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第一話 始まり…

 ――ベルナーガス国。

 晴天に孤立する太陽が実り多き大地を照らす。その下で、人々は楽しく日々を過ごし、取り戻した幸せを大事に育んでいた。

 小さな犯罪は起こっても、何者かが誰かを虐げるようなことは一切ない。それは、新国王であるブラッド・デロルト・ベルナーガスが厳しく取り締まっているからだと言えるだろう。

 若くして国王の座に着き、しかも、突然どこからか現れた彼を快く受け入れる者は少なかったが、彼の力でこの国は確実に豊かになってきているのも事実。もう、彼のことを後ろ指で差す者はいない。

 ブラッドが見守っている以上、この国に闇は訪れることはないと、民はみんな信じている――。

 ……そうね。そうよ。国王の尽力でベルナーガスは本当に、見事なほどに復興したわ。驚くほど。

 広大な城内の二階、庭園に向いた大窓から柔らかい日差しが注ぎ込んで、綺麗に磨かれた廊下に歩く人の笑顔を映す。……だが、映すのが必ずしも“笑顔”だけとは限らない。

 ちゃんっと認めているわ。よくやっているって。口には出さないけど、心の中では褒めているし、尊敬もしている。国王だもの。“それくらい”は必要だもの。

 タ、タ、タ、と小走りに歩くナナの目が、ギラギラと、まるで獲物を狙うハイエナのよう。そんな彼女とすれ違う者は極力目を見合わさないようにした。“とばっちり”を食らうわけではないが、触れてはいけないときもあるのだ。しかし、普段は気の優しい彼女がこうなる理由はわかっている。彼女には申し訳ないが、端からしてみたら愉快なことだ。

 みんなが距離を空けてすれ違う、その気配に疑問の欠片を抱くことなく、ナナは「ふんーっ」と鼻から荒く息を吐いた。

 ……まったく! どこに行ったのかしら!

 国が安定しているおかげか、最近、やたらとブラッドは国務から逃げ出している。

 遊びたい気持ちはわかるわよ? 私だってそうだもの。……けど、それならそれでちゃんとお仕事をこなしてからじゃないと困る!

 鬼のような教育係だ、と、たまにブラッドに文句を言われるが、そんな彼を押さえ込むのがナナの役目でもある。他の側近たちは、さすがに“国王”に対して“無礼”な事はできない。なので、ナナに「どうにかしてください!」と泣きついてくるのだ。

 泣きたいのは私の方! いつも振り回されて! ……私の幸せはどこに行ったの!?

 たった一つ年上なだけ。それでも弟のように思っていた。――のは、最初だけ。面倒見のいい性格が祟った、としか言いようがない。

 ナナはひたすら廊下に沿って突き進んでいたが、目の前、横切った誰かの姿に「……あっ!」と顔を上げて駆け寄った。

「ルルゥさんっ」

 呼ばれたルルゥは足を止め、笑顔でペコリと会釈した。そんな、いつも愛想のいい彼女の傍に立つなり、ナナは挨拶もそこそこに問いかけた。

「ブラッド様をご覧になりませんでした?」

 本人は至って普通に問い掛けたつもりだろうが、真っ向から受けた不愉快げな瞳には怒りの炎が灯っている――。ルルゥは、感じた恐怖を表に出すことなく軽く背を仰け反らせて身動ぎ、首を振った。

「い、いいえ、見かけませんでしたけど……。また、ですか?」

「そう、またなんです……」

 見抜かれた様子に、ナナは呆れて肩の力を抜いて額を押さえ、ガックリと項垂れた。

「本当に。どうにかして欲しい。ジョージさんに怒ってもらおうかしら……」

「あら? そういえば先程、護衛隊の方々がジョージ様をお捜しになってましたけど……」

 顔色を窺いつつ語尾を細くするルルゥに、ナナは訝しげな表情をしていたが、どういう意味かわかったのだろう。ガクっ……と頭を落とした。


 その頃――


 城の脇にある庭園の、更にその奥。青々と茂った森の手前に、晴れ渡った青空を映す湖がある。暖かい時期になると渡り鳥が羽を休めに来る湖の畔、50センチほど離れた場所から、そっと身を乗り出して水面を覗き込むが……、そこに映るのは歪む自分だけ。

 ブラッドは、揺れる自分の顔を見つめて、口を尖らしため息を吐いた。

「……見えましたか?」

 背後から苦笑気味にジョージが問うと、ブラッドは小さく首を振り、その場に座り込んで膝を山に立てて背中を丸め抱えた。

「ちょっとくらい顔を見せてくれてもいいのにさ……」

 拗ねる仕草にジョージは寂しげに微笑むと、隣に片膝を着いて腰を下ろし、湖の中央、音もなく風に揺れる水面を見つめた。

「……扉が閉じてしまったから、でしょうか」

「……、だろうな……」

 ブラッドも同じようにじっと遠くを見つめていたが、深く息を吐いて気を取り直すと、穏やかな表情を浮かべるジョージの横顔を窺った。

「カーシュは? そろそろギブアップしそうか?」

「……ピートの話しでは、もう限界に近いだろうとのことですが」

 そう答えて、ジョージは苦笑した。

「けれど、少々頑固なところがありますから……。まだしばらくは保ちますよ」

「頑固を通り越して馬鹿だろ、あいつ」

 愉快げなジョージとは逆に、「ったく……」と呆れて目を据わらせ、肩を落とす。

「いい加減諦めろ、ってぇのに」

「……仕方がありませんね。カーシュも必死なんですよ」

「……。あーあ……」

 ふてくされてゴロンと仰向けに寝そべると、顔の横に生えている雑草にふっと息を吹きかけ揺らし、しばらく間を置いて青空と向き合うと流れる雲をボンヤリと目で追いながらため息を吐いた。

