遭遇、そして誓い
ドーモ。ミズヨーカンです。
人物絶対殺すマンの私ですが、今回は誰も死なないと思います(少なくとも今のところは)。
それではここから一章です。
どうぞお手柔らかに。
柊真は見知らぬ場所にいた。
「……?」
辺りを見回すと、鬱蒼と茂る木々ばかりが目に入った。道らしい道も無く、森のど真ん中に突然放り込まれた、という印象を受ける。
摩天楼に囲まれて育った柊真は、長期休暇で訪れる母の実家周辺でしかこのような光景は見たことがない。見憶えのない土地は忽ちに不安感を煽り、困惑と焦燥を柊真に植え付けた。
腰ほどの高さには歯朶植物や低木が繁茂しており、湿った腐葉土が柊真の靴を呑み込まんとする。頭上高く屹立する楢や樫、樺、欅、椚などの木々は、日光を奪い取るかのように遮っている。諸処より差し込む陽光が光芒となって地面に近い植物の恩恵となっていた。
なるほど都会の喧騒とは無縁なこの地、時が動いているのか止まっているのかも疑わしくなるほどの静謐を湛えたこの森は、喧々囂々の生活を当たり前に送ってきた柊真にとって、陰陽にも相当する変化であった。
さもありなん、柊真は胸に去来した困惑と焦燥のやり場も分からず、暫くは無為に辺りを見回していた。
しかし茫然自失とするのも束の間、眼前に広がる光景を徒に網膜に映す柊真の耳に、風が織り成す木の葉の合奏に不協和音が混ざった。五時の方向、ここからは風下の位置に何かがいる。人だろうか、動物だろうか、はたまたそのどちらでもないか。鬼が出るか蛇が出るか、意を決し振り返る。丁度異音が聞こえた方向には、樹木が聳えていた。柊真は木の陰に目を凝らしつつ、ゆっくりと近付いていく。しかし音のした樹木まであと数歩の所で、今度は四時の方向から何かが駆ける音が聞こえた。反射的にそちらを向く。その瞬間、初めに柊真が注目した木の陰から何かの影が飛び出した。影は柊真に姿を認めさせることなく、そのまま森の深奥へと消えていってしまった。
(二兎を追う者は一兎をも得ず、か)
息を吐いて緊張を解く。恐らく先刻のは狸や鼬といった獣の類だろう。
気を取り直し、柊真は改めて周囲を見回す。道らしい道も見当たらず、辺り一面を深緑が埋め尽くしていた。
こういう場合はどうすればいいのだろうか。柊真はその場で考え込んだ。
まず頭に浮かんだのは、とりあえず歩いて道を探すという案だ。確かに、このような自然に覆われた世界で、充分に適した知識を有さない柊真が下手に歩き回れば、徒に体力を浪費して疲弊してしまうというのが関の山であろう。しかし、ただじっと来るかも分からない助けを待つよりは、能動的に行動する方がまだ幾分か意義が見出せる。だがそれはやはり、柊真が専門知識を蓄えていないからなのであろうか。
第二案として、右で言及はしたが、極力エネルギーの消費を抑えてただじっと助けを待つ、というものが浮かぶ。食べられそうな山菜を採取して飢えを凌ぎつつ、誰かが発見してくれるのを待つ。能動的に助けを呼ぼうにも、懐の携帯電話は絶海の孤島の上と化していた。
……時を無為に過ごし、徐に飢える。やはり柊真には、そこに生き永らえる術があるとは思えなかった。
せめて獣道でも発見して池か小川に逢着できれば、生存確率はぐんと上がるだろう。
兎にも角にも、とりあえずは水だ。現在、柊真の生殺与奪は水の存在が握っていると言っていい。
しかし都会の喧騒の中育った柊真には、しじまを走る清流の音を聞くのも難しかった。
ひとまず、宛も無く歩き続ける他あるまい、と柊真が腹を決めた時、
「――ふふふっ――」
