第一章 圭
一
「これで貴様も終わりだ!」
そういうと、派手なアロハシャツを着たチンピラ風の男は拳銃を構えた。
大きな螺旋階段がある廃屋のビル。チンピラ風の男は、その螺旋階段のてっぺんに立ち、コルトガバメント四五の銃口を階段の下に向けた。
「そうかな?」
階段の下には、余裕の笑みを浮かべている男。こちらはチンピラ風の男とは正反対で、実にセンスのいいスーツを華麗に着こなしている。
「ど、どいういう意味だ!」
チンピラ風の男はおずおずと叫んだ。声が裏返っている。よく見ると、拳銃を持つ手が小刻みに震えていた。
「それは……、こういう意味だ!」
次の瞬間、廃屋のビルに銃声が響いた。
スーツの男が早抜きで放った銃弾は、見事にチンピラ風の男の額に命中していた!額から噴出した血が、派手なアロハシャツに彩りを加えていくように流れ出ている。
「うおーっつ!」
チンピラ風の男の体がもんどり打って、思わずエビゾリになった。顔には断末魔の苦悶の表情が浮き出ている。
スーツの男は階段下で、憎らしいくらいクールにその状況を見つめている。そして、遂にチンピラ風の男が階段から落ち……そうになった瞬間……。
「カーット!」
監督の大きな声がビルにこだました。
「いや〜、よかったよ二人とも」
当代二大人気俳優の迫真の演技に、監督はご満悦のようだ。
「これはいい映画になるぞ!君たち二人のおかげで『夕陽に向かって撃て』は、大ヒット間違いなしだ!」
「いやいや、僕たちの力なんて微々たるものですよ。この映画はもちろん、監督あってのものです。僕なんて、監督の映画に出ることだけを目標に今まで頑張ってきたんですから」
スーツの男が、まるでセリフを言うように、滑らかにいうと、
「そうですよ!監督は僕ら役者の憧れなんですから」
先ほどまでとは打って変わった笑顔をみせながら、チンピラ風の男も負けずに言った。
「そうかい、そうかい」
監督は、ますます満足気な表情になった。
「それじゃ、僕ら次のシーンの衣装に着替えてきます」
そう言って二人が控え室に向かうと、入れ替わりに背の高い男が入ってきた。
「おはようございます。よろしくお願いします」
緊張気味にスタッフに挨拶をしているこの男は、なぜか先ほどのチンピラ風の格好をした俳優とまったく同じ衣装を着ている。髪型も同じだ。
監督は男に声を掛けた。
「いいか、できるだけ派手に頼むぞ。死んだら葬式は出してやるから心配するな」
「はい、わかってます。ご期待にそうように、精一杯がんばります」
男は緊張を悟られないように、用心しながらそう言った。
螺旋階段をゆっくりと上り始めた男の背中に、監督は声を張り上げて念を押した。
「いいか!くれぐれも顔が映らんようにするんだぞ!お前の顔が映ってもだれも喜ばんのだからな!」
背中で監督の暖かいお言葉を傾聴しながら、男は螺旋階段の一番上まで上った。が、その瞬間。
「用意!本番5秒前……」
いきなり助監督がカウントを始めた。
――うそ!心の準備が……。
男の顔が曇った。が、もうここまできたらやるしかない。
「スタート!」
男は意を決して、崩れるようにして階段から落ちていった。
長い螺旋階段。転がっていくうちにどんどんスピードは増していく。階段のへりが、手すりが、それは残酷な凶器と化して男の体を打ち付けた。
実際はほんの数秒だっただろう。しかし、男にとってそれは無限の時間であった。
ようやく一番下までたどり着いた。が、男は起き上がることができなかった。体中が痛い。一体どこを傷めたのかさえわからないくらい全身が痛む。
「よし!チェックだ」
倒れている男を無視して、スタッフはモニターに集まっていった。