「……こういうとき、こっちは退屈だって感じるんだよな……」

 不満げではないが、独り言のように呟くブラッドを見下ろしてジョージは苦笑した。

「……フェルナゼクス、ですか?」

「あっちじゃ、暇になる、なんて事はなかったから」

「……この前話して頂いた、暴れバララールですか?」

「うん、そういうのとか……カラナとか」

「……カラナ?」

「こっちで言う、大蛇ってヤツ」

 答え終わってから大きく欠伸をするブラッドに、ジョージは少し微笑んだ。

「……退屈なら、護衛隊と腕試しでもしますか?」

「あいつら弱すぎる。ジョージは強すぎるし。カーシュが一番いい遊び相手になるんだけど、あいつと会うと必ず喧嘩になるからなぁ……」

「……仲がいい証拠ですね」

「ムシズが走る」

 ゾクゾクッ、と大袈裟に体を震わせるとジョージは愉快げな笑みをこぼしながら地面にお尻を下ろして落ち着き、後ろに手を付いて背中を反らしつつ青空を見上げた。

「……フェルナゼクスに戻りたいと、思いますか……?」

 静かな問いかけに、ブラッドは空をじっと見つめたまま、間を置いて答えた。

「まぁ……時々思い出すけど。でも……、戻っても……、な……」

「……あまりフェルナゼクスでの生活の話しを聞いていませんでしたね。どのような子ども時代をお過ごしになっていたんですか?」

 ブラッドは、「んー……」と青い空に浮かぶ雲の動きを眺めながら、話しを始めた。

「ここからフェルナゼクスの湖に飛ばされて。俺が初めて出会ったのが……カラナだった」

「……大蛇の?」

「うん。それもデカすぎる」

「……蛇に助けてもらったんですか?」

「助けてもらった、って言うより……食べられそうになった、って言うのが正解かな――」



 ゴボボッ……と、気泡が全身の至る所から上がり、思い切り口と鼻から水を吸い込んでしまった。何がなんだかわからないまま、頭の中がただパニックになる。

 苦しみで手足をバタつかせ、「ゴクンッ」と水を飲み、ブハッ……と、肺の中の空気を全て吐いた。その頃には、もうほとんど意識がなかった。

 しかし、感じていた。

 何かが体にまとわりついたことを。洋服がバリアになって何かはわからなかったが、体をグルっと巻き上げ引っ張られるその感触。途端に水圧がなくなり、濡れた体が重くなった。その直後に、完全に意識がなくなった――。

 それからどれくらい経っただろう。

 ――誰かの声が聞こえた。二人……、いや、三人。……それ以上?

 けれど喋っていることがわからない。どこの言葉かもわからないが、とにかく……複数の声が耳に入った。ただその事だけに気が付いて、後は何もわからなかった。だから、重い目蓋を開けたときに見えた景色や、見知らぬ人たちの様子になど気を向ける事はなかった。

 若い女の人が気付き、近寄ってきて顔を覗き込んでくると、何か言葉をかけてきた。けど、やはり言っていることがわからない。

 何もできずにボンヤリとしていると、怒っているような誰かの声が聞こえた。その声に対して、近寄ってきた女性が不愉快そうに眉を吊り上げて何か答えている。

 何を言い合っているのか、全く理解できなかった。

 穏やかな雰囲気ではないのは確かだ。大人同士の喧嘩、そんなところか――。

 彼らの会話が耳を素通りしていく。その間に、次第に意識がはっきりしてきた。それと同時に様々な疑問が浮かんでくる。

 ここはどこなのか。自分はどうなったのか。知らない人たちばかりいる。

 ジョージは? ピートは? スコットは? どうして誰もいない? ここで何をしている? どうしてみんなの言葉がわからない? そういえば……湖に……。

 不意に思い出した。

 頭を掴まれたと同時に、突然冷たい水の中に顔を沈められ、鼻から水を吸い上げて苦しみもがいたこと。……それをやったのが……――

 悲しみと恐怖が同時に襲ってきた。どうしたらいいのかわからなくなってきて、もう、ただ泣くしかなかった。

 息を詰まらせ、ポロポロと涙をこぼす小さな子どもの姿に、周りの喧噪がなくなった。

 傍にいた女性は、哀れな者でも見守るように目を細め、手を伸ばし、そ……と頭を撫でた。その柔らかな感触と温もりで封が解け、「うあぁーんっ……」と大きく泣き出し、必死で涙を腕で拭う。

 女性は背中に腕を入れて抱き起こすと、優しく抱きしめてポンポンと背中を叩いた。誰かが静かな声で何かを言うと、彼女はとても真剣な声で言い返していた。その時に、力強く抱きしめてくれた。

 重くて張り詰めていた周りの空気が段々と落ち着き、見知らぬ誰かたちの表情も、諦めに近いような顔に変わり、お互い深く息を吐いている。

 ――息を詰まらせて、ただただ泣いていた。

 しばらくすると、女性は抱いていた腕を解き、両手でそっと彼の耳を包んだ。瞬間、耳の奥に何か違和感を感じた。次に女性は口にも手を当て、するとやはり唇に何かの違和感が……。

「……私の言っていることがわかる?」

 そう言う声が聞こえ、泣きながらも小さく頷いた。

「……お名前は? 自分の名前が言える?」

「……、っ……、ブ、ブラッ……。……ブラッド。……っ」

「偉いわね……」

 と、息を詰まらせて答えたブラッドを抱きしめて背中を撫でた。

「私はイリア。……何も怖がることはないわ。大丈夫。私はあなたの味方だから。怖くないから」

 優しいその声。やっと言ってることがわかったという安心感もあって、ブラッドはまた大声を上げて泣いた。イリアはポンポンと背中を叩き、集まっている村人たちを睨み見回した。

「この子は私が責任を持って面倒見るから。みんなに迷惑はかけないわ。いいでしょ?」

 村人たちは顔を見合わせ、何度目かわからないため息を吐いた。その中の一人、青年が怪訝そうに腰に手を置いた。

「お前がどうしてもそうしたいって言うなら認めてやるけど。でも、何かあったときは容赦しないからな」

「いいわよ。……けど、何も起こらない。私にはわかるんだから」

 睨み答えながら、しっかりとブラッドを抱きしめる。

「セスがこの子を助けたのには何か意味があるのよ。私が面倒を見ることにも、きっと何かの意味がある。……この子は私が護る」

「……ったく。……一度言い出すと聞かないんだからな、お前は」

「ウェイン、わかっているならブツブツ文句を言わないで協力しなさいよ」

「……。その生意気な態度を改めろ」

 イリアは目を据わらせる彼を無視して、ただ泣くだけのブラッドの背中を撫でながら頭を見下ろした。

「……もう大丈夫よ。あなたはね、事故でこの世界に来ちゃったの。けど……心配はいらないから。いつかきっと帰れるから。だから、それまで私と一緒に暮らしましょうね? 私がちゃんと面倒を見てあげるから。……何も怖くはないから――」



「……その頃からセスが?」

「ああ、そうだよ」

「……セスがカラナを退治してくれたんですか?」

「退治って言うと聞こえはいいけどな。後で聞いた話しだと、別にそうじゃなかったらしい。たまたま通りがかった湖で子どもが食べられそうになっていたから、なんとなく助けたって」