と、少女の笑い声が。
周囲を見回さずとも、柊真には分かっていた。
全身に隈なく行き渡る棘々しい視線のような何か、額を苛む疼痛と後頭部の一点を強く鋭く刺激する痛みの存在に。
振り返るべきか、或いはそうせざるべきか、一瞬の逡巡の後、意を決し柊真は背後の何物かに対峙した。
――つもりだったが、振り返っても棘々しい視線や痛みは後頭部に突き刺さったままだった。再度振り返っても同じ。単なる気のせいだろうか。否、先程とは一線を画した予感が柊真に囁く。
痛みはまるで、額と後頭部を貫くようにその趨勢を増していく。
柊真は思わず痛む額と後頭部を押さえ、その場に跪いた。
どうして痛みが額と後頭部のみを襲うのか、知る由はない。
やがて痛みが痛みと呼べなくなるほどの激痛に発展した時、
「ねぇ、痛い? 苦しい?」
汗腺が雄叫びをあげ、目も開けていられなくなるほどの状態に陥っても尚、その声――先刻の少女の声は明瞭に響いた。鈴のような声だった。しかし鈴と言っても、決して快いものではなく、酸化して堅い音しか奏でることができなくなった鈴のような、そんな声だった。閑寂とした音色が、柊真の耳に木霊して、やがて薄れて、消えた。
静まり返った森の中、柊真は徐に顔を上げた。絶え間ない頭痛を制し、脂汗を浮かべ、声の主を仰ぐ。
目を瞠った。
そこには少女が立っていた。歳は十ほどで、薄汚れた麻の着物に草鞋という身なり。現代でこのような恰好は見たことがない。しかし柊真が目を瞠ったのは、少女の服装が珍しかったから、ではない。
少女の額、その右側からは、大きく湾曲した巻角が弧を描いて伸びており、その尖端は後頭部にまで肉迫していた。それは奇しくも、柊真が喘ぐ痛みの箇所と同じ位置だった。いや、「奇しくも」というよりは、「むべなるかな」と言うべきか。何ともなしに、柊真は必然を感じた。言い知れない必然が、自分とこの少女をも巻き込んで渦巻いている気がした。
「分かるでしょう? わたしの、痛みも、苦しみも」
少女の口の端は僅かに上がっているが、彼女の表情から笑みに相応する感情は読み取れなかった。
睥睨する角の少女の前に跪いたまま、柊真は微動だにできない。頭痛を制したと先述したものの、精々頭を動かせる程度に過ぎず、未だ苛む痛みに屈したという状況は変わらなかった。
「君は……?」
「伊豆乃。こんな所に来るあなたが悪いのよ」
誰何に伊豆乃と答えた少女は、己の威を誇示せんと一歩進み、柊真を見下す角度に勾配をつけた。
「こんな所に来る」? 自分は気付けばここにいた。できれば来たくなかったというのが本音なほどだ。彼女からすれば、自分は急にここに現れたということになるのだろうが、それは柊真とて変わらない。右も左も分からないのだ、可能ならば帰り道を教えてほしいくらいだ。
「違う。俺は気付いたらここにいて、どこに行けば何があるかも、全く把握してないんだ」
頭を押さえたまま、柊真は息も絶え絶えに言う。自らの声でさえ、頭の中で囂しく響く大鐘たりえた。幾重にも、幾重にも声が音が反響し、際限ないエコーへと姿を変える。自らが音響機器でも内蔵しているかと紛うばかりの大音声が、柊真を苛んだ。
「どこに何があるか? ふふ、可笑しなことを言うのね。ここには何も無いわ。あなたと、わたしの他には、何も。……それよりどう? その様子だと、さぞ痛くて苦しくて辛くてやりきれなくて嫌になって、死にたくなるでしょう?」
けらけらと、嘲るように伊豆乃が柊真を見下す。笑顔の下に、歳分相応の無邪気を湛えて、しかし分不相応の悲哀も込めて。
