3.『隠者』
吐蕃皇国の首都、大都には、他の都市にはない、誇るべきものがある。
その一つが都市の地下に整備された地下水路である。上下水とも揃ったそれは、この時代、世界唯一のものであった。
もっとも、地上には運河に繋がる水路が縦横に引かれているため、下水はともかく、上水は必要がないようにも思われる。確かに下水道が都市全体に整備されているのに対して、上水は町の北側のみに敷かれている。つまり王族や貴族など、位の高い人物の居住区でのみ使用することができるものなのであった。
しかしそれでも地下に上下水の設備を有しており、汚水が都市の表面を流れるということがないだけでも、大都の水道設備は、現在世界唯一の、画期的な技術なのであった。
(…ここが汚水路でなくて、本当によかった……)
ようやく視界が闇に慣れたところで、紅珠は複雑な心情でため息を吐いた。
紅珠は元々傭兵という職業柄、夜目の利く性質であり、闇への順応性も高い。更に突発的な事態に対する反応も優れている。恐らく、彼女がこの地下水路に落ちてから、ものの30秒と経ってはいないであろう。しかしだからといって安心できる状況では、実はなかった。
紅珠はなるべく音を立てないように慎重に身を起こしながら、神経を極限まで鋭敏にして周囲の状況を探る。しかしどんなに気配を探っても、危険を感じるものはなく、やや訝かしみながらも、彼女はようやく緊張を解いて立ち上がった。
紅珠が現在いるのは大都の地下水路である。
地下水路には地上の水路と繋がっているものもある。ここはその一つで、水路の水位がある一定の高さを越えると、余分が流れ込むような仕組になっているのである。こういった仕組が都市中何箇所か設けられていて、それによって例え大雨が降ったりして水路が増水しても、都市が水浸しにならないように、調節されているのである。
現在は特に増水しているわけではないが、大都の水路に水を引いている川――大都の北を流れる大河、明江――の上流である西方地域の大雨の影響か、途切れることなく水路から地下へと水が流れ落ちてきている。
地上から急斜面を流れ落ちてきた水は、少し広めの「池」に溜まり、その上澄みが闇の奥へと水路を伝って流れるようになっている。紅珠が立っているのは、その「池」の場所であった。
水深はさほどなく、立ち上がった彼女の脹脛辺りまでであった。しかし水路に後ろ向きに突き落とされたため、背中から水に落ちてしまった彼女は、当然全身ずぶ濡れの状態であった。
紅珠は憮然とした表情で、まずマントを脱いだ。全身を隠せる大きさのそれは、たっぷり水を吸い込んでずしんと重くなっていた。その水気を絞ってから、顔と髪の毛の水を払う。彼女の髪は腰の辺りまでの長さがあったが、今日は半分ほどを後頭部に纏め上げて残りを垂らしている程度だったので、ほとんど濡れなかったのが幸いであった。もし本当に頭から水を被った状態になっていたりしたら、頭が重くて大変なことになっているところであった。
幸い、マントの下の黒革のチュニックはほとんど水を吸い込んでいなかった。ブーツも沙漠の塵芥を入れない仕様であったのが幸いして、水の浸入を防いでくれていた。
手早く全身の水を拭うと、彼女はようやく眉間の皺を解いた。そしてつい先ほど自分が落ちてきた穴を見上げた。
(さっきのはなんだったんだ…)
高くから射し込む地上の光に目を細めながら、紅珠は今までのことを思い返していた。
紅珠はここ最近、日課のように貧民窟(スラム街)通いを続けている。目的はただ一つ。この大都のどこかにいるという「エック」という人物を探すためである。
「あんたも粘るなあ」
今日もスラムに姿を現した紅珠に、彼はニヤニヤと笑いを浮かべながら言った。彼はこの大都のスラムを仕切る有力者の一人で、秦といった。
連日スラムに入り込み、何かと掻き回す女がいると部下たちに訴えられ、紅珠に興味を持った彼が、彼女を連れて来させた。普通こういった場合、優位に立つのはスラムのボスである秦のはずであったが、いつの間にやら彼らの関係の主導権は紅珠が握ってしまっていた。そして彼女の人探しに協力するため、情報を提供するようになっているのである。
その日、『天藍』での朝の練習を終えてスラムにやってきた彼女は、いつものように全身黒尽くめで背中に二本の刀を背負った姿で秦の目の前に立った。