「……なんとなく、ですか……」

 肩をすくめるブラッドにジョージは苦笑し、すぐにホッとした表情を見せた。

「……けれど、助けてもらってよかったです。セスには感謝しなくては」

「クソ生意気なヤツだったけど」

「……イリアという方は?」

「イリア? そうだなぁ……、イリアは……なんだろうなぁ……」

 呟くように声を漏らしながら流れる雲を目で追う。

「母親のような感じもしたし、いろいろ教えてくれた先生みたいなモンだったし……、姉ちゃんみたいだったし。一言じゃ言えないな。フェルナゼクスでの、俺の一番の……理解者、かな」

「……イリアさんのことが好きだったんですね」

「ンなことないよ。大体、イリアはセスに負けず劣らずですごく厳しい人だったんだ。やっとあっちに馴染んでさ、俺がちょっと羽目外すといつも怒って。それがうるさかった。……スコットの女版だな」

「……じゃあ、泣き虫ですか?」

 何気ない問いかけに、ブラッドは少し表情をなくした。ジョージはその様子に気付き、少し不安げに目を細めるが、ブラッドは間を置いて「……さぁな」と答えた。

「泣いたトコなんて見たことないよ。ただ口うるさいだけで。めんどくさかったよ」

 さっぱりとした顔で答えるものの、目を合わそうとはせず、ただじっと空を見つめている。そんな彼に、深く詮索せず、ジョージは続けた。

「……その後もイリアさんやセスと一緒だったんですよね? ……どんなことしてたんですか?」

「どんなって……。フェルナゼクスのことを勉強したり……」

 ブラッドは途中で言葉を切らし、間を置いて、寝転んだままで大きく背伸びをした。

「ま、結構楽しかったよ。みんなとは仲良くやってたしさ」

 はぐらかすように、それ以上語るのをやめようとする空気に気付き、ジョージは「……そうですか」と、少し微笑み、空を見上げた。

「……あり得ないことですが……、わたしも一度、そのイリアさんという方にお会いしたいものです。……会って、あなたを大事に育てて頂いたことを感謝しなくては」

 ブラッドは微かに笑みをこぼした。

「喜ぶよ、きっと。……できるなら、俺も、会って、たくさんお礼が言いたい。……ありがとうって――」











「ブラッドだ! ブラッドが来た!」

「行こうぜ! あいつ、おもしろくないから嫌いだ!」

 煙たそうな顔で、不思議な力・ギーナレスを使ってフッと姿を消してしまう。そんな年の近い男の子たちにはもう慣れてしまった。

 フェルナゼクスの最西端にある村、サザグレイ。豊かな森に囲まれた、小さくのどかな村だ。

 ――“あの時”から十年経過していた。

 やっとイリアの家から顔を出せるようになったのは、ここに来てから一年後。

 見知らぬ所からやって来たことは、村人たち全員が知っていた。だから、当初はみんなが複雑そうだった。大人たちの多くは戸惑い、そして厄介者を扱うように無視をして関わらないようにした。けれど、子どもたちは違う。好奇心旺盛なのはどこの世界も同じようだ。

「どこから来たの?」

「何をしていたの?」

「どんな所だったの?」

 とにかく、いろいろと質問ばかりされたが、それはそれで楽しかった。「友だちができる」という前触れを感じていたから。

 けど、今まで彼は大人たちの中で暮らしてきた。王子という立場上、誰も彼に逆らわなかったし、護衛の三人以外、ほとんどの者が彼の言いなりだった。

 “自分は特別”――。そんな環境で育った子どもが、周りの急な変化に付いていける訳がない。

 生意気でわがままで、自己中心的なブラッドの友だちになろう、なんて子どもは一人もいなかった。

 それだけじゃない。

 ブラッドは、彼らのようにギーナレスなんて使えなかったのだから余計だ。遊ぼうにも、彼らの遊び方はブラッドには付いていけない。子どもたちは行きたい所にすぐ行ってしまう。高い所にあるものでもすぐに取ってしまうし、重い物だって軽々持ち上げてしまう。ギーナレスが生活の中心にあるのだ。

 そのギーナレスを使えないブラッドをかわいそうに思えていたのも最初だけ。時間が経つと、「あいつはめんどくさい」「あいつはつまらない」「あいつがいると何もできない」と子どもたちの不満は爆発。ただでさえ生意気なブラッドは、更に輪をかけてみんなから嫌われた。

 ぞんざいに扱われ、最初は耐えきれず、すぐイリアに泣きついた。どんな些細なことでも、すぐにすがった。

「みんなが意地悪する! 怒って!」

 と。

 しかし、イリアはそんな彼を甘やかさなかった。

 最初のうちは、「よしよし」と抱きしめて慰めてはいたが、ただそれだけ。ブラッドのわがままが酷くなると、容赦なく怒った。

「仲良くしたいなら、努力をしなさい」

 と――。

 イリアが駄目なら、彼女の元へ力の訓練に来ていた、三つ年上の姉貴分・セスにすがった。

 だが、

「……弱虫。……泣き虫。……能なし」

と、冷めた表情で貶されるだけ。

 愛らしかった王子様は、月日を追う事にひねくれて、年を重ねる事に不良に変わってしまった。そんな彼を快く思う者はいない。15才になる頃には、イリアでも手に負えないほどの悪ガキになっていた――。

 すれ違っても、まるっきり存在を無視する、相変わらずの様子を見せる村人たちに、ブラッドは「……ケッ」と、無愛想な態度で知らん顔した。もう、誰一人として彼に言葉をかけようとはしない。犯罪者でも見るように横目でチラっと窺うだけで、それ以上の反応は無し。

