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朝からベッドを離れないで、今日は休みたいと母さんに伝えると体調が悪いのかたずねられた。
わたしは熱があるとウソをついた。母さんはわたしの額に手をあてて、高い熱ではないと判断した。
「……なにかあったの?」
わたしの母さんは優しいひとだ。ちょっとおっとりしているけど、他人に無関心なわけじゃない。
「あのね、もしつらいことがあったのなら言ってほしいの」
まして、幼い頃から内気な娘を持つ母親が娘の顔色が曇っていることに気づかないはずがない。
でも今は知らないフリをしてほしかった。
母さんは少し困ったような目で微笑んだ。
「でもそれは、ズル休みをしていいって許可を与えるためじゃない。あなたを支えるためよ」
わたしの手を取る母さんの手はあたたかい。
「もし今日休んだら、明日はもっと行きたくなくなる。そうしたら、明後日はもっともっと行きたくなくなるわ」
それの何がいけないのだろう――。
わたしが学園に行かなくても、困る人はいない。
「ずうっとお休みするつもり? 私のかわいい子ちゃん」
声はとても優しい。
「でも一回、つらいのを我慢して登校してみない? まずは一回」
わたしが学園に行きたくないと言い出すのは初めてじゃない。でも、ここまで母さんに言われたことはなかった。昨日帰ってきた時から母さんには今朝のことがお見通しだったのかもしれない。
幼い頃――ケイドに攻撃されるようになった頃から、わたしは母親に自分の心を打ち明けるのをやめた。母さんに、自分の娘が誰かにいじめられるような惨めな存在だと知られたくなかった。
母さんが嫌いなわけじゃない。学園のことをすべて隠すわけではないし、ちょっとした嫌なことがあったら愚痴るし、楽しいことならたくさん話す。
転入生が来たことはまったく話していないのに――どうして見透かすのだろう。
本当はすべてを打ち明けてしまいたかった。なぐさめてほしかった。今日は休んでいいと抱き寄せてほしかった。
でもそんなことは出来ない。
わたしは、タダでモークロイ魔術学園に行っているわけではない。学費はないけど、授業に使う教本や備品にはお金が必要で、生徒たちはそれを自分の家で用意しなければならなかった。その金額はわたしの家にとって安くはなかった。
高いお金を払ってまで通わせている魔術学園に行かないなど、許されない行為だ。
学園を辞めたいと思っては、いつもお金のことを思い出して考え直した。
一回、と母さんは言うがその一回がたえられなかったらもう行かなくていいのだろうか。それとも大人がよくつく都合のいいウソだろうか。
分からなかったが、のろのろとベッドを出た。
その日の授業は何の科目があったのか、時間がどのように進んだのか、よく覚えていない。
どこにいてもわたしは泥のような空気を口にし、胸には岩がつまっていた。
人の流れについて行き、誰かが立ち止まったら従った。
足を動かす意味も分からずに、人の波に逆らわなかった。
いつしかまたケイド・ヘイフォンの声が近くなり、わたしの問題点をあげていた。
「そんなやつ構ってないで行きましょうよ」
「まさかそいつに気があるのか?」
「げぇっ、やめてくれよ。ジョークにしちゃひどいな! こいつと付き合うくらいだったらおれは死霊を選ぶ!」
楽しそうな声。
転入したてのケイド・ヘイフォンは飛竜組ですぐに人気者になった。クラスメイトの半分近くを集めておしゃべりしている。
人はいつも自分のうっぷんを晴らす相手を探している。それはたいてい弱い者や落ちこぼれが選ばれる。エヴァニー・マースティンのような弱虫が。
ケイドたちの、げらげら笑う声が耳の奥までこびりついて離れない。
「どけよ。通行のジャマなんだよ」
耳ざわりな音を切り裂いたのは、不機嫌な少年の声。
「あァ? なんだてめぇ」
「やめとけケイド。こいつ、ヤバいやつなんだ」
制止する声で、わたしはクラスメイトたちに緊張が走ったのを知る。
顔を向ければ、ウィルクス・キルケンススとケイド・ヘイフォンが睨みあっている。周りの生徒たちは落ち着かない様子で二人を見た。
そのうちに誰かがケイドに耳打ちする。ウィルクスの魔術は部屋ひとつ吹き飛ばすほどの威力だと伝えているのだろう。
ケイドは改めてウィルクスに視線を据え、見下すように自分の顎を上げる。
クラスメイトたちは不安げになるが、ケイドより先にウィルクスが動いた。何も言わずにわたしの手首をつかみ、引っぱる。
何をされているのか分からなかった。
周りの景色がぐんぐんと後ろに流れてゆく。
クラスメイトも、他のクラスや他学年の生徒の声も聞こえないところへやってきて、はじめてウィルクスはわたしの手をはなした。
掴まれた手首が少し痛かった。手首をさすっていると、ウィルクス・キルケンススがこちらを向いた。
「お前を見てると、イライラする」
顔にしわをたくさん集めて、ウィルクスは言い放った。
ほんの少し、本当に少しだけ、ウィルクスが助けてくれたと思ってしまったのを、後悔した。
彼はわたしに追いうちをかけに来たのだ。ただそれだけ。
だんだんと頭が鈍い痛みを訴えてくるようになった。
「言われっぱなしでいいのかよ」
今度の声は少し落ち着いていた。
彼は何を言っているんだろう?