足首まであるマントで彼女の全身が隠れているのは、非常にもったいないと、彼は思う。いや、そのおかげで時折覗く指の白さだとか、ブーツに包まれた足の形の良さだとかが強調されて想像力も働くというものであるが。
一方、紅珠は秦の品のない笑みに冷めた一瞥をかけただけで、本題を切り出した。
「何か情報は入っているか?」
「いや…悪いな」
ちっとも悪いとは思っていない表情で答える秦に、紅珠は軽く肩を竦めた。
「<エック>がこの町にいるというのは確かなんだな?」
確認する口調に、秦はうなずいた。
「ああ、確かにそういう奴がいるって噂は耳にしてる。だが俺も姿は見たことがないし部下にもそういう奴はいねえ」
何度か聞いた台詞であったためか、紅珠は無感動とすら言える表情でうなずくのみであった。
紅珠の表情には何も表れてはいなかったが、正直なところ落胆していないといえば嘘であった。
一ヶ月。この大都に来て、人探しを始めて一ヶ月である。
一言で一ヶ月といってしまえば簡単だが、手がかりも足がかりもない、初めての土地での人探しである。使える手段は『砂漠の民』の情報網と大都の人間の情報。しかし砂漠の民の情報網がいかに広くとも、限度はある。ましてや吐蕃皇国の首都である大都でのこと。吐蕃を構成する中心の民族である吐蕃人が幅を利かせるこの土地では、いわゆる余所者は行動にあまり自由が利かないというのが実情である。
吐蕃皇国は多民族国家である。主なものだけ挙げても、吐蕃王国の吐蕃族、沙南公国のユン族、沢東公国のスー族、南方海岸地域に点在する壮族など、それぞれの地域に多大な勢力を持つ民族がいるのである。
それ以外にも、例えば『砂漠の民』に代表されるように、東西南北含めて吐蕃皇国に流入してきた他民族も皇国内には存在する。そういったものを含めると、実に数え切れないほどの民族が混在しているのが吐蕃皇国なのである。
しかしだからといって吐蕃皇国が彼らにとって住みやすい場所かといえばそうでもない。
一応吐蕃皇国内に生活基盤を持つもので一定の基準を満たしている者は「皇国民」として認められている。しかし感情面では他民族に対する差別心をなくすことはできず、住居の場所や就職面で、公然とした差別が行なわれているというのが実情である。
特にその傾向が強いのが皇国の中心である「吐蕃王国」の吐蕃民族であった。ちなみにそれに対して比較的その傾向が薄いといわれるのが西の「沙南公国」を形成するユン族であった。
つまり「砂漠の民」がいかに情報収集に関して有能でも、吐蕃皇国の中心、吐蕃民族の本拠地である吐蕃王国首都大都ではなかなかその能力の本領を発揮できないのである。
そこで紅珠は「砂漠の民」の芸能一座である『天藍』に所属することで砂漠の民の情報網を利用しつつ、自ら大都の貧民窟に潜入して協力を得、大都の表裏の情報を入手することとしたのである。
現在のところ、彼らの協力を得ることには成功している。しかし肝心の探し人の捜索が、進まないままなのであった。
ふと気が付くと、秦がじっと紅珠を見詰めていた。我知らずうつむいていたことに気が付いて、紅珠は視線を上げた。しかし秦はにやにやと好奇の視線を崩さなかった。こういう場合に恥らったり動揺したりしては付け込まれるだけである。そう冷静に考えたわけではなかったが、反射的に紅珠の表情は冷静さを保っていた。しかし既に遅かったのかもしれない。
「…本当に、粘るなあ、あんた」
目つきの割にからむ口調にはそれほどの粘っこさはない。紅珠は落ち着いていた。
「一体、どんな奴なんだろうねえ、あんたがそこまで必死に探してる相手ってえのは」
「…お前が詮索好きとは聞いてないぞ」
冷めた紅珠の口調に、秦は全く堪えていなかった。だらしなく組んでいた足を解いて座り直しながらも視線は紅珠から外さない。
「いやあ、何しろこんだけ絶世の美女がこんな必死に人探ししてんだってんだからなあ。好奇心もわこうってもんじゃねえか」
「口が軽いとも聞いてないぞ」
紅珠の返答は冷静を通り越して冷厳であった。
「一体、何があんたみたいな女にそこまでさせてんだろうねえ」
「……」
もはや返答する気もない紅珠は、相変わらずニヤニヤ笑いを続ける秦の視線を軽く無視することにした。
しかし正直なところ、紅珠にも、自分自身のことがよく分からなかった。
(何ガアンタミタイナ女ヲ―――?)