「じゃあ俺はどうやってここに来たんだ。君はどこからここに来たんだ」
「そんなことは知らない。何でも訊けばいいと思ってたら大間違い」
「だったら、俺はどうすればいいんだよ……」
そう吐露した瞬間、伊豆乃の表情が喜悦で彩られた。毅然とした蓑がありつつも、それで隠せない程の情動の強さを窺わせた。
「あなたはただ苦しめばいい。苦しんで、その最期まで苦しめばいいの」
全身に苦痛が至り、それでも尚、痛みの幹である額と後頭部での痛みは截然と在り続く。
「訳が分からない。どうして俺がこんな目に遭うんだ。君のその角と俺のこの頭痛、どういった関係があるんだ」
よもや無関係ではあるまい。「奇しくも」ではなく「むべなるかな」と称すべき、柊真の頭痛と伊豆乃の角。如何な因果で引き寄せられたのか、彼女が知っていても不思議はない。
すると伊豆乃は、我が意を得たりとばかりに口の端を獰猛に吊り上げた。
「気付いてたの。そう。教えてあげる。あなたの苦しみは、わたしが感じている苦しみを共有させたものなの」
彼女は、自分の成果を誇るように言った。それはまるで幼子が母親の似顔絵を披露する時のように、無垢で屈託がなかった。
柊真はそれを前にして、恰も伊豆乃の言うことが尤もであるかのように錯覚した。彼女が持つ(本来は歳に相応するはずの)子供らしさは、柊真を面食らわせる程の異様なものだったのだ。それは伊豆乃という少女が元来持ち合わせているものなのか、それとも彼女の額から伸びる角が放っているものなのか、今の時点では判然しない。
「君のその角が、俺のこの苦痛と同等だとして、それで君は満足するのか? 生産性なんてない、あるのは不毛な虚無感だけのはずだ。できることなら、俺のこの頭痛をなんとかしてくれないか」
「あなたに何が分かるのッ!」
突然彼女は金切り声をあげた。柊真には未だ与り知れぬ、憤怒が、彼女の目に、声に、剰え角に、内包されて撒き散らされた。
打たれたように伊豆乃を仰ぐ。改めてその角をはっきりと見た。禍々しさと、悲愴感とが、綯い交ぜになって螺旋を形作り、カーブを描いて、後頭部に肉迫していた。
鬼、という概念が柊真の脳裏を掠めたが、鬼が本来持つはずの残虐性や筋骨に富んだ体躯などの特徴(と柊真は考えていた)は、この少女には見受けられなかった。一概に、人の形をしたものに角が生えていれば鬼と総括してよいのか悪いのか、そういった分別が欠如していたのもある。
「何も知らないくせに、生産性がないだの、不毛な虚無感だの、穿ったようなことを言わないで。意味なんて無いのはとっくに分かってる。けどそれなら、このやり切れない恨み辛みはどうすればいいのよ……。あなたに与えてるのはわたしの痛みのほんの一部。全て共有させてしまえば、間違いなく発狂する程の際限ない苦痛よ。耐えられるはずがない。いい? あなたはわたしに命を握られてるの。それが分かったら、二度とわたしにそんなことは言わないで!」
目尻に涙すら浮かべて、少女は叫んだ。歳に相応する幼けなさが発露し、それは少なからず柊真の胸を熱くさせた。
彼女の歳に適った問題なら、お易い御用と手を差し伸べられたかもしれない。しかし彼女に渦巻き肉迫する問題が、通り一遍の学徒に解決できるはずもなかった。柊真は膝を屈し頭を垂れる他、何も為しうることは無かった。
ただ、激しい頭痛の中、眼前の邪魔な障害物をどかす程度の、安易な方法が浅い思案の果てに浮かんだ。そうは言っても、功を奏すかは知る由も無いが。