 ブラッドとしてもその方が気楽だった。

 ――彼らとは違う。その現実だけは、どうすることもできないのだから。

 そもそも馴染める訳がない。村人たちにも、同年代の子どもたちにも。それはイリアに対してもだ。

 母親面してなんだかんだと小言を言うが、実の親子じゃない。赤の他人だ。だから冷たいんだ。だからいつも怒るんだ。

 ついさっきも、イリアとケンカをして飛び出してきた。

 原因は些細なこと。ブラッドが飲みかけのパラフリのジュースを冷蔵室に戻さなかったことをイリアが注意したのだ。それがブラッドには気に食わなかった。

 すごく、すごく腹が立って「うるせぇクソババァ!!」と怒鳴り、勢い余って「こんな所、出て行ってやる!!」と本当に飛び出した。

 イライラして、何かに八つ当たりしたくて、傍にある大木を殴り、蹴り、その度に木々が「痛いーっ!」「何するンだよーっ!」と怒って枝を揺らす。

 「くそーっ!」と歯ぎしりをして、ドスッ、ドスッ、と、地面を踏み締め歩いてはいても、けれど、心の中では逆だった。いつもいつも文字通り、後悔した。

 イリアは何も悪くないのに、すぐにカッとして突っかかって……。

 そう思っても、それを表情には出さない。相変わらずの無愛想さで、不愉快に歩いているだけ。

 ……わかってるんだ。……俺が悪いんだ。

 家から離れれば離れる程、心の中でズン、と沈み込む。

 ……イリアは、もう俺のことなんか嫌ってるはず。みんなみたいに器用じゃないし、何もできないし、いつもケンカしてるし、いつも、……いつも……。

 「早く元の世界に戻りたい」、そう思うこともある。だが、戻り方がわからない。あの湖に行けば戻れるのかと思って行ってみるが、ブラッドが“弱い”事をカラナは知っている。だから、彼を見ると「食べてやる!」と言わんばかりにすぐ襲いかかってくるのだ。……逃げるしかない。

 この世界じゃ自分だけが仲間外れだ。たまに名もない雑草にもバカにされる。

「何もできない人間! お前は生きてる価値もない!」

 ――言われた後は徹底して踏み潰した。だが、雑草は逞しく、それくらいじゃビクともしなかった。それなら、と、引き千切ってやると、数秒も経たないうちにヒョッと新たな葉を生やして、「ざまみろ! クソガキ死ね!!」と馬鹿にされる。……こんな毎日。

 村を出るまでは不貞不貞しい態度で闊歩し、だが、村を出てしばらくすると肩を落とし、視線を落とした。

 勢い付いて飛び出してしまったが、行く当てなんてどこにもない。ここじゃ、自分の居場所はない。

 「……どうしてここにいるんだろう?」「……なぜ生きているんだろう?」そんな疑問が浮かぶ。ここのところ、得にそうだ。

 もう元の世界には戻れないかも知れないのに。だったら、このままここにいることが自分にとっていいのか、それになんの意味があるのか……。

 ――わからない。自分の存在価値が見出せない。

 ……雑草にもバカにされる訳だ。……その通りだもんな……。

 いっそのこと、カラナに食われてしまおうかとも思う。

 ……あの時、セスが助けてくれなけりゃよかったんだ。

 深く息を吐いて、歩く足のスピードを緩めた。

 ……俺なんかいなくったって、誰も悲しまないし、誰もなんとも思わない。……むしろ、いなくなった方がいいに決まってる。……俺なんか……。

 “イジけ”を通り越して総悲観。本当にこのままカラナの住む湖、ラルーナに行こうと、曲がり角で足を向けた。

 ……そうだ。俺なんかいなくなった方がいい。その方がみんな幸せになれる。イリアだって、俺みたいなお荷物を抱えなくて済む……。

 トボトボと、一人歩き続ける。誰ともすれ違うことはない。大体、“歩いて移動する”という行為自体、ブラッドしかしないのだから。

 ……どこに行こう……。どこに行ったらいいだろう……。やっぱり、このままラルーナに行こうか……。……そうしよう。

 疲れることなく歩いていた。ひとときも足を止めることなく。時々、大木が「どこに行くんだい?」と声をかけてきたり、「この先は危ないよ?」と心配げに枝を揺らすが、耳を傾けることはしなかった。もう、心は決まっていた。――消えてしまうことを。

 ただ歩き続け、呼び止めようとする木々を抜け、そして、日も暮れかけた頃にラルーナの湖に辿り着いた。

 森の中から出てきた夜光虫たちが飛び交って、澄んだ水にキラキラと輝いて反射している。

 ブラッドは、一度足を止め、ゆっくりと辺りを窺った。とても静かで、強い風が吹くと木々がざわめき、水面が揺れた。他の誰もいない、自分だけの空間だ。

 深呼吸をして、足を踏み出し湖に近寄った。しばらくすれば、気配を感じてカラナがやってくる。大きな口を開けて……。

 真顔で畔に立つと、湖をじっと見つめた。

 ――風が吹き抜け、髪を揺らす間、カラナが現れるのを待った。何もせず、突っ立ったまま。だが、いつまで経っても現れない。水面が大きく波打つこともない。

 ブラッドは少し顔をしかめた。

 まさか……誰かに倒されたのか?

 深くため息を吐くとガックリ肩を落とし、その場に座り込んで頭を抱えた。

 ……嘘だろ? ここまで来たのに。覚悟決めたのに、そりゃないだろ……。

 なんだか総てのことから見放されてしまったような気がする。

 どうすりゃいいんだよ……、くそ……。

 頭をガシガシと掻きむしり、髪の毛をボサボサにすると、腕を降ろして「……はあ」と深く息を吐いて、目を細めた。

 ……、自分で入ろうかな……。

 もうそれしか手段はない。ゆっくりと顔を上げて湖を見つめると、腰を上げ、背中を伸ばした。

 ……行こう。

 そう決断して湖に足を進める。湖に入ったらカラナが出てくるかもしれない。そしたら、それで終わりだ。

 数歩進むと、水に足が浸かる……はずなのに浸からない。けれど、その事に気付かず歩いていた。更に数歩進み、なかなか水の冷たさを感じないことに疑問を覚え、足下を見下ろしたときに気が付いた。

 ――水面の上を歩いている。

 ブラッドは、夜光虫たちに囲まれながら水面に映る情けない表情をした自分の顔を見つめてガックリと頭を落とした。

「……ここに近付いてはいけないと、そう言われていませんでした?」

 背後からの冷静な声に、ブラッドは、何度目かわからないため息を吐いた。

「……あっちに行け。……邪魔するな」

 不愉快げにあしらうと、しばらくして「パチンッ」と指を鳴らす音がし、それと同時に突然、ドボンッ! と湖に落ちた。

 一度沈んだブラッドは、「ブハッ!」と水から顔を出し、足の付く水底に立って、振り返り様に睨んだ。

「何すンだよ!! ビックリしただろ!!」

「……邪魔をするなと言ったでしょう?」

 怒鳴るブラッドに、セスは相変わらずの無表情で岸から言う。

「……もう邪魔はしませんから。お好きにどうぞ」

 平然とした態度に、ブラッドは水に濡れた格好で眉を吊り上げ、背中を向けると、ザバッ、ザバッ、と水を蹴って歩き出した。

 ただただ湖の奥に突き進む、そんな彼の背中を、セスはじっと見つめる。

「……弱虫」

 いつもと同じくらい冷静で静かな声だが、ブラッドの耳には届いていた。

「……意気地なし」

 腰まで水が迫ってきた。

「……臆病者」

「お前はなんなんだよ!!」

 カッと頭に来て、足を止めて振り返るなり怒鳴った。

「邪魔するなって言ってるだろ!! あっちに行け!!」

 ブンッ! と腕を大きく振り、追い払おうとする。だが、セスはそれでも表情一つ変えない。それが余計気に食わなかったのか、ブラッドは背を向けると、また湖の奥へと強く進み出した。

 セスは、苛立ちを露わにするブラッドを落ち着いた表情で見つめている。

 「くそっ……」と、ブラッドはイライラしながら水を蹴って進んだ。

 どいつもこいつも! 馬鹿にしやがって……!!

