第三章 I
第三章 I
一
圭を乗せた車は成田空港を出ると、高速には入らず一般道を走っていた。
車が赤信号で止まると、後部座席から大杉が岩本に声を掛けた。
「ぼやぼやしてないで、なにか冷たいものでもお出ししろ」
「へい」
うながされて、岩本は助手席に置いてあったクーラーボックスから缶ビールを取り出すと、缶のふたを開けた。すると、そのとたんに、ビールの泡が勢いよく缶から吹き零れた。
「なにしてるんだ!」
「へい、すみません」
「よく拭けよ!」
岩本はあわててポケットからハンカチを取り出すと、缶のまわりを拭いた。そして拭きながら、ハンカチで隠していた小さな容器に入った液体を数滴缶の中に垂らし、それを大杉に渡した。
「さ、まずは一杯どうぞ。お疲れになったでしょう」
「あ、すいません。乾燥してるせいか喉がからからだったんです。じゃ、遠慮なくいただきます」
うれしそうにビールを受け取り、大杉に軽く頭を下げると、圭は半分ほどを勢いよく飲んだ。
「いや、うまいっすね」
「そうですか。そいつは良かった」
大杉の目がキラリと光る。
「そういや(飛行機の)時間が遅れてるってんで、心配してたんですよ」
「いや、あの程度の(撮影の)時間の遅れなら日常茶飯事ですよ。今日なんかはいい方です」
「そうですか。そんなに遅れるものなんですか。それは大変ですねぇ」
「ええ」
余程、喉が渇いていたのか圭は残りのビールを一気に飲み干した。
「平気で半日位は遅れたりしますから」
「半日もですか?」
「天候に結構泣かされるんですよ。風が強かったり、雷雨だったりすると、その日はもう諦めるしかないなんてことも、わりとありますから」
「成る程。それはそうですよね。なんたって、そんな日に無理をしたら危険だ」
「ええ……」
そう頷いた圭は、突然そのままの格好で深い眠りに落ちていった。
大杉が軽く圭の頬をたたき、クスリの効果を確認すると、岩本はUターンして高速道路へと車を走らせた。
そして、高速のETCを抜けると、圭を乗せた車は「東京方面」とは別の方へと向かっていった。
――どこに行くつもりかしら?
圭の乗った車を追って、その後を赤いスポーツカーが走っている。運転しているのは、ベルリンのホテルでKを待っていたあの女だ!
頭にはヘッドセット、顔には大きめのサングラス。服装は、ラフなジーンズにスニーカー。
彼女のコードネームは……『I』。
――それにしても、やっかいな人たちがついてきてるわね。
バックミラーには白い国産のセダンと、それに乗っている二人の男がうつっている。五十代半ばと、三十代半ばといったところだろうか。二人とも量販店で売っていそうな、安物のスーツを着ている。
――しょうがないわね。
Iはスピードをあげて、白い車の前に入った。
――ちょっと古典的だけど、結局これが一番きくのよね……。
Iがサイドブレーキの前にある丸いボタンを押すと、車体後方からなにか光るものが滑り落ちた。
Iはさらにスピードを上げた。その後方では白い車が急停車し、男たちが慌てて車の外に出てくるのがバックミラーに映し出された。どうやらパンクをしたらしい。
――ごめんあそばせ。
Iがクスリと笑ったその時、携帯の着信音が鳴った。
「もしもし」
スイッチを入れて電話に出ると、みうみるうちにIの表情が変わった。
「まさか!そんなはずは!Kは確かに……。ええ、そうです。……なんですって!じゃあ、車に乗っているのは……?わかりました……『F』」
Iは電話を切ると呆然としながら、前方を走る圭の乗った車を見つめた。
二
潮の香りがする。
――懐かしいな。子供の頃よく父さんに連れていってもらったっけ……。