「……伊豆乃、といったね。君に、家族はいるのかい。お父さんや、お母さんや、兄弟姉妹。正直、君のことは何も知らない。なんてったって、会ったばかりなんだから。帰りたいのは山々だけど、どこに向かってどれだけ歩けばいいか皆目分からないから、君の知人に助力を仰ぎたいんだ」
柊真は努めて穏やかな語調で、嗚咽を堪える伊豆乃に尋ねた。
暫くは涙の珠をぽろぽろと零していた伊豆乃は、目の端でこちらを捉えこそするものの黙然と閉口していた。
「伊豆乃」
彼女は依然として膠もなく、柊真を見据えたまま何も言わない。
「なぁ、伊豆乃」
再度呼びかけると、彼女は眦鋭くこちらを睨んだ。
「言っておくけど無駄よ。どうにかしようとしたって、あなた一人で帰れる方法なんてここにはない。骨になるまでそうして膝を屈しているがいいわ」
「俺一人でどうにかできるなんて思っちゃいない。だから、君や君の知り合いに協力を仰ごうと言ってるんだ」
「だから無駄だと言ってるのよ。ねぇ、わたしの帰る場所は、どこにあると思う?」
突然の質問に、柊真は面食らう。少し考えて、今自分が分かる限りの答えを出した。
「そりゃあ、どこかに君の集落があって、その中に君の家族が暮らす家があって……」
「ないわよ。そんなもの」
「は……?」
柊真の答えを遮った伊豆乃に二の句を失った。
「ないの。わたしの帰る場所なんて。どこにも」
どういうことだ、という問いが浮かぶ。しかしそれを尋ねるより先に、伊豆乃は訥々と話し始めた。
「わたしが暮らしていた集落では、わたしは周りからこう呼ばれ差別されていたの――」
曰く、禍津鬼。
災厄の鬼と集落から蔑まれ、疎まれ、虐げられてきたと伊豆乃は告白した。普通は、一寸か二寸ばかり(約三〜六センチメートル)の角が成長に伴って額から二本生えてくるそうだ(やはり、柊真の考えていた鬼というものは、御伽噺で知ったそれと凡その合致を果たしていた)。しかしごく稀に、伊豆乃のように片方の角だけが異常発育に見舞われた鬼が生まれるという。そういった者は、身体的発育では一般の鬼に劣るものの、やがて神通力を得、集落に良くないものを齎すという伝承があるらしい。今でもその伝承は深く根付いており、隻角矮躯の鬼は集落から排斥することで今日まで生き永らえてきたのだという。
伊豆乃もまたその例に漏れることはなかった。いつの間にか他人に自らの五感を共有させるという神通力を得て、角の成長は未だ止まることを知らない。隻角矮躯の鬼は、ここも一般の鬼と違うところだが、天衝くように上へ伸びるのではなく、個体によって様々な伸び方をするという。湾曲して眼球に迫る者、歪曲して耳朶を貫かんとする者、迂曲して喉笛を穿たんとする者、伊豆乃のように後頭部へ肉迫する者。そのいずれもが、その神通力による弊害か、伸び続ける角によって死ぬ。そういった所以により、禍津鬼と呼ばれた鬼達の寿命は精々が二、三十年であるという。死ぬ際の苦痛たるや、柊真には想像だにできない。
「――わたしに帰る場所なんてない。生きる場所なんてない。どこでもない場所で、この世と自分の角を怨みながら、死ぬしかないのよ」
伊豆乃の話を聞いているうちに、いつしか柊真の頭痛は止まっていた。話をしているうちに、伊豆乃が痛覚を共有させるのを忘れてしまったからだろうか。それとも、彼女が出自を語るに当たって、その陰惨な過去を思い出して神通力を疎ましく感じたからだろうか。それとも、痛みを共有する必要を感じないほどに、柊真が取るに足りない存在だからだろうか。
いずれにせよ、今柊真にできることは二つだ。一つに、直ちに伊豆乃を組み伏せ、帰る手立てを聞き出すこと。一つに、伊豆乃と話し合って彼女のいた集落に連れて行ってもらい、帰る手立てを聞き出すこと。
