2.砂漠の舞姫
吐蕃皇国首都・大都は広い。また各国各地から集った者たちで町中溢れ返っている。その職種も様々であった。
政治家、商人、職人、そして芸能者。
大都では毎日複数の人種、職業、言語が入り乱れて交わされていたが、基本的に彼らの住まいや活動区域は厳密に区分されていた。
王城である『円城』を中心として役人や高官たちの居住区、行政区、商業区、という順で、それ以外の者は大都の城壁の外にいた。
しかし大都会であるがゆえの弊害もある。
大都は都として既に機能している。しかし今現在も造営中である。そのため、必然的に都全体に警備の目は届かない。その警備の目の届かないところに、低所得者、又は浮浪者やならず者の集まった地域、いわゆる貧民窟が存在していた。
この地域のことは一種の禁忌である。大都の住人、果ては大都の守備職である、軍や警察も見て見ぬ振りをしているのが現実であった。誰も進んで関わろうとはせず、触れようとはしない。スラムには一種独特のルールが存在していると言っても過言ではない。
吐蕃暦331年4月末。
このスラムを一人の人物が歩いていた。都市の整備の最も遅れた地域であるそこは、乾いた土――それは赤みを帯びた吐蕃地域独特の色をしていた――と粗末な天幕、そして建造途中なのか破壊されたのか、所々崩れた城壁があるのみで、まるで王都ではないような印象であった。
そこここからの好奇や敵意の視線を浴びる中、その人物は何かを探すかのように視線をあちこちに向けながら歩いていた。
その姿は黒の頭巾にこれまた黒の長いマント、歩を進めるたびにのぞく足もやはり黒革のブーツといった、正に全身黒ずくめであり、その背中に長く突き出した二本の棒状のものがあった。
歩みは堂々としたもので、全くこのスラムという空気に遠慮も萎縮もなく、奇妙な威圧感すらあった。行き交う者たちも興味を引かれて視線を向けてはいるものの、何となく近寄り難さを感じて遠巻きにしているのみであった。
(誰だあいつ…?)
(またえらく毛並みがいいじゃねえか)
(この辺じゃ見かけねえな……)
(政府のヤクニンか?)
(いや、それならあんな妙なかっこしねえだろ)
(たった一人で来るわけもねえ)
そんな囁きが聞こえぬでもないだろうに、その人物は全く気にした風もなく、相変らず何かを探している風に歩いていた。
そんな奇妙な緊張状態が不意に破れた。
数人の男たちが歩いてくるのをかわしそこね、肩がぶつかったのである。
どん、と軽い音とがちゃりと金属の鳴る音が重なる。
「あ、すまない」
短い謝罪の言葉は黒ずくめの人物から発せられた。その声に、怒鳴りつけようとしていた男の動きが一瞬止まる。
「…こいつ、女か!」
その声は意外に響き、周囲の空気が一気にざわめく。
当然のことながらスラムには女性もいないことはない。しかし圧倒的に人数は少ないし、職種も大抵あるものに限定される。スラムにいる女性が珍しいというほどのことはない。しかし、たった一人で、若い女性が乗り込んでくるということは皆無に等しい。
それも美女というなら尚更のこと。
彼女が振り向く間もなく、黒の頭巾が引き摺り落とされた。ふわりと長い黒髪が揺れ、甘い香りが微かに散った。
周囲のざわめきが一層高まる。
頭巾の下から現れたのは若い女性の顔。それも端的に言ってとびきりのつく美女。都の美女を見慣れている彼らでも思わず見惚れてしまう、絶世の美女であった。
頭巾を落とされて、彼女は不快そうに眉を顰める。深い紫色の瞳が周囲を睨み付ける。
「何してんだよねえちゃん、こんなところで」
好色そうな表情でにやにやと口許に笑みを浮かべた男が彼女に顔を近付ける。彼女は益々表情を歪めて男から顔を反らす。
「迷子かあ?ここがどんなとこか知ってて入って来てんのかい?」
反らした先で別の男が先ほどの男と似たような表情で彼女に近付いてくる。彼女は形の美しい眉を寄せて再び視線を反らす。
彼女の明らかな嫌がっている反応が益々男たちの嗜虐心を煽る。しかし彼らは彼女の表情が嫌がってはいるものの、恐怖心を感じてはいないことに、気が付いていなかった。
少しの間に彼女は10人ほどの男たちに囲まれていた。更にその周囲では、近付いては来ないものの、あからさまな好奇の視線が包囲していた。
彼女はふうっと深くため息をつくと、眉を顰めて周囲の男どもをぐるりと見渡した。
「…一応、尋ねてみるが」
やや低めの、よく通る声が発せられる。その声音すら音楽的に耳に美しかった。