 ザバッ、ザバッ、と水を押し、進んでいたが、胸の高さまでくると水面がただ揺れるだけ。

 こんな所、大っ嫌いだ!! 俺から見切りを付けてやる!!

 もう勢いは止まらない。だが、背後から「ザバ、ザバ」と水飛沫の音が聞こえ、「……?」と、足を止めて振り返った。

 ……セスがやってくる。ゆっくりとだが、同じように湖に入って。

 ブラッドはキョトンとした顔で瞬きを一つした。

「……、何やってんだよ、お前」

 問いかけると、セスはやはり無表情で言った。

「……どういう感じなのかと思って」

「は? どういう?」

 セスは、顔をしかめて首を傾げるブラッドの傍まで来て足を止めた。

「……水の中を歩くというのは、大変ですね……」

「……。お前らはギーナレスを使ってりゃいいだろ」

 目を据わらせて不愉快さを露わにしたが、セスはあまり背丈の変わらない彼の、濡れた髪の毛に手を伸ばして軽く触れた。

「……冷たいでしょう」

 静かな声で言われたブラッドは表情を消し、目を泳がせて俯いた。

 その先には、歪んだ自分の姿が映っている――。

挿絵(By みてみん)

 セスは、無口なまま目を細めたブラッドの髪の毛を撫でた。

「……ウェインがバララールを捕まえたから、イリアががんばって調理するそうです。……張り切っていましたよ。……早く帰っておいでと、そう言っていました」

「……、……」

「……私も招待されてしまいました。……お腹を壊すことを覚悟しましょう」

 冷静な声に、ブラッドは少し吹き出し笑った。

「……戻りますか。……できれば逃げたいところですが……仕方ないですね」

 セスはゆっくりと岸へと体を向ける。その背中をチラっと見て、ブラッドはまたゆっくりと水に目を戻した。

 一向に動き出さない彼に、セスは足を止めて振り返った。

「……どうしました? ……そんなに食べるのがイヤですか?」

「……、イヤだけど……」

「……今食べないと、後で倍になって出されてしまいますよ?」

「……。……行く」

 そう返事をして、素直に足を進める。水圧をものともせずに歩き、横を通り過ぎるブラッドの背中を追いながら、セスは深く息を吐いた。

「……水の中は、ホントに……疲れます」

「ギーナレスを使えよ。わざわざめんどくさいことをしなくていいだろ」

「……そうですね。これでやっと、あなたと対等なんですが」

 遠く背後からの冷静な声にブラッドは目を据わらせてセスを振り返った。

「対等だぁ? 俺の方が強いに決まってるだろ」

「……そうでしょうか? 私は現状でもあなたに勝つ自信がありますが?」

 無表情だが、余裕の色が窺える。

 ブラッドは不愉快そうに詰め寄った。

「勝負だ! 決着付けてやるっ!」

「……3152勝0敗。私が全勝しているのに?」

「ギーナレスを使うからだろ!」

 ザバッ、ザバッ、と、胸の高さまで迫る水の中に逆戻り。ブラッドはセスの前で足を止めて睨み付けた。

「ギーナレスは禁止だからな!」

 熱り立つ彼に、セスは「……いいですよ」と落ち着いた表情で返事をした。

 ブラッドは、「へっへっへっ……」と、不敵な笑みを浮かべた。

 ギーナレスが使えなけりゃあ、こっちのモンだ!

 足を引っかけてやろうと思い付き、水底に足を踏ん張りかけて、それを止めた。透明な水中、セスが無口なままで腰ひもを緩め、それを上着から引き抜いたのが見え、上着が軽くズレたせいで肌の白い胸元が露わになって「……っ」とブラッドは息を詰まらせた。

「おっ……、っ……」

 少し顔を赤くして困惑げに目を逸らしている間に、セスは腰ひもを手にザブンッと水の中に潜った。ブラッドは、「……へっ?」と、キョトンとした表情で水の方へと顔を向けるが、しばらくして「……う、……あっ……!?」と、目を見開いて身体をグラグラふらつかせ、「うあぁっ!!」と、後ろに倒れるように水の中に沈んだ。と、同時にセスが水の中から現れ、その傍ではザバッ! ザバッ! とブラッドが水から顔を出せずにもがき暴れている。よく見ると、彼の左右の足首がくっついて腰ひもできつく結ばれている――。