そして、朦朧としている男の耳に残酷な声が響いた。
「顔が映っちまってるじゃないか……。撮り直しだな」
二
モスクワ・ルビヤンカ広場にその男は立っていた。
この時期のモスクワは平均最高気温0度、最低気温マイナス一五度という極寒に襲われている。
彼はいかにも仕立てがよさそうなトレンチコートを、英国製のスーツの上にまとっていた。頭上にはこの時期のモスクワではかかせない防寒用の帽子ではなく、粋なボルサリーノを被っている。しかも、このうす曇の天気の中サングラスをかけているのでその顔立ちはよくわからない。
それでも、遠めからでも目立つ背の高さと服装の品のよさは、彼の思惑とは別にモスクワ女性の目をひいた。ほれぼれと彼を見ている女性たちの中には、モスクワでは珍しく東洋人らしき女性の姿も見られた。
彼がサングラス越しに見つめているのは、旧ソビエト社会主義共和国連邦閣僚評議会付属国家保安委員会、いわゆる旧KGBの本部庁舎。
現在はロシア連邦保安庁と名称を代えてはいるが、その姿は徐々に旧KGBに近づいているといわれている。
彼がルビヤンカ広場に到着して五分程経った時、彼の携帯電話が鳴った。
彼はゆっくり上着のポケットから携帯電話を取り出すと、ひどく短い会話をして電話を再びポケットに入れた。そして、彼独特の優雅な歩みで、赤の広場の方へと向かって行った。
三
晩秋から初冬へと街が姿を変えてから、しばらくたったある日。
十月から放送が始まったカッチャレンジャーは、順調に子供の心を掴みはじめていた。もちろん、イケメンヒーロー好きのお母様の心も。
そんなある日の、都内某所スタジオ。出演者控え室前の廊下を、圭は歩いていた。
目深に帽子を被っているせいで、顔はよくわからない。身長は一八〇を軽く超えているだろう。長い手足に筋肉質の細すぎない体は、おそろしくスタイルがよい。ただし、少しばかりガニマタ気味なのを除けばだが……。
カッチャレンジャーの五人はそれぞれ個室を貰っている。
圭が、カッチャ赤こと松下知久の楽屋の前まで来ると、中から松下の荒げた声が聞こえてきた。
「なんで、弁当の魚に骨があるんだよ!俺に出す前に、ちゃんととっとけって言っただろう!」
顔の造形はまあまあだが。松下の演技とアクションはお粗末だ。それでも、主役デビューを勝ち取ったのは……、番組メインスポンサーの社長令息だから。
さすがにお坊ちゃまは育ちがいいのか、庶民が思いもつかないような我が儘を言っては、スタッフを慌てさせている。
やれやれと思いながらも、圭は足を止めずに通り過ぎ、一番奥にあるいわゆる「大部屋」へ入っていった。
部屋にはすでに十人ほどの若者が待機していた。中には早くも衣装に着替えているものもいる。見ない顔だ。新人かもしれない。
圭が部屋に入るなり、待ちきれなかったようにタカシが寄ってきた。
「珍しく遅かったっすね」
「ああ。ちょっとな……」
「先輩、いつも人一倍早く来てストレッチなんかしてるから、ちょっと心配したっすよ」
タカシは、二十一歳。この夏から、カッチャレンジャーで一緒に仕事をしているのだが、なぜだか圭になついてしまって四六時中まとわりついている。
もっとも一緒に仕事とはいっても、タカシの役どころは「悪の戦隊ジャラクター」の一員に過ぎない。まあ、はっきりいってエキストラとあまり変わりがない。
「あ、なんか飲むっすか?」
いつの間にか、圭の舎弟気取りがすっかり板についている。
「あ、あ〜、いいや……」
「どうしたんっすか?なんか、元気ないっすね?」
「うん……、そうかな?いや、ちょっとね……」
「先輩の売りは元気とお気楽さだけなんっすから。先輩の『北極ギャグ』を聞かないと、こっちも調子出ないっすよ」
