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第五章 愛

   一


「ご飯できましたよ。圭太郎君」

 西田が部屋に入ってきてうとうとしていた圭に声を掛けた。

「ああ、すみません」

 そう言いながら起き上がろうとして、布団の上で圭は少しよろけた。

「ああ、大丈夫ですか?」

 慌てて西田が圭の体を支える。

「やっぱり相当体が痛んでるんですねぇ。ほら私に掴まって」

「いや、大丈夫ですよ。急に起き上がったから、体がちょっとびっくりしたんだと思います。ほんとに大丈夫ですから」

 そう言って圭は少しはずかしそうに笑い、ゆっくりと立ち上がった。

「ほら、もう平気です」

「本当ですか。無理しないで下さいね。私は体は小さいが、こう見えて力は強いんです。なにしろ釣りというのは時に格闘ですからね。ヘミングウェイの『老人と海』とまではいきませんけれどね」

 背の低い西田は、まだ不安そうに背の高い圭を見上げるように言いいながら、居間に案内した。

「うわ!おいしそう!」

 食卓の上には、決して豪華とはいえないが、いかにも心を込めて丁寧に作られた感じのする料理が並んでいる。

「どうぞ、どうぞ、そこに座って」

 うながされて圭は、壁を後ろにして食卓の前に座った。

「たくさん食べて下さいね。今はとにかく体を直さなきゃ。そのためには、遠慮なんかしないでどんどん食べることです」

 そう言って西田も食卓の前に座ると、茶碗にご飯と味噌汁をよそって圭に渡した。

「はい!いただきます。いや、ほんとおいしそうだなぁ」

「さ、どうぞどうぞ、遠慮しないで」

 しかし、気づけば丸一日以上食事をしていない今の圭には、遠慮などという文字はみじんも無かった。

 勢いよく料理をたいらげていく圭を、西田が満足気に見つめている。と、突然家のドアの開く音がして、三十歳過ぎくらいの大きなイヤリングをした女性が入ってきた。Iだ。こちらは、イヤリングがイヤホンの変わりになっているらしい。

「あら、お父さん。この人が、電話で話してた人?」

 Iはごく自然西田に話しかけた。

「そうだよ。国島圭太郎くんだ。あ、圭太郎君、これ私の娘。いい年して一人もん」

 西田もIと同様。二人の会話には、不自然さのかけらもない。

「一言多いのよ」

 Iは西田を軽くにらんだあと、

「藍です。よろしく」

 と、台所に立ったまま、圭に軽く会釈をした。圭は思わずほぐしていた足を正座に直すと、

「国島圭太郎です。このたびはお父上に大変お世話になりまして」

 と、深く頭を下げた。

「まあまあ、固いことは抜きにして。ところで、お前メシは?」

「うん。ご飯はすましてきた」

 Iはお茶をいれるために、湯をわかそうとしている。その時、居間の片隅にある電話が鳴った。狭い部屋だ、西田が腕を伸ばして受話器を取った。

「もしもし、西田です。え、あ〜今夜はちょっと……、いや、そういう訳じゃないけど……、うん……、え!そうなの……」

 西田は困った顔をしている。

「お父さん、行ってくれば?今夜は絶好のコンディションなんでしょう?」

 台所で聞き耳を立てていたIが西田に声を掛けた。

「あ、ちょっと待って」

 受話器の口を塞ぎながら、西田はIの方を向いた。

「でも、やっぱり心配だし」

「大丈夫よ。私は明日オフだから、もともと泊まっていくつもりできたのよ。だから、安心して夜釣りに行ってくればいいじゃない。圭太郎君のことなら、私が責任を持って面倒見るから」

「そうか……」

「そうよ」

「あの、俺ならもう大丈夫ですから。気にしないで行ってください」

 二人の会話を聞いていた圭が申し訳なさそうに言った。

「じゃ、そうしようかな」

 西田はちらりと圭を見ると、再び電話口に出た。

「待たせて悪かったね。やっぱり行くよ……。うん、すぐ出るから、じゃ」

 電話を切ると、西田はいそいそと立ち上がった。

「悪いね圭太郎君。じゃあちょっとこれに、行ってくるね」

 西田は釣りをするまねをした。

「いや、謝るのはこちらの方ですよ。すみません、俺のせいでいろいろ気を使わせてしまって。せっかくなんですから、俺のことは気にしないで、じゃんじゃん釣ってきてくださいね」

 圭はそう言いながら、見送りのために立ち上がろうとした。

「ああ、圭太郎君いいから、いいから、食事を続けて」

 そう言うと、西田は壁際にかけてあった防寒具を大量に着込みながら、玄関へと向かった。

「お父さん、でもあんまり無理はしちゃだめよ。ちゃんと寒くないように着込んだの?ほら、帽子を忘れてるわよ」

 言いながら、Iは台所に置いてあった帽子を持って玄関へと行き、それを西田に手渡した。

「はい、これ」

「ああ、ありがとう藍」

 帽子を受け取ると、西田は長靴を履くために、玄関のたたきに座った。と、その背後から、圭に聞こえぬようにIはそっと声を掛けた。

「お疲れになったでしょう。あとは私に任せて、ゆっくりお休み下さい」

 西田は振り返って、無言で頷くと、

「じゃあ、圭太郎君行ってくるよ」

 と、居間に向かって言い、愛用の釣り竿を握り締め玄関を出て行った。

「こんなに寒いっていうのに、まったく物好きよねえ」

 居間に入ってきたIは、圭にお茶を出しながら呆れたように言った。

「本当にお好きなんですね」

 猫舌なのか、圭は出されたお茶を両手に持ってフウフウしている。

「大体の事はお父さんに電話で聞いたけれど。それにしても、すごい事に巻き込まれたものねぇ」

 お茶を一口飲んで、ちょっと熱かったかなと思いながら、Iは言った。

「はい、ほんとに。自分でも、未だに何が何だかわからないんです」

「そりゃそうよね。聞いた私たちだって、にわかには信じがたいもの」

「そうですよね」

 少し冷めたのか、圭はようやくお茶を口にした。

「ところで、体は?もう大丈夫?」

「はい。ゆっくり寝かせてもらって、おいしいご飯を頂いて。これで治らなきゃ、バチが当たります」

「でも、無理は禁物よ。こんな寒い時期に海に飛び込むなんて……。普通なら心臓発作を起こして、とっくにあの世いきよ。いくら若いからって、この程度で済んで本当によかったわ」

「まあ、日ごろの鍛錬が違いますから」

「鍛錬?あ、そうそう、圭太郎君はアクションスターなのよね!」

「いや、スターでは……、ないですけれど」

「今、どんな役をやっているの?」

「今……、ですか?」

「そう」

「戦隊ものです。あの、カッチャレンジャーっていう」

「あ、知ってる!」

「え!知ってる……んですか?」

「実は私、小児科の看護婦なの。だから子供の流行モノには敏感なのよ。でも……」

 Iは圭の顔をまじまじと見つめた。Kとオーバーラップして笑いそうになったが、必死に堪えた。

「どの役?カッチャレンジャーじゃないわよね?」

「あ、あの……」

「あ!わかった!」

「わかっちゃいましたか?」

「わかっちゃった」

 それを聞いて圭はうつむいた。

「すごいじゃない!子供たちにはね、カッチャレンジャーよりヴィルト・カッツェの方が人気があるのよ」

「本当ですか?」

 単純な圭はうれしそうに顔をあげた。

「本当よ。なんだかほら、カッチャレンジャーって若くて顔はいいけど、なんとなくアクションがイマイチじゃない?それにくらべて、ヴィルト・カッツェのアクションは大したものよ。ま、確かにお母様方はイケメンヒーロー君たちに夢中だけど、子供はそれだけじゃ騙されないから」