圭は、はっきりとしない意識の中でそんなことを考えていた。
「ご苦労だったな」
聞きなれない男の声だ。
「ボディチェックは済んだのか?」
「はい。ポケットから靴底まで調べましたが、見事に何も持っていません」
大杉はそう言うと、岩本と二人がかりで担いできた圭をソファーに下ろした。
「何も?それはいい度胸だな」
男はいかにも愉快だといった風に笑い出した。
「我々と接触するのに丸腰とは。しかし、却って懸命だな」
「はい」
「この男、私が考えていた以上に使えるかもしれん」
男は、圭の顔をじっと見つめて言った。
「ぐっすりとお休みのようだが、こちらも暇ではない。そろそろお目覚めになって頂かなくてはな」
そう言って男が圭のほほを軽くたたくと、圭の瞳がうっすらと開いた。
「ミスターK。気分はいかがですか?」
ぼんやりとしたその視界に、見知らぬ男の姿が映った。
年は四十過ぎといったところだろうか。髪に白いものが、ちらほらと混じっている。大杉たちとは打って変わって、趣味のいいスーツを粋に着こなし、圭に向かって柔和な笑顔を見せている。
「余程お疲れだったのでしょう。車に乗ると、すぐに寝てしまわれたそうですね」
「あの……、あなたは……?」
圭は、ふらつく体をなんとかソファーの上に起こした。
「私?」
男は圭の質問にニヤリと笑った。
「とっくにご存知でしょう?」
「……?」
男の後ろに、ぼんやりと大杉と岩本の姿が見える。
――『会長はあなたのファンなんです』
「あっ!あなたが櫻井会長ですか?」
圭は、とっさに姿勢を正した。
「そうです。大分意識がはっきりなさってきたようですね」
「はい。あの、ここは……?」
言いながら、圭は辺りを見回した。
二十畳ほどの室内は、どこかの高級ホテルの一室のようだ。
――もしかして、これがスイートルームってやつかな?
その豪華さにとまどいを感じながら、圭は三方に大きくとられている窓に目をやった。すでに日は暮れていて、空には星が出ている。そして、その空の下には……。
「海?」
圭はおどろいてすっとんきょうな声を出した。
「そうです。ようやくお気づきになりましたか」
「あの……?」
よくよく耳を澄ましてみれば、波の音がする。それに……。
「なんだか、景色が変わっていってるみたいなんですけど……」
「ええ、ついさっき出航しましたから」
「出航って?」
「ここはクルーザーの中です」
「はあ……?」
「あなたをご招待するには、ここが一番都合がいいと思いましてね」
「……?」
「何しろ陸だと『壁に耳あり』で、あなたとゆっくりおしゃべりを楽しむこともできませんから」
圭は、櫻井のこの一言でなんとなく状況を把握した。
――ああ、なるほど。
圭には金持ちのすることはよく分からないが、櫻井の気持ちは理解できるような気がした。
――いい年してヴィルト・カッツェのファンだなんて……。そりゃ人に知れたら恥ずかしいもんな。
それなりに納得した顔をしている圭を見て、櫻井も満足気だ。
「ところで、失礼だとは思いましたが、あなたの事をいろいろと調べさせてもらいました」
――やっぱりこの人、すごい俺のファンなんだ。
圭はうれしくなって小さく笑みをこぼしたのだが、それが相手には不適の笑みに見えていた。
「もっとも、我々がいくら手を尽くしても、あなたの素性はわかりませんでしたけれどもね」
――そうか、俺やっぱりぜんぜん売れてないんだ……。
圭は思わずうなだれた。が、相手にはそれが、下を向いてほくそえんでる様に見えていた。
「ただ、かなり不確定ながら、ひとつだけ情報が出てきました」
――なに?なに?やっぱり俺、少しは認知されてる?
