通りすがりのクリスマス
「背徳の徒花」という連載推理小説の番外編ですが、 特にそちらをご存じなくてもお楽しみに頂けます。推理要素が一切ないため、 ただの短編として掲載しております。
冬の朝は静かだ。
冷たい空気の中にあらゆる音が吸い込まれたかのようにしん、と静まりかえった辺りに、 東の空から溢れてくる光が紺色の空を徐々に淡く青に薄めていく。
朝靄のかかった空気の向こうに、 道路の両脇に裸の木々が立ち並ぶ景色。 そうした世界に佇んでいると、 例えば頬に鋭く刺さる風すらも心地良く思えて、 冬もそう悪くないのだという感情で一杯になる。
久しぶりの通学路という表現が学生の身の上として正しいかはさて置くとして、 既に卒業が決まっている身分では特に通う必要性もなかった大学に、 こうして明石がわざわざ足を運んでいるのには幾つかの理由があった。
大学に置きっぱなしにしていた私物の整理。
それから、友人に旅先の土産を渡すこと。
どちらがついでかは目的を果たすまでに要する時間によって決定されるのだろうか――そんなつまらないことばかりに頭を働かせていたせいだったのだろう。 角から飛び出してくる人影に明石が気付いたのは、 既に眼前が黒い布地一杯に覆われてしまった頃だった。
「……ああ、 ごめん」
ごつんと相手の胸辺りに顔面をぶつけて、 鼻の奥がつーんとなるような痛みに思わず涙目になる。
痛覚で一瞬言葉に詰まった明石よりも先に、 さほど衝撃を感じなかったのだろう男の声が先に頭上から低く謝罪を紡いだ。
非は双方にあるのだから、 明石も 「此方こそ」 と言いながら顔を上げる。
そうすると丁度此方を見下ろしてきたオリーブ色の双眸と明石のそれがぴったりと合わさって――その瞬間、 明石は思わず息を飲んだ。
ハーフなのだろうか。 眠たそうな一重まぶたの奥には日本人らしからぬ柔らかい春の緑色が覗いているのに――その奥底で光る鋭利は寒々しい冬の外気のように荒んでいた。
この男は危ない、 と瞬時に判断して退いたのは後々から思い返しても中々良い反射神経だった。
真っ黒なダウンコートにグレーのマフラー。 まるで色のない冬の化身のようにモノクロの男が一瞬訝しげに片眉を上げたようだったが、 そんなことを気にしている暇はなかった。
清々しい気分など何処かに消え失せて、 恐怖一色で彩られた心を早く鎮めたいがために、 明石は小さく会釈をして早々にその場を立ち去ろうと彼の前を横切ろうとしたの、 だが――。
「……何か?」
がしりと己の右腕を掴む男の手に、 明石は震えを押し殺した声で尋ねた。
恐る恐る見やった彼の表情に色はなく、 ただ西洋人形のように整った面差しが此方に向けられている。
一テンポ置いた後に喋り始めた男の声にもやはり同様に温度はなかった。
「今日はクリスマスなのに、 そんな格好。 一緒に過ごす相手が居ないの?」
そんな格好、 という男の台詞に明石は改めて自分の服装を確認する。
直ぐ傍に下宿しているためにこうやってちょっとした用事で大学に出掛けるのにいちいち着替えることはしない。
とはいえ、 部屋着用の野暮ったいワンピースはベージュのファーコートですっぽり隠れているし、 足下の黒いストッキングも特に伝線してはいないはずだ。 ローヒールのパンプスと縁なしの眼鏡さえ除けば特に問題はないはずだが――。
首を捻る明石に、 彼が更に言う。
「化粧っ気もないし、 髪も後ろで結んでいるだけだなんて、 とても誰かとクリスマスを過ごそうとしている人間には見えないなと思って」
「……それが何か?」
余計なお世話だ、 と寸前まで出かかった言葉を飲み込んで。 言葉少なく問い返した自らの声が耳朶を打った時点で、 明石は幾許かの後悔を覚えた。
適当に流して立ち去れば良かったものを、 このままでは会話が続いてしまう。
ぐいっと彼に捕まれた腕に力を込めてみても、 彼の腕は石像のようにちっとも動いてはくれなかった。
「もしアンタに恋人が居たら、 アンタはクリスマスを誰かと過ごす?」
迷惑そうな表情を全面に押し出しているにも関わらず、 気にせずに男は唐突にifを尋ねる。
一体この不審者は何をしたいのだろうか。 明石は疑問符を抱きながら周囲の様子を確認する。
朝方で人通りが少ないとはいえ、 横を走る二車線の道路には絶え間なく車が行き来している。 それにもう暫くしたら大学に向かう学生達がやってくるであろうし、 万が一にでも物騒な目に合わせられることはあるまいと身の安全を確認して――それからようやっと、 明石は彼の問いに答えた。
「クリスマスという特別な日を共に過ごすことも愛を確認する手段の一つですから」
「特別な日を共に過ごすということは、 愛を確認することなの?」
「貴方にとっては違いますか?」
会話を続けるつもりなどこれっぽっちもないにも関わらず、 きょとんとした表情で首を傾げる男に思わず明石は尋ねてしまった。
