1.花の祭
まわれよ まわれ
緑の束は てっぺんに
白い 乙女の手で
大地は 火をおこ熾し
火は 風を呼び
風は 水を揺らし
水は 大地を潤おし
そして大地は 緑を生む
だから
おどれよ おどれ
裸足の爪先で 緑がおどる
白い花かがり 裾に散らし
おどれよ おどれ
くれないの乙女の腕に
緑の束を その腕に
(トゥバン吐蕃の春祭りに歌われる民謡より)
1.花の祭
吐蕃皇国西部の有力国、沙南公国はこの時季、本格的な春の訪れを迎えるため、その準備に人々が忙しく立ち働いている。特に5月は農業を本格的に始めるに当たって、豊作を願っての春祭が催される。
この春祭は、沙南公国に限らず吐蕃全土で、少しずつ時期や内容を変えて行なわれているものである。
沙南公国の地形は盆地でやや緯度も高いため、気候のわりには春の訪れは遅い。しかし年間を通して比較的温暖湿潤な土地柄であった。また、沙漠との境界に一本の南部へと流れ下る川があり、そこから水を引いた水路が公国内部に張り巡らされている。これは先年まで吐蕃皇国全土で行なわれていた運河造営事業の一環として整備されたもので、吐蕃皇国首都、大都まで直通の水路もある。
地形は西の沙漠から川を隔てた平地から、北、東、南側の山地へとなだらかに高度を上げていく。そのなだらかな地形の高低が、緩やかな季節の変化を生み、多様な自然の恵みをもたらしていた。
現在沙南公国の経済の主力は東西交易、地下資源の発掘、金属精製であった。農耕も行なわれているが、地形上、あまり広い耕作地は取れない。そのため、穀類よりも果樹や野菜の栽培が中心となっている。しかし全体として沙南は豊かな国である。何よりも三つの大陸横断交易路の内の一つ、「沙漠の道」の東側の終着点であり、交易の拠点となっていることが大きい。交易商人の間で「緑の宝石」などとも呼ばれているところからも、その繁栄ぶりがうかがえるであろう。
嵐が沙南公国領内に入ったのは初夏の頃、吐蕃暦331年の5月のこと。丁度沙南では春祭の準備が行なわれているところであった。
「なるほど噂通り大した町だのう」
祭の準備に賑わう沙南公国中心市街地の一角に、嵐は立っていた。
嵐にとって沙南は初めて目にする吐蕃の大都市であり、初めての大都市でもあった。そのため冷静に観察しようとしていて、実のところ興味津々な感情を抑え切れるものではなかった。
沙南の町の中心に、西公の住まう屋敷兼沙南公国府がある。
西公とは通称で、吐蕃皇によって「公」の称号を与えられた者が治める三つの公国のうち、皇国の西側に位置するのが沙南公国であることから、沙南公のことを代々、「西公」と呼んでいるのである。現在の西公は珪潤という、30代前半の若き統治者である。
沙南公国府は別名「雲水城」と呼ばれている。
西公の住まう屋敷や行政府などたくさんの建物がある周囲は大きな楕円形の土壁で囲まれていて、更にその周囲を三重の堀が囲んでいる。その堀で区切られた区画毎にエリアが分かれていて、内から住居区、商業区、農耕区、となっている。
そして公国府の南側は三重の堀の上を塞いだ大きな広場となっていて、国の行事や年に二度の大市など、多目的な場所として使用されていた。
沙南の春祭で中心行事が行なわれるのも、この広場である。
町の北側から沙南公国に入った嵐は、忙しげな人々の間をのんびり歩きながら広場まで辿り着いていた。
「これが有名な沙南の水上都市か…」
呟きながら見上げる嵐の視線の先に、沙南公国府がある。土壁造りの堂々とした、しかし素朴な、まるで塔のように見えるのが、公国の政治が行なわれている国府庁舎である。
その他の建物も同様の造りで、屋根部分は緑色のまる円瓦で葺かれていた。それが周囲の堀に湛えられた水や、耕作地と調和して、非常に穏やかで美しい風景を作り出していた。
これが沙南公国府が「雲水城」と呼ばれる由縁であり、沙南中心地が「水上都市」と称される由縁でもあった。