「人を探している。『エック』という名の人物だ。この辺りでは占いなどをしていると聞いている。誰か、心当たりのある奴はいないか?」
しかし誰も答えられる者はいなかった。彼女は更に周囲にも視線を向けるが、良い反応は返ってこなかった。
「ねえちゃん、占い師なんかに何の用だよ?」
好奇の表情と声で無精髯の男が一歩近付く。
「男運でも占ってもらおうってかい?」
「そんなもんより俺らと…」
背後から近付いた男が彼女の肩に手を触れようとする。しかし一瞬早く、彼女がくるりと身を翻した。男の手が空を切る。
「私に触れるな」
冷たい声が男を、男どもを打つ。作り物のように整った端正な顔と、美しい紫色の瞳に見下ろされ、男がかっと紅潮する。
「お高くとまってんじゃねえよ、何様だ、貴様ぁ」
スラムの住人に包囲されているというのに、彼女の表情も態度も、恐怖とは全く無縁であった。むしろ好奇で群がってくる男どもを蔑んでさえいる。そこまで気付かずとも、彼らが嫌がられてはいるものの、恐れられていないことは明白で、男たちの自尊心を傷付けるには充分であった。
「……私が何者か知らぬ者に用はない」
ぼそりと呟くと彼女はくるりと踵を返した。まるで包囲している男たちを無視したその行動に、一瞬男たちはあっけにとられたが、すぐに気を取り直す。
「ふざけてんじゃねえよ!このあま女ァ!」
怒声を発しながら、背を向けた彼女に、殴りかかる。瞬間、半身を捻った彼女の腕が殴りかかってくる男の腕を弾く。男は勢い余って地面に突っ込む。
「てめえ!!」
別の男が殴りかかる。頭に血を上らせた男たちは剣やナイフを抜いて彼女に飛びかかる。乱闘が始まった。
「……ああもう、うっとおしい」
心底うっとおしいという表情と口調で彼女が吐き捨てる。何人かの拳をかわすと、体を捻る反動でばさりとマントを跳ね上げる。右手が背中の細長い棒状のものを引き抜く。そして軽く踏み込むと跳躍して体を回転させる。
「ぐえ!」
「げほっ!」
耳障りな悲鳴を発して何人かが倒れる。その中にひらりと彼女が着地する。頭の天辺で束ねられた長い髪とマントがふわりと空を舞い、まるで舞を舞っているかのように美しかった。しかしその手には優美さとは縁薄いもの、鞘に収められたままの長刀が握られていた。
「すぐ終わらしてやるよ、怪我したくないならどっか行きな!」
よく響く、耳障りの良い声が、優美さとはかけ離れた台詞を吐く。言うと同時に左手が背中のもう一本の棒を引き抜く。それは右手のものよりやや短い、鞘に収められたままの刀であった。
乱闘は数分で片が付いた。
呻き声を上げて地に伏す怪我人たちの只中で、元通り背中に二本の刀を収めながら、女が周囲に視線を投げる。結局二本の刀は一度も鞘から抜かれることはなかった。
あっけにとられているギャラリー観客に向けて、彼女は声を張り上げた。
「私の名前は紅珠。『エック』という者を探している。何か情報があったら教えてくれ。相応の礼はする」
そう告げると、地面に落ちたままであった頭巾を拾うと、元通り被り、マントを直しながら歩き始めた。
(人とはなかなか見付からないものだな…)
紅珠は水路の石段に腰掛けて頬杖をつき、水面を眺めていた。
彼女が吐蕃皇国首都・大都に入城したのは二週間ほど前。それから毎日、彼女は人探しを続けていた。仕事のない時間には必ず町を歩き回り、何ヶ所かに散らばるスラムに入り込んでは情報を求め、協力者を集めてきた。
初日に乱闘騒ぎを起こしたことで、「紅珠」の名前はスラム中に知れ渡っていた。もちろんその武勇も共に。そのため腕におぼえのある者から狙われることもいささかならずあったが、しかしそれも彼女の計算の内であった。
スラムにはスラムの秩序があり、ルールがある。もっとも解りやすいものが「弱肉強食」である。反対に言えば、力の有る者はほぼ無条件に一目置かれる存在となるのである。
また、スラムの秩序をある程度制御する役割として、各地域のボスが存在していた。彼らはスラムのことなら何でも把握していた。当然スラムで名が知れるということは彼らに目をつけられるということでもある。彼女はそれを逆手に取った。自分の存在を彼らに知らせることによって近付く機会を作ったのである。
彼女は既に何人かのスラムの有力者や情報屋と接触した。スラムでの探しものは彼らの協力を得ることができればほぼ見付かる。しかしそれでもこの二週間、彼女は探し人に会うことができずにいた。
「まあ、覚悟はしていたからな」
ふっと息を吐くと、彼女は軽く髪をゆすって顔を上げた。その動きに合わせて、しゃらん、と涼しげな音が鳴る。