 セスは水の滴る髪の毛を掻き上げ、顔を出すたびに「こ、このっ……このヤロウ!」と怒り、必死で足首の紐を解こうとするブラッドを横目で窺った。

「……3153勝0敗」

「ひ、卑怯者っ……!」

 ゴボゴボッと水の中で暴れ、溺れかける彼をそのままに、セスは「……負け犬の遠吠え」とのんびりと岸に向かった。




「カラナがいなくなってた?」

 でかい図体のせいで動くたびに椅子がミシミシと音を鳴らすが、そんなことに気遣うことなく、ウェインは食事の手を止めて顔をしかめた。

「どこかで寝てたんじゃないのか?」

 小食のセスは、いったんフォークを置いて腹休めをしながら首を振った。

「……ブラッドが溺れても、食べに来ませんでした」

「行っちゃ駄目だって言ったでしょ」

 イリアが真顔でブラッドに注意するが、彼は無視して巨大馬・バララールの肉に食らい付いた。

 イリア宅――。夜も更けて、“ウェインが作った”バララール料理をみんなでおいしく頂いている。

 ウェインは訝しげに太い腕を組んだ。

「おかしいな。カラナを倒したって話しは聞いていないぞ? イリア、お前がやったのか?」

「私は何も。……ほら、もっと食べなさい」

 返事をそこそこに、お皿に大きな肉の塊を置く。ブラッドは、ふてくされるように目を据わらせてお腹を撫でた。

「もう腹一杯だって」

「育ち盛りなんだから、たくさん食べるの」

 更にサラダも山盛りに並べられ、ブラッドは「……ゲフ」と胃からゲップを出して渋々肉に噛み付いた。

 ウェインは、「うーむ……」と、無精髭が生えた顎を触りながら視線を上に向けた。

「誰がやったんだろうな……」

「……誰にでもやるチャンスはあったでしょうけど。……でも、カラナは近寄らない限り危険はなかったですし、放って置いてもよかったとは思いますが」

 セスは、スープを飲むイリアを窺った。

「……生態系が変わってしまうことの方が恐ろしいですね……」

「そうね。一度、調査依頼を出してみましょうか」

 スープのお皿から手を離し、ブラッドの口元に付いているソースを指で拭ってそれを舐め、ウェインに目を向けた。

「ゲオジョレナでもおかしな事があったって。……最近、奇妙なことが多いわね」

「何かの前触れかねぇ……」

 訝しげに呟いた後、ハグハグと大人しく食べているだけのブラッドを見て、彼の頭に大きな手を伸ばしワシッと掴んだ。勢い余ってブラッドの顔がお肉にのめり込む。

「こういうときに騒動を起こすんじゃねぇぞ?」

 グリグリと頭を“撫でられ”、口の周りにソースをいっぱい付けたブラッドは目を据わらせた。






「俺がカラナをやっつけたんだぜ。一発で仕留めてやったんだ」

 自信満々な誰かの声を聞きながら、「……ンなワケねーだろ」と心の中で思う。

 フェルナゼクスの学び場、グランバール。姉妹校がフェルナゼクスの全土にあり、子どもたちは物心付くとここにやってきて知識を磨く。とは言っても、ほとんどがギーナレスの訓練だ。つまり、ブラッドには無意味な教育現場とも言える。

 ここに通い出してもう十年。最初は“友だちを作るために”が目的だったが、今じゃその目的もどこへやら。ギーナレスが使えないブラッドは教師たちにも見放され、一人で黙々とフェルナゼクスのことを勉強している。

 勉強をするのは嫌いじゃない。いろいろな知識を取り入れるのは大好きだ。フェルナゼクスの住人たちにとって、彼のやっている事など不必要で無意味なことらしいが、ブラッドにとってはとても重要なこと。ギーナレスが使えない自分にとって、知識ほど価値のあるものはない。

 そして体力と剣術。幼い頃の記憶を辿り、誰かがやっていた筋力作りや剣術の訓練を思い出し、運動をして、木の棒を削って剣に見立て一人で振り回している。

 “一人遊び”が得意な彼を、ほとんどの者が馬鹿にした。ギーナレスさえ使えればなんでもできるのに。使えなくても、北に住む大魔女に頼めばなんとかなるはずなのに、それをしないブラッドは馬鹿その者だ、と。

 ブラッド本人は、そんな陰口など気にもしなかった。……いや、最初はイヤでイヤでたまらなかったが、段々と慣れてくるし、それに、これはこれで、得をすることもあるのだ。

「ブラッド?」

 声をかけられ、読んでいた本から目を上げると、クラスメートの女の子が笑顔で傍に立っていた。

「これ、作ったの」

 そう言って彼の机に何かの液体の入った小瓶を置く。

「この前ケガをしていたでしょ? 私が調合したお薬、すごく効き目があるから使って」

 ブラッドは笑顔の彼女から小瓶に目を向け、再び彼女を見ると苦笑した。

「ああ、使わせてもらう」

「うん。困ったことがあったらなんでも言ってね」

 愛想のいい笑顔で手を振り、そこを離れる。

 ブラッドは、フッと消えた背中から小瓶に目を向け、それを取るとポケットに入れた。

 ――多くの男子には嫌われ、多くの女子には好かれている。

 同年代の男子の中では見た目も体格もいい。どこから来たのかわからない、というミステリアスな部分にも惹かれるのだろう。ギーナレスは使えないが、「それがかわいい」と評判もあり、「護ってあげたい」「傍にいてあげなくちゃ」「放っておけない」と、女子の母性本能をくすぐりっぱなしなのだ。ギーナレスが使えなくても、その分、彼は誰にも負けないくらいの体力も知識もある。ギーナレスは自分がカバーすればいいだけのことだ、と。

 フェルナゼクスでは、17才のテラスタを迎えるまで男女間の恋愛は禁じられている。テラスタを迎えて、初めて大人の仲間入りになり、独身男性はスカートの様な生地のアシルナを纏って、「独り身です」とオープンになれる。女性も同じく。テラスタを迎えるまではキレスというズボンを履いて貞操を守り、大人になってアシルナを纏い、独り身をアピールする。それまでは決して戯れてはいけないのだ。

 みんな、そのテラスタを数年後に控えている。今から「誰を恋人にしようか」とワクワクしているのだ。その相手として、ブラッドは人気が高い。

 女の子にモテるのは嬉しいが……、しかし、内心は複雑だ。

 テラスタを迎える、ということは自分も一人前になるということ。つまり、真剣に将来のことについて考えなくちゃいけない時期に入るということだ。

 いつか元の世界に戻れると、そう思っていたのに……。このままここに居着くことになってしまうのか……。

 この世界に留まるなら留まるで、覚悟を決めていろいろ考えなくちゃいけない。でも……全く先が見えない。不安で不安でどうしようもない。15才の今のままで時間が止まってくれないかと思う。

 ……どうなってしまうんだろうな、俺……――。

 ブラッドはため息を吐いて、読んでいた本を閉じると、机の隅に視線を落とした。




「……なに、これ」

「なんだと思う?」

「……。根っこ?」

「と、思うだろうが、……カラナだ」

 ウェインが持ってきた“乾涸らびた大きな根っこ”にイリアは「……えっ?」と目を見開いた。

 そろそろブラッドも帰ってくる頃。夜食の準備に精を出していた所にウェインがやってきた。“ネコの手”が自らやってきて、イリアは「さあさあ」と、ウェインを台所に押し込んだが、彼はそんなイリアの手から逃げた。

