再び地下へ ガスとPM2.5
夜には、ミツクニたちは学校に泊まることもある。ミツクニは、パーテーションでしきられた部屋の向こうに、ミミがいないことを確認する。そして、電気を消す。
10時は寝る時刻だ。学校を設計した医師と教育学者は、規則正しい生活と栄養が青年を健康に育てると信じていた。
ミツクニは、栄養士が作った食事を一人で食べ、夜になるまで黙ってじっとしていた。夜が長くなって以来、娯楽がなくなったと言われる。
ヤーパンの上空を夜に衛星から取った写真を見たことがある。ナショナル・ジオグラフィック誌には一年ごとに写真が掲載されていた。日本の都市の光が少しずつなくなっていき、シーセンとペキンに移動する動画も見た。
そういえば、社会科学の教科書にも書いてあった。原因はマウント・フジの噴火であることも示唆される。ただ、日本国がなくなった発端がよくわかっていない。色々な要素が組み合わさっているので、一人の人間の力では整理できないのだ。それに、インターネットや郵便制度もなくなってしまった。
ミミが現れる。でも、ミツクニは、ミミが現れたことに気づかない。
ミミは音を立てずにベッドにもぐりこむと、金属のこすれる音をたててカーテンを閉めた。ミツクニは、その音を聞くと、眠気におそわれて、毛布をかぶった。
一方、JBは、夜半を過ぎてから、シューレの隅にある観測所に向かっていた。三日月がぼんやりと、低く垂れる雲の間に見えた。JBは百葉箱のそばの、観測筒をあらためた。時刻が12時をさしていることを確認して、プラスティックの筒を取りかえる。筒に今日の日付を書き、採取者名を記し、観測記録をつける。JBは、雪の量を測っているのだ。
プラスティックの筒の内部には、アラビア糊がぬられていて、空気中を飛んできたPM2.5がつく。JBは、今日は少し多そうだな、と思った。ロウバイの花が咲いている。かすかに香りが漂ってくる。くちなしに似た匂いだ。あたりは暗い。闇に黄色の花がうっすらと光って見える。JBは、ミツクニとミミの寝ている部屋に、もう二人くらい誰か、入らないものかなと思った。そうしているうちに、幽霊が現れ、そっとかききえた。白くぼんやりとした幽霊だった。
しかし、JBはそれをよくあることだ、と見過ごして、シューレの塔に戻った。そして、役所に提出する書類を書き始めた。
薄く広がる雲の間から、太陽が顔を出した。ミツクニの朝は早い。どういうわけか、少年のころから、朝起きる人間だった。それで、なぜか年寄りの講師にからかわれる。学部長が現れた。黒い背広を着ていた。
「おや、若者は夜遅く、年寄りは朝早く、小便は近く」
「古典の教科書ですか」
「原文で読め」
「そのうちにやりますよ、でも、その、小便は、こう、つまり、適当なんじゃないですか」
「私は忙しい、問題が発生したのだ」学部長は去ってしまい、ミツクニは取り残される。ミツクニが緑の生垣のあたりをうろうろしていると、やがて太陽が昇ってくる。学校のあたりは、広く水田が広がっているので、早い時刻に太陽が見える。庭に設置されている、金属製の日時計がゆっくり傾いていくのを見る。というか、当面それしかすることがない。
ミミを待っているのだ。ミミが建物から出てきた。髪が黒く光った。
白い普段着を着ていて、布がふわりとしている。なにやら茫洋とした表情だ。
「おはようさん」ミミがいう。
「たしかにそうだ。早い」ミツクニは切り捨てる。
「会話が終わっちゃうじゃない」
「あんまり、話したくない。静かなほうがいい」ミツクニは、何かにいらいらしていたので、黙った。黙っている間に、黒い砂のことを考えた。
雪には毒が含まれていないと言われる。でも、何か不気味だ。今日は特にそうだ。砂は、諸悪の根源のように思われた時期もあったが、もう誰しも、雪に慣れてしまった。
なんだかんだで、実際にマウント・フジが噴煙を上げたからだ。
「さっき、学部長がこのへんをうろうろしていた」ミツクニは先に声をかけた。
「そう」
「なにかを探していた。たぶん。黒い砂の粒かな」
「その観測をしているのは、JBじゃない?」
「JBなら、まだ寝ている。あの人、百葉箱の仕事やらなきゃならないから」
「JBは、いい先生よね」
「そうだね」
「学部長、あんまり好きじゃないでしょ」
「いや、かっこいいと思う。三つ揃えの背広が似合う人はあんまりいない」
「学部長の服の趣味はよくわからない」
「あの人、授業がうまい」
「古典英語?」