「何だかほっとするのう…」
うんっとのびをした嵐の表情が我知らずふにゃっと綻んでいた。その時丁度側を通りかかった老婆がにこりと笑いかける。
「あら坊や、お城は初めて見るの?大きいでしょう?」
「……ああ、まあ」
(………『坊や』……)
さすがに数秒言葉を失っていた嵐であったが、とりあえず無難な答えを返す。
「坊や、沙南は初めて?」
しかし何の疑問も感じなかったらしい老婆は尚もにこにこと嵐に話し掛ける。
「…ええ、まあ」
嵐も彼女に合わせて笑顔を返す。
「いい時期に来たわねえ。ここのお祭はほんとに賑やかで楽しいのよ。私は毎年この時期が待ち遠しくて」
「…確か、祭は明日からとか?」
「ええと、そうね。明日の夜からね。でももうあっちの方ではお店もいっぱい出ているわよ」
老婆がにこにこした表情のまま、北の方を示す。嵐がそちらに目をやると、広場から外の通りにかけて、黒山の人だかりと色とりどりの天幕が続いていた。恐らく沙漠を渡ってきた商人たちも、そこで店を張っているのだろう、と嵐は思った。
「ししょー!!」
その時どこからともなく、過ぎるくらい元気な大声が聞こえてきた。その既に聞き慣れた声に、何となく嵐はほっとする。
「ああ、では連れが来たようなのでわしは…」
嵐は老若男女問わず苦手にすることもないし、大抵の人間とすぐに仲良くなることができるという特技を持っていたが、さすがに『坊や』扱いをされることは精神的に辛かったらしい。しかしそんな感情を表面に出さないのも、嵐という人物であった。
「あらあら、引き止めちゃってごめんなさいねえ。ではごめんくださいまし」
最後までにこにこしたまま、老婆はゆっくりと歩み去っていった。
老婆と入れ替わりに元気な足音が近付いて来る。
「師匠、お待たせしましたー…って、あれ?どうかしました?」
「…いや、何でもない」
元気良く駆け寄って来た百が、きょとんとした表情で嵐を見下ろす。
(どちらも疲れる…)
内心ため息を吐く嵐の周囲には、珍しくどんよりした空気が漂っているようであった。
「師匠、言われた通りの宿を見つけてきました!大きな荷物はおやじさんが預かってくれるってんで、お願いしてきました!それからいち市は城の東の方にたくさんあるそうです!」
百が元気良くはきはきした口調で嵐に報告する。こころなしか姿勢も直立不動である。
「うむ、御苦労であったのう、百」
「えへへ…」
嵐のねぎらいの言葉に、百が嬉しそうに笑う。まるで子供である。
(よくもこれほどに素直な人間が育つものよのう)
百と出会って行動を共にするようになって数週間、既に嵐は感心の域にまで達している。
百の嵐に対する『師匠』という呼び名は、嵐の妥協の結果である。
当初百は『お師匠様』と呼びたがっていたのだが、それはやめてくれ、と嵐は固辞した。嵐は普通に名前で呼べばよい、と言うのだが、それは百がどうしてもだめだ、と譲らない。『お師匠様』が駄目なら『先生』と呼ぶ、と言われる始末。それならばまだ『師匠』の方がましだと嵐が折れたのである。百とは意外に頑固者であるようだった。
「あ、師匠、これ知ってますか?これ、春祭の塔なんです。まだ出来上がってないみたいだけど、花とかいっぱい飾って、すっげーきれいになるんですよ!」
百が広場中央を指して言う。
そこには2〜3メートルほどの高さの塔があった。塔の胴体は鮮やかな緑色の草で作られていて、現在も二、三人が飾り付けの真っ最中であった。周囲にはこれから飾り付けるらしい草や花が並べられていた。中でも真っ赤な大きな葉の束があるのが、目立っていた。
「オレ、昔、祭に連れてきてもらったことがあるんです。そん時と同じだ――」
懐かしそうな表情をする百に、嵐が微かにからかうような表情を向ける。
「お母上に連れてきてもらったのか?」
「父ちゃんも、アニキたちもいましたよ。すっげー賑やかで楽しかったーー」
