全な辺りに明青を招いて、そこで見ていてもらうことにしたのだった。
「大丈夫よ。ちょっと恐かったけど、でも私もちょっと興奮してたから…」
照れたように明青は微笑んだ。
「でもみんな、凄く大騒ぎだった。あなたたちの舞台は、いつもあんななの?」
それなら毎回大変だろうと思いつつ言った明青の問いに、茘枝が頭を振った。
「まあ、あたしたちの舞台はお客に楽しんでもらうためのもんだから、けっこう大騒ぎしてもらったりするわ。でもあんなのは紅珠のだけよ。ちょっと異常なくらい」
茘枝の言葉に、紅珠が苦笑する。
「まあ、今日のは凄かったな…」
しかしそれにも多少訳があるのだと紅珠は言った。
「あれは元々、神話劇だったと言ったろう?」
紅珠が今夜演じたのは、西国の神話で春の所以を説明するものであった。元々の劇では彼女が演じたものほど動きは激しくなく、楽器も使われず、合唱団の声のみで音楽や効果音が演じられるのだという。しかし演者は全て神殿に仕える巫女たちであり、神殿付きの合唱団である。彼らの演目は即ち神々の世界を映すものであり、彼らの演技は即ち神々の姿であり、声である。その舞台では、演者も観客も一種のトランス状態に陥ってしまうのだという。
紅珠はそれを、普通の演目にアレンジした。しかしどうやら元々の精神的な影響力は消し切れなかったようである。
そんな紅珠の説明を、茘枝はじっと聞いていた。聞く内に彼女の眉間に僅かに皺が寄る。
「…ねえ、紅珠。もしかしてそれって…」
茘枝の声の調子に、紅珠が不思議そうな視線を彼女に向ける。
「それって…《シャーマニック・ダンス》?」
茘枝の台詞に、紅珠も僅かに眉根を寄せる。その表情に肯定を見て、茘枝はふいっと顔を背けた。
「――あたし、そろそろ戻るわ。おやすみ…」
突然の茘枝の態度に、明青はただ驚いてその背中を見送るだけであった。
「…どうしたの?彼女」
明青の問いに、紅珠は茘枝の後姿に向けていた視線を、和らげて振り向いた。
「大丈夫だ。ただ、彼女はプライドの高い砂漠の踊り子だからな…」
紅珠の浮かべた苦笑は、どこか気遣わしげであった。
(敵愾心を燃やすだけなら構わないのだが…)
既に闇に姿の紛れてしまった踊り子の少女のことを思って、紅珠はふっと心に影が過ぎったような感覚を覚えていた。