「うん、面白い」
「ふうん」ミミがうなずいて、それで話が終わった。
ミミは少し空を見て、何かを考えているようだった。その顔は、どこか存在しないものを見つめているような表情だった。ミツクニも空を見たが、灰色の雲が地表を覆っているばかりだ。雨が降ると良くないな、と思っていた。
「ところでさ、昨日は幽霊見た?」ミミが唐突に言った。
「見ないなあ。最近良く出るっていう噂だけど」
「JBも見たって言ってた。あたしは、あんまり気にならない」
「根本的に、見える派?見えない派?」
「どちらも認める派。宇宙人説もあり」ミミはきっぱりと言った。
「俺、嫌いなんだよね」
「ふうん」ミミは納得できない表情をしている。眉をひそめ、頬をこわばらせている。ミツクニには、それは彼女が怒っている時の顔に見える。雲がゆっくりと地表の上を流れていく。雲の高度が下がっているのだ。雨が降るかもしれない。
「幽霊とか、なんか良くわかんないものが最近多すぎる。黒い砂だって、最初はそうだったらしいじゃないか。シンプルな方がいいよ。本とか、漫画とか。お茶もいいし、縦に長い、フランスパンも食べてみたい」ミツクニは言った。
「UFOが毒をまいてるとか、それで、砂も幽霊も、異星人の仕業だとか。なんかほんとにそう思えるんだよね」ミミは眉をしかめながらいう。
「その発想、やばいよ」
「探しにいかない?」ミミはにやりとわらって言った。
「何を」
「幽霊をさ、それで、幽霊って何かって、考える」
「幽霊って何かって、考える」ミツクニは繰り返した。
「JBも見たって言ったし。わたしはなんか、地下から来ている気がするんだよね、あの人たち。地下って、何があるかわからなくて。戦時中に作られた兵器の残骸だとか……ありそうじゃない」
「地下ね。まあ、面白いかも。やってみようか」ミツクニは了承した。
地下は全部で60層ある。国の研究者たちは、どれくらいの地下があるかを調べている。マウント・フジの噴火以降、人々が家を上に向かって建て増しするようになった。国はそれを把握しておく必要があった。結局のところ、固定資産税が徴収されただけだった。
青年は、20歳になると、地下に入れる。JBは煙草のありかを教えてくれた。そうすると、合成アルコールじゃない酒もあるかもしれない。ミツクニはそんなことを考えた。シューレの廊下は、鈍く光っている。木製の板は磨かれ、ワックスが塗りこめられている。ミツクニとミミは、廊下を無言で歩いた。
「もっと、ずっと下のほうがあやしいと思うんだよね。地下って、こう、何層にも分かれているはずじゃない?フジの火山灰にあわせて増築したとしたらさ」
「そのとおりだと思う。地下の地下もあると思う」
「というか、それは遺跡かもしれない。地学でやったんだけど、昔トロイの神殿が発掘された話みたいなやつがあるかも」
「地下はあぶないし、暗いかもしれない。JBに怒られるよ」
「アルコール灯をもって行けばいいじゃない」屋敷の端に、地下への入り口がある。マンホールが閉められている。「ほら、開かないじゃないか」ミツハルが言った。
「まあまあ、そこは現場主義で。物置からバール持ってきて」
「釘抜くあれか。分かったよ」ミツクニは、建物倉庫からバールをこっそり持ってきた。
「バール」とだけ言って、ミツクニはバールを横に持って渡した。
「ありがと」ミミは、バールの直角に曲がった部分を、マンホールに開いた穴にひっかけた。器用にバールを使って、マンホールをずらした。
「開いたよ。行ってきて」
「はしごがない」ミツクニはささやかな抵抗を試みた。
「それも物置にあるよ」
「アルコール灯も取りに行ってきます」ミツクニはあきらめた。二人は、マンホールを、音を立てないように横にずらして、中にはしごを立てた。ほこりとかびの混じったような匂いが、ミツクニの鼻孔をついた。その香りは、何かの記憶と混じったような、不思議なにおいだった。それでも、ミツクニは、昔の記憶を振り払うように、首を横に振って気を取り直そうとした。
二人はオリガ・サトウの部屋に降りた。部屋には背の高さよりも高い本棚が、壁に沿って置かれている。古い本の匂いがする。
「このあいだの音楽、きいた?」
「まだ聞いてない。そのうち聞こうと思う」ミミは、黙って辺りを見回していた。話が途絶えたので、ミツクニは、オリガ・サトウの部屋のドアを開け、廊下に出てみた。アルコールランプを持っているので、明かりがほのかに揺れた。
