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ケイド・ヘイフォンと出会ったのは、親戚のいる街でのこと。わたしのうちは毎年夏に一月ほど親戚の家で過ごしていた。その街で年の近い子供と一緒に遊んでいるうちにケイドとも知り合った。最初は近所の子たちと遊んでいるだけだったのに、だんだんと楽しくなくなっていった。
何かきっかけがあったのかも分からない。幼い頃の記憶だから忘れてしまったのか、あるいは本当にきっかけなんてなかったのか。ケイドがわたしを攻撃するのは日常になった。
どうしてこんなことをするの、とたずねた時がある。
『お前がキモくて嫌いだからだよ、ばーか!』
そう言ってケイドはわたしを突き飛ばした。周りにはケイドと一緒になってわたしを笑う子か、見ないふりを決めこむ子ばかり。誰も否定しないから、ケイドだけじゃなく周りがみんな、わたしを嫌っているのだと思えた。
ケイドと関わらずにすむようになったのは、当時住んでた家を引っ越しルスディオにやってきてから。親戚の家は遠すぎて行く機会がほとんどなくなった。
モークロイ魔術学園に入学しても周りの子に好かれていない、という思いはやまなかった。
はじめてだった。
ウィルクスみたいに言ってきたひとは。
帰り道も逆だし、あれからすぐにウィルクスとは別れた。あとから思えばちょっと声をかけられただけ。
翌日もそのことについて話しかけられるどころか、挨拶もしなかった。
目が合って何か言われるかと思えば興味がなさそうに目を逸らされる。
やっぱり、昨日のは単にわたしに文句を言いたかっただけみたい。
『とにかく反抗しろ。自分の意思を示せ。じゃないとあいつ、もっとつけあがるぞ』
そう言われたものの――
なにか出来るはずがない。
ウィルクスが口をはさんだのは昨日の一回限りと気づいたケイドは嫌がらせを再開させた。
わざとぶつかってきたり、ゴミを投げたり。極めつけは魔術道具学の授業でのこと。担当のライテ先生が少しだからと教室を出ていった。
「くせえ! 豚だからにおうなエベニー!」
ケイドと取り巻きの笑う声。
この時間は魔術石を作る実験の授業だった。生徒が一人で自分の属性の魔術石を作ることが出来れば成功。失敗すると少しにおいのある泥だんごのようなものが生まれる。
周りの物はなんでもわたしにぶつけたいケイドは自分の泥だんごをわたしに投げた。
魔術石の失敗作は確かにくさかった。髪と服についたそれを手でぬぐっても、ねばついて全部は取れない。
『もっとつけあがるぞ』
ウィルクスの言うことは正しい。
だからって反論なんかしたら、ケイドは怒ってもっとひどい嫌がらせをするに違いない。
先生がいない実験室で、目立つケイドの行動に注目するクラスメイトは少なくない。ケイドは上機嫌だ。
こんなことやめて、なんて言えるはずがない。
どうしたらそんな風に言えるのか、わたしには分からない。
わたしがケイドのいるあたりを見ていたのを知ると、彼は気味の悪いものを見た顔になる。自分でも気づかないうちにケイドを見ていたと知りわたしは顔をぐるりと回す。
なんで彼の方を向いてしまったの。
こわい。
ケイドにちょっと見られただけで、こんなにもこわい。
無理に決まっている。
「何見てんだよ、気持ちワリィな」
少しずつ慣れていった罵倒。でもあんな目にさらされて、わたしを全力で嫌う空気を放たれて、嫌な気持ちに慣れるはずがない。
たとえばわたしが何かを口にしたら少しでも変わるんだろうか。
ウィルクスはこの授業に参加しているけど何も言ってこない。今更になって昨日の彼の気持ちが分かった。