何故自分は見たことも会ったこともない人物を、初めての土地で探しているのだろうか。
そもそも<エック>という人物のことを紅珠が知ったのは、つい先日のことである。
久しぶりに紅珠は育ての親である男に会いに行っていた。その男は彼女を7歳の頃から親代わりに育ててくれた人物であり、また彼女の剣の師でもあった。つまり彼女にとっては親代わりであり、師匠でもあって、紅珠が全幅の信頼を寄せる存在なのであった。
また、彼は紅珠にとって非常に信頼に値する人物であるが、客観的に評価しても知勇に優れていて、他者の尊敬を集める人格者で、指導者としての器を備えていた。
そんな彼の元へ、彼女は傭兵として独り立ちしてからもしばしば戻り、相談をしたりアドバイスを受けたりしていたのである。そして彼のアドバイスで的外れなことも、彼女のためにならないことも、今までに一度としてなかったのである。
そんな彼が、今回戻ってきた紅珠に<エック>という人物のことを告げた。
紅珠の話を聴き終わった彼は、珍しい表情でふっと笑ってみせた。そしていぶかしむ彼女に、吐蕃の首都大都へ行き、<エック>という人物に協力を求めろ、と教えたのである。
「お前のやろうとしていることは相当に大変なものだ。だがお前ならできないことはない。俺は信じているよ」
いつも彼は紅珠に対して優しく、かつ厳しかったが、その時の彼はかつて見たことのない表情で笑っていた。温かいような、優しいような、そして寂しいような。
その表情の意味することは彼女にはよく分からなかったが、彼の言葉はいつものように彼女に勇気を与えた。そして紅珠にはそれを成し遂げることができるという彼の信用にも応えたい、と思った。
しかしだからといって紅珠は、彼女の「計画」が成功するのか、正直なところ何も分からなかった。そもそも、その目的のために、どんなことをすればよいのか、どんな結果を得ればいいのか、はっきりとしたヴィジョンはまだなかった。ただ知りたいことがあり、どうにかしたいことがあり、その根源は恐らく「吐蕃王国」に、ひいては皇の近辺にあるだろう。それだけしかまだ分からないのである。
――彼女がこんなにも無計画に動くことは極めて珍しいことであった。そしてこんなにも必至になることは。紅珠はそんな自分自身のことを客観的に把握しながらも、今現在自分を突き動かしているこの衝動が何なのか、理解してはいなかった。
「――まあいい、引き続き情報を集めてくれ。また来る」
そう言って紅珠は踵を返した。
「ああ、あんたになら多分見つかるさ」
天幕を出ようとしたところで秦が彼女の背中に声をかける。その台詞に紅珠は思わず立ち止まって振り返った。
肩越しに見た秦は、先ほどと全く同じ姿勢で、やはりニヤニヤと彼女を見詰めていた。
「…あんたみてえな光り輝く美女に想われてんだ、どんなに闇の底に潜り込んでるような奴だって一目会ってみてえって思うだろうぜ」
思わず吹き出さなかった自分を、紅珠は自分自身で褒めていた。秦の言葉は、そのむさくるしい風貌に全く似合わないほど、気障なものであった。
(それにしても無様なことだ…)
いつまでも立ち尽くしていてもしょうがない、と地下水路を歩きながら、紅珠は思った。
紅珠が落ちた地下水路は地上から3メートルほどもあった。地上への壁は垂直に近かったが、彼女の運動神経をもってすれば、登るのは不可能ではなかった。しかし彼女は地上に出ず、地下を行くことを選んだ。
理由はいくつかある。