 それを聞いた圭の顔は満面の笑みに彩られている。

――同じ顔でも、ここまで違うとは……。

 Iの脳裏、にKのムスっとした顔が浮かんだ。

「そうかぁ。子供たちにはわかるのかぁ」

 圭はひたすら夢見心地だ。

「でも、ま、あの女の子は悪くないわね。なんて言ったっけ?」

「カッチャ桃ですか?」

「そう」

「桐生エリナ」

 そう言った圭の頬が少し赤らむのを、Iは見逃さなかった。

「桐生エリナちゃんね。本名?」

「いや、苗字は違います。それに、芸名はカタカナですが、本名は漢字です。『愛理奈』って書くんです。親しい人たちは『愛ちゃん』って呼んでるみたいです」

「そうなの?それじゃ私と同じじゃない。で、圭太郎君は『愛ちゃん』って呼んでるの?」

 そう言ってIは圭の反応をそれとなくうかがった。間違いない。頬はさらに赤みを帯びて、耳まで真っ赤になっている。そのはにかんだような表情。

「いや……、俺なんて、そんな。あっちは、主役の一人だし……。それに、十歳も違うし……。俺なんて……」

 圭はいつの間にか、語るに落ちている。そんな圭の姿がIにはおかしくてたまらなかった。

――この年になってここまで純情とは。となると、かなりの晩熟だわね。

 Iは思わず「そりゃ、伯母さんも見合い話探してくるわ」とつぶやいた。

「は?見合い。藍さんお見合いするんですか?」

「え?あ、いや私じゃなくて……、友達、友達がね」

「そうなんですか」

「うん、さっき聞いたばかりだから、何だか頭の中に残ってたのかな。急に思い出しちゃって」

 Iは苦し紛れだ。

「見合いかぁ。藍さんはしたことないんですか?」

 その質問にIはとまどった。瞬間、Kの顔が浮かんでしまったからだ。

――なんで、アイツが出てくるのよ!

「すみません。失礼なこと聞いて……」

 目の前で、苦悶の表情を見せているIに圭は少し恐れをなしていた。

「え……、あ、いいのよ気にしないで。それより、遅くなってきたから、もう休んだ方がいいわ。体力回復のためには食べて、寝る。これが一番」

「そうですね。お腹がいっぱいになったせいか、なんだかまた眠くなってきちゃったし。じゃ、僕先に休ませて頂きます」

 そう言って立ち上がった圭をみて、Iは思わず噴出した。

「なに?それ」

 Iは、笑いながら圭の足元を指差した。

「あ、やっぱりおかしいですよね。男の冷え性なんて」

 思わず照れ笑いをした圭の足には、分厚い靴下が二枚はかれていた。


 

   二


 エレベーターを待ちながら、北村は携帯電話を見つめてため息をついていた。

「どうせ、電源切ってるんだろうな……」

 思いながらも、ダメモトで竹之下に電話を掛けたが、結果はため息を深くするだけのことだった。

「まあ大体目星はついてるからいいけど。それにしてもこの寒いのに俺もご苦労なこったぜ。竹之下さんの定年まであと二年か……。俺が待ち遠しいよ、まったく」

 そうつぶやきながら、やってきたエレベーターに乗り込んだ。

 一階についた北村は、正面ではなく裏口から外へ出た。こちらの方が、竹之下の行きつけの喫茶店が近いためである。

 店に入ると、案の定竹之下はそこにいた。一番奥の席に陣取り、のんきにタバコをふかしながら、スポーツ新聞を読んでいる。

「竹之下さん!ったく何してるんですか!」

 その声に、当の竹之下よりも、竹之下の隣の席に座っていた男が機敏に反応した。

「よう!北村!」

「あれ、室井!久しぶりだなぁ」

「元気だったか?」

「いや……、心も体もボロボロだよ」

「何かあったのか?」

 北村の様子に、室井は心配そうな顔をした。

「……まあね」

 言いながら北村は、視線を竹之下に向けた。が、竹之下がそんなことを気にするはずがない。

「カミさんと喧嘩でもしたか?」

 それを聞いて、竹之下は大笑いしている。

「いや、あんた面白いこと言うねぇ」

「いえ、別に面白くはないと思いますが……」

 室井は困惑気味だ。

「あ、そうね。よく考えたら、大して面白くなかったな」

 竹之下は笑うのをやめて、今度はつまらなそうな顔をして北村の方を向いた。

「ところで、この人誰?」

「俺の同期ですよ。こっちは、『同じ課』の竹之下さん」

 北村は竹之下のことを『上司』とだけは言いたくなかった。

「室井といいます」

 室井は立ち上がって、丁寧にお辞儀をした。

「あ、室井さん。そりゃ、どうもどうも。ご丁寧に。お噂はかねがね……」

 竹之下は座ったままでいる。

「聞いてませんって言うんでしょ。もう聞き飽きました」

 竹之下は、先を越されてもなんら気にする風もない。

「まあまあ、固い挨拶もなんだから、座って座って」

 うながされて、仕方なく二人は席についた。

「ところで、室井の方はどう?今、すごく忙しいんだろう?」

「ああ、思った以上に忙しくなってきた」

「そりゃいけないなぁ。刑事が忙しがってるような国は、ロクな国じゃない。日本は治安がいいっていうから、俺は警察に入ろうと思ったんだけどねぇ。ほら、治安がいいなら警察は暇じゃない」

 竹之下が口を挟んだ。適当な発言だが、一理あるといえなくもない。

「いや、でも今回は事件で忙しいわけじゃないですから」

 室井は竹之下とは正反対のタイプらしい。すなわち、クソ真面目。

「事件じゃない?あれ?警察って、事件の捜査以外になにかすることあったっけ?」

「身辺警護ですよ」

 うんざりして北村が言った。

「誰の?」

「新聞読んでないんですか?」

「読んでるよ」

 竹之下は、手に持っていたスポーツ新聞を軽く持ち上げた。

「いくらスポーツ新聞でも、さすがに載ってるはずです」

 それを竹之下の手からもぎ取ると、北村は雑にページをめくり始めた。

「ほら!ここ!」

 と、北村は机の上に新聞を置くと、一つの記事を指差した。

そこには、「フィンランドの天才科学者明日来日!」と大きな見出しが躍っている。

「へぇ、偉い人がくるもんだねぇ。で、この人そんなに偉いの?」

「偉いなんてもんじゃないですよ。最新のミサイル防衛システムを開発したんです」

「そんなもん俺にゃ関係ない」

 竹之下はそっぽを向いた。

「これがなんだか分かって言ってるんですか?」

「そりゃもちろん!」

 竹之下は北村の方へ向き直った。

「分かってるわけないだろう。だから関係ないんだってば」

「……」

 疲れ切って言葉も出なくなった北村の変わりに、室井が説明を始めた。

「例えば、となりの国の首相が気まぐれにミサイルのスイッチを押したとすると、大体十分程度で日本に着弾するんです。そうなってしまっては、もう手の打ちようがありません。着弾して、日本が沈没するのを待つばかりです」