タカシは悪びれなく畳み掛けるように言った。
「……」
圭は、出掛けにかかってきた伯母からの電話を思い返した。
圭の部屋は中野にある。
中野というのは新宿まで電車で五分という立地にありながら、昔ながらの木造アパートが数多く残っている。狭くて古いのが難点だが、当然そのてのアパートは家賃も割安なので、売れない役者や芸人などが多く住んでいることでわりと有名だ。
その中でも、「耐震偽造問題」などとはとんと無縁、普通の人が気づかない震度一の地震でもしっかり感知できるほどのオンボロアパートに圭は住んでいる。
それでも、四畳半に簡単なキッチン(と、呼べる代物かどうかはギモン。もちろんトイレは共同。風呂なし)が付いて、駅から十二分、家賃三万八千円はありがたい。
部屋の中は、男性にしては程よく片付いている。とはいっても、ほとんどモノがないというのが実情だが……。殺風景というよりは、ずばり「貧乏くさい」。
さて、今日は電車で現場に向かおうか、それとも電車賃をうかすために自転車で行こうかと圭が真剣に悩んでいた時に、携帯電話の着信音がなった。
圭は、少しばかり嫌な予感がした。
なにしろ、このタイミングの電話は験が悪い事が多い。撮影が中止になったとか、時間が変更になったとか、たいてい碌なことではない。最悪の場合、「必要がなくなったから、来なくてよろしい」ということさえあり得る。
主な収入をアルバイトで賄っている圭にとって、スケジュール変更は、生死に関わる問題だ。撮影が遅れて、結果、バイトを無断欠勤することとなり、そのせいでクビになったのも一回や二回ではない。
嫌な予感がしつつも圭が電話に出ると、それは伯母の安子からであった。
圭がほっとしたのも束の間、弾丸トークでその名を馳せる伯母の一方的な会話が始まった。
「圭ちゃん、今度いつ帰ってくるの?まだ、アルバイトしなけりゃ食べれないような生活してるの?もういい年なんだから、ちゃんと考えなさいよ。あら、そういえば圭ちゃん幾つになったんだっけ?あ〜そういえば、工藤さんところのメグミちゃん確か圭ちゃんと同級生だったわよね?覚えてる?ほら、色白でおさげにしてた。それで、この間久しぶりにデパートで工藤さんの奥さんに会ったら、メグミちゃんが来年から厄年だっていってたから……やだ、圭ちゃんももうじき三十じゃない!メグミちゃんとこなんか、もう三人も子供がいて、なんだか来年もう一人増えるらしいわよ。でもねぇ、姑さんがわがままな人で、メグミちゃんも気苦労が耐えないって、奥さんこぼしてたけど。ああ、でもいいわねぇ、孫がもう四人ですって。あら、そういえばあそこにはお兄ちゃんもいたはずだけど、そういえば全然聞かないわねぇ。圭ちゃん、知ってる?」
「あ、あの、伯母さん、それで用は何?俺、もう仕事で出かけなきゃならないんだけど……」
圭は恐る恐る言ってはみたが、伯母の耳には届かない。
「まあ、よそんちの子はこの際どうでもいいわ。圭ちゃん!あなたよ、あなた!一体この先どうするつもりなの?もう、三十歳になるのよ!いくら男でも、三十五歳過ぎたら、まともなお見合いの話だってこなくなるのよ……。大体、自衛隊に入るなんてきいた時から伯母さん不安だったのよ。てっきり圭ちゃんは、お父さんと同じ外交官の道を進むもんだとばっかり思ってたから……。それが、自衛隊よ!もう、何のために小学校のころから家庭教師をつけてきたのか分からないわ。それが、勝手に自衛隊入ったと思ったら、今度は突然自衛隊やめてアクションスターになるだなんて言い出して……。そりゃ、圭ちゃんは亡くなったお父さんに似て運動神経が並外れていい子で、運動会なんかじゃ伯母さん随分鼻が高かったし、身長があって見栄えもするから、伯母さんももしかしたらスターになっちゃうんじゃないかなって、期待はしてたけど。やっぱり運動神経があって、背が高いたけじゃスターにはなれないのよ。伯母さん、芸能界の事はよく分からないけど、圭ちゃんよりよっぽど見劣りするような人がテレビに出てるのを見ると、やっぱりなんていうの、努力とかそういうことだけじゃダメなんじゃないかと思うの」
