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その日、とんでもない嵐が来ると知っていたら、わたしは学園に行かなかった。それどころか自分の家から一歩も出ることはなかっただろう。
だけどわたしには未来を占う力なんてなくて、のん気に学園へ登校したのだった。
「新しいクラスのメンバーを紹介します」
担任のマルカム先生に促されるまま教室に入ってきたのは男子生徒だ。わたしは最初、何も気づかなかった。
背が高くなっていたから。顔つきも少し大人っぽくなっていた。服装だって、あの頃とは違う。
「ケイド・ヘイフォンです」
その名前を聞くまでは、わたしも転校生の存在を受け入れようとしていた。
動揺のあまり椅子から立ち上がってしまったのは問題だった。教室中の視線がわたしに集まる。ヒソヒソ声が響く。
わたしは金縛りにあったみたいに動かなくなった。言うべき言葉なんてあるのか知らないけど、そんなものも思い浮かばない。
「おいおいまさか、泣き虫小ブタか?」
その、他者を侮りきったしゃべり方を聞いた途端、わたしの全身に震えが走った。
目が合ったとたん心臓が早鐘を打つ。
嵐だ。
嵐がやってきた。
『ぶさいくエベニー! 気持ち悪いんだよ!』
過去の記憶がよみがえる。
エベニーとは小ブタのこと。わたしの名前エヴァニーと似た悪口を使うのはケイド・ヘイフォンぐらい――。
「おや、知り合いがいたのかな」
怪訝そうなマルカム先生に、ケイドは首を横に振る。
「いいえ、人違いのようでした」
言い切って、ケイドはわたしから視線を外す。
「えーなにアレ」
クラスメイトのクスクス笑う声はわたしだけに向けられたもの。
「マースティンくんは座りなさい。それでは話を戻しますが転校生のヘイフォンくんは――」
わたしが何かミスするたびに笑う生徒たちに、先生も慣れてしまっている。それでもマルカム先生は生徒たちの注意を他に向けようとしてくれた。
だけど話をその転校生に戻されては、わたしは生きた心地がしない。
なぜなら、ケイド・ヘイフォンはわたしが泣き虫になった原因だから――。
ケイド・ヘイフォンが同じ建物内にいる――それを知っただけでわたしの心臓は裏返った。
常に焦りや後ろめたさ、恐れによる心臓の素早い動きに悩まされた。
こわい。
これまで誰にでも厳しいガレヴィル先生や、わたしを笑ってくるクラスメイトをこわいと思っていた。ウィルクスにだって睨まれたら、わたしは心臓が縮みあがった。
でもそんなの、話にならない。
ウィルクスからは逃げることが出来たのに、わたしはケイドが居る教室から動けもしなかった。
空気の吸い方さえうまく思い出せない。
ケイド・ヘイフォン。
以前はモークロイ学園のあるこのルスディオの街にさえいなかったのに、どうしてここまで来てしまったのか。
見た目が少し変わっても、わたしに向ける表情はあの頃のまま。
ケイドが近くにいるだけで、世界中の人々から嫌われているような気分になる。
わたしはほんとうは、生まれてきてはいけなくて、ケイド・ヘイフォンはそれを指摘しているだけ。
こわい。
のど元をせり上がるのは、罪の意識。
こわい。
わたしはわたしがモークロイ魔術学園にいてはいけないのを誰よりもよく知っている。
それでも、誰かに指摘されるのはおそろしい。
こわい。
過去にケイドがわたしを否定したのは事実。ケイドはまた、わたしを――
「次の授業、行かないの?」
その声でようやくわたしは飛竜組の教室が空になっているのを知った。今の教室には、わたしともう一人しかいない。
「あ……」
もう一人の相手をちらりと見れば、クラスメイトの女子だと分かった。焦げ茶のセミロングと赤いリボンに見覚えがあるのに、名前は知らない相手だ。
「次、魔術実習だから校庭に移動だよ?」
その子は親切にもわたしに教えてくれた。
授業で必要な時以外にクラスメイトに声をかけられたのは、ひさしぶりだ。わたしは目をぱちくりさせる。
何と答えたらいいのか、名前をたずねてもいいものか、わたしがぼけっと考えているうちにその赤いリボンの子は教室を出ていった。たぶん、言うべきことは言ったから。
がらんとした教室に、わたしは心が落ち着くのが分かった。
ケイド・ヘイフォンはいない。
その事実はわたしの心を一時的に穏やかにした。
校庭に向かえばガレヴィル先生に遅刻だと小言を食らった。でも今のわたしの関心は学園における規律を守ることにはない。
ケイド・ヘイフォンがいる。当たり前だ。彼はわたしと同じ学園の生徒で、同じ授業を受ける必要があるのだから。
ケイドはこちらを見向きもしないのに、どうしてこんなにも息苦しいのだろう。
わたしはさっきのクラスメイトの親切にすら恨みを向けそうになった。校庭になんて来なきゃよかったんだ。
「それでは二人一組になって――」
お決まりの言葉がガレヴィル先生から発されてやっと、ウィルクス・キルケンススの不在を知ったけど、そんなことはどうでもよかった。
「知っての通り魔術の属性は六あるが、人はみな一つの属性しか扱えん。既に自分の属性を知る者も多いとは思うが、まだ定まらぬ者は自分自身でどの属性がいいか強く意識するんだぞ」
校庭のような広い場所にいると、組を作れと言われて一人でいても見つかりにくい。生徒はあちこちに散らばっているから、ガレヴィル先生も他の生徒に教えるので手一杯。わたしは出来るだけクラスメイトから離れて校舎の壁にはりついた。
このまま黙って校舎に戻っても、誰もわたしに気づかないはずだ。
そうしようか。