「え?そうなの?」

「そうです。そこで博士は、発射されたミサイルを、着弾する前に打ち落とすというシステムを開発されたのです。そうなれば、いつミサイルを発射されても怖くない。それに、ミサイルを撃っても効果がないとなれば、買ったり作ったりすることもなくなるでしょう。ミサイルの意味がなくなりますからね。となれば、世界中で軍縮が進むということも期待されてるんです」

「そら、大したもん作ったねぇ。こりゃ驚いた」

「そう、大したことなんですよ。そうなりゃ竹之下さんの願い通り、事件が減って警察も少しは暇になるかもしれませんよ。よかったですね」

 北村の口調は皮肉っぽくなっていた。

「でもさあ……」

「今度は何です?俺は泳げるから、日本が沈んでも心配ないとか言い出すんですか」

「いや、そうじゃなくてさぁ。ミサイル作ったり、売ったりしてる会社は倒産するのかなぁって。作るもんも売るもんもなくなっちゃう訳じゃない。そしたらみんなリストラだあねぇ。いやいや、世の中景気が上向いてきたって言っても、そりゃまだまだ一部のことなんだなぁ……。あ、そういや北村、お前何しに来たの」

「あ!仕事ですよ、仕事!」

 すっかり竹之下のペースにはまっていた北村は、慌ててポケットから紙切れを出した。

「なに、そのメモ?失くしちゃったことにしとけば」

「そういう訳にはいきません!」

 そう言って、北村は竹之下の手にメモを握らせた。そのメモには、日時と場所、その筋の団体名が一つ、それに『麻薬取引』という文字が、殴り書きの見本のようにつづられていた。

「とにかく情報はそれだけなんです。でも、今から飛ばせば、時間にはなんとか間に合うでしょう」

「そんなこと言ってもさぁ」

 そのメモを見ながら、竹之下はうんざりとした表情を見せた。

「ここ見た?」

 竹之下が指差した箇所には、『多分、ガセネタ』と書かれていた。



   三


 部屋に戻った圭は明かりを消して、布団にもぐり込んだ。すると、すぐにまどろみ始めた。が、

――寝る前には必ずトイレに行くのよ。

 またもや亡き母の優しい声が脳裏をよぎった。

――行っておくか……。

 半分寝入っていた圭は、ここが西田の家だという事を忘れていた。寝ぼけて、自分の部屋のドアの方向と向かった。圭の部屋のトイレは共同だ。いったん廊下に出なければならない。

 暗闇の中よろよろと圭が向かっている先には、防寒用の分厚いカーテンに覆われた腰高窓がある。

 ニ・三歩進むと、ドアのノブをまわそうとして前方に手を出した。

――あれ……?ノブがない……?

 寝ぼけ眼を開いてまわりを見渡してみたが、暗くて何も見えない。

――どこいっちゃったんだろう……?

 もう一歩足を進めながら、ドアノブを探して圭は上下左右に手を動かした。

――おかしいな……。

 手を動かしながら、さらにもう一歩進んだ次の瞬間、パリンというガラスが割れる音と共に、分厚いカーテンの隙間から一筋の光が部屋に飛び込んできた。

――……?

 なんだろうと思いながら、圭がカーテンを開けると、今まで見たことのないような黒いガラス窓に少しひびが入っていて、そこから光が差し込んできた。

――これは、何の光?何、この黒いガラス?どういうこと?もしかして、これは日の光?でも、西田さんは、これから夜釣りに行くって……。え、どういうこと?今は夜じゃないの?

 圭の眠気はいっぺんに覚め、同時に全身の血が引いていくのがわかった。

 その時、

「何があったの?変な音がしたけれど」

 と、血相を変えたIが部屋に飛び込んできた。

 Iを振り返った圭の顔は、真っ青になっている。

「あの、圭太郎君、落ち着いて。これにはいろいろ事情があるの……」

 Iはなだめるように、優しく圭に声を掛けた。しかし、圭はおびえたような目でIを見つめている。

「圭太郎君、お願い信じて。全部あなたのためなの」

 一歩、二歩とIは静かに圭に歩み寄ってきた。

「来るな!」

叫びながら圭は後ずさりしようとしたが、すぐ後ろには窓があり、それもままならなかった。恐怖が、じわじわと圭を襲ってくる。ガラス窓を破って、海に飛び込んだ時の記憶がよみがえる。

――そうだ!

 圭は窓の方に向き直ると分厚いカーテンを閉め、その上から窓ガラスに向かって体当たりをした。バリンという派手な音と共に、黒い窓ガラスが粉々になっていく。

 圭はカーテンを勢いよくあけた。太陽の光がさんさんと輝いている。

――良かった。一階だ。

 確認すると、圭は割れた窓から外へと飛び出した。

「待って!」

 背中でIの悲鳴にも似た声が聞こえたが、圭は無視してがむしゃらに走り出した。当然靴を履いていないが、分厚い二枚の靴下がそれなりに役に立っている。

 圭を追って、幾人かの男が西田の家の物置から飛び出してきた。Iも家から出てきて、素早く車に乗り込む。

――大体、ここはどこなんだ?

 走りながら圭は周りを見渡したが、ここがどこなのか検討も着かない。西田の家以外に家らしい影はなく、人の気配もない。しかし、道路は舗装されてセンターラインまで引いてあるところを見ると、このまま走って行けばどこかしら人のいるところに辿りつけそうな気配はする。

――潮の香りがするから、海が近いのは確かなんだろうけど……。それにしても、どこに逃げりゃいいんだ?

 中学・高校と陸上部で中距離の選手だった圭は、足と体力には自信がある。実際、追ってきた男たちとの距離は徐々に開いていった。

 しかし、Iの乗った車はその勢いを増してどんどん圭に近づいてくる。前方に海が見えはじめてきたが、圭は思い切って道をはずれ、右手に広がっていた雑木林の中に逃げ込むと、その中を縦横無尽に走った。

 先ほどまでの天気がうそのように、急に雲が出はじめると、いきなり土砂降りになった。圭はぬかるみに足をとられ、何度も足をすべらせた。

――昔よくこういうことやったなぁ。

 泥だらけになりながら、圭は自衛隊の演習を思い出していた。

 どれくらい走ったのだろう。圭の行く手にはまだ雑木林が続いている。姿は見えないが、Iと男たちもまだ諦めずに雑木林の中で圭を探しているだろう。

冷たい雨が急激に体力を奪っていく。圭はさすがに疲れを覚え、その足がもつれだしてきた。と、かすかに人の声が聞こえる。

――やった!

 その声に勇気付けられ、圭が声のする方向へと勢いよく走っていくと、いきなり雑木林が終わって、視界が開けた。見渡すと、壊れかけた木造の校舎や、さびてボロボロになったブランコなどが見える。どうやら、ここは廃校になった小学校のようだ。目を凝らすと、遠くのほうに人影が見える。

圭はほっとして、人影の方に走り寄ろうとしたが、しかし……、次の瞬間、圭は絶望的な気分になった。

――俺、いつの間にか死んでたのかな?