貧民窟は大都の町中に点在している。その中には町の北側、つまり行政区や貴族たちの居住区、そして皇の住居であるエン円城のある場所にも密かに存在している。紅珠は今日はそこを目指していた。しかしそこへ行くには地上を行くと目立ちすぎてしまう。そのため、彼女は水路に下りて北へ向かっていたのである。しかし目立たないようにするのなら、地下に潜ってしまうのが一番良い方法である。そこで地下に落とされたのを幸い、そのまま北上することに決めたのである。
もう一つの理由は、彼女が地下に落ちた理由にある。
秦の元を辞した紅珠は、そのまま水路に下りて歩き始めた。
しばらくは何の問題も起こらなかった。地上の商業区の喧騒が頭上から響いてくる。一方、水路にはほとんど人影も見当たらなかった。吐蕃の都市計画では、ここにはそのうち遊覧船が通ることとなるらしい。また岸には磨き上げられた石畳が敷かれ、四季折々の花を咲かす草木が植えられる計画だという。
しかしまだその工事には手がつけられていなかった。ただ水路はしっかり造られていて、緻密に組まれた石組みは、むしろ美しくさえあった。ただ、付近には工事資材があちらこちらに放置されていて、雑然としていた。ときどきその影に見える人影は、浮浪者か親や役人の目を盗んで遊んでいる子供たちであった。
そういった雑然とした風景も、商業区から行政区に入る辺りから姿を潜める。そして喧騒も間遠になる。
そういった中で、ふと彼女はあるものに気が付いた。数m毎に、水路の壁に格子の嵌った口がある。
(ああ、これが水量調節のための水の逃げ口か…)
吐蕃皇国は現在、世界一番の技術国である。土木に関してもそうで、地下上下水道設備が現在世界唯一のものであることは、前述の通りである。それは現在彼女が踏んでいる石組みにも現れている。数ミリの隙間もないほど緻密に石を組む技術は、それがあってこそ地下に水を通すこともでき、ひいては国土全体に運河を張り巡らせることもできるのである。
紅珠はこれまで傭兵として働くうちに、いくつかの国や都市に行ったことがある。しかしここ吐蕃の大都ほどに圧倒的な技術力によって造られた都市は見たことがなかった。素直に感心しながら格子の隙間を覗いたとき、彼女はふと背後に異質な空気を感じた。
反射的に振り返った紅珠の頬を、何かがかすった。背後の石壁にぴしりと何かが当たった音がする。しかし彼女にはそれが何なのか見ることができなかった。
(ちっ…………)
攻撃を受けるまで注意を疎かにしていた自分自身に舌打ちしながら、彼女は懐に手をやった。そこに潜ませている短刀を探りながら、攻撃がきたと思われる方向を睨む。しかしそこには何もいなかった。
(えっ!?)
目を疑いながら、しかし彼女は次の瞬間、身を伏せた。先ほどまで彼女の身体のあった付近の石壁にぴしり、と何かが当たる音がする。
(何もない、のではない。何かがいる。見えないだけだ!)
判断した紅珠は周辺に意識を張り巡らせた。見えない蜘蛛の巣を自分を中心に張るようなイメージ。そしてそれが紅珠の視界に姿を現した。
「えっ……!」
しかし見えたものに、思わず紅珠は絶句する。それは人の姿をしてはいなかったからである。
(姿隠しではなく化け物!?)
その一瞬が隙となった。強烈な圧力が正面からぶつかってくる。
「きゃ……!」
とっさに左腕を伸ばして石壁に身体を支える。そうやって勢いを殺したものの圧力には抗しきれず、背中が格子に打ち付けられる。
痛い、と思った瞬間、ふっと背中の感触が消えた。
(え!?)