ウィルクスは苛立ったように自分の首の裏をかく。
「お前は、あいつに好き勝手言われたままでいいのかって聞いてんだよ」
ウィルクスは――ケイドのことを話しているのだ。鈍いわたしにもそれくらいは分かる。でも、どうしてウィルクスがそんなことを聞いてくるのか、理解出来ない。
わたしが黙ったままでいるせいか、ウィルクスの目付きはより厳しくなる。
「お前には耳も口もあるだろ。言われたことに反論しろよ」
普段からウィルクスはすぐわたしに『聞いてんのか?』と言う。返事を求めているのに何もこたえないから、彼は怒るのだ。
でも、だからといって、わたしには出来ることと出来ないことがある。
うまく扱えない魔術と同じで、わたし自身にはどうにもならないこと。
どうして足を痛めた怪我人に走れと言うような、無理強いが出来るのか。
このひとは、本当にわたしが嫌いなのだ。
分かってる。
分かってる。そんなことは知ってる。
頭の痛みは、はっきりと形を取りはじめた。
重たい頭からの圧力で、目から痛みがあふれ出す。
「……っ、でき、できるわけ、ないじゃ……ないっ……!」
エヴァニー・マースティンの泣き声に、ウィルクスがどんな顔をしたかは分からない。わたしの視界はもうぐちゃぐちゃだから。
頭がどくどくと脈を打っている。
頭が痛い。
心が痛い。
どうして。
どうしてこのひとはわたしに出来もしないことを言うの。
どうして誰も分かってくれないの。
どうして。
「わた、わたし、ケイド、には……っ、……くてっ」
こわくて。逆らうことなんて出来ない。
どうして、わたしはこんなにも臆病なの――。
どうして。
あふれ出す苦しみに、拳を叩きつけたいくらい。
ひときわ大きく喉がひきつった時、わたしは床に手をついた。
手の甲に冷たいものが落ちた。何度も。
しゃっくりみたいな呼吸がとまらない。
「……オレに反論できただろ、今」
ぽつりとこぼされ、ウィルクスがずっと言葉を発していなかったことに気づいた。
「イヤなことがあったら、口に出すべきなんだ」
ウィルクスにしては不機嫌さも覇気もない声。
わたしは床の上を眺めながら疑問になった。
もしかして、励まされてる?
まさか、ね……。
ゆっくり息を吸って呼吸を整える。
それからウィルクスの言ったことを考える。
今、わたしは反論したことになったのだろうか。あんなので――。とてもそうは思えない。
「で、でも、別に今のは」
「うるせえ」
口に出せって言ったのはそっちなのに……!
納得いかず顔を上げると、ウィルクスはそっぽを向いていた。
その横顔はやっぱり不満そうで――わたしはまた下を向く。
「“でも”や“ごめん”はナシだ」
言い訳するな、ってことなのか。
それにしても、なんでウィルクスは急にわたしと話をしようと思ったのだろう。いつもの彼らしくない。
ウィルクス・キルケンススがどういう人物か、わたしはよく知っている。
いつも不機嫌そうで、他人に興味なんかなくて、誰かの失敗に大きなため息をつくような性格。
同じクラスになる前のウィルクスのことは知らないけど、彼が誰かに意見をたずねる姿なんて見たことがない。
彼がこちらを見てないのをいいことに、わたしはぼんやりとウィルクスを眺めた。
口をへの字に曲げていないせいか、横顔のせいか、今のウィルクスは真面目そうに見える。
トゲのある言葉も怒った声も出てこないウィルクス・キルケンスス。
ふつうの十二歳の男の子に見えた。
そういえば――この人はわたしに何か出来ないことがあったら、怒ってくる人だった。はっきり返事をしないとか、調べ学習が時間内に終わっていないとか、そういう時だけ。
ケイドみたいに罵倒が目的じゃないらしい。比べる相手が出来たから思うのかもしれないけど、ウィルクスは理由もなくわたしに文句を言うような人じゃない。
もしかしたら。
もしかしたらだけど。
ウィルクス・キルケンススは、わたしが思ってるよりもこわいひとじゃ、ないのかも。
と、ウィルクスがわたしに向き直る。
正面から見た顔も、怒りや不満を抱いていなくて、見慣れぬ様子にわたしの心臓がびくりと動いた。
「とりあえずあの転校生は帰ったみたいだ。お前も帰れ」
よそを向いていたウィルクスが見ていたのは、廊下の窓から見える校門だったらしい。わたしも彼の視線を追ってケイドを探したが、もう見つからなかった。