しかし嵐のからかいの表情には気付かないまま、百はにこにこと懐かしい記憶を甦らせているようであった。そんな百の屈託のない言葉に、嵐も安心したように口許を綻ばせた。
百は数週間前まで、ちょっとした感情の行き違いから母親に素直になれないでいた。母親の愛情を素直に信じられず、しかし彼自身はとても母親を愛し、大事に思っており、そんな自分の感情も素直に認められない、そんなジレンマで内心葛藤を続けていたのである。それはちょっとした百の思い込みと親子の感情の行き違いが原因であったのだが、嵐の言葉でそんな親子の感情の縺れが解けたのである。以後百と母親の関係は回復し、百は嵐を尊敬するようになり、つい終には嵐の旅について来ることになってしまったのである。
百と母親の関係が修復されたのは喜ばしいことだと嵐も思っている。しかし百がついて来てしまったのは計算外であった。
(まあ、よいか。なるようになるであろう)
それは諦念なのか楽観視なのか、嵐にも区別はついていなかった。
嵐がそんなことを考えている間、百は昔の記憶をたぐるのに夢中であった。
「そうそう、確かこの塔の周りで皆が踊るんです。そんで花をもらったりしたっけ」
「そういえば沙南の春祭は花の祭とも言われておるそうだのう」
嵐も記憶を辿る。といっても彼の場合は書物で得た知識であったが。
「確か毎年祭の象徴として一人の乙女が選ばれ彼女の舞いで沙南に春を招くとか。選ばれた乙女は『春の使者』として公に花を捧げ、それをもって祭を締め括るそうだな」
嵐の言葉に百が目を丸くする。
「へえー、そうだったんだあ。オレ、ずっと昔に来たっきりだから、あんま知らないんすよ。さっすが師匠!本当に物知りですねー!!」
きらきらと尊敬の念に目を輝かせる百に、嵐は微かに苦笑を浮かべる。
そんな会話を交わしながら、二人は広場から市の立つ東の通りに入っていた。
広い通りの両側には東西の珍しい産物が並べられた露店がぎゅうぎゅうに立ち並び、まだ祭の本番は始まっていないというのに人々が賑やかに行き交っていた。
嵐はここで馬を買うつもりでいた。旅の始まりから馬がほしいと思い続けているのだが、実はまだ手に入れることができずにいたのである。
「ところで師匠、何で馬がいるんですか?荷物ならオレが全部運べますよ。それに吐蕃までなら船に乗ればいいんじゃないんすか?」
百が尋ねる。実際、彼はキセ黄瀬から嵐と百、二人分の荷物を一人で運んできていた。嵐は自分の荷物は自分で持つからと何度も言ったのだが、「雑用は弟子の仕事です!」と百が主張し通したのである。
といっても嵐の荷物は必要最小限しかなく、百とてそれは同様であったため大した量ではなかったのだが。それでも百が本気でこれからも荷物持ちを続けようとしていることを、嵐は疑っていなかった。しかし嵐は別に荷物運びのためだけに馬を欲しがっているわけではなかった。
「足が欲しいのだよ。自由に動ける足がの」
「船じゃ駄目なんすか?」
「ああ、自分の足が欲しい。それに船よりも馬の方が早い」
嵐のきっぱりとした言葉に、百は尚も不思議そうであった。
しかし他人に何と言われようと思われようと、嵐にとってこれは譲れなかった。一刻も早く自由に移動できる手段を手に入れること、そして一刻も早く吐蕃の首都、大都に辿り着くこと。これが今の彼の至上命題と言ってもよかった。
(後二ヶ月…いや、一ヶ月。一ヶ月だ。一ヶ月の内に大都に行く。そのためには…)
「あ!師匠、見てください!あれ、果物のジュース、美味いんすよ!!飲みましょーよ!」
つい自分一人の思いに沈みそうになっていた嵐を、百の元気な声が妨げた。嵐が目を上げると、鮮やかな赤や黄色の柄の天幕の下で、様々な果物を山と積んだ店があり、その横で果汁を絞って冷たく冷やしたジュースが売られていた。天気が良く気温も上がっているためか、かなりの売れ行きのようである。
「無駄遣いをしておる余裕はないのだがのう…」