櫻井の次の言葉に期待して、圭は顔をあげて真っ直ぐに櫻井の顔を見つめた。が、それは相手にはにらみつけているようにしか見えなかった。
「幼いころ、不幸な事故でご両親を亡くされている」
男はきっぱりと言い放った。
思いもよらぬ言葉に、圭は呆然とした。
「違いますか?」
圭の脳裏に父と母の顔が浮かび、目が自然と泳いだ。
「どうやら、図星のようですな。実は、この情報は、私にとってあなたの本名や真のあなたを知ることよりも大切なのです」
「それは……、どういうことですか?」
「私が知りたいのは、なぜあなたが今のような仕事をしているかです」
「なぜって……」
「ヒーローを気取るやつはたくさんいる。しかし、あなたはそんな単純な道を選ばなかった」
「いや、選ばなかったわけじゃ……。仕方がないんです。本当は、俺だってヒーローになりたかった……。でも……、俺はヒーローにはなれなかった……」
圭の言葉を聞いて、男は満足気にゆったりとうなずいた。
「世の中には戦争反対と叫んでいれば、平和が訪れると思っている輩がたくさんいます。しかし、叫んでいるだけではなにも起こらないのです。行動を起こさなければ。でも、その行動がいつもいつもヒーローのようだとは限らない。時には、その行動が罵られることもあるでしょう」
うなだれている圭に、櫻井は諭すように話しかけた。
「この世には光と闇があるのです。人はみな光に憧れます。しかし、真の正義は光だけではつくれません。闇があるからこそ光は美しいのです。真に勇気を持っているものは、闇の世界に身を置く強さも持っています。しかし、それは実に大変なことです。余程の信念がなければ貫き通せるものではありません。あなたは幼い頃、非常に不幸な形でそのことを知ったのです。違いますか?」
「『悪の正義を貫くためには、人一倍悪を憎む気持ちが必要なのよ……』」
圭は、ヴィルト・カッツェのセリフをつぶやいた。
「その通りです。やはりあなたは思ったとおりのお人だ。自分の役どころを、しっかりととらえていらっしゃる。私の目に狂いはなかった。この役を演じきれるのは、あなただけです」
言った櫻井も少し大袈裟だと思ったが、どうも目の前にいる男は、櫻井がイメージしていた精神的にタフな男とは違うようだ。故に、この男の場合は、少し鼓舞してやる必要があると思った。
「いや、それ程でも……」
そんな櫻井の思惑にあっさりはまった圭は、うなだれていた顔を上げて、櫻井に向かい照れたように微笑んだ。
それを見て、櫻井も安心したような顔をして、
「おい、それじゃ例のものを」
と大杉に声をかけた。
「はい。それならここに」
言いながら、大杉はなにやら細長い革張りのケースを櫻井に手渡した。
「ご職業柄、いろいろいい物をお持ちでしょうが……」
そう言って櫻井はケースの蓋を開けた。それを見て、
――ああ、やっぱりこういうものも好きなんだなこの人。戦隊もの好きにありがちな趣味だよな……。
と圭は思った。
「いやいや、いくらこういう商売をしているからって、俺はそんなにいい物は持ってませんよ」
「そうですか?『いい物』はお持ちではない?」
男は少し怪訝そうな顔をした。
「ええ。姿勢の練習用に、安物が一つあるだけです……」
「練習用?それでは、本番の時には用意されたものを使うのですか?」
「そうです。まあ物はその時によってまちまちですけど」
「なるほど……」
男はしきりに感心している。
「一流になる方は、やはり凡人とは違いますな。どんな物でも瞬時に扱えるとは」
「まあ、俺の場合は他の人と違って経験の仕方と数が違いますから。これなんかは昔使ってましたから、目をつぶっててても扱えますけど」
「ほう、それは実に頼もしいお言葉ですな。それでは、どうぞお手にとってよくご覧下さい」
「それじゃちょっと失礼して……。あは、懐かしいな」
圭はうながされてそれを手にした。が、次の瞬間、危うくそれを落としそうになるくらい驚いた。
「これ……!これは、ホンモノじゃないですか!」
「そうですが……?」
「どこでこんなものを手に入れたんですか?」
「そういうことは私よりも、あなたの方が詳しいのではないですか?」
「そりゃ、普通の人よりは多少知っていますが。でも、詳しいというほどのことはないですよ!」
「そんなものですかね」
「そんなものですかねって。だって、これ犯罪ですよ!」
圭の手にあるのは八九式小銃。現在の自衛隊で使われているライフルだ。
「犯罪……?面白い事をいうお人だ」
男の顔から笑みが消えた。男の両脇に立っている大杉と岩本が身構える。
「とにかく、ここまで来た以上仕事は引き受けてもらいますよ」
「仕事?」
「そうです」
「ヴィ、ヴィルト・カッツェにですか?」
事態が飲み込めずに、圭の頭はまたもや混乱に陥った。
「『ヴィルト・カッツェ』?それもコードネームですか?」
「いや、あの……」
櫻井は圭の態度に苛立って、バシンと机を叩いた。
「ここまできて、しらばっくれることができると思ってるのか!」
先ほどまでの態度と打って変わって、櫻井は威圧的な声を出した。
「これがターゲットだ」
櫻井は、胸ポケットから一枚の写真を出した。
「ターゲット?」
圭にはまったく話がみえない。が、無視して櫻井は話を続けた。
「来週日本にやってくる。滞在予定は一週間。いいか、日本にいる間に必ずしとめろ」
「そ、そんな!そんなこと、俺にはできません」
それを聞くと、櫻井はへびのような目で圭をにらんだ。
「なんだと!」
その目にはあきらかに殺意がこめられている。
いつの間にか大杉と岩本も、圭に向かって拳銃を構えていた。
――何が何だかわからないけど、とにかく、この場から逃げなくちゃ!