「こっちが暗くなっちゃうよ」
「幽霊探すんでしょ。僕は見えない派で、いる派。ただ、最近出る幽霊は、はっきりいってデマだと思う。」
「最近じゃ常識だよ、幽霊いるっていうのは。あと、昨日は間違いなく出た。ふつう、昨日の幽霊にけちつける人、いないと思うけど」
「僕は、幽霊出たって、短波ニュースが報じても、信じないよ」ぼんやりとした、何か薄い膜のようなものが、二人の間を通り過ぎた。
「そらいた」
「ただの埃の塊だと思うけれど」
「そうかな」
「ほら」ミツクニは答えて、手にからみついた、小さなくもの巣を見せた。古い壁にはっていた、くもの巣がひっかかったのだ。廊下は堅い樫の木のような木材でできていた。アルコール灯の青い光が、黒い板面を照らしていた。ミツハルとミミは、こつこつと音を立てながら、廊下を歩いて下の階への入り口を探す。屋敷の地下は、平屋建てではなく、もともと防音室などのように、利用するための空間だったらしい。だから、下に行くのはそうむつかしいことではない。急角度の、粗末な階段が廊下の端にあった。
「あれだよ、行ってみよう」ミミがいう。
「そうだね」階段を踏みしめ、腐っていないかを確認しながら、下の階に降りる。壁がすぐ横にあって、ミミは髪が引っかからないかを気にしている。もう一つ、下の階の床に足が着いた。ミツクニは、思わず、壁と天井の間を見上げてしまった。肖像画や、風景画を飾るスペースだ。白と黒で描かれた、写真のように精密な絵だ。厳しい目つきをしている。黒い背広を着て、カフスをつけた人物がこちらをにらんでいた。ミツクニは、モノクロの写真だろうかと思った。この学校の学長の肖像画が、代々飾られるのは有名なことだ。でも、よく観察してみると、ミツクニが生まれるよりも50年以上も前の人物であることが分かる。画家の署名の横に、年月日が走り書きされていた。
「これはさ、昔の人だよね」ミツクニはぼそりといった。
「昔の人というか」
「何だよ」
「これは、この人物の死後に描かれた、つまり遺影なんじゃないかな」ミツクニは、つとめて平静を装いつつ、幽霊の話を思い出していた。ミツクニも、ぼんやりと死んだらどうなるか、などと考えることがある。
「そら、アルコール灯の明かりを揺らしてみようか」ミミは楽しそうだ。遺影の表情が、明かりにあわせて微細に変化する。地下2階は、奇妙な匂いがした。空気を薄めたような匂いだ。しかし、それより、人の気配がする。かさりこそりと、服の衣擦れの音がする。影がちらりと見える。ミツクニは、これは幽霊だ、どうも幽霊かもしれない、と思うようになった。なにやら面妖な気持ちだ。
とはいえ、地下2階には、先回りして「学部長」が来ていた。学部長は背広を着たままで、マスクをつけた格好だった。ミツクニとミミが地下に来ているのを知って、やれやれ、と思った。ミツクニもミミも、それを知らない。彼らは体を堅く身構えながら、2階を探索した。だが、特に幽霊は見つからなかった。○そこに、学部長が現れた。
「ええ、君たち、なんだ、なぜここにいる」ミツクニはおどろいて、え、といった。
「いや、20歳過ぎたんで、このあいだJBに煙草の自販機を教えてもらったんです。僕は吸わないですけど」
「ふむ、タバコを買いに来たのか。今日び流行らないよ。健康に悪いだけだ。やめとけ」
「ええと、あたしは」ミミが言った。
「何だね」学部長が答える。
「精神界と現実界の橋渡しというか……二つの固有観念が帰着して……何と言うか、なんですかね」ミミは首をかしげながらいう。
「幽霊探しにきたのかな」
「まあ、そうです」
「最近は、本物は珍しい。ところで、JBが昨日見たのは、これだよ」学部長は、背広を着たまま、屋敷にくくりつけられた、銅でできた配管をゆびさした。
「ちょっと物質名は勘弁してくれ。君たちがはまっちゃうと良くないからな。これ吸うと、いらいらしたり、幻覚が見えるんだよ。幽霊じゃない。ガス中毒とかシンナー中毒だ。学校の事故が世間に広まるとまずい。大人の対応を頼む。20歳だな、二人とも」
「はあ」ミツクニは生返事をした。学部長はだんだん怒りたくなってきた。なぜかは良く分からない。
「だから、幻覚見るから、このガス、吸っちゃいかん。ガスが地上に漏れていて、わたしはこの配管の穴をふさぎに来たんだっての!」ミツクニは、はっと夢から覚めたような心持ちになり、「ガス中毒」の意味を知った。ミミはまだ、呆然とした顔つきをしている。