 人影の中に、ヴィルト・カッツェの後ろ姿が見える。

――ここにヴィルト・カッツェがいるって事は、幻を見てるのか……。それとも、やっぱり俺がもうとっくに死んじゃって、天に昇る途中って事か……。そうだよな、現場に思い残したことなんてたくさんあるし……。俺、幽霊になって、戻ってきたんだ……。

 考えあぐねている圭の元に、あろうことか当のヴィルト・カッツェが圭に向かって走り出した。

――さあ、こちらにいらっしゃい。

 今は亡き母の優しい声が耳に響く。

 異様に諦めの早い圭の耳に、聞きなれた声が響いた。

「先輩!」

 大きく手を振りながら、ヴィルト・カッツェは叫びながら圭の側までやってきた。

「その声は!タ、タカシ?」

「心配したんっすよ、先輩!」

 全力疾走のせいで、タカシは息が乱れている。

「タカシ、ほんとにタカシか?」

「ほんとに俺っすよ、先輩。今まで、一体どこ行ってたんっすか?」

「いや、話せば長くなるんだけど」

「大変だったんっすよ。もう、みんな心配するやら怒るやらで。撮影はすっぽかす、連絡は取れないって。もうそりゃ、大騒ぎだったんっすから」

「そうか、すまん……。でも、撮影は明日のはずじゃ……?」

「何いってんっすか。スケジュール忘れてたんっすか?」

 タカシの返答に嫌な予感がして、圭は恐る恐る聞いた。

「成田で撮影したの、昨日だよな?」

「そんなのもう、三日も前の話っすよ」

「三日?」

「そうですよ。その間、俺がどれだけ心配したかわかってるんっすか……」

 本当に心配だったのだろう、タカシは涙ぐんでいる。が、圭の心情は浦島太郎状態だ。何が起こっているのか皆目見当がつかない。

 徐々に二人の周りにスタッフや共演者が集まってきた。カッチャ桃こと桐生エリナの心配そうな顔もその中にあった。圭は、ひとりひとりに向かって「すみません」と頭を下げている。

 力一杯怒鳴りつけてやろうと意気込んで近寄ってきた監督は、圭のその姿に何も言えなくなってしまった。

 泥だらけの顔と服。見れば靴さえはいていない。厚手の靴下もボロボロにやぶけ、泥と混じってじっとりと血がにじんでいる。何か事情があるのは一目瞭然だった。

「雨にはかなわん。きりのいいところまで撮ったし、今日はここまでにしておこう」

 監督はスタッフに大声で叫んだ。

「圭、お前も一緒に宿に帰るぞ」

 普段厳しい監督が、ぶっきらぼうながらも、精一杯優しく語りかけた。

「おい、誰かサンダルかなにか持ってこい。これじゃ痛くて歩けないだろう」

 若いスタッフが、その声で慌ててロケバスの方へ飛んでいき、とって返して圭にスリッパを持ってきてくれた。

「さ、これを履いて」

 監督にうながされて圭はスリッパを履き、タカシに軽くささえられながらロケバスに乗り込んだ。

 しかし……。圭もまわりの人間も全く気づかなかったのだが……。追ってきたIが、その様子をそっと木陰で見ていた……。



   四



「圭太郎に逃げられたって!」

 首都高速の渋滞にはまっていたKは、ヘッドセットに飛び込んできたIの報告にいらついた声を出した。

「それで?」

「大丈夫、もう居場所はわかっているわ」

「お前にしては、随分と仕事が早いじゃないか」

 Kの嫌味に反論もできぬまま、Iは状況の説明を手早く済ませた。

「そういういことだから、Kにも急いで欲しいの」

「わかった。それじゃな」

「あ、K」

「なんだ?」

「あの……、気を付けてね」

「切るぞ」

 Kは無愛想にそう言って電源を切ると、胸ポケットから銀色の小さなケースを取り出した。

「さて、お待ちかねの本番だ」

 ケースに入っていた発信機を取り出して、ポケットに直接入れるとKはひとりごちた。

 渋滞する首都高速を降り、一般道に入ってゆっくり車を走らせていると、一時間もしないうちに怪しい車がKの車についてくるようになった。

 運転しているのは岩本。助手席には大杉の姿も見える。

――おいでなすったな。

 ミラー越しにその姿を確認しながら、圭は予定通り郊外へと向かった。

 広い幹線道路からわき道に入ると、そこは古くからのお屋敷街だった。立ち並ぶ家々は広くて立派なのだが、道路はそれに似ず案外と狭い。対向車がすれ違うのにスピードを落とさねばならない程に。

 Kは慣れた様子ですいすいとその広くはない道を走っていたが、大杉たちの車が後を着けてきているのを確認すると、車を右に寄せて急停車した。

「どうします?」

 それを見て、岩本は焦って大杉に聞いた。

「いいから、何もなかったように追い越せ。気づかれたらマズイ」

 大杉の声は落ち着いている。

「は、はい」

 そう言われて、岩本は少しスピードを落としながら、Kの車を抜き去った。すると、すぐにKは車を発進させた。今度はKが大杉たちを追う形だ。

「なんだ?ぴったりと着いてきやがりますぜ」

「まあ、幹線道路にでも出れば巻けるだろう。発信機もあることだし焦る事はないさ」

 しかし、ものの五秒とたたないうちに岩本がいらついた声を出した。

「チクショー、バカにしやがって!」

 二人の前方は、行き止まりになっている。やむなく岩本は車をとめた。Kもそれを見て、二人の車が出れないように道路の真ん中に車をとめると、車から降りてゆっくりと二人の方へと向かって行った。