周りを見回した。部屋にはドアが一つ。しかし、もしかしたらカギかかっているかもしれない。
――どうする……?
圭は焦った。
「今のお前には二つの選択肢しかない。仕事を受けるか、冷たい冬の海でダイビングを楽しむか……、だ」
――海……?
圭は三方にある窓を、はしから丹念に眺めた。
――あったぞ!
右の窓から、灯台の明かりが見える。しかし、かなり距離はありそうだ。
――今速度が十八、いや十七ノット位か……。出航してから三十分として、マリーナまではおよそ十キロ。もっとも直線で進んでいるわけはないだろうから、うまくすると、もっと岸までは近いかもしれない……。
ここにきてようやく肝が座ったのか、圭は意外と冷静に、岸までの距離をはじき出した。
「さあ、どうする?」
櫻井がせまる。
「そんなに真冬の海で泳ぎたいのか?」
――そうなんだよな。問題はそこなんだよ。距離もあるけど、真冬の海ってのがな……。
大杉と岩本の顔も真剣だ。下手に動けば撃ってくるのは確実だと思われる。しかし、だからと言って、コロシを引き受ける訳にはいかない。
――もっと辛いスタントだって、今までこなしてきたんだ……。
圭は意を決した。
――なんとかなるさ!
本物のライフルなんて物騒なものは、手に持っていないでさっさと投げ出してしまいたかった。が、奴らの手に渡ると危険だ。
圭は仕方なく、ライフルを持ったまま立ち上がると、いきなり窓の方へ向かって走り出した。
「おい!こらなにすんのんじゃ!」
大杉はすぐさま圭に向かって銃を放った。その銃弾は、圭のほほをかすって窓に小さな穴をあけた。
――あそこだ!
圭がその小さな穴に向かってライフルの銃床を打ち付けると、一瞬にして大きな窓ガラスは音をたてて粉々になった。
壊れた窓から海を見下ろすと、圭はさすがに一瞬躊躇したが、戸惑っている場合ではない。ライフルを海に投げ捨てると、自分もすばやく飛び込んだ。
「ばかな!」
船の上で叫ぶ大杉の声が聞こえる。
圭は必死に灯台の明かりに向かって泳いだ。銃声が轟き、時にそれは圭の体をかするように海に沈んでいった。
「もういい。やめろ」
櫻井の冷静な声がする。
「放っておいても時間の問題だ。酒でも飲みながら、珍しいショーをゆっくり楽しもうじゃないか」
水は、思っていたよりももっともっと冷たかった。皮膚が痛い。体の表面から徐々に凍っていくようだ。それに、いくら手足を動かしてもクルーザーはいっこうに小さくなってはくれないし、灯台の明かりも近づいてはくれない。
――やっぱり駄目なのかな……。
何度も沈みかけながら圭は思った。海水が目にしみて痛い。
――こんなことなら、思い切って君に告白しておけば良かった……。今更悔やんでも、もう遅いか……。
圭の意識は徐々に遠ざかっていった。もう灯台の灯も見えない……。
その時、一艘の船が圭に近づいてきた。船の形はよくわからないが、そんなに大きな船ではなさそうだ。暗い海の中、船の上で人影がうごめくと、影は一気に圭の体を船の上に引き上げた。
「悪運の強い奴だ」
クルーザーの上からその様子を眺めていた櫻井が静かに言った。
船の姿はじわじわと小さくなっていく。
「追わなくていいんですか?」
焦っている岩本を無視して、櫻井は大杉の方を見た。
「手は打ってあります」
「そうか、それは上々」
そう言うと、男は右手に持っていたグラスからブランデーを口にした。