ぽつりと口の中でぼやいたものの、嵐は百に引かれるままにジュース屋に向かった。
(まあ……このような旅も良いか)
百に引き摺られる嵐はぶちぶちとぼやいていたが、決してその表情は不愉快なものではなかった。
市には様々な店が建ち並んでいた。
沙南特産の果物や鉱物から作られた金属器や装飾品があるのは当然のこと、西方の珍しい果物や物品がたくさんあるのは、「沙漠の道」によって沙南が繁栄していることを象徴的に示していた。
西方から来たものは売り物ばかりではなかった。美しい鳴き声の色鮮やかな鳥、滑稽な動きを見せる鼠などの小動物など、愛玩動物は人気商品の一つであった。また、売り物ばかりではなく、動物同士を闘わせる見世物も人気があり、そういった見世物には沙南公国民ばかりではなく、この祭に集まった各国の人間がたくさん集まり、皆それぞれ楽しんでいた。また公然とではないが、往々にしてそのような見世物では賭けが行なわれていたりもした。その他には雑技の見世物なども祭では人気があった。
そんな見世物小屋の一つで嵐はのんびりと酒など嗜みながらその辺の人間たちと世間話に興じていた。一方、百はその見世物、腕相撲の勝ち抜き戦に出場していた。現在のところ三人抜きの真っ最中である。
「…『皇公会議』?」
嵐が眉根を寄せながらおうむ鸚鵡返しに問う。
「そう。この夏にみやこ都でやるらしいぜ」
頷いた男は、そう言うとぐいっと杯を干した。「もう一杯ね〜」と斜向かいで酒を売っている売り子の少女に赤ら顔で笑いかける。
「しかしそのような話、聞いたことがないぞ」
「そりゃそうだ。今聞いたんじゃねえか」
「いや、そういうことではなく…」
男たちのやや調子外れの笑い声の中で嵐は苦笑する。まだ真昼間というのに、すっかり男たちはできあがってしまっているようだった。その中でちびちびとやっている嵐は、まだ全くのしらふ素面であったが――そもそもが酒に強い男なのである。
「ああ、でもな、俺も結構最近聞いたぜ、それ。やっぱ急に決まったんじゃねえか〜?」
東方の国々から商品を仕入れてきたという男が言った。
「…そうだよな。確か今年の夏は試験があるはずだろ?都の工事もあるし、変だよな、こんな時期に会議なんて」
「変じゃねえよ、なんたって皇サマのことだぜ?ただ単に思い付いたってことじゃねえの?」
「おいおい、そんなん役人に聞かれてみろよ、おまえ首が飛ぶぜ?」
首に横に手を当てて引く動作をしながらの台詞に、嵐が首を傾げてみせる。
「…ああ、都じゃあ皇の悪口言っただけで両手が後ろに回るなんていうんだよ。ま、ほんとかどーかは知らんがね。でも実際、昔より役人が厳しくなったって感じはしたがね」
昨年冬に皇都・大都にいたという男が言う。
「なんかさー、やりにくくなったよな。規則だかなんだか知んねえけど、役人どもが最近うるせーのなんの。前はどこで店やってようが文句なんて言われたことねーんだけど、こないだなんか、くじひかされてさ、それで場所決めさせられたんだぜ、違うとこで店やってた奴は捕まって罰金取られたって聞いたしな」
別の、やはり大都にいたという男の台詞に、会話に加わっていた男――旅商人たちが一斉にざわめく。それぞれが顔を歪ませて嫌そうな表情をしている。
その中で嵐は冷静に考えを廻らせている。
(確か、現在皇都では新しい都を建設途中であったな。そしてそれは東西の道路できっちりと区画整備された計画都市であると聞く。住宅地も身分で階層分けがはっきりしていて、一般庶民は都の中に家を持つこともできぬと聞く。その代わり、都の城壁内部はイメージが統一され、たいそう美しいものになっていると聞く。
であれば、おそらく臨時の市の開かれる場所などもしっかり決められているということなのであろうな。そしてその内訳もその都度抽選できっちり分けて管理するというわけか。いや、そのときに場所代を取っていたりするかもしれぬし、ある程度人物を選んでおるやもしれぬ。――まあ、良し悪しはともかく、窮屈な感じにはどうしてもなるであろうな。