痛いところをつかれた圭は、うなだれてしまった。
「そんなの、分かってるよ……」
「ね、だからお願い。もう、いい加減気が済んだでしょ。ほんとにこのままじゃ天国にいる……、あら、うちは仏教だから極楽って言わなきゃいけないのかしら?」
「あの、それはどっちでも……」
「とにかく!圭ちゃんが早く一人前になってくれないと、早くに亡くなった妹夫婦に申し訳がたたないでしょ!そりゃ、うちには子供がいなかったから圭ちゃんがきてくれたのはありがたかったけど……」
「伯父さんと伯母さんには感謝してるよ……」
「いい、とにかく一度帰ってらっしゃい!まったくこの子は、お彼岸もお盆も関係なんだから。たまには、きちんと両親のお墓参りくらいしなさい!それに……」
急に弾丸トークの速度が落ちた。
「それに……、ちょっと話したい事もあるのよ。だから、とにかく一度帰ってきなさい」
「話って?」
「電話じゃ言いにくいわ」
弾丸トークの安子伯母さんですら、電話で言いにくいこと……。
「わかった。時間を作ってできるだけ早くに帰るよ。ごめん、俺今から仕事だから電話切るよ」
「待ってるわよ。ほんとに、できるだけ早く帰ってきてね」
「うん。じゃあね」
――電話で言いにくいことってなんだろう?
「先輩、やっぱなにかあったんじゃないっすか?」
黙りこくっている圭を、心配そうにタカシが見上げた。
「皆さん!そろそろスタンバイお願いします!」
番組のアシスタント・ディレクターが大部屋に向かって声を張り上げた。姿は見えない。奥の奥にある大部屋まで来るのが億劫らしい。いつもの事だと思いながらも、やはり圭は釈然としない。
――予定ではとっくにジャッキー・チェンとダブル主演で映画を撮っているはずだったのにな……。
「先輩、急がないとやばいっすよ。先輩、俺らより支度に時間かかるんっすから」
ぼけっと入り口のドアを見ていた圭に、タカシが声を掛けた。
「ああ、そうだな」
いいながら、目深に被った帽子を取ろうとして、圭は手をとめた。
売れない役者とはいえ、圭も芸能人のはしくれである。やみくもに今の自分の顔を人前にさらけ出すことにはやはり抵抗があった。
「先輩、額のあせもの痕、まだ治んないっすか?」
「ああ、涼しくなってだいぶ落ち着いてはきたんだけどなぁ。それより、こっちはもっとすごいんだぜ」
そう言って、圭はシャツを抜いだ。
そこには……、背中といわず腕といわず、体のありとあらゆるところにあせもの痕。しかもあせもの痕とともにちらほらと現役続行中のあせももある。
さらに……、体のあちこちが見るからに痛々しく腫れ上がっている。加えて無数の青アザと擦り傷。
「額のあせもは、なんとか収束しそうだけど……」
圭は、自分の体を恨めしそうに見ながら言った。
「こっちは、当分無理だな……。なんとか顔にだけは傷をつけないように頑張ったんだけど、それが結局裏目に出たんだよなぁ。顔をかばうあまり、顔を隠すことに神経がいかなくてさ……。それで結局取り直すことになっちまった」
「そんなに何度も落ちなくても。適当に編集すればいいじゃないっすか」
「お前わかってないなぁ。階段落ちは、ワンカットで撮るからこそ、迫力が出るってもんだろうが」