「ヤロウ!」

 岩本は急いでシートベルトを外しにかかると、「やめろ!」という大杉の制止もきかずに、勢いよく車の外に飛び出すと、Kに掴みかかった。

「テメェ、なにしやがるんでぃ!」

 それを見て大杉も車から飛び降りてきた。

 Kは相変わらずの嫌味な口調で、岩本の耳元でささやいた。

「いいのかな、こんなことして?」

「なんだと、コノヤロー」

 更に強く掴みかかろうとする岩本を、大杉が後ろから抑えにかかった。

「やめろ。横見ろ、横!」

 うながされて岩本が横を見ると、そこには警官が立っていた。

「エッ?」

 さらによく見れば大きな門の横にポリスボックスがある。どうやら現役の大臣の私邸らしい。

「なにか問題でもあるのかね」

 警官が岩本に向かってとがめるように訊いたが、それに答えたのは岩本ではなくKだった。

「いえ、何でもありません。私が道を間違えてしまって……。お騒がせして申し訳ございませんでした」

 そう言ってKが頭を下げると、大杉と岩本もあわててそれに続いた。

「それならばいいがね。しかし、邪魔だから早くどいてくれ」

 納得はしてないぞといった顔で、警官はポリスボックスの中へと入っていった。

「本当にすみませんでした。でも、おかしいなあ……。この道でよかったはずなんだけど……」

 言いながらKは大杉の方を向いた。

「すみません、地図を見直しますんで、運転を変わってもらえませんか?」

「はぁ?」

 大杉には意味がわからない。

「早くしないと、痛い腹を探られることになるぞ」

 Kは大杉の耳元でささやいた。

「それじゃ、僕は助手席に乗りますんで」

 納得のいっていな大杉をよそに、Kはさっさと車に乗り込んだ。

「俺の後に着いて来い」

 そう岩本に声を掛けると、大杉は仕方なくKの車の運転席に座った。

「どういうつもりだ」

 質問には答えず、Kはジャケットの左側を軽くめくり、装着している防弾チョッキとショルダーホルスターに収められている銃を見せた。

 それを見た大杉は諦めたように、車をバックで発進させた。 

「取り敢えず、ボスの所へ連れて行ってもらうおうか」

 威圧的にそう言われると、大杉は従わざるをえなかった。 



   五


 バスが宿にたどり着くまでの小一時間、疲れ切っている圭を労わりつつも、誰も圭を休ませてはくれなかった。矢継ぎ早に質問が飛び、圭の返答にどよめき、更に質問が飛ぶ。脚本家に至っては、いいネタにありついたとばかりに必死にメモを取っている始末である。結局聞かれた事にひたすら答えるだけで、圭自信が状況判断をするための質問は何一つする暇さえ与えられなかった。

 宿に着くと「念のために」と、監督が医者を呼んでくれた。

「二・三日安静にしていれば、問題はないでしょう」

 診察を終えた医師の言葉に、すでに着替えをすましたタカシがホッとした表情を見せた。が、監督は「二・三日ですか?」と少し不満げだった。

「ロケの予定は明後日までなんです。私も鬼じゃないんで、まあ明日一日ぐらいは休ませてやってもいいですけど……。明後日には、多少動かしても大丈夫ですよね?」

「医者としては勧めませんな」

「そうおっしゃらずに。なんかこう、ぶっとい注射でも打って」

「無理です。今は注射なんぞより安静が一番です」

「そこをなんとか……」

「では、お好きにどうぞ。私は医者として言うべきことは言いましたから。後はどうなさろうと、私の知ったこっちゃありません。本人次第ですよ」

 医者はムッとしたように言うと、看護婦を従えて部屋を出て行った。

「本人次第……、だそうだよ。まあ、頑張って明日一日で治せ。じゃ、お休み」

 そう言い残して、監督も部屋から出て行ったが、当の本人はその言葉を聞いてポカンとしている。

「あ、そうだ先輩の荷物持って来ましたからね」

「荷物?」

「そうっすよ。先輩、成田に荷物置いたままいなくなっちまったじゃないっすか」

 タカシは、部屋の端においてある紙袋を指差した。

「あ!すっかり忘れてた……。タカシ、お前持ってきてくれたのか?」

「肌身離さず持ち歩いてたっす。先輩、絶対現場に来ると思ってたっすから」

「タカシ、ありがとう……」

 そう言いながら、圭は今ひとつ心ここにあらずな感じである。

「やっぱ、無理そうっすか?明後日なんて……。体きついっすか?」

 圭の表情に気づいて、タカシが不安そうに聞いた。

「いや……、そうじゃなくて」

「なんっすか?」

「そうじゃなくてさ……。俺……、ほんとはクビじゃないのか?」

「クビ?」

「だってほら、俺、撮影さんざんすっぽかしたみたいだし、いつもならボロクソに言ってくる監督が妙に優しいし……。それに……」

「それに?」

「……タカシ、お前……。せっかくのチャンスなのに……」

 言いづらそうに圭は、タカシに背を向けた。

「ああ!もしかして誤解してないっすか?」

 タカシはさもおかしそうに笑っている。

「誤解?」

 その言葉に、圭はタカシの方へと向き直った。

「俺の格好、よく見なかったんすか?」

「見たよ、たしかにヴィルト・カッツェだった」

「ブー。違います」

「違う?」

「あれは、『ケッツ・ヒェン』ですよ」

「ヘックション?」

「ヘックションじゃありません。『ケッツ・ヒェン』」

 タカシは一文字一文字丁寧に発音した。

「なんだ、そりゃ?」

「『子猫』です」

「……?」

「ヴィルト・カッツェの弟です」

「弟?」

「ヴィルト・カッツェが風邪をひいたんで、急遽弟が応援に来たってことにしたんっす」

「そうなんだ」

「そうっすよ。先輩が現場に来ないってんで、急いでコスチュームも作ったんっす。ほら、もう破けたり汚れたりして使えなくなったのがあるじゃないでっすか。それを衣装さんがなんとかリメイクして、俺の体型に合わせてくれたんっす。だから一瞬同じに見えるんすけど、一箇所だけ全然違うんっすよ」

「一箇所?」

「そうっす。あ、ちょっと待ってて下さい」

 タカシはそう言って部屋を出ると、すぐに何かを持って帰ってきた。

「これっすよ」

 差し出されたモノを見て圭は噴出しそうになったが、タカシの手前必死に堪えた。

「ほら、さっき俺が被ってたのはこれだったのに、先輩気づかなかったんっすか?」

 それは、顔全体を覆うように作られた猫型のマスクだった。もちろん、ヴィルト・カッツェに勝るとも劣らず……の代物である。

「実を言うと、最初は誰か代役を立てようって話になったんっす。時間もなかったし……。でも、監督がヴィルト・カッツェはあいつにしかできない。何か事情があるんだろう。とにかくあいつが帰って来るまでこれで場をつなごうって、押し切ったんっす」

「監督が……?」

「そうっす。ね、これで判りました?ヴィルト・カッツェの代役はいないんっすよ。先輩、もっと自信持って」

「ありがとう、タカシ。本当にお前はいい奴だな」

「いや、お礼を言うのは俺の方っす。だって、先輩が訳のわからない事に巻き込まれてくれたお陰で、俺も役がもらえたんっすから」

「そうか、俺の苦労も少しは役に立ったか」

 圭はふんぞり返る振りをした。

「そうっすよ。俺、生まれて初めてセリフもらったんっす。全部先輩のお陰っす。いつも先輩の横にはりついててまるで弟みたいだから、お前がやれって」

 タカシは真剣な顔で頭を下げた。

「いや、タカシの実力だよ。それだけの理由で抜擢するほど監督は甘い人じゃない」

「そうっすか」

 タカシは照れくさそうに頭をかいた。

「しかも監督が、評判が良ければ準レギュラーにしてもいいって言ってくれたっす」

「ほんとか、タカシ!それはすごいな。タカシならできる!頑張れよ!」

「はい!俺、なにがなんでも頑張るっす!先輩のためにも頑張るっす!」

 真剣な眼差しで言うタカシを、圭は自分のことのようにうれしそうに見つめていた。



   六

 

