訪問前夜、不安定さと危うさ
どうも水ようかんです。
前回は申し訳程度のコメディと、情報整理でしたが、今回はそれを受けて二人が今後にどう臨んでいくのかを描きました。
どうぞお手柔らかに。
目を覚ました時には、自分はどうやら窖の中に横たえられており、傍らには鬼の少女の姿があった。
どれほど長くの間意識を失っていたかは判然しないが、まさか数日ということもあるまい。未だ頭がずきずきと痛みを残響させていた。
「おはよう」
「おはようじゃないわよ、馬鹿」
徐に身体を起こし、膝を抱えて座っている伊豆乃と向き合う。
地面には木の葉が敷き詰められており、窟特有のごつごつとした感触はなかった。ここが彼女の言っていた塒だろうか、と起き抜けの頭で考える。
入口から数米の所に自分達はいた。どうやらまだ奥があるようだが、そちらは暗澹とした闇を湛えており認識には及ばない。それでも目を凝らすと、動物の骨や木の枝、繁茂する苔などがあった。勾配は殆どなく、柊真が中腰になれば歩ける高さ、両腕を広げた程度の幅だろうか。扁平な造りをしているらしい。伊豆乃以外の獣にも打ってつけの洞穴なようだ。しかし今は他の生き物がいる気配はなかった。気配を殺した猛獣が潜んでいる可能性もあるが、気配は消せても臭いは隠せまい。この窟にいるのは柊真と伊豆乃のみだ。灯りはないが、入口からの月光が洞窟内をも仄明るく照らしている。……月光?
「夜なのか」
そう零すと、伊豆乃が頷く。
「外に行ってもいいか?」
柊真は返事を待たずに穴から這いずり出し、空を見上げた。
満天の星空であった。
それらは宛ら木々の間隙をも埋め尽くすようにして鏤められていた。天穹に貼り付く幾千幾万もの綺羅星が煌々然として光輝を放っていた。中天には一等星の群れ、群を成した星は蛇にも蠍にもとれる列を描き黒穹を横切っていた。
言葉を無くす柊真の横に、同じく這い出てきた伊豆乃が並ぶ。
「そんなに珍しい?」
「……ああ、珍しいとも」
摩天楼に漂う塵とガスと灯りが如何に星の光を掻き消すか、伊豆乃は知らないのであろう。満天の星空というものを知識としては知っていても、それらを収めた写真集を見たことがあっても、直接この網膜に灼き付けたのは柊真にとって今が初めてのことである。
空気は不純なものの存在を許さぬように只管澄み、彼の肺を浄く満たしゆく。
縹渺たる夜空を仰ぎ、玲瓏たる星々の下、二人は暫くの間そうして洞窟の入口で座っていた。
「……ねぇ」
静寂を先に打ち破ったのは伊豆乃の方。
柊真は星空から目を離し伊豆乃に向ける。暗褐色の大きな瞳がこちらを真っ直ぐ捉えていた。
「明朝ここを発って、あの村に行こうと思うの。けど、わたしは近くまで案内するだけで、入村はあなただけで臨んでもらうわ」
その言葉に柊真は思う所があったが、黙して耳を傾ける。
これは鬼の住まう村に単身で挑めと言われたも同然である。否、彼女はそう言っている。
柊真に内在する鬼への恐怖畏怖は、伊豆乃という一例だけで拭えるものでは到底ない。鬼が人と同じように知性を獲得しており、気性に各々個体差があるというのは既に分かりきっていることではある。
しかし、それとこれとは話が別だ。牛のような角を持ち、虎のような力を備える鬼という存在に、柊真はきっと睨まれただけで萎縮し怯懦するだろう。
更に言えば、頑陋たる習わしに則る連中が、柊真という異種の部外者を快く迎え入れるわけがないように思えた。尤も、追放したはずの禍津鬼の少女に同伴して村を訪れるというのは彼らを徒に刺激しかねず、論外と言えたが。
さて、ではどうしたものか。
「あなたが考えていることは大体分かるわ。あなた、わたし以外の鬼が怖いんでしょう? 大丈夫、あいつらは身内には厳しいけど、外の世界には基本的に寛容だから。そしてだからこそ、あなた独りじゃないと駄目なの。わたしが付いて行っても、余計な波風を立てるだけ」
そう諭されるように言われ、柊真は首を縦に振りかけた。ああ啖呵を切ったものの、いざ事に当たれと言われるとどうも気が後ろを向いてしまう。
「君が謂れのない迫害を受けていたことは赦せない。これは俺の偽らざる気持ちだ。でも、相手が鬼だというのなら、俺はそれに面と向かって話をできる自信がない。少し気分が落ち着いたお蔭か、頭が冴えてきたんだ」
木の幹ほどもあろうかという豪腕と、巨岩の如き体躯を前に、冷静でいられる気がしなかった。
そう言うが速いか、途端に額が痛みを帯び始める。見ると、伊豆乃の目は氷のように鋭くこちらを射竦め、気温が何度か下がったようにすら覚えた。