「そうっすかねぇ。大体いまどきそんなのCGとかでなんとかなるんじゃないんっすか?」
「お前、そんなこと言ってたら、俺たちの仕事がなくなっちまうだろうが。第一、人の熱のこもったアクションがCGで表現できるはずはないだろう!画面に血が通ってなきゃ、人は感動なんて出来ないんだよ!」
「だからって、階段落ちを素直に十七回もやる人なんていまどきいないっすよ。やらせるほうもやらせるほうっすけど、やるほうもやるほうっすよ。まったく。映画監督なんってのは年寄りだから、新しい技術についていけないのは仕方ないっすけど。先輩まだそんなに年じゃないのに、頭固いっすよ」
「ああ、わかった、わかった。どうせ俺はいまどき珍しい人間だよ。どうせもうすぐ三十だよ。頭ん中は若年寄りだ。生きた化石だ、ピラルクだ」
「ピラルクってなんっすか?」
「だから生きた化石だよ」
「生きた化石って?」
「ずっと昔から進化しないで今に至ってる生き物のことだよ」
「ああ、じゃあ先輩にぴったりっすね」
「どういう意味だよ!」
「先輩が自分で言ったんじゃないっすか」
「ああ……。まあな……」
「でも、先輩はすごいっすよ。カッチャレンジャーでは、ちゃんと役名もセリフもあるじゃないっすか。俺なんて、毎回毎回『キキー!キキー!』しかないですもん」
タカシはおどけてジャラクターの決めポーズ(?)をした。
「そう言ってくれるのはタカシだけだよ」
見慣れているはずのジャラクターのポーズだったが、なんだか妙におかしくて、圭は笑いながらメイクルームに向かった。それに、盛り上げてくれようとするタカシの気持ちがうれしかった。
四
彼は同じ場所に長く留まることはない。そう、長くても三日。
ここ三ヶ月で彼が訪れた場所は、二十ヶ所をくだらない。パリ・イスラマバード・北京・ウィーン・ラングレー・ダブリン・モガディシュ・ロンドン・カイロなど。度合いこそちがえ、いずれもキナクサイ。実際、ここ三ヶ月で暗殺やテロ事件が発生した場所ばかりであり、しかも、事件の翌日には必ずその街に彼の姿があった。
彼が移動に選ぶのは、最短・最速ルートとは限らない。パリ・ロンドン間をユーロスターや飛行機ではなく、ローカル線を乗り継ぐなどという事もしばしばである。その距離と移動時間を察すると、三ヶ月間の彼の行動の異常さが見えてくるだろう。
モスクワ・ルビヤンカ広場にいた彼は、翌々日にはベルリンにいた。
彼はベルリン・テーゲル空港でタクシーに乗り込むと、真っ直ぐに中心街にあるホテルへと向かった。
ポツダム広場に面した五つ星ホテル。オープンしたてだというのに、男は慣れた様子で最上階のスイートルームへと入っていった。
近代的な外見とは裏腹に、シックな様式でまとめられた室内。三十畳はあろうかと思われるリビングルーム。さりげなく配置されているドイツ最高級家具コア社のソファー。そこには、ボンドガールばりの美女がものうげに座っていた。
五
すっかり暗くなってしまった撮影所の廊下を、ヴィルト・カッツェはとぼとぼと歩いていた。
打ち身と擦り傷で痛む体のせいで思ったような動きができず、今日はNGを連発してしまった。
「おまえやる気あんのか?他のやつに役まわすぞ!」
監督の怒声が、頭をよぎる。
「このボケカス!いい気になるなよ!おまえの代わりなんか、いくらでもいるんだからな!」
――代わりはいくらでもいる……か。
圭は普段相当なお気楽者で、あまり物事を悪い方に考える性質ではない。が、さすがに今日は落ち込んでいる。
それにただでさえ体に張り付いてキツいスーツが、打ち身の腫れを締め付ける。一歩足を出すたびに体中に激痛が走る。
――俺、何やってるんだろ?