わたしだって、こんな自分はいやだ。こんな自分――気持ちが悪い。何も言えなくて、本音を隠している。誰かにそうされたらいい気はしない。イライラするだろう。
わたし、わたしは――
息を吸った。
「ただ今戻りました……。皆さん、実験は進みましたでしょうか……」
席を外していたライテ先生が戻った。痩せて、か弱そうなライテ先生は話す時もか細い声の女性だ。それでも教師がやって来たことで生徒たちは実験に集中する自分を装う。
「あら……エヴァニー・マースティン……どうしたのかしら……その泥は」
わたしにこびりついた泥に気づいたライテ先生の声が、だんだんと冷えていく。
そういえばライテ先生は普段はとても気が弱いのに、授業の道具や材料を無駄にされたり乱暴に扱われたりすると、とても機嫌が悪くなる。
「そいつが自分でやったんですよ」
楽しそうな声はいうまでもなくケイド・ヘイフォンのもの。
ライテ先生の覇気のない表情が、どこか怒ったようなものに変わる。
このままだと、わたしが魔術石の材料を無駄づかいしたことになる。本当はケイドがわたしに失敗作を投げただけなのに。
「ち、ちが……」
わたしの言葉をライテ先生が信じてくれるかどうか分からない。ライテ先生は生徒に関心がなさそうだから。でも間違いを犯した生徒を厳しく罰することは出来る。
居残りか罰当番を覚悟するしかないのか――
「ライテ先生、エヴァニーが持ってる材料を見てください」
思わぬ声に、わたしは顔を上げる。見覚えのある女子生徒がクラスメイトの視線を集めている。焦げ茶のセミロングに赤いリボンの女の子――いつかわたしに移動教室だと教えてくれた子だ。
まさか誰かが割って入るとは思わなくて、わたしはただその女の子を眺めた。少しまなじりの下がった、優しそうな顔立ちの生徒だ。
言われたライテ先生は実験室を横切ってわたしの机の前に立つ。
「減ってない……微塵も」
魔術石作りには魔術を発動させる時と近い感覚で魔力をこめる必要がある。魔術をうまく扱えないわたしは、魔術石を作るどころか泥だんごに変えることすら出来ていない。魔術石の材料が減るはずもない。
それからライテ先生は辺りを見回して、ケイドの方に顔を向ける。
「反対にあなたの材料は減ってるわね……」
ケイドは魔術石を作れなかったものの、泥だんごはたくさん作れていた。彼の手や机も泥で汚れている。
「あなた……魔術道具の材料を粗末に扱うなんて、許さなくってよ……!」
「えっ」
普段のライテ先生からは想像出来ないような低い声と冷たい表情。心当たりのありすぎるケイドは反論も出来ず顔をひきつらせる。吹けば折れそうなライテ先生の顔つきが完全に変わったのもケイドに困惑を与えただろう。
ライテ先生のお説教がはじまった。
あの女の子の名前は、何て言うんだろう。
あの子はわたしを助けてくれたんだろうか。
話してみたい。でも、もし本当にケイドから庇ってくれたのなら、ケイドが彼女の行動をよろこぶはずがない。
昔もそうだった。最初のうちはわたしを攻撃するケイドにおかしいと言う子がいた。でもその子もケイドに嫌がらせを受けるようになって何も言わなくなった。
自分の邪魔をされたら誰だって楽しくはない。特にケイドはそういうことに敏感だ。自分が一番で、常に自分の望みが優先される。
ライテ先生の授業が終わって――ちなみにケイドは実験室に残らされていた――あのリボンの子を探したけど、移動したあとなのか見つからなかった。
廊下を歩くと少し前にウィルクスがいて、なんとなく声をかけそうになったけど、やめた。
彼はさっきのライテ先生の授業に出ていたけど、何も言ってこない。ウィルクスは元々必要がなければわたしに話しかけてこないから何もおかしなことではない。
授業に必要な時だけでもわたしと話してくれる人なんてウィルクスぐらいしかいなかったから、あの女の子の話をしたかっただけ。