 ゴミゴミと古い建物が立ち並ぶ路地に入ると、小さな雑居ビルの前で大杉は車を停めた。後ろに続いていた岩本は、ビルの駐車場に車を入れている。

「ここか?」

 Kはビルを見ながら言うと、大杉はこくりとうなずいた。

「よし、それじゃボスを呼んでこい」

「なんだって!このヤロウ!さっきから黙って聞いてりゃいい気になりやがって!」

 大杉の怒声に、通行人が恐る恐る振り返った。

「いいのか、ほら見られてるぞ。目立ちたくないから、こんなオンボロビルを借りてるんだろう?」

「じゃかあしい!お前ごときがボスを呼んでこいなんて、百年早いんじゃ!失礼にも程があろうが!」

 言葉強とは裏腹に、大杉の声は明らかに小さくなった。

「この状況で事務所にノコノコ入っていくバカがどこにいる?俺も自分の身はかわいいもんでね」

「なんだと、こりゃあ!いい加減にせえよ!」

「雑魚と話してるほど、俺も暇じゃないんだ。それに……」

 言い掛けてKは、すごみをきかせた三白眼で大杉をにらみつけた。

「そっちだって、時間はないんじゃないのか?それとも、俺以上の腕を持つ人間でも見つけたか?それならそれで俺は一向に構わんが」

 言われて大杉は観念したように、車を降りると岩本に目配せしてビルの中に入って行った。

 十五分ほど経って、ようやく再び姿を現した大杉の後ろに櫻井が立っていた。Kは車を降りると、わざと恭しく櫻井に向かってお辞儀をした。

「お会いできて光栄です」

 後部座席のドアを開けて櫻井を誘うと、Kは反対側のドアを開けて櫻井の隣に座った。それを見て、大杉が助手席に、岩本が運転席にとすばやく乗り込んだ。

「秋葉原へ向かってもらおう。ここからならすぐのはずだ」

 Kが声を掛けると、岩本は後部座席を振り返ってKをにらみつけた。

「オマエに命令される筋合いはねぇ!」

「岩本」

 正面を見据えたまま、櫻井は静かに言った。

「取り敢えずはお客人の言われたようにしなさい」

 岩本がムッとした顔をしながらも、仕方なく車を発車させたが、それ以降Kも櫻井も口を開こうとしなかった。

 ものの十分もしないうちに沈黙を乗せたままの車が秋葉原に近づくと、ようやくKが口を開いた。

「蔵前橋通りに入って、左車線をゆっくりと走れ」

 バックミラーを見ると、櫻井が静かにうなずいている。岩本は黙ってKに従った。

 車が蔵前橋通りに入ると、Kは心持前かがみになり、何かを探しているようだった。

「よし、そこのパーキングメーターに停めろ」

 一応バックミラー越しに櫻井を確認して、岩本は指示されたパーキングメーターに車を停めた。

「なるほど」

 ずっと黙っていた櫻井がようやく口をきいた。

「なかなか用心深いお人柄のようですね」

 ここは、交通量も通行人の数も多い。目撃者の数が多すぎて、手を出すことは不可能だ。

「場数だけは踏んでるからな」

 ぶっきらぼうにKは答えた。

「しかし……、私どもにはどうにも解せないのですが……」

 櫻井はもったいつけるように間をおいた。

「あんたたちも、それなりに調べはついているんだろう?」

「それは、もちろん出来る限りの事は致しました。どうやら、不可思議な人間違えをしましたようなのでね」

「人間違えだと、どうして言い切れる?」

 櫻井はKに、数枚の写真を見せた。

「失礼だとは思いましたが、この三ヶ月のあなたの行動を見させて頂いておりました」

そこには、モスクワやベルリンでのKの姿が写っていた。

「それから、これも」

 指し出されたのは、寝ているうちにとられた圭の写真だった。

「最初は何が何だかわかりませんでした。誰がどう見たって同一人物にしか思えない。しかし、念のために顔のデータを照合してみると、別人だという事が判明したのです」

 さらに、櫻井はヴィルト・カッツェの写真を出した。

「もちろん、もう御存知でしょうが」

「できれば、知りたくはなかったがな」

 何度見ても、Kには嫌な写真だ。

「しかし、これですべてが解決したわけではありませんよ」

「わかってる。これのコトだろう」

 そう言うと、Kはポケットから発信機を出した。

「なぜ、お持ちで?」

「簡単な話さ」

 Kは不敵な笑みを櫻井に向けた。

「あんたら去年、元フランス傭兵部隊の男と接触したろう?」

 櫻井の表情がぴくりと動いた。

「もっとも、その男はあんたらと会った次の日にはこの世にいなかったがな。それも、あんたらか?」

 Kはさりげなく櫻井の表情をうかがった。

「身に覚えがありませんな。それで?」

「そいつにもらったんだよ」

「もらった?」

「まあ、正確に言うと多少の語意の違いはあるがな」

「なぜ?」

「そのうち使える時が来るかもしれんと思ってな。実際、使えただろう?」

「では、彼につけた方はどうなったのですかな?」

「彼?もしかして、あいつにも同じものをつけたのか」

「はい。しかし、港で発進はプツリと途切れました」

「そんなことまで、俺が知るかよ。それより、もう少しまともなモノを使うんだな。発信機の周波数くらいたまには変えろ」

 それを聞くと、櫻井は不敵に笑い出した。

「聡明なあなたの事だ、そんな話を私が頭から信じるとは思ってはいらっしゃらないでしょう?」

「どういう意味だ?」

「あなたは私が思っていた以上に、いろいろと知っておられるようだ」

 そう言うと、櫻井はベルリンとモスクワの写真を指差した。

「でも、私の方もあなたが思っている以上に知っているのですよ」

 櫻井はポケットから、新たに二枚の写真を出した。それは、指を指した写真を拡大したものだった。

「私も用心深い性質でね」

 拡大した写真には、Iの姿が写っていた。

「これでイーブンですね」

 櫻井は楽しそうに笑っている。

「商談は明日、私の事務所でしましょう。場所はお分かりですね。時間は追って連絡させます」

 そう言い残して、櫻井たちは車を降りていった。



   七


 部屋のドアを細く開けて隙間から廊下を覗き、誰もいないのを確認すると、カッチャ桃こと桐生愛理奈はそっと部屋の外へ出た。手には、ケーキの箱を持っている。

――どうしよう……。でも、やっぱり心配だし……。いきなり行ったら、なんて思われるかしら……。迷惑かもしれないし……。でも……。

 躊躇しつつも、足音を出さないようにそろそろと歩いていると、愛理奈は、背中に嫌な気配を感じた。

「愛ちゃん、そこでなにしてるの?」

 聞こえてきたのは、カッチャ赤こと松下の声である。

 愛理奈は決して感の良い方ではないが、どんな人間でも、なぜか嫌な予感程よく当たるものだ。

「いえ、別に」

 ギクリとしつつも、振り向かずに早足で立ち去ろうとした愛理奈を、松下は容赦なく追いかけてきた。

「どこ行くの?ケーキなんか持って」

「いえ……、あの……。あ、ファンの方に頂いたんですけど、私一人じゃ食べ切れないから、どなたかにおすそ分けしようかなと思って……」

「ふーん、そうなの」

 松下は不信顔だ。