伯母の声が耳に響く。『努力とかそういうことだけじゃダメなんじゃないの』。
この状況で思い出すにはあまりにもキツイ一言。
――伯母さんの言うとおりかもしれない。それに、もう三十歳か……。
圭は、体と心の痛みに耐えかねて、とうとうその場に座り込んでしまった。うなだれたまま動こうとしない。いや、動けない。ただ、涙が頬をつたった。それがまた悔しくて、ますます心は行き場をなくしていった。
そのとき、暗い廊下に足音が響いた。
「そこにいるのは圭か?そんなところでなにしてるんだ?」
声をかけてきたのは、トクさんこと徳永だった。圭の事務所の先輩俳優である。もっとも同じ事務所とは言っても滅多に顔を合わせたことはなく、あまり親しく話をしたことはない。
圭は、うつむいたまま慌てて右手で涙を拭った。右手のグローブには、涙で落ちたマスカラとアイシャドーがべっとりとついた。
「どうした?なにかあったのか?」
徳永は、ゆっくり圭の隣に腰をおろした。
徳永は五十八歳。二十三歳の時からこの世界に身を置き、スタントマンやスーツアクターとして活躍してきた。一部のマニアの中では時代劇の「斬られ役」として有名だが、一般の人はその存在をほとんど知らない。
今日は極道ものの撮影でここに来ていた。「撃たれて」きたらしい。イカニモなかんじのスーツの左胸には小さな穴が開き、口元にはべったりと血のりがついている。
徳永は、普段は決して口数の多いほうではない。口ではなく背中でものをいうタイプの古い男だ。
圭の右手のグローブについた汚れが目に入ると、大体のことは察することができた。いや、察するというよりもそれは徳永自身が経験してきたことなのだ。
「どうだ?」
徳永はポケットからタバコを取り出した。圭が一本タバコを引き抜き口にくわえると、火をつけてやった。
圭はうつむいたまま、黙ってタバコをふかしてる。
「聞いたよ。階段落ち十七回もやったって?」
圭は小さくうなずいた。
「監督に、フィルムの無駄使いをさせられたって嫌味をいわれました」
消え入るように言った圭の言葉に、徳永はなぜか大声で笑い出した。
「お前、もしかして、そんなこと真に受けたのか?」
「?……」
「いくら堅物の監督だからって、出来ない奴に十七回もやれなんて言わないぞ」
「でも、できないから十七回もやったんじゃ……」
「それは違うな」
「?……」
「お前ならできるから十七回もやらせたんだ」
「?……」
「お前の根性をかったからこそ、最高のシーンを撮りたかったんだよ」
「トクさん……」
圭はようやく顔をあげた。オネエメークが涙でボロボロになっている。それなのに、涙で潤んだ瞳はまるで子犬のようで、その対比に徳永は笑いそうになるのを必死に堪えながら言った。
「お前、そんなこともわかってなかったのか?」
「……」
「大方今日だって、お前の代わりはいくらでもいるとか言われたんだろう?」
「……」
「そんなのはな、この世界じゃただの口癖なんだよ。真に受けてるほど芸暦は浅くないだろう?」
「そうですけど。なんだか今日はグサっときちゃって」
圭は伯母の安子の顔を思い浮かべた。
「実は、今日伯母に、いい年していつまでこんなことやってるんだって言われちゃって……」
「伯母さん?」
「ええ、親代わりなんです。母の姉なんですが、十歳の時に両親をなくしてからずっと育ててもらって」
「お前、そんなに早くに親を亡くしたのか?」
「ええ。テロで……」
「テロ?」
「はい。二十年前におきた」
「あ!覚えてるよ。あん時ゃすごかった」
「僕はちょうど学校に行っていて助かったんですが、両親は……」
「お前、以外と苦労してるんだな……」
「その時、悪と戦おう、絶対に悪は許さないって決めたんです。けど……」
「けど?」
「子供だったんですよね。伯母たちがとめるのも聞かないで、高校卒業してすぐに自衛隊に入って」