伊豆乃はぺたりと地面に座り込み、俯いている。改めて彼女の身なりを観察すると、そこここに痣や切り傷があり、握れば折れそうな程にその身体は痩せこけていた。草鞋の鼻緒は今にも擦り切れそうで、丈の短い麻の着物も寒さを凌ぐには薄すぎる。更には彼女の集落には下着という概念がないのか、座り込めば陰部が露わになってしまっていた。
いや、そんなことは今関係ない。集落と聞けば普通は、独自の文化因習を持ち、徒に科学技術の恩恵に与らないというイメージが浮かぶ。伊豆乃の集落もそういったイメージの一端を担っているのだろう。
柊真は伊豆乃に向き直る。
「伊豆乃。なるほど君の事情は分かった。君が経験し味わった日々は、俺の想像の及ぶところを知らないほどに、筆舌に尽くし難いものだっただろう。だがその上で首を縦に振ってほしい」
伊豆乃は糸の切れた人形浄瑠璃のように動かず、黙しているのみ。
「俺を、君の暮らしていた集落に連れて行ってほしい。帰る方法を聞き出したいんだ。それに、禍津鬼だか何だか知らないが、俺は寄って集って君のような女の子を虐げて村八分にする連中が赦せない。直談判して、また君が元の場所で暮らせるようにする。だから――」
「嫌よ」
ぴしゃりと、遮るように伊豆乃が呟いた。再びずきずきと、額が後頭部が熱を持ち始める。
伊豆乃は俯いたまま、まるで彼女自身にも言い聞かせるように、
「あなたが帰れるから何? わたしがあの村に住めるようになるから何? 今更どうしたって、わたしの幸せはどこにもない。あなたは、またわたしがあそこで差別されるのを望むっていうの。あなたが帰ったら、差別されるわたしはどうなるの。そのまま放っておかれて、飢えた虫けらみたいに死ねっていうの。ごめんだわ。あなたの正義感を満たすためだけに、あなたの利益のためだけに、わたしを生贄に使うのはやめて」
そう吐き出すように放たれた、彼女の言葉が耳朶を打った。
彼女の神通力故か、「生贄」という言葉故か、苛む頭痛は嵩を増す。
柊真は気付いた。伊豆乃の為と信じて疑わず振るう正義感の、その生贄となるのは他でもない伊豆乃なのだということを。
仮令伊豆乃が元の通り集落で暮らせるようになったとして、伊豆乃を苛む伝承が事実無根の虚構であることを証明したとして、その後何の蟠りも心の澱もなく、仲睦まじくやっていくことができるのだろうか。一時は説得できても、事あるごとに彼女が禍津鬼であるという無意識の偏見が邪魔をして、鼻つまみ者として扱われるかもしれない。
そうすればまた村八分に逆戻りだ。
否、共同生活を送りながらにして、陰で厄介者呼ばわりされ疎んじられるのは、現状よりも残酷だ。
そのような事態が起こりうる可能性があり、結果的に伊豆乃を今までよりも更に不幸(一度幸福を味わってそこからどん底に突き落とされるという落差がある)にさせてしまうかもしれないのに、それでも自分は伊豆乃を集落に戻すことが正しいと言えるのか? 自分が振るう正義に伊豆乃を巻き込んで陶酔しているだけではないのか? 自分の正義感の生贄になるとは、そういうことだ。それでも自分がなそうとしていることが正しいと言い張るのなら、そんなものは欺瞞でしかない。
しかしその欺瞞は悪か? 柊真は内在するその指摘を反証できなかった。謬りを、謂れのない少女を排斥するような文化を、糾すことが果たして悪だと断じることができるだろうか? いや、できない。
幸福の尺度、何を幸せと感じ何を不幸と感じるかという感覚は、個人によって異なる。