それにしても、『皇公会議』か。確か前回行なわれたのは三年前、皇位継承の儀のとき。それ以降は大きな会議は行なわれておらぬはず。しかもここ数週間で開催が決定され、しかも日時が二、三ヶ月後…いかにも性急で異常だ。それほどに緊急の事情があるのか?それとも―――)
考えを廻らす嵐の耳に、わっと歓声が届く。
「ししょー!八人抜き達成ですー!!新記録だそうですー!!!」
その歓声を突き破って自称・弟子の声が嵐の意識を現実に引き戻す。嵐が視線を遣ると、百がにこにこと満面の笑みを浮かべながら、両手を大きく振っている。嵐も軽く手を振ってそれに応えた。
腕相撲はまだ続いているようであった。記録を更に伸ばすこととしたらしい。わくわくして、楽しくて仕方ないのだろう。相手を迎えて構える百の表情は今までで一番いい表情をしている、と嵐は思った。
それにしても、と嵐は考える。
(やはりあやつは相当力があるようだのう。伊達にきこり樵をやっておったわけではないようだ。やはりあやつを活かすのは戦闘用員としてか)
嵐は百を弟子として迎えているつもりはない。実際、それは百にもはっきり告げてある。それでもよいならついてきていい、と告げると、それでも百は嬉しそうに頷いたのだ。
嵐は、実際のところ、百に何も教えることができないわけではない。学の無い百に文字や計算を教えることもできるし、嵐自身が今まで蓄えてきた知識を伝えることだって、可能である。しかしそれは決して百を高めるものではない、そう嵐は何となく思う。もちろんそうして悪いことはない。だがそれで百は何をすることができるのか。百は決して頭は悪くないと、嵐は思う。だが彼に学問が似合っているとは思わない。彼を活かす道は、必ず別にある。その方向へ導くことができないなら、自分に百の『師匠』たる資格はない、と嵐は考えている。しかし。
(……わしにあやつを鍛えることができるわけがないではないか)
自分が百に戦闘技術を教える様を想像すると、笑わずにはいられない。どう考えても百のほうが嵐よりは強い。もちろん、嵐の杖の力を使えば別だが、それでは百を鍛えることにはならない。
(それにあやつには別の力も感じる。…恐らく、術力だ。かなり微弱だしその性質も探れぬが…どちらにせよ、術力の無いわしにはそれもどうしようもないこと)
嵐は術力の篭められた杖を扱うことはできるが、彼自身に術の能力は無い。術具が使えるとは言っても、術具であれば何でも使えるかといえば、そうではない。
ひとことで言えば、嵐には戦闘力はまったく無いのである。以前、沙漠の街で出会った女戦士には簡単に見破られてしまったように。ついでに言えば、彼の持つ術具も、基本的に守護の術具である。『過剰防衛』を『攻撃』の力に応用することがせいぜいなのである。
(…どうすればよいのかのう……)
一番よいのは百の戦闘能力を引き出し、効果的に鍛えてくれるような人物に彼を預けることである。しかしあいにく嵐にはそのような人物に心当たりはない。そもそも吐蕃国内に人脈は無い。旅の中で何人もの戦士には出会ったが、百を預けられるほどに信用できる人物というのは、残念ながらいなかった。
(…いや、全くいないこともないが――)
たった一人、信用してもよいと思える人物は、しかし所在が知れない。
(信用できぬ者に百を預けるわけにはいかぬしのう)
嵐は百を弟子としては認めていないが、かといって百に責任を感じていないわけではない。何よりあそこまで無邪気に慕われて、無碍にできるほどには嵐も冷血ではなかった。
(――仕方ない、やはりわしがなんとかするしかないかのう…)
考えている嵐の視線の先で百が九人目の相手に多少てこずったものの、見事に勝ち抜いた。
「後一人で十人抜きだ!!」