 イリアは身を屈めて、食卓の上、変わり果てた姿のカラナをマジマジと見つめて顔をしかめた。

「……ねえ、これ、どっちが顔?」

「そんなことはどうでもいい」

 ウェインはため息混じりに食卓の椅子に座り、足と腕を組んだ。

「ラルーナ湖のカラナじゃなくて、オプレタのカラナらしい」

「最南端の?」

「ああ。……異変はコイツだけじゃない」

 ウェインは真顔でカラナに顎をしゃくった。

「オプレタ湖一帯が奇妙なことになっているらしいんだ」

「奇妙な事?」

 イリアは訝しげに繰り返すと、彼の対面イスに腰かけた。

「なぁにそれ?」

「あの辺一帯が、カラナ同様、乾涸らびてしまっているらしい」

「……どうして? ……オプレタの水はすごく」

「水はドス黒く変色」

 言葉を遮って肩をすくめるウェインに、イリアは更に訝しげに眉を寄せた。

「あそこは、四大湖一の透明度を誇る……」

「今じゃあ迂闊に近寄れないそうだ」

「……」

「まるで化け物でも住んでいそうな雰囲気だってさ。実際、そのカラナを発見した奴が変な生き物を見たって言うんだ。……フェルナゼクスじゃ見慣れないものを」

 真顔で告げるウェインに、イリアは不可解げに目を細めた。

「……今になって影響が?」

「いや、今になってかどうか……。知らない間にジワジワと浸食していっていたのかも知れないし。それは調査次第わかるだろうが」

「……」

 イリアは乾涸らびたカラナに目を向けた。

「ヒドイ姿ね。……、……スープの出汁にならないかしら?」

 ウェインが目を据わらせると、「冗談よ」と苦笑する。

「つまり、ラルーナのカラナもこうなってる可能性があると?」

「それはどうだろうな。今日行ってみたが、ラルーナに異変はなかった。カラナがいない、ただそれだけで」

「……おかしなものね……」

「原因がなんにしろ……ブラッドの様子には気を付けろよ。大魔女様が言うには」

「わかってるわよ」

 もう飽き飽き。そんな雰囲気で、ため息混じりに頭を左右に振った。

「フェルナゼクスの命運を変えるだの、一歩間違えれば闇に落ちるだの。……あの子が何をしたって言うのよ。……クソババァは人を引っかき回すだけ引っかき回して……。くそったれの意地悪ババァだわ」

「……。お前のその口の悪さをブラッドはマネしてるんだぞ?」

「だからかわいいでしょ?」

 方眉を上げていたずらっぽく伺うと、ウェインはガックリと項垂れる。

 イリアは少し笑い、一息吐いて気を取り直すと、真顔で、真っ直ぐどこかを見つめた。

「……何が起ころうと、どういう結果になろうと、私はあの子を護り抜く。ただそれだけよ。……そうでしょ?」

 強気な態度に、ウェインは「やれやれ……」と首を振って苦笑した。

「そうだな。……ま、そン時ゃ手伝ってやるよ」

「当たり前じゃないの。生意気なことを言うんじゃないわよ」

「どっちが生意気だ?」と、ウェインはムッ……と口を尖らせた。




 落ちていた木の枝をブンブンと振って、長く成長した雑草をシバきながら歩く。歩けない雑草たちは、「このクソガキ! 痛いだろ!」「覚えてろ!」と、文句を散らしブラッドに葉を揺らした。たまに仕返しで足を引っかけられるが、その時はブラッドも容赦なく雑草を引っ張って千切る。だが、雑草だけにやはりそれじゃへこたれない。なかなかいい喧嘩相手でもある。

「おいこら、クソガキ」

 そう雑草に声をかけられて、一人、歩いて帰るブラッドは足を止めて見下ろした。視線の先にはたくさんの雑草がある。

「どいつだよ? みんな同じ草だからわからねーぞ、ヘボ草共」

 言い終わると同時に背丈のまちまちな雑草たちが一斉にパシパシパシッ! とブラッドの足を葉で叩く。「いてててて!」と、ブラッドは慌てて後退して雑草たちをにらみつけた。

「お前らっ、いつか全部引っこ抜いてやるからなっ!」

 葉の届かないところから威勢よく文句を告げると、頭上からハラハラ……と数枚の葉っぱが落ちてきて、ブラッドは顔をしかめて見上げた。大きな木が枝を揺らしている。

「ブラッド、大変だよ」

 どこに目や口や耳があるのかはわからないが、大木がユサユサと枝を揺らし訴える。

「大変なんだよ。本当に大変なんだよ」

 葉っぱが次々に落ちて来て、ブラッドはそれを頭に積もらせながら目を据わらせ、腕を組んだ。

「わかったわかった。わかったから動くな」

「お前こそ動くなクソガキ」

 雑草に言われてブラッドは「ムカッ!」と眉をつり上げた。そして踏みつぶしてやろうかと足を踏み出したが、まだ頭上から葉っぱを落とす木のしつこさにため息を吐いて改めて腰に手を置いた。

「なんだよいったい。俺に何か用でもあるのか?」

「大変なんだよ、ブラッド。本当なんだよ」

「だーかーらー。何が大変なんだよ?」

「すごく大変なんだ。どうしよう。大変なんだ」

「だから、何が大変なのかを言えっ」

 大きいくせに、どの木も雑草よりひ弱で臆病な性格をしている。たくましさでは雑草の方が勝っているのだ。

 ブラッドは胸の前で腕を組んで苛立ち気味に木を見上げた。

「どうしたんだよ、いったい」

「カラナが泣いていたよ。たくさん泣いていたよ」

 悲しそうな木の言葉にブラッドは顔をしかめた。

「カラナが? 泣いてた? ……、なんだ、それ」

「たくさん泣いていたよ。ずっと泣いていたよ」

「……ラルーナのカラナか? いなくなってたけど……」

「カラナは逃げたよ。泣きながら逃げたよ。ずっと泣いていたよ」

「……、言ってる意味がわからないって」

「頭の悪いクソガキだ」

 口を挟まれてそちらを睨むと、雑草たちがユラユラ葉を揺らしている。

「ラルーナのカラナが泣いていたんだ。悲しげな声を上げていた。聞こえなかったのか、クソガキ」

 そう言う雑草に続いて他の雑草も葉を揺らす。

「カラナはラルーナの護り神だ。水神だ。神が逃げ出せばどうなる」

「なのにカラナは逃げ出した。泣きながら逃げた。どうしようもなくて逃げた」

「けど、逃げ場所はどこにもない。いずれ見つかる」

「オレたちは動けないから逃げられない。みんな逃げられない。逃げることができない」

「動けない。力がない。奪われる」

 口々に言われて騒々しくなってきた。

 聞き取り難くなってきて、ブラッドは「ち、ちょっと待て」と戸惑いを露わに、組んでいた腕を解いて手を胸の高さまで上げ、雑草たちを制しようとした。

「よくわからない。話すなら一本一本、順番に話せって」

「耳の穴をかっぽじってよく聞きやがれ、このクソガキ」

 生意気な言葉にブラッドはムカッ! と眉をつり上げた。

「大人しくしてりゃいい気になりやがって!」

「ブラッド、大変なんだよーっ」

 ユサユサッ、と木が駄々をこねるように枝を揺らし、たくさんの葉っぱを降らす。

 ブラッドは「……あーもう!」と、地団駄踏んだ。

「イリアを呼んでやるから待ってろよ!」

「駄目なんだよ、ブラッド。フェルナゼスクは呪われたんだよ。みんなダメになるよ」

 枝を揺らしながら訴える木を、ブラッドは訝しげに見上げた。

「……なんだって?」

「もう間に合わないんだよ。遅いんだよ。止められないんだよ。だからカラナは誰にも言えなかった。止められないってわかってたんだよ。みんなを怖がらせたくなかったんだよ」