寒空で、 ついさっき会ったばかりの人間と交わすには余りにも抽象的すぎる会話。
けれど男は気にした素振りもなく、 明石の疑問に答えた。
「"特別" な日という感性がそもそも俺にとってはよく分からないかな」
「――そうですか」
「アンタにとってのそれはどういう定義なの?」
表情が乏しく、 まるで透明な硝子のような雰囲気を醸し出している割に、 この男はよく喋る。
本当に一体何がしたいのだろう、 と何度目かの疑問が頭を過ぎる一方で、 彼が満足するまではきっとこの腕を離しては貰えないのだろうと明石は確信していた。
「どうでもいい相手とは過ごしたくない日、 でしょうか」
「例えば行きずりで何故かこうして会話をしている俺みたいな?」
「自覚はあるのですね」
まあね、 と初めて男が見せた笑みは、 掌で溶けてしまう雪のように儚げだった。
寂しい人なのだな、 とその瞬間に思ったのは何の他意もない純粋な感想だった。
特別に定義を求めなければ理解できないような思考回路も、 こうやって無理矢理以外に他者と会話を交わせない素振りも。
きっと彼は最初に思った通り怖ろしい人間なのに、 恐怖の狭間に憐憫を感じる明石の傲慢さを彼がどんな風に思うのか、 ふと興味が沸いた。
――とはいえその興味を真っ正面からぶつけられるほど、 明石は不躾でもなければ剛胆でもない。
「じゃあ俺にとってはクリスマスは特別な日じゃないんだろうな」
「そうですか」
男が到達した結論に、 それもまた一つの感性だろうと明石は特になんの感慨もなく頷いた。
「ああ。 だって今日一日、 アンタと過ごすのも面白そうだと思ったから。 たまたまぶつかっただけの、 俺にとってはどうでもいい相手なのにね」
「――成る程」
なんと応対すればいいのか咄嗟に分からないまま、 中途半端な言葉で答えた明石の腕を彼はゆっくりと放す。
ようやっと解放された明石はけれど、 不思議とそのまま逃げ去ろうとは思わなかった。
彼の予想だにしない一言に絆されたのかもしれないし、 或いは彼の視線が相変わらず明石の瞳を貫いていたからかもしれない。
自分でも理解しきれない感情に足を縫い止められながら、 明石は暫く迷った後に言った。
「世間が思う特別を特別に思えないからといって、 貴方が可笑しいわけではありませんよ」
慰めのつもりはなかった。
ただ特別な日じゃないと言いながら浮かべた彼の表情に疎外感を見出してしまって、 普段なら飲み込んでしまう言葉を、 行きずりの人間相手という気安さで押し出すことが出来ただけだ。
男は目を見開いて、 冷たい宝石のような瞳に僅かな温度を滲ませた。
「――そうか」
張り詰めていたものが緩んだかのように、 頷く男の声が柔らかく響く。
明石は何も言わずに淡く笑った。
男もそれに応えるように僅かに口元を緩めて――やがてくるりと踵を返す。
どうやら彼はようやっと満足したらしいかった。
じゃあね、 と後ろ向きに上げられた右手に見えないと知りつつも明石は当然の礼節として軽く頭を下げる。
遠ざかっていく背中を安堵で見送りながら、 ふと明石は思い出したかのように彼を呼び止めた。
「特別な日の定義、 もう一つ忘れていました」
男は足を止めて、 顔だけを捻って此方を振り返る。
何時もより若干張った声は、 車の騒音に掻き消されることなく彼の元に届いているらしかった。
「その日であるというだけで誰かに優しく出来る日、 そういう日です」
「――そう」
短く響いた男の応答は、空気を震わせて明石の鼓膜を楽しげに揺らした。
***
【蛇足】
「ってことがあったんだけど、 アゲハ、 覚えてる?」
「――今思い出しました。 あれは貴方でしたか」
クリスマスというにも関わらず、 彼の元を訪れなければいけない羽目に陥っていた明石はそう言って頭を抱えた。
記憶が正しければもう10年近く昔の話だ。
その会話や印象的だった瞳の色までは覚えていたが、 それが目の前の男と直結しなかった。
男は――軒端 周がそんな明石の様子に可笑しそうに笑った。
「あれ以来俺もクリスマスだけは、 アンタのおかげで誰かに優しく出来るようになった。 特別だと思えるようになったんだよね」
「……そうですか。 その優しさの矛先がどうして私に向かないのか疑問に思っても?」
他者に優しく出来るなら、 わざわざクリスマスに明石を呼び出すことを控える優しさも持って欲しかった。
無機質なコンクリートに固められた周囲では、 クリスマスらしいロマンティックさなど欠片も無く。 相変わらず殺風景な室内に押し込められている明石の恨み言を、 周は不思議そうに尋ね返した。
「明石のことだ。 きっと一人きりで寂しく過ごすんだろうなと思ったからわざわざ呼んであげたのが優しさのつもりなんだけど」
「余計なお世話です」