彼女は、スラムに入り込んでいるときと現在では全く違う姿をしていた。
今身に着けているのはいつもの黒のなめし皮の丈の短いチュニックではなく、淡い若草色の長衣であった。色自体は地味だがその長い袖先や襟や裾には赤や黄の色糸で美しく刺繍が施されており、とても華やかであった。その下は白のゆったりとしたズボンである。
服からのぞく手首と足首にはそれぞれ小さな鈴の付いた輪飾りが嵌められていて、微かな動きでちりちり、と可愛らしい音を立てていた。
普段は動きやすく束ねてあるだけの髪も、今は幾本もの束に編まれていて、玉やリボンが編み込まれたり飾られたりしていて、非常に華やかであった。
その姿は見る者が見れば分かることであったが、吐蕃北方一帯の少数民族のものとよく似ていた。もちろん彼らはここまで派手に飾り付けられた格好はしていない。だが、衣装の若草色はその地域では春を象徴する色であった。
もちろん彼女がこんな派手な格好をしているのには理由があった。
「おーい、紅珠!もうそろそろ始まるぜ!」
水路沿いの天幕から出てきた男が彼女を呼んだ。
「ああ、今行く」
返事をして立ち上がった紅珠の耳元で、台に三つの紅玉の嵌め込まれた耳飾りが揺れ、きらりと西日を反射した。
これから、彼女の大都での「仕事」が始まるのである。
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『天藍』は現在大都で最も人気のある芸能一座である。
メンバーは全員が『砂漠の民』で、各地を旅しながら芸を披露して生計を立てていた。
現在は大都で一ヶ月ほど前から公演を続けている。
『天藍』の公演は一日二回、昼と夜で、一回毎に演目を少しずつ変えており、それが観客を飽きさせず、人気を呼ぶ元となっていた。
演目は様々である。
この日は四、五人の踊り子の登場から始まった。露出度の高い衣装を纏った踊り子たちが、軽快なステップで男たちを誘う舞を披露する。
天井のない藍色の幕を円形に張り巡らせただけの野外劇場で、あかあか明々と燈されたかがり火に照らされて、観客の歓声や囃し声を浴びながら賑やかに踊り子が去ると、軽業師や動物使いの出番である。
美しい女猛獣使いが従順な犬のように巨大な獅子を引き連れて退場しても、拍手は鳴り止まない。むしろ更なる期待が篭められて益々熱くなる。
観客の関心は続く演目に集中する。通称『砂漠の舞姫』の登場。これがここ二週間ほどのこの公演のメインとなっていた。
充分に余韻を引っぱったところで、しゃん、と曲調が変わる。するとあれほど騒がしかった観客がピタリと静まった。
増やされたかがり火の火灯りが周囲をやわらかな明るさで満たした。
賑やかな、聴いているだけで楽しくなってくるような音楽が奏でられる。
《春が来たよ
春が来たよ
天からの光が
我らを包んでくれる
枯れた大地に
光が染み込んでゆくよ》
演奏に会わせて、張りのある、涼やかな歌声が重なる。
高くもなく低くもなく、耳に心地良い、響きの良い歌声であった。
歌に続いて劇場中央に人影が現れる。若草色の長衣に白いズボン、頭には白いレースのベールを被った、その姿に、いったん静まっていた観客たちが、再びわっと賑わう。
幕を張り巡らせただけの野外劇場は、どちらかと言えば演じることが難しい。声も音も動きも、そのエネルギーのほとんどが周囲に吸収されてしまう。
そんな場にあって、しかし彼女の存在は圧倒的な力を持ってその場を魅了していた。
《彼らは天の使者だった
彼らは優しい心だった
女の涙が枯れた大地を潤おして
男の温かさが凍えた生物を解かし出した》
闇を明るく切り取ったかがり火の中、彼女の声が、足先が、腕が、指の一本の動きさえその場のすべての視線を惹き付け、その舞によって語られる物語に、その空間に、観客たちを引き込ませた。
それが、彼女に『舞姫』の異名をとらせ、大都で一躍人気の芸人とさせた由縁、人々を魅了する舞の圧倒的な実力である。
ふわり、と舞いながらターンをし、その勢いでベールを引き落とす。しゃらん、と涼やかな音がして、幾束もの編まれた黒髪が火灯りに煌めいた。ちゃらり、と三連紅玉の耳飾りが揺れる。
ひゅうううーと、観客席から口笛が飛ぶ。
炎に映えて白い顔の中の紫色の瞳がふっと笑みをたたえた。くっきりと施された化粧によってより際立つ美貌が、舞と歌声の魅力に重ねて観客の心を捕らえる。
しなやかに腕が空を舞い、手甲の金属片がしゃりん、とリズムを刻む。
《空とはこんなにも青かったのか
大地とはこんなにもやわらかなものだったのか