ふらり、と重心が後ろに寄る。何故か、そこについ先ほどまであった格子が消えていた。慌てて両腕を伸ばして石壁に突き、力を込めて身体を支えようとする。一瞬体勢を持ち直すが、その面前に半透明に見える化け物が迫ってくるのが見える。
その姿は人間に近いものではあったが、体長は成人の三分の二ほどしかない。その三分の二ほどが頭部で、縦に異様に大きく膨張していて、口は耳元まで裂けている。顔の中心に二つ大きく開いた眼窩は、虚ろに暗かった。小さく細い身体から生えた四肢は昆虫めいてカチカチと音を立てながら蠢いていた。
嫌悪感を感じさせるその姿がゆっくりと、確実に近づいてくる。それと共に紅珠の体を押す圧力も強まってくる。石壁に張り付く手指がぎし、と体内で音を立てる。
紅珠はとっさに判断した。そして腕の力を抜いて引く。
ぐん、と圧力がかかり、支えを無くした身体が後ろに押される。体反射で踏ん張った足が、平らな石のおもて面を滑り、革のブーツの底がきゅきゅ、と擦れて音を立てる。
ブーツの踵が地面を失う。瞬間、紅珠の体を浮遊感が包んだ。
落ちている間のことはあまり記憶がない。ただ頭から、あるいは背中から地面に叩きつけられないよう、できる限り体勢を安定させていた。おかげでひどいけがはしなかった。
そしてなぜ地上に戻らなかったのかといえば、地上に先ほどの化け物がまだいる可能性を考えたからである。化け物は地下までは追って来なかった。それはそれで奇妙なことだが、追って来ない確証も待ち伏せしていない確証もなかった。ならば前進したほうがましであろうと紅珠は判断したのである。
(それにしてもアレは何だったのだろう…)
地下水路の暗闇を、携帯用の灯りを頼りに進みつつ、紅珠は考えていた。
「アレ」とは彼女を水路で襲ったもののことである。
姿の見えない敵にはいくつかの場合がある。最も多いのが彼女が最初に考えた、『姿隠しの術』を使った人間の場合である。この能力を持った人間は多くはないが、術具はいくつか存在していて、入手はさほど困難ではない。
他には遠距離の攻撃。術の威力は、範囲もそれぞれで、中には姿の見えないほど遠くから攻撃することが可能な術者もいる。また、武器を隠す術や、見えない武器を作る術もある。
その他に考えられるのは見えない生き物を行使するというもの。例えば姿を隠す能力を持った化け物を操ったり、見えない生物や化け物を術力で作り、敵を攻撃したりする場合である。そして先ほど紅珠を襲ったのは、こういった見えない化け物であった。しかしそう考えると奇妙な点がある。それは、これらの化け物に関わる術のほとんどはきんじゅつ禁術、つまりげほう外法であり、吐蕃に限らず全世界で禁止され、厳しく規制されているという事実である。
(また、外法が関わっているのか?)
しかしそんな馬鹿な、と紅珠は思う。
何故ならここは吐蕃の首都である大都。大陸中最も強大な勢力を誇り、絶大な権力を有する吐蕃皇国の、その支配者である皇の、正に足下なのである。例えそういった術を使う外法士がいたとしても、どうやってこんなところに潜り込むことができるのか。まず不可能である。
(それに、さすがに外法ならばあそこまで気配を感じ取れないわけがない)
紅珠は自分の感覚に絶大な自信を持っていた。それがあってこそ、年若い女の身で今まで傭兵稼業を続けてくることができたのである。その感覚が鈍ったのでは、彼女はこれから先生き延びてゆくこともできない。
そう考えると、結局疑問は振り出しに戻ってしまうのである。
「「アレ」は、何だったんだろう…」
考えつつ進んでいた紅珠は、何個目かの水路の分岐点に来た。そこで足を止めて頭上を見上げる。見上げたところで見えるのはただ石の組まれた地下の天井でしかなかったのだが、彼女の意識はそこを通り抜けて地上を思っていた。
「多分、そろそろ円城の近くまで来たと思うんだが…」
独り言を呟きながら今までの道のりを考える。
この地下水路はきっちり南北に敷かれているようで、今までの分岐点は全て直角に交わっていた。だから地上の様子の見えない地下にあっても、紅珠の方向感覚は狂うことはなかった。
その感覚によれば、この分岐点は貴族の居住区の北端、円城の敷地に近いはずであった。そして分岐した地下水路は多少の段差があって北に向かっている。