司会の男が芝居がかった口調と仕草で叫び、観客がどっと沸く。百の十人抜きを応援する者もその阻止を期待する者も、皆益々期待のこもった視線を競技台に集中させる。嵐も丁度こちらを見た百と視線を合わせ、頷いて見せた。ここまできたら、十人抜き、是非達成してもらわねば。
それはそれとして。嵐は仕入れねばならない情報があった。
「ところで教えてほしいことがあるのだ。馬を手に入れたいのだが、どこで手に入るのだ?」
嵐はここに来るまでも市の中をくまなく回ってみた。しかし生憎乗騎を売っているところはなかった。もちろんまだ祭の始まる前であるため、準備中の店も多かったが、しかしそれにしても一軒もないというのは不思議なことであった。
嵐の問いに、商人の男たちは困ったような表情をした。
彼らによると、現在個人で馬を手に入れるのは少々困難なことであるらしい。
良質の乗騎は、主に北方が原産である。東方も馬の原産地であるが、こちらはどちらかというと農耕作業に向いたもので、体力、持久力はあるが、速力は鈍い。それでも乗騎にならないわけではないが、それすら今は余裕がないという。
理由は、長年続いている皇国中での巨大土木工事である。
先年までは皇国中で運河が建設されていた。それが一段落したところで、今度は二年前の遷都に伴う都の建設工事である。それがまた先例のないほど壮大なもので、各公国をはじめとして皇国内から供出された労働力や物資は相当に膨大なものである。当然、馬や牛なども物資運搬その他の目的で多量に供出されている。そのため、最近では一般市場に馬や牛が出回ることは稀なのだという。
「まあ、そうだなあ。北に行きゃあまだ、手に入れられるかもしれねえ。だがなあ、あそこはなあ」
「遠いだろ」
「あぶねーしな」
「いや、最近は大分安全だぞ、あの辺は。ほら、お妃様が北の方の出身だろう?だから北の方は最近結構優遇されてんだ。おかげで騎馬民族も行動をおさえられてるらしい」
「そうか…どちらにせよ遠いのう、北は」
嵐が苦く笑う。北の遊牧民を、嵐は恐れることはない。しかし彼らと接触しようと思えば、首都の大都よりも北へ行かねばならない。それでは意味がない。
「そうだ。東へ行ってみるといいかもしれんぞ、今の時期なら」
ふと一人が思い出したように言う。
「東公のところでも、もうすぐ祭だろう?あそこは王妃様の出身地だから、国も大きくて豊かなんだ。何より東公はお祭が好きで武勇の者が好きでな、力自慢の者を集めて格闘技の大会をひらくのも好きだし、武器関係も比較的楽に手に入るんだ。それにあそこは北との付き合いも結構ある。馬も手に入るかもしれんぞ」
彼の言葉に、嵐は表情を変える。
「ああ、それに東の祭の武術大会に優勝したら何でも好きな商品がもらえるって噂だな」
「まあ、それは噂だし、今から行っても大会には間に合わんかもしれんが…でもまあ、行ってみる価値はあるんじゃないか?」
「東か…」
嵐は本気で思案する表情になった。
ここ沙南から東の公国へは、もちろん運河が繋がっていて、直通の船便もある。また、定期便を使うなら、吐蕃王国へは東の公国を経由することとなる。旅程として特に問題はない。
また、東は現在後宮で最も位の高い「王妃」の称号を得ている姫君の出身地であり、吐蕃の中でも歴史ある由緒正しい家柄の一族の治める国である。嵐としても充分に興味のある国であった。
「百選手、見事十人抜き達成ーーー!!!」
そのとき、どっという歓声と共に司会の男の一際大きな声が周囲に響いた。
嵐が振り向くと、百が両手を上げて観客の歓声に応えているところであった。百が嵐に向かって滅茶苦茶に両手を振り回している。嵐もにっこり笑って手を振り返してやった。
(…せっかくの祭だが、あまりのんびりしておられぬようだな)
嵐は既に心を決めていた。
二日後の早朝、嵐と百の二人は東行きの定期便船に乗り込んでいた。
向かうは東の公国、沢東。到着するのは順調にいって一ヵ月後のこととなる。