水とはこんなにも透るものだったのか
草も木も花も
こんなにも美しいものだったのか
これらはすべて
彼らのもたらした春によるもの》
たんたん、と踵が打ち鳴らされ、足輪の鈴がりりん、と鳴る。
今夜の演目は「春の舞」と呼ばれるもので、元は吐蕃北東の少数民族に伝わるもので、春を迎える祭において演じられるものである。
これは一つのストーリーを楽器の演奏と踊りと語りで表現するというもので、ストーリーは同じでも、表現方法や長さは微妙に違い、演者によっては一週間から一ヶ月近くの時間がかかる。
しかしそんなに長いものはこのような公演の場にそぐわない。そのため、彼女が今夜演じているのはそのストーリーのほんの一部分、長い不毛の時を経て、二人の「天の使者」の働きで、「春」がその地の民にもたらされる、クライマックスの場面である。
その地には長い間、春が訪れるということがなかった。光が奪われてからというもの、大地は枯れて荒れ果て、草木は凍え、生き物は生命を脅かされていた。
そんなある日、男女二人連れの旅人がやって来た。
実は彼らは天から降りて来た使者で、その地の惨状に大層心を痛めていた。
彼らはその地のお姫様の願いを聞き届け、天にはたらきかけた。
彼らの尽力により、天から光が射し込み、大地には再び生命が甦った。
お姫様は彼らに大変感謝して、お礼に舞を舞った。
そのお姫様の感謝の舞が、彼女が今演じているものである。
大きな感謝と喜びを歌ったこの舞は非常に楽しく、賑やかなもので、観客と演者が一緒になって盛り上がることができる。
《春は光
春は命
たたえようたたえよう
我らの大地に春が来た》
即興混じりの演奏と踊りは充分に観客を引き込み、興奮させ、そして共に終焉へと導かれる。
伸び上がった腕が天を抱き、ひらりと身を翻して大地に膝まづく。
こうべ頭を垂れるその姿は祈りにも似て、物語の終わりを表していた。
『砂漠の舞姫』が退場した後も観客の熱狂は止まない。
興奮の続く場内に、笛と打楽器の演奏が軽妙に響く。
派手な仮面を被った男が八方に礼をしながら終演の口上を述べている。
しかしそんな声を圧倒して観客の声はいつまでも『舞姫』を、『天藍』の名を称えていた。
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「お疲れ様、紅珠!」
公演も終わり、何とか観客も全員が帰った後で、楽屋となっている天幕の中で、踊り子の少女が声をかけてきた。
「お疲れ様、茘枝」
舞台衣装を着替え、化粧を落としていた紅珠が振り返る。
「それにしても紅珠って、ほんとすごい。あんだけの数の観客奪っちゃうんだもん。あたしなんか全然叶わない。ほんと羨ましいわあ」
茘枝は『天藍』の踊り子で、やはり『砂漠の民』の一員である。彼女はほんの小さな頃からこの劇団に所属して、踊り子として修行を続けていた。まだほんの少女だが、今夜も第一の演目の踊り子の一人を務めるほどの実力である。そんな彼女のやや紅潮した頬を見遣って、紅珠は苦笑する。
「何を言っているの。あなたも充分魅力的よ。私は私。あなたはあなた。そもそもキャリアが違うわ」
ここで全く謙遜などしないのが彼女という人物であった。しかしそれが全く厭味に聞こえないのは、彼女の持つ雰囲気によるものが大きいであろう。
「ほんと、座長がいきなりあなたをメンバーにしたときはびっくりしたけど、まあ、それも納得だね。『舞姫のいる一座だ』何て言われちゃって、あなたのおかげでうちも大成功しちゃってるしさ」
「ああ、感謝してるよ。急にお願いしたにも関わらず、私を受け入れてくれたしな。いきなり演目を一つ持てと言われたのはさすがに驚いたがな」
苦笑しながら髪を簡単にまとめると、彼女は長いマントを手に立ち上がろうとした。その様子に、茘枝が目を丸くする。
「あれ、また今夜も出かけるの?たまにはご飯でも一緒に食べようかと思ってきたのに」
やや残念そうなその言葉に、紅珠は一つ瞬きすると、微笑んだ。
「…ああ、ありがとう。だがもう行かねばならないんだ。座長に朝までには戻ると伝えておいてくれ。――ご飯はまた、今度一緒させてくれないか?」
「――うん、わかったよ。いつものことだしね」
そう言って頷く茘枝に軽く頭を下げると、紅珠は荷物とマントを持って天幕を出た。
天幕を出たところで両肩に二本の刀を担ぐと、その上からマントを被った。
(今日は…北の方へ行ってみるか)
夜更けになっても明かりの消えない大都の町を、紅珠は静かに歩き始めた。