彼女が迷っていたのはこの辺りで地上へ出るか、それとも更に地下を進むか、ということである。
そろそろ円城の辺りなら、円城の城壁を囲む堀があるはずであり、それならば先ほど彼女が落ちた穴のように水の逃げ口や、あるいは整備の人間の使う入り口があるはずである。
しかし結局、紅珠はそのまま地下を行くことに決めた。
(どうせなら大都の北端まで行ってみよう)
大都の北は大河、明江に接している。そこから水を引いている道があるはずである。
(そこから外へ出られないようなら、またその時考えればいい)
そう判断して、紅珠は北への道に踏み込んだ。
一瞬、何か透明のものが体を通り過ぎたような気がした。
はっと気が付いたときには、辺りは暗闇であった。手にした灯りも、何故か消えている。携帯用の灯りは風の強い砂漠の旅でも容易には火が消えないような仕組のものである。第一、地下水路で強風が吹くはずもない。当然水を被ったわけでもないし、水を被っても簡単には火が消えないような仕組になっている。
(空気が薄いわけでも…ない)
紅珠は慎重に自分の体と、その周囲に意識を払った。微かな自分の呼吸音が聞こえるほどの静寂と闇。息苦しくはなかった。妙な匂いもない。ただ、自分の周囲前後左右上下、全て暗闇で、何一つ見えなかった。足下には確かに地面を踏む感触があったが、こう真っ暗闇では、その感触さえ信じられなくなりそうである。
(やられた…)
紅珠は今日何度目かの舌打ちをした。どうやら誰かの張った結界の中に入り込んでしまったようであった。それにしても見事な結界である。彼女に全く気配を感じさせなかったのだから。しかも、今度は充分注意をしていたのに、である。
(先ほどの攻撃といいこの結界といい…相当な使い手のようだな)
紅珠には先ほどの化け物による攻撃とこの結界とが無関係であるとは、全く思えなかった。しかしそれはそれで構わない、と考えた。罠なら罠で、打ち破ればいいだけのことである。
紅珠は腰に差した刀に手を置きつつ、慎重に歩き始めた。
「あなたは、誰?」
不意に声が響いた。続けざまに同じ声が響く。
「あなたは、誰?」
「あなたは、何者?」
「あなたは誰」
「あなたは」
「あなたは」
「うるさい!」
紅珠は思わず怒鳴っていた。そして気が付く。声は耳に聞こえたのではなかった。脳内に直接響いてくるのである。
「訊いているんだよ」
「あなたは誰?」
「何者?」
しかし声は続く。紅珠はぐっと唇を噛み締めた。声を無視して、進もうとする。しかし声は続く。
「あなたの、名は?」
「あなたの」
「あなたの」
「…私の名が、そんなに重要か!?」
思わず怒鳴ると、一瞬の間があって笑い声のようなものが響いた。
「当たり前じゃないか」
「あなたは、ここへ踏み入ってきた」
「あなたは、何らかの目的があって来たんだ」
「あなたは、何者であるか、名乗らねばならないよ」
「あなたは、誰?」
「あなたは、何者?」
脳内でわんわんと反射する声に、紅珠は眉をしかめて頭を押さえた。しかし当然、そんなもので音を遮断することはできない。
「あなたは、誰?」
「……紅珠、だ」
「あなたは、誰?」
「あなたは、何者?」
「…………紅珠だ、と名乗ったろう!」
紅珠の怒鳴る声が、水路にわんわんと響く。しかし紅珠の中に響く声には全くの動揺がなかった。
「あなたは、名乗った」
「でも、それは」
「あなたが」
「誰、であるか」
「では」
「ないね」
「うるさい!」
紅珠は大きく頭を振って怒鳴った。
「私は私だ!それ以外の何者でもない!それ以上何を望む!」
ぎり、と宙を睨む紅珠の表情は、常にないほど厳しかった。それだけで大抵の者は怯んでしまったであろう。しかし今の状況で、果たして相手にこの表情が見えているのか、はなはだ疑問であった。
「そうだね」
「あなたは、あなただ」
「でも」
「逃げられないものだって、あるはずだ」
「あなたは」
「何者だ?」
「…もう、答えた。それ以上は、ない。」
紅珠は呼吸を整えた。相手の狙いが彼女の心を揺さぶることであることは分かっていた。第一、周囲を暗闇にして視界を奪ったことだって、そうである。