ばかなことを考えた。
昨日のウィルクスも、さっきのリボンの子も、わたしに何か興味があって声をあげたのではないのだ。
ただ自分の思ったことを口にしただけ。わたしには出来ない行為だ。
ため息があふれた。
誰にも声をかけられないまま、わたしの休み時間は終わった。
放課後、ケイド・ヘイフォンの怒りはわたしに向けられた。いつものように周りに数人の男子を引き連れて、わたしの前に立ちはだかる。これまでにないくらい凶悪な顔に、わたしは目を逸らす。
「おい、豚! さっきはよくも恥かかせてくれたな」
乱暴な声にわたしはびくりと肩をはねさせる。
ライテ先生の授業の話だろう。来るとは思っていたが、予想通りでわたしは意識が遠のきそうだ。
教室にはまだ何人かの生徒が残っている。見世物がはじまる、とばかりにこちらを見るクラスメイトまでいる。
「あの女子もなんだ? お前友達なんかいたのか」
リボンの子の話が出たけど、教室に本人はいない。
また頭が痛くなってきた。
「あいつもおれの敵だな」
わたしは息を呑んだ。
「ちが、あの子は……、関係ない……!」
本人がいないのだからわたしが言わなくちゃ。わたしと違ってあの子には友達もいる。その友達まで嫌な目にあうかもだし、あの子が友達に避けられちゃうかもしれない。そんなの絶対にいやだ。
「へえ? 本当か?」
腕を組んだケイドがわたしに一歩近づく。反射的にわたしは一歩足を引いた。
「だったらお前、あの女子の分も謝れよ。膝をついてな」
「は……」
顔をケイドに向けると、彼はとても愉快そうだった。
「当然だろ? このおれを不機嫌にさせたんだからな。それにお前は豚なんだから地面にはいつくばってなきゃいけないだろ」
これまでもケイドに謝れと言われたことはある。でも膝をつけ、なんて。そんな失礼で――恥ずかしいこと、しなくちゃならないの?
なんで?
わたしが一体なにしたっていうの?
ほとんど無意識のうちに教室を見回した。ケイドみたいに楽しそうな顔をした生徒に、表情を消しながらもこちらを見るのをやめない生徒、わたしが目を向けると視線を外す生徒。
誰もわたしを助けてくれるひとなんかいない。
そんなの分かってた。
ずっと前から知ってたこと。
胸が苦しくて、息がうまく出来そうにない。
誰も、誰もいない。
わたしはケイドに逆らうことなんて出来ない。彼はとてもひどいことを言う。嫌なことばかり命令してくる。あの憎しみの目に睨まれると身動きも出来ない。
でも――
わたしには誰もいない。
だからわたしは――
心臓が、うるさい。
目の奥がツンと痛くなった。
全身がぞわぞわする。
「……い、いや」
わたしだけでも、自分の味方になるべきだ。
「いやだよ」
声はふるえていた。顔もきっと情けないものだと思う。
でももう、いやだった。
ケイドの理不尽な命令に従うなんて。
何より、なんにも出来ない自分なんて嫌だ。
こんな自分、ずっとずっと嫌いだった。
息を吸えば、喉はひきつった。
――とにかく反抗しろ。自分の意思を示せ。
ウィルクスの言う通りだ。
わたしはぎゅっと目をつむった。
「も、もう、いやなの! わた……わたしにかまわないで!」
教室が静かになった。
言い切ったあと息を止めていたわたしは、ケイドの反応がないのでゆっくりと呼吸をする。
目を開けると、驚いたようなケイドがいた。周りの男子たちもぽかんとしている。
彼らは、エヴァニー・マースティンが声をあらげるなんて想像しなかったようだ。
取り直したケイドが嫌味な顔つきに戻るのを見て、わたしはすぐに後悔した。
「……言うようになったじゃないか、弱虫泣き虫小ブタが」
顔をゆがめながらも笑うケイドの瞳は、虫を見下すそれだった。