「まさか、老いぼれの『山猫』に持って行くんじゃないよねぇ?」

「ま、まさか。松下さん、何をおっしゃるんですか……。なんで私が十文字さんのところに……」

 明らかに愛理奈は動揺している。が、松下は根性が悪いので更に畳み掛けた。

「そう?なんか愛ちゃんって、撮影の時とかよく山猫の方見てない?」

「……そうですか?」

 悟られまいとして、愛理奈は必死で平静を装った。しかし、それはどう見ても無駄な努力でしかなかった。

「うん、だからもしかして、好きなのかなぁと思ってさ」

「そ、そんなことありません!」

 強く否定しなければという緊張のあまり、愛の声はとうとう裏返ってしまった。

「そう。それならいいんだけどさ。そうだよね、愛ちゃんがあんな死にかけた老いぼれのことなんか、気にするはずがないもんな」

「そ、そうですよ」

 愛理奈の声は消え入るが如しである。

「そうだよね。ああ、なんか変な心配しちゃったな」

「すみません……」

「嫌だなあ、愛ちゃんが謝る事ないじゃない。じゃあ、それ、僕が食べようかな」

 そう言うと、松下は愛の手から、半ば剥ぎ取るようにケーキの箱を受け取った。

「愛ちゃんも、僕の部屋で一緒にどう?」

「あの……、私は……、あの、ダイエット中なので……。ごめんなさい」

 愛理奈は、泣きそうな顔で頭を下げた。

「そうなの?僕の誘いを断るんだ?」

「あ、そういうつもりじゃ……」

「冗談だよ。女優さんにダイエットって言われて、紳士の僕が引下らないわけないだろう?」

「は、はい……」

「じゃあ、ダイエットが終わったらすぐに教えてよ。そうしたら、ディナーでもどう?僕の行き付けのリストランテに連れて行ってあげるよ。君はそんなところ、行ったことないだろう?」

「あ、あの……」

「じゃあ、頑張って、さっさとダイエット終わらせてね」

 言いながら松下は去って行ったが、途中愛理奈を振り返って、彼特有の驕った口調で言った。

「ああ、そうだ。片時も忘れちゃ駄目だよ。誰のおかげで愛ちゃんにカッチャ桃の役がついたのか」

 愛理奈には、小さくうなずくことしかできなかった。

「明日もがんばろうねぇ」

 後手を振りながら松下は去っていった。

 残された愛理奈は、部屋に帰る気にもなれず、さりとてやはり一人で圭の部屋を訪れる勇気もなく、仕方なく宿の目の前にある公園へと向かった。

――やっぱり心配だわ。監督さんは自衛隊仕込みのあいつなら大丈夫だろうなんて、のんきな事言っていたけれど……。もし、また誰かに襲われたりしたら……。

 公園の入り口に差し掛かると、ひそひそと話す声が近づいてきた。

「しかし、あの山猫とんだ食わせもんでしたね」

 ――山猫?

 愛理奈は思わず身を木陰に潜め、会話に耳を立てた。

「まったくだ。余計な手間をかけさせやがって。それで、手はずは整ったのか?」

「はい、準備万端です。抜かりはありません」

「そうか。それはご苦労だったな。これで、山猫も……」

「もうじきお陀仏ってことです」

 二人は愛理奈には気づかず、そのまま前を通り過ぎて行った。

――どういうこと?山猫って、もしかしたら……。

 愛理奈は急いで自分の部屋に戻ると、携帯電話を取り出した。

「もしもし?」

「おう、愛ちゃんか。どうしたの?」

 相手の声には緊張感がない。

「あのね、大事なお願いがあるの」

 愛理奈は急いで、今までの圭の事情を説明した。

「うーん、そりゃ大事な愛ちゃんのお願いだから、聞いてあげたいけど……」

 相手は億劫そうな声を出した。

「お願い。ね、一生のお願い」

 愛理奈は携帯を握り締めながら、何度も頭を下げている。

「そうは言ってもねぇ、部署が違うし。大体、その程度の状況じゃ動けないことになってるんだよ」

「そんなこと言わないで」

 普段は大人しい愛理奈が、必死に食い下がる。

「お願い。なんとかして!」

 愛理奈は泣きそうな声を出した。

「お父さん!お願い!」

「でもねぇ、証拠や動機もわからない件では、警察は動けないのよ。それくらい、愛ちゃんにもわかるでしょう」

 慰めるように、竹之下は言った。



   八


「そういえば、さっきトクさんから電話があったっす。先輩、眠ってたから起こさなかったんっすけど」

 風呂も夕食も終えて、圭とタカシは布団に寝転び、ビールを飲んでいた。

「トクさん?タカシ、トクさん知ってるのか?」

「はい。この間現場で一緒になったっす。そしたら、『お前が、圭の舎弟か?』って言われたっす」

「舎弟ねえ」

 圭はくすくす笑っている。

「それで、トクさん何だって?」

「先輩の事、事務所に聞いて驚いたって言ってたっす。それで、心配だから様子を見に来るって」

「そんな、わざわざ……」

 恐縮して圭が言いかけた時、何やら廊下が騒々しくなった。

「なんっすかね?」

 言いながら立ち上がり、タカシがドアを開けようとすると、突然ドアが開いた。

「うわ!びっくりした」

「びっくりしてる場合じゃないぞ。ほら、台本の差し替え。明日までに頭に叩きこんでおけ」

 言うなり、ADはタカシに数枚の紙を渡すと慌しく隣の部屋へ向かった。

 ずっと向こうの方で、「ヤダヤダ。誰かさんのお陰でとんだ迷惑だぜ」とわざとらしく叫んでいる松下の声が聞こえる。

「おお!きたきた!」

 言いながら、後手にドアをしめようとした瞬間、またもやドアが勢いよく開いた。

「ここに十文字さんいるよね?」

「いるっすけど」

「じゃあ、これ渡しといて。忘れるとこだった。じゃな」

 と、再び慌しく廊下を走っていった。

 タカシはその様子を部屋からクビを出してしっかりと見届け、今度は慎重にドアを閉めた。

「先輩……」

 振り返ったタカシの声がなんだかおどろおどろしい。

「な、何だよ……」

 その声音に、圭は思わず後ろずさった。

「一緒にかんばりましょうね!」

 今度は一転して、異常に明るい声だ。差し出した手には、台本と数枚の紙。

「きっと、急いでヴィルト・カッツェのシーンを入れたんっすよ」

 圭が急いで渡された紙に目を通すと、そこには確かにヴィルト・カッツェのセリフがあった。

「でも、うれしいなあ。先輩と一緒に芝居ができるなんて。ほら、ここ見て下さいっすよ」

 タカシが指差したところには、ヴィルト・カッツェとケッツ・ヒェンの会話が書き込まれていた。

 撮影時間と圭の体のことを考えて、それはとても短いシーンだが、それでもタカシは天にも昇る心持であった。

「あれ……?先輩、ここ見てください!ここ!」

 またもやタカシが慌てて、圭に指し示したところには、『復活したヴィルト・カッツェは新たに開発された銃型の武器を持っている』と書かれていた。

「銃型の武器……?」

「いったいどんなっすかね。シーンは短いっすけど、こりゃ滅茶苦茶インパクトあるっすよ。復活のヴィルト・カッツェは、新型の武器を持って帰ってきた!うわあ、かっこいいっすねぇ。先輩絶対はまりますよ!」

