嬉しさを誤魔化して咳払いします。
次の日目が覚めたところで、幸せな世界に生まれ変わるわけでもなかった。いつもと同じ世界。一人の朝。それでも、なんだか少しだけ、明るく見えるような気がした。
いつもと同じように出社して、昨日、休んだ分の引き継ぎと、いつも通りの一人ぼっちのお昼を食べて、いつもと同じように退社した。なにも変わらない。
まっすぐに家に帰ろうとしたが、その足を止めた。電車を、最寄りの駅より一駅前で降りる。
向かったのは、昨日行った古本屋だった。本屋に二日連続で行くということはあまりなかった。よほど欲しい本が、どうしても探しきれなかった時くらいだ。
少し、何かを期待してしまっていたのかもしれない。昨日会った男性のことを考えていた。
本を拾ってもらって、二、三言声をかけられただけなのにこんなに考えてしまうのは、少し気持ち悪い気がした。しかし、また偶然、再会してしまうことを望んでいた。深い関係を望むわけではない。きっとあんなに素敵な人なら、恋人もいるだろう。
私が、この本屋を前から知っていて、あの日もここの本屋の帰りだったこと。昨日、それに気づいてもらえて嬉しかったこと。それを伝えられたら、それだけで充分だった。
乱雑に並べられた本を、指でなぞる。時代に置き去りにされてしまったような黄ばんだ古本や、使用感のないライトノベル、どこからやって来たのかわからない大きな文学書までもある。気になった本を手に取り、中を開いてみる。いつもはそんなことしないで気になったものは直感で買ってしまうのに、少しでも長くここに居たかった。理由は、言えないけれど。
「あれ?」
適当に開いたはずの本が予想以上に引き込まれ、本屋に来た目的も忘れ、読みふけっていた時に、急に大きな声で、現実に引き戻される。
びくりと体を揺らして、その声のする方を見た。そこには、スーツ姿の、昨日の、男性。
「早速来てくれたんですか? あ、いや、やっぱり、ここで買ったんですか? まぁ、いいや。そんなことより」
会ったら、言おうとしたことがすべて頭から抜けて行く。昨日はありがとうございました、とか、偶然ですね、とか、何度も頭の中で練習したはずなのに。彼のペースにどんどん飲まれて行く。
「あなたを、好きになってしまったんです」
言葉に、詰まる。聞き違いだろうか。
「……は?」
「あ、いきなり、こんなこと言っても、びっくりされますよね……そうだな、もしお時間があるようなら、この後ご飯にでも行きませんか?」
これが巧妙なカルトや結婚詐欺の罠だったとしても、いいと思えてしまった。自分の中の、切に人と関わりたいという欲求と、この人と話したい、という欲求との方がはるかに優ってしまっていた。
少し歩いたところにある、チェーン店のファミレスに入った。
「すみません、俺、おしゃれなところとかあまりわからなくて」
スーツを着ている彼を見ると少し年上な気もしたが、笑った顔を見ると、私より年下なような気もした。年下であれば高校生になってしまうので、そんなことはないだろうが、不思議な人だった。
席について、メニューを選ぶ。ここのファミレスでいつも頼むのは、オムライスだった。
「決まりました?」
「はい、オムライス……」
「じゃあ俺もそれで」
ニコニコと二つのオムライスを頼むと、彼は話し始めた。
「そう言えば名前まだ言ってなかったですよね。俺、藤重翔って言います。羊に羽って書いて、かける」
「……菅原です。菅原、柚梨です。果物の柚と梨を書いて、ゆずり」
「へぇ、可愛い名前だね」
顔が赤くなる。きっと名前負けしてる、と思われている。恥ずかしい。
「ゆずりさんは、何歳? 俺、二十二歳」
四歳も年上だ。大人だなぁと思う。
「十八です」
しばらく沈黙が流れた。
「……高校生?」
「あ、いえ、今年就職しました」
「びっくりした……俺高校生ナンパしたのかと思った……」
ナンパ、という聞きなれない言葉にドキリとする。一生関わることのない言葉だと思っていた。
「さっきの話だけどさ、俺、ゆずりさんのこと好きになっちゃったんだよね」
ファミレスに来るまで、その言葉を自分の聞き違いだと言い聞かせることにしていた。舞い上がる自分に情けなく感じたのと、もし聞き違いでなくとも、なにかの勧誘の手段にしか過ぎないと思ったからだ。
オムライスが二人分運ばれる。動揺を隠すためにオムライスをじっと見つめいていた。
「急にこんなこと言ってもびっくりするだろうし、怪しまれるのもわかっているんだけど、昨日の今日で会えたのが嬉しくて……。ひとめぼれ、とはまた違う気がするんだけど、なんていうか、会ったあと家に帰ってからなんか、じんわりと君の顔が浮かんできて。あぁ、なんか、好きだなぁ。もっと知りたいなぁ、って思って。昨日、話したから、もしかしたら本屋さん行ってないかな? って仕事帰りに行ったら再会できちゃって。とっても嬉しくて、俺、つい」
照れ笑いを浮かべている。他人事のように聞いてしまった。本当に私のことを話しているのだろうか。
彼がオムライスを食べ始めたので、私も食べ出す。いつもよりおいしく感じなかった。というよりも、味がわからないほど緊張していたのかもしれない。
「私、昨日、一言も話してないですよね」
そう。彼が私を好きになる要素は全くもってないのだ。
「そうなんだよね。僕もよくわからないんだ。だから、今すぐどうしてほしいとか、そんなことは言わないから、これから少しずつ会ってお互いを知りたいなと思っているんだけど、だめかな?」
「私、お金もないし、この通り色気もないですし、なくなったら困るものもないんですよ。だから、騙してもなんの得もないですし、時間の無駄ですよ」
彼はキョトンとした顔で私を少し見つめたあと、少し笑った。
「騙したいわけじゃなくて、純粋に俺が君と居たいんだ。だから時間の無駄じゃないよ。それじゃ、だめ?」
勝手にしてください、と呟くと黙々とオムライスを食べた。心の中ではバンザイをしてしまいそうなほど、嬉しいはずなのに、騙されるもんか、と真顔を貫いていた。
なにか怪しいことを言われるようになったら離れればいい。それまで仲良くしていたって、なにも問題はないはずだ。私には、なにもないと、前もって言ったわけだし。一緒にオムライスを食べながら、好きな本の話をすることで、今まで読んできた本の趣味が似通っていることがわかった。彼が嬉しそうにしていたので、私もかなり嬉しかったのだが、顔には出さないように心がけていた。私がそういうことをすることによって、気持ち悪がられると思ったからだ。
ファミレスは彼が全額払い、自分の分を払うと言っても受け取ってくれなかった。そして、別れ際に一方的に連絡先を渡して、手を大振りしながら帰って行った。気が向いた時にでいいから、と言われたが、どういう時が気が向いた時、なのかがわからない。もうとっくに私の気は彼の方へ向いていた。