「……そう。そうなの。いいのよ、気になんてしてないから。そういう可能性もあると思ってたから。ただ、そうね、夢幻泡沫の甘言に弄ばれたという怒りと屈辱と残念な気持ちが綯い交ぜになって――」
口の中が瞬時にして渇く。まずい。弁明をしなければ。そう思えば思うほどに舌は上手く動かず、柊真は口をぱくぱくさせることしかできない。
「――あなたを殺してしまいそうだわ」
その言葉と、頭蓋を劈く激痛と、どちらの方が速かっただろうか。茨の棘が頭の中に幾つも生えてあらゆる場所を傷付けていくような痛み。硬い岩石で何度も頭の中を叩き付けるような痛み。無理矢理に手か何かで頭の中を拡張するような痛み。脳味噌を踏みつけられ握り潰されるような痛み。電撃が頭の中をのたうち回るかのような痛み。頭の中に液体窒素でも流し込まれたかのような痛み。燃え盛る火焔が頭の中を蹂躙するかのような痛み。
気が付けば、というまでもなく、柊真は岩場も構わず転げ回り、痛哭し、感覚を何倍にも凝縮した痛みの極致に陵辱された。
この時の柊真には、気を失うということがどれほどの救いに思えただろう。痛みからの逃げ、苦しみからの逃げ。それを得られるのなら死さえも甘受しえた。
しかし神は、或いは伊豆乃は、彼に一縷の救いも許さなかった。際限ない苦痛を克明な意識に刻み付けるのが、一種の試練として課せられているようだった。
全身を引き裂かれるような痛みに苛まれ続け、柊真は漸々と激痛から解放される。
痛みは引いたのだろうか。身を苛む苦痛の残響を錯覚する。手足はついているのだろうか。見て、触って、自らの五体が満足であることを確認する。
「殺しはしないわよ。あなたがわたしを失望させたって、激怒させたって、絶対に殺さない。宣言したでしょう? その志を半ばで折ってもらうわけにはいかないもの。でも、わたしの意にそぐわない言動や行動があった場合は、今みたいに苦しんでもらうから。ほら、何か言うことは?」
超然と、伊豆乃が柊真を見下ろす。
奇しくも、膝を屈し頭を垂れる柊真の姿は、少女に跪き恭順と忠誠を捧げ(させられ)る奴隷のようであった。
「……分かった。君の考えに従うよ」
ならば彼女より齎される痛みは、鞭か孫悟空の緊箍児といったところか。少しでも彼女の気分を害するような真似をすれば、再び先刻のように痛哭せねばなるまい。
柊真は、自身の意志に関わらず鬼達の懐に飛び込まなければならないのだと思わざるを得なかった。無論これは自分の蒔いた種ではある。それは自覚するところにあるのだが、先述した通り、彼は今尻込みしていた。頑陋とした部落の人々に、余所者の人間が文化因習に異を唱えてすんなりと受け容れられる道理などない。ましてや相手が鬼ともなれば、柊真のような筋力に乏しい現代人は一捻りでのされるに違いない。ならば、どうしても柊真は下手に出て対談を進めねばならない。しかし、初めて顔を合わせる人間が下手に出て提案をしたところで、誰が聞く耳を持とうか。ましてや、それは生活の基盤とも言える習わしを否定する内容なのだ。喧嘩を売り反感を買い、忽ちにして柊真の身は保障されざるものとなる。生まれて十余年にして、己の半生を顧みて終わるなどしたくない。
浮かんでは消える泡沫のように、恐れと悔やみが幾度もよぎる。
かの集落に赴いたところで、伊豆乃は傍にいない。独りで、自分の身を守らねばならない。そして、伊豆乃を裏切るようなことはあってはならない。痛みが怖いのではない。幾千幾万の恐れがあろうと、男として、捧げた誓いを違えるようなことはあってはならないのだ。
気持ちに整理はつかないままだったが、それでも事に臨む他は無い。
柊真の返答を是としたのか、伊豆乃はそれきり何も言わなかった。洞窟の入口に柊真を置いて、彼女は先に塒へと戻っていった。
夜は更ける。冷たい風が頬を撫で、先行きを案じる柊真をからかうように通り過ぎた。
副題にもあるように、今回は柊真の決意と恐れによる不安定な心情、そしてそれを許さない伊豆乃の危うさを主眼に置いています。
伊豆乃に関しては、歳相応の幼さと鬱屈した経験による危険性がマーブル模様を作っています。
この二人が物語をどのように彩るのかは、誰にも分かりません。
連続投稿はここまでです。これからは今作の続きの執筆に取りかかるか、はたまた別作品に食指が動くか。いずれにせよ、早めに投稿できるよう尽力して参りますとも。
ご読了いただき、恐悦至極に存じます。