「よせやい」

 照れるとでる口癖がつい出てしまったが、次の瞬間圭はひどく真面目な顔になった。

「でもタカシ、ヴィルト・カッツェがかっこつけても、逆にかっこがつかないだろ」

「そうっすかねぇ」

 言いながらタカシは、かっこをつけているヴィルト・カッツェを想像して、思わず噴出した。

「それもそうっすね」

「だろ?」

 つぼに入ったらしく、タカシは目に涙をためて笑っている。

「それに、悪役はかっこよくちゃいけないんだよ」

「え?なんでっすか?」

 笑うのをやめて、タカシはキョトンとした。

「悪役がかっこよかったら、子供たちが悪役に憧れちゃうだろ」

「憧れちゃいけないんっすか?」

「そりゃ、いけないだろ。やっぱり子供は正義のヒーローに憧れなきゃ。ヴィルト・カッツェが子供たちに人気があるのは、かっこいいからじゃない。その反対で、思い切りブザマで哀れだからだよ。子供たちは正義の味方に心酔しながらも、哀れな悪玉に同情してるのさ。駄目なやつだけど、がんばれよって。ヴィルト・カッツェの人気は、子供たちの優しさなんだ。それでいいんだよ」

「そんなもんっすかね。でも、悪のヒーローとかってよく言うじゃないっすか」

 タカシは不満顔だ。

「そんなもんなんだよ。悪のヒーローなんて、この世に存在するはずがないんだ。タカシだって、悪い人よりいい人の方がいいだろう?」

「そりゃそうっすけど……。でも、もったいないなぁと思って」

「何が?」

「だって、先輩が銃持ったらある意味ホンモノじゃないっすか。絶対かっこいいと思ったのに」

「ホンモノって、お前、人をスナイパーみたいに言うなよ」

「似たようなもんじゃないっすか。射撃でオリンピック出たんっすよね?」

「出てはいないよ」

「え?出てないんっすか?」

「候補にはなってたけど、結局行かなかった」

「どうしてっすか?」

 それには答えず、圭は三本目のビールのフタをあけて一口飲んだ。元来、酒に強い方ではない。もしかしたら、すでに酔っていたのかもしれない。それに、奇妙な事に巻き込まれたばかりの圭は、精神的にまだ不安定だった。

――彼らは、俺の経歴を知って暗殺の依頼をしてきたのか……?まさか、本当のことを知っていたら、俺に依頼するはずはない……。でも、もしまた目の前に現れたら……。

久しぶりに『本物』を手にした感触が、体と頭から離れない。手のひらにその重さが残る。

圭は今まで誰にも言えずにきたことを、タカシに吐露してしまいたくなった。

「タカシ、おまえ本物の銃を持ったことあるか?」

「ないっすよ。でも、グァムとかサイパンに行くことがあったら、絶対撃ちに行くっす」

「そうか……。タカシは本物を撃ってみたいのか」

「だって、かっこいいじゃないっすか。だから先輩もオリンピックの候補になるくらい、腕あげたんじゃないっすか?」

「最初は確かにそうだったのかもしれない……」

 圭はゆっくりとビールを口に含んだ。

「練習して、上達して、それが楽しくて。でも俺は……、俺は当たり前のことに、ある日突然気づいたんだ……」

「当たり前のこと……、っすか?」

 圭は小さくうなずいた。

「そう。あまりにも当たり前のこと」

「はあ?」

「そうしたら、その事が頭から離れなくなって……。結果、俺は銃を撃つことが出来なくなっちまったんだ」

「銃が撃てなくなった?あの、先輩の発言、オレにはいまいち意味がわからないっすけど」

 タカシは困惑した顔を見せながら、ビールを飲んでいる。その様子を気に留めずに圭は続けた。

「モデルガンと本物の銃の違い。タカシ、わかるか?」

「違いったって……、いまのモデルガンは一瞬警官でも見間違える程、精巧にできてるっすよね……。いや、俺にはちょっと、わかんないっす」

「違いはな、タカシ……」

 圭は、悲しげで、しかも苦しげな顔をしている。

「人が殺せるかどうか……だ」

「あ……」

「それに気づいた時、俺は怖くなった。銃を撃つことが」

「……先輩」

「ばかだよな、俺……。自分でも情けないよ……。そんな子供でもわかることにすら気づかず、突然怖気づいて……。まわりに迷惑かけて」

「先輩……。そんなことないっすよ」

 今にも泣き出しそうな圭をなだめるように、タカシは言った。

「俺の両親は爆破テロに巻き込まれて死んだ。その時たくさんの人間が一瞬にして粉々になったんだ。でも、テロを起こした連中はヒーロー気取りで、声明文を発表した。我々が世界を救うと」

 タカシは、必死に圭の話を聞いている。

「そいつらを倒したくて……。でも、爆弾も銃も、人を殺すために作られてる。相手が持つから自分も持つ。身を守るために、自分も持つ。なあ、タカシなんかおかしくないか?」

 タカシは圭をなぐさめるように、うなずいた。

「誰も持っていなきゃ、それが一番いいんじゃないかって、俺そう思っちゃったんだよ。でも、実際問題そんなこと言っていられないのもわかるし。きれいごとだけで、平和が訪れるわけがないこともわかってる。自分の考えがいかに子供っぽくて、幼稚なのかもわかってる。でも俺、考えれば考えるほど答えがわからなくなって、どんどんわからなくなって……。気づいたら、撃てなくなってた」

「先輩……。そんなこと誰にもわからないっすよ。きっと誰にも……。でも、先輩はご両親のことがあるっすから、答えが欲しかったんっすね……」

 タカシは静かに口を開いた。

「俺には難しくて、ほんっとにわかんないっすけど、でも今なら俺、なんで悪役がかっこよくちゃいけないのかはわかるっす。ほんの少しかもしれないけど、先輩の気持ちはわかるっす」

 タカシが見つめる先の圭は、枕につっぷしている。

「ありがとう、タカシ……」

 圭は枕につっぷしたまま、小さくそうつぶやくと、語ってしまった自分が急に照れくさくなって、わざと明るい顔をしながら顔をあげた。

「なんか、カッコ悪いな、俺」

「そうっすね!」

 タカシも呼応するように、わざと明るい声を出した。

「でも、どんなにかっこ悪くっても、先輩はやっぱり俺のヒーローっす」

「ヒーロー?」

「そうっすよ。なんだか照れくさくて、今まで言えなかったんっすけど」

「なんだよ」

 圭は起き上がって、タカシを軽く小突いた。

「俺、今まで目標とかなんも持ったことなくて。努力とかしたこともなく、人生ダラダラ過ごしてきたんっす。この世界に入ったのだって、友達に誘われてエキストラに登録したのがきっかけで、別に役者になろうと思ったわけじゃなかったんっす。でも俺……、うまく言えないっすけど……」

 タカシは言葉を捜して、天井を見上げた。が、なかなか言葉は見つからない。

「なんていうか……、先輩のアクションを初めて見た時……、体に電流が走ったっす」

 タカシは、ようやく言葉を見つけた。

「よせやい。まったくタカシは大袈裟だなあ」

 だが、その言葉を聞いて圭はからかうように笑っている。

「本当っすよ」

 圭の様子を見て、タカシは少しムキになった。

「本当なんっす。それに、どんなささいな役にも一生懸命な先輩見て、尊敬したっす。それで、俺、先輩みたいになりたいって、真剣に思ったっす。生まれて初めて、自分の目標を持ったんっす。そのためになら、どんな努力もできるって思ったんっす」

 タカシの目はどんどん真剣になってきた。

「階段落ちを十七回やったのだって、すごい先輩らしくて……。やっぱり先輩はすごいって、本当は俺ひそかに感動してたっす。だから先輩は、誰がなんと言おうと、俺のヒーローなんっす!」 


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