「自衛隊?そりゃまた突飛だな」
「ええ。自衛隊って国を守って世界の悪と戦う組織だって思ってたから……」
「あ!お前かぁ!」
それまでしんみりと話を聞いていた徳永が、突然すっとんきょうな声を出した。
「そういや、うちの事務所に自衛隊あがりのやつがいるって聞いたことがあるけど。そうかお前だったのか……。てことは、射撃でオリンピックに出たってのもおまえか?」
「いえ候補にはなってましたけどオリンピックには行ってません。いろいろ事情があって……」
「そうかい。でも大したもんだよ。候補になるだけでも立派なもんだ。普通の人間にゃ、なかなかできないぞ。な、もっと自分に自信をもて!」
いいながら、徳永は圭の顔をじっと見つめた。見つめたはいいが、メークのくずれたその顔に我慢しきれずにとうとう大げさに笑い出してしまった。
「とりあえずお互いにメークを落として、着替えようぜ。この続きは酒を飲みながらでもゆっくりしよう。こんな暗いところでオカマの化けもんと死体が話してたんじゃ、コントにもならねぇぜ」
徳永は立ち上がると、圭の手をとった。
「ほら、頑張って立ち上がれ!うまいもん食わせてやるから」
その言葉に安心したように、圭の目からは再び涙がこぼれた。
「オカマの涙なんて、俺には興味ないぞ。ほら、根性出せ」
徳永にうながされてようやく圭が立ち上がると、二人は暗い廊下を控え室の方へと歩いていった。
「急がなくていいぞ」
そう圭に声をかけながら、徳永は先にシャワー室をでた。
「はい。すいません。少し待ってて下さい」
なにしろ、圭の衣装は収縮性の強いラバー素材で出来ているので脱ぐにも着るのにも時間がかかる。その上、壁のようなオネエメークを落とすのも大変だ。
徳永はゆったりと椅子に座ると、タバコに火をつけた。が、ふと化粧のくずれたヴィルト・カッツェの顔を思い出して、一人で笑い出した。
――写真にとっときゃ良かったな。でも、そんなこと言ったら、圭に怒られるか……。それにしても、あの顔ったらなかったな。あれ、そういや圭って、本当はどんな顔をしていたっけ?
思い出そうとしても、どうしてもメークのくずれたヴィルト・カッツェの顔しか浮かばない。しばらくして、一人で笑っている徳永の背中に、シャワーを浴び終わった圭が声を掛けた。
「お待たせしました」
その声に徳永が振り返ると、年の割にはおさない笑顔を見せる、さわやかな好青年が立っていた。
六
三つ揃いのスーツにトレンチコート、皮の手袋。
その男は小雨の降る石畳の古い町並みを、彼独特の歩幅の広い優雅な足取りで歩いていた。
ボルサリーノを深く被り、サングラスをしたその顔からは、やはり表情は読み取れない。
しかし、「東欧の真珠」「ドナウの薔薇」と称されるこのブダペストの風景さえもが、まるで彼のためにあるかのような出で立ちである。
彼は、ブダ地区にあるハンガリーでもっとも由緒正しいホテルにチェックインすると、やはり慣れた様子で部屋へ向かった。
青とベージュを基調としたアールデコスタイルの部屋に入るなり、彼は大きな窓に掛けられていた厚手のカーテンをしっかりとしめた。その窓からは宝石のようなブダの街を一望できるにも関わらず……。
雨に濡れたトレンチコートとボルサリーノを壁にかけると、彼はバスルームへと向かった。冷えた体を温めるために。
それでも、ほんの十分ほどで彼はバスルームから出てきた。ホテル仕様の厚手の白いバスローブに身を包み、濡れた髪をタオルで拭きながら。
当たり前だが、さすがにサングラスはしていない。なので、ここにきて、ようやくはっきりとその表情を伺うことができる。
身長一八五センチの長身に、細すぎない筋肉質の体、それだけでもよく似ているのに……。後ろ姿などは見分けがつかないほどなのに――サングラスを外したその顔!
その雰囲気こそ全く異なれ、彼は圭と瓜二つであった!