ガレヴィル先生は遅刻や無断欠席には厳しい方で、すぐに成績表にそれを反映させる。
でも、だからどうだっていうのか。授業に出たって、わたしの成績がよくなることはない。
わたしはまともに魔術が扱えず、自分の属性が何かすら分かっていない。
その時、わっと大勢の声がクラスメイトの間からわいた。つられて声がした方へ顔を向けると、人垣が出来ている。
その中心は転入してきたばかりのケイド・ヘイフォンで、水の魔術を応用させ氷の柱を地面から生やしている。
水の魔術で水を生み出すだけでも大変なのに、応用して氷に変え、あんな量の柱にしてしまうなんて――かなり優秀な証拠。ケイドは魔術の才能にとても恵まれているようだ。
今まで知らなかったけど、こうして実力の差を見せつけられればケイドを避けるべき理由が増えたことになる。
「マースティン。少しは何かの魔術を扱えるようになったかね?」
ケイドに気をとられているうちに、わたしはガレヴィル先生に見つかってしまった。先生もケイドの魔術に夢中になってくれればよかったのに。
「六属性のうちのどれでもいい。やってみなさい」
あまつさえわたしに試練を与えてくる。
ガレヴィル先生の常に寄せられた眉間のしわがこわい。
「は、はい……」
わたしは観念して、まずは火の魔術を使おうとした。
ガレヴィル先生の視線を感じて緊張してしまう。手がふるえそうなのを止めなくてはならなかった。
指先に火を灯そうとしたが、何も生まれず時間だけがたつ。時々先生の小さな咳払いのような音がする。
それでもなんとか集中を心がけ、わたしは火を生み出そうとした。
光ったのは、赤ん坊の爪並みに小さな火。それも一瞬で消えてしまった。あとに残ったのは煙ったにおいだけ。
魔術を習いたての一年生でも、もっとマシなものを生み出せる。
「……では、水の魔術を」
仕切り直すようにガレヴィル先生が言って、わたしはまだやるのかとふるえあがった。
何度やっても、どの属性の魔術を使っても、結果は同じだった。ほんの少しの変化があるだけか、あるいは何の変化もないか。
またいつものクスクス笑う声。いつしか見物人が集まっていた。
「いつだったかはもう少し調子がよかったではないか」
常に生真面目で感情の分かりにくい態度のガレヴィル先生も、わたしに呆れているみたいだ。
「あんなの、わざとやってるようにしか思えないな」
笑いを押し殺すように言うのは、ケイド。
わたしの頭はかっと熱くなった。
「いつもあんなにひどいのよ」
「いや、今日はいつも以上にヤバい。同情したくなるくらいにな」
そう言いながらその男子は腹を抱えて笑い声を上げた。
自分の受け持つ生徒たちがまともに授業に参加していないと気づいたガレヴィル先生は、彼らを振り返った。
「今は見学の時間ではない。自分の手を動かすんだ」
先生が生徒たちを追いたてると、彼らはやっと散り散りになった。
魔術実習の授業はこの日最後の授業だった。
友達と話したり帰路についたりする生徒たちを視界に入れながら、わたしは別のことを考えていた。
学園を辞めるには、誰に伝えたらいいのだろう。
たびたび考えていたこと。
わたしがこの学園にいてはいけないのは分かっている。それならやることは一つ。
このままだとわたしは進級出来ないかもしれない。一年進級を遅らせたとしても、上達もしないから意味なんてない。
だからわたしはこのまま、消えてしまった方がいい。
ずっと考えていたことだ。
「帰らないのか?」
その影が地面に落ちるのを、見逃したわけじゃない。
ウィルクス・キルケンススがそばに立っていても、どうだってよかった。
いつものようにそのうちわたしから離れていくと思ったのに、そうならなかった。だからわたしは自分からウィルクスと距離をおいた。
帰ろう。
家に帰って、明日は休みたいと母さんに言う。学園を辞めるかどうかは、まだ少し置いておこう。
校庭を横切って校門を目指す。荷物は教室においたままだけど、戻る気になんてなれなかった。
もう、心が麻痺してしまったみたいに思える。
ケイドのことは変わらずおそろしいけど、今はなんだか何もかもが遠い。
ただ、歩くことしか考えられない。
「出たな、落ちこぼれのグズ」
行く手を遮られてはじめて、ケイドに気づかずに通りすぎようとしていたと知った。
友人を何人も引き連れてニヤニヤ笑うケイドは実に意地が悪そうだ。生き生きしても見える。
「お前、魔術もカスだったんだな。さっきはあんまりみっともないんでこっちまで恥ずかしくなっちまったよ、ぶさいく小ブタ」
ケイドの周りの生徒は彼が最高のジョークを言ったかのように笑った。
わたしは彼の足元を見るしか出来ない。
頭が重くなってきた。
早くここから離れなければ。
ふるえる喉がうるさくなる前に、はやく。
足を無理矢理動かしたせいでよろめき、ケイドの前に飛び出してしまった。慌てて反対側に逃げると、ケイドがわたしの肩を強く押す。
壁に追いつめられ、その男子の顔が近づく。
「グズはいくつになってもグズのままだな、泣き虫小ブタちゃん」
涙を見られたと知った。
正面からぶつけられた悪意に、わたしは息も出来ない。
ケイドが口を開けたのが分かる。まるで獲物を目の前にした猛獣のように舌なめずりして。
「お前が出来損ないだと、おれの素晴らしさが余計に引き立つからうれしいぜ。よかったよ、お前がピーピー泣き止まない泣き虫のまんまでさぁ」
その少年を突き飛ばしたつもりだった。そう出来たかは分からない。
ただケイドは追いかけてこなかったし、わたしは校門をくぐることが出来た。