相手の手の内は見たい。しかし乗せられていては見えるものも見えなくなる。
「私は、紅珠だ。人を探してここまで来た」
静かに息を吐きながら、紅珠は続けた。
「誰も姿を見たことがないとも言われている、『隠者』。お前がそうなのか?」
紅珠は賭けに出てみた。相当確率が低いと思ったが、受身でいてはどっちみちどうしようもないと思ったのである。
「あなたは、聡明な人だね」
「勇気もある」
「でも賢くはないね」
どう判断すればいいだろう。紅珠は反応に迷った。
「まだ、あなたが見えない」
声は響き続ける。
「あなたの望みも」
「あなたの本当にやりたいことも」
「私に、何ができるのかも」
「……!!」
不意に闇が消えた。
今まで何事もなかったかのように、地下水路の光景がそこにあった。そして紅珠の目の前には、梯子段があって、頭上の白い光に続いていた。手元に目をやると、灯りはきちんと点いていた。
「…………」
無言のまま、紅珠は梯子段を登った。登り付いた先はやはり水路であった。
先ほど地下に下りたときとほとんど変わりのない風景。もちろん場所は違うが、周囲に人の気配はなかった。そして近くで大きな水の流れる音が聞こえていた。水路の先に目をやると、突き当たりに地上よりも更に1メートル程高く石の壁が組まれていて、そこに扇形の格子が見えた。どうやらその先は明江であるらしい。
「……やられたっ!」
がんっ!と紅珠の拳が石壁に叩きつけられた。
どうやら結界から締め出されたらしい。それとも結界の主が逃げたのか。判断はできなかったが、今日はもうつかまらないだろうと紅珠は思った。
(とりあえず場所は分かった…それだけでもいいか)
憮然としたまま、紅珠は何とかそう自分に言い聞かせることができた。ただの勘でしかなかったが、結界の主はこれっきり姿を見せないつもりではない、と紅珠は思っていた。
「明日また、仕切り直しだな…」
紅珠は大きく息を吐いた。そして気を取り直して視線を上げた。とりあえず戻らなければならない。その視界を、奇妙なものが横切った。
(…!?使役獣!?)
一見、普通の犬のようにも見えたが、それならばこの水路の場所から見えるはずがない。もっと大きくて、しかもその足は宙を駆けていた。その先に目をやって、彼女は反射的にその後を追いかけて走り出していた。
ふわふわと揺れる長い髪の毛。その大きさから見て、間違いなく少女であると紅珠は思った。
(何であれ少女が追われているには違いない…!)
数メートル先は行き止まりになっている。恐らく地上もそうなっているはずである。
紅珠が本気を出して走ると、相当速い。しばらく走ったところで獣に並んだ。更にスピードを上げると、水路の壁に向かって跳んだ。
壁で右、左と二回跳躍。その勢いで地上まで跳び出すと、右手を軸にそのままの勢いで身体を回転させた。
鈍く重い音がして、紅珠の革のブーツに包まれた脚が、狙い済ましたように獣を吹っ飛ばした。吹っ飛ばされた獣は城壁に叩きつけられ、鈍く篭った悲鳴を上げてくずおれる。
紅珠は獣を蹴り飛ばしてもまだ勢いを殺しきれず、そのままごろごろと道を滑って、二回転ほどしたところで止まって立ち上がった。そして城壁の下にうずくまっている獣がぴくりとも動かないのを確認して、振り返った。
道の突き当りの城壁に縋り付いていた少女が、呆然とした表情でこちらを見ていた。淡い茶褐色の髪を後ろで束ね、やや大きめの男物のような服を身に纏った、小柄な少女であった。大きく見開いた菫色の瞳がとても印象的であった。
「大丈夫か?怪我は?」
紅珠が優しく声をかけると、びくりと少女は背筋を伸ばした。そして直立不動のような姿勢から、へなへなとその場に座り込んでしまった。
「あ、おい、大丈夫か?」
慌てて紅珠が駆け寄った。近付いて顔を覗き込むと、やや青褪めてはいたが、その視線は気丈なままで、紅珠を見返した。
「大丈夫…です。ちょっと……びっくりした、だけ」
少女の気丈さに、紅珠は思わず口元を緩めていた。
「私の名は紅珠。とりあえず場所を移したほうがいい…歩けるか?」
紅珠の差し出した手をとりながら、少女がまだ微かに震えながら、頷いた。
「ありがとう。…助けてくれて。私は、明青」