なるほど今の伊豆乃にとっては、現状維持が幸せで、自らを蔑む集落に戻ることが不幸なのだろう。だが当然、ぴったりそのまま柊真にも適用できるはずもない。柊真の持つ幸福の尺度は、何の諍いもない日々を幸せとし、許容し難い現象を見過ごすことを不幸とする。それに照らせば、今の伊豆乃の境遇を見て見ぬふりなど、到底できなかった。
問題は、伊豆乃を救うことに尽力するのが、本当に彼女を幸せにするのかということで、それは彼女の意志と齟齬を起こしてまで通すべき意地なのかということだ。
傲慢なことだと柊真は思う。人を救うというのは、なんと傲慢なことだろう。ましてや、望まれてもないのに、拒まれてすらいるのに、救おうとするのは。
柊真は通り一遍の学生である。弁舌に長けているのでもなければ、何か特別な人心掌握術を心得ているというわけでもない。そんな人間の言うことに、絶対なる文化因習を持つ人々が応じるだろうか。
その上で。
「……やってみなくちゃ何も分からない」
様々な葛藤があった。数多くの思考を重ねた。その上で、柊真はそれらを全てかなぐり捨てた。論理に整合性などない。無数の矛盾を抱えたまま、事に臨むと決意した。
伊豆乃は、何もかもを諦めていた。痛覚を共有されずとも、膝を屈し、頭を垂れ、落涙で草花を濡らしたに違いない。
ならば、せめて自分だけは毅としてあろうと、柊真は自らにそう課した。
「君は、禍津鬼とかいう世迷言が間違っていると証明しようとしたことはあるか。心の裡に否定の言葉を溜め込まずに、他の連中に伝えようとしたことはあるか。行動は思考の表れだ。行動が無きゃ考えてることなんて誰にも分からない」
拳で胸を強く叩く。
「君が、伊豆乃が証明し伝えられなかったことを、俺が証明して伝えてやる。君は禍津鬼なんかじゃない、どこにでもいる普通の女の子だ。誰が何と言おうと、俺だけはそう言い張り続けてやる」
神通力を誇り笑った、あの時の笑顔を思い出す。屈託ない、純粋なる笑顔を思い出す。あんな可愛らしい笑顔は、禍津鬼と揶揄されて浮かべるような笑顔ではない。彼女にも、人並み(鬼並み)の生涯を生き莞爾として笑って過ごす権利があるはずだ。
差別された過去も追放された現在も残酷だと先述したが、それ以前に、歳幾許もない少女が運命を呪い孤独に死ぬのだという未来が、何よりも残酷に思えた。
それは断じて許してはならない。
許さぬというのなら、どうするのか。彼女に、伊豆乃に、本来あるべき人生(鬼生)を取り戻すのだ。乾坤一擲を賭せ。己が信念に偽りはない。振るえよ正義、嗤えや欺瞞。
庄屋柊真は、少女に誓いを捧げる。
即ち、
「俺は、お前の味方だ」
それは、伊豆乃の半生を塗り潰した厭いの言葉の中にはなく、また伊豆乃が心底より希ってやまなかった言葉であった。
禍いの少女は、自らの存在を肯定されたことがなかった。
存在を許されるということが、かくも身を蕩かす蜜たりうるとは、彼女には知る由もなかった。
少女は、柊真が戸惑うも構わず、その耽美な甘さに身を浸し続けた。
アイサツはされれば返さねばならない。古事記にもそう書かれている。礼を失すれば即ち死あるのみ。
だから誰も死にませんって多分。
さて、柊真と伊豆乃が出会い、彼は伊豆乃を在るべき未来へと導くことを誓います。
冗長な文章に食傷気味の読者もいらっしゃることでしょうが、それが私の作風ですので、お許しいただきたい。
それでは次回「柊真大勝利! 希望の未来へレディ・ゴーッ!!」お楽しみに。
ご読了いただき、恐悦至極に存じます。