「……怖がらせたくない?」

「もう無理だよ。遅いんだよ」

 悲しげに言いながら枝を揺らす。だが、もう葉っぱは落ちてこない。

 ブラッドは不可解げな表情のまま雑草たちに目を向けた。

「おい、どういうことだよ? 呪われてるって? なんのことだ?」

「クソガキ、北の大魔女様にも止められない。呪いは大地を焦がす。世界を破滅に向かわせる。けれどこれは結果だ。オレたちは動けないから逃げられない。みんな逃げられない。みんな、冥界の使者に狙われている。死に神は、すぐそこにいる」

 話し口調はいつもと変わらないが、その不気味な内容にブラッドは一瞬言葉を失った。“呪い”“冥界の使者”、“死に神”なんて、ただ事じゃない。

 戸惑って視線を泳がし、そして顔を上げると同時に精一杯走った。

 なんのことだかさっぱりわからないが、ラルーナのカラナがいなくなったことといい、強い不安を感じる――。

 急いでイリアに伝えなくちゃ! と、サザグレイに戻ってくるなり、すれ違う村人には目もくれずに家に飛び込んだ。

「イリア!」

 ドタタッ! と、騒々しくやってきたブラッドに、台所で夜食の準備をしていたイリアは腰に手を置いてため息を吐いた。

「ただいまの挨拶は?」

「そんなこと言ってる場合じゃなくて!」

「あ・い・さ・つ・は?」

 目を細めて催促され、ブラッドは「……ああもう!」と苛立ち気味になりながらもイリアに近寄って彼女の頬に自分の頬を寄せ、すぐに口火を切った。

「フェルナゼクスが呪われてるって! 死に神が狙ってるって! ……みんな逃げられないって! カラナが逃げたんだって!」

 両腕を広げて次々に早口で伝える、そんな戸惑いを交えた慌ただしいブラッドにイリアは顔をしかめた。

「落ち着きなさい。ゆっくり話して」

「ンだから! カラナが泣いてたんだって!」

「さっきそんなこと言ってなかったわ」

「どーでもいいだろっ!」

 怪訝に揚げ足を取られて不愉快になりながらも、眉をつり上げ拳を握りしめた。

「みんなが言うんだ! フェルナゼクスが呪われてるって!」

 イリアは焦りを含めて真剣に訴えるブラッドをじっと見つめ、料理中の鍋の火を“目で消した”。

「みんなって?」

「雑草の奴ら! 木も!」

「……案内して」

 真顔でエプロンを外すと、ブラッドは「こっち!」とすぐに家を出る。イリアも彼の後を付いて外に出るが、ブラッドの大声が外に響いていたのだろう、村人たちが怪訝な様子で集まってきていた。

「おい、どうした?」

 そう若者が問いかけてきたが、それはブラッドに対してじゃない。彼らの視線や雰囲気で察したブラッドは無視して素通りしたが、イリアはそうもいかずに足を止めた。

「……ブラッドに生き物たちが警告をしたみたいだから、確認に」

「警告?」

 集まってきていた村人たちは、遠くで足を止めて胸の前で腕を組み不快げに待っているブラッドをチラッと横目で窺ってイリアに目を戻した。

「……ブラッドに生き物たちが警告をするわけがないだろ?」

 彼には聞こえないような小声で眉間にしわを寄せる。

「あいつは“余所者”だぞ。生き物たちが相手にすると思うか?」

「あんな無愛想な奴に構うわけがないぞ」

 呆れの色を含ませながら怪訝に口を曲げる村人たちに、イリアは「また始まった」と言わんばかりにうんざり気味に視線を上に向けて小さく息を吐いた。

「みんなが何をどう思おうが勝手だからご自由に」

 無関心さを隠すことなくフイッと背を向け、ブラッドに近寄る、その姿を振り返って村人たちは顔を見合わせ、「……なら俺たちも」と拗ねるように後を追う。

 ブラッドは、ゾロゾロとやってくる村人たちに顔をしかめ、傍に来たイリアをそっと窺った。

「……なんだよ、みんなして」

「気にしないで。それで、どこ?」

「ここからだいぶ歩くけど」

「……。歩くの?」

 と、イリアだけじゃなくみんなから嫌な顔をされ、ブラッドはムスッと口を尖らせて目を据わらせた。

「仕方ないだろ、俺はギーナレスが使えない」

 少し八つ当たり気味に答えてズンズンと歩いていく。みんなは顔を見合わせて渋々付いていった。だが、体力のない彼らは村から出てすぐにダウン。途中で「辿り着いたら気配を探ってそっちに行くから」と立ち止まってしまった。ブラッドは「……ったく」と黙々歩く。その後を付いてこれたのはウェイン、と、ブラッドに背負ってもらったイリアだけ。

 ブラッドはイリアを背負い直しながら、隣で脇腹を押さえながら息を切らすウェインを振り返った。

「ギーナレス使えばいいのにさ」

「……ゼェ、ゼェ。な、なんの……これしき……。お、お前に……ま、負けて……た、たまるもん、かあ……」

 顔を紅潮させ、今にも酸欠を起こしそうな姿にブラッドは呆れ、「……好きにしろ」と歩き続ける。

 イリアはブラッドの背中で辺りをぐるりと見回した。砂利道が細く続き、それを挟むように森が広がっている。明るいうちは清々しいが、陽が暮れれば歩くのも恐ろしいほどの暗闇に包まれるだろう。

「……森の中をこうして進むのは何年ぶりかしら。子どもの頃に数回通ったことはあったけど……」

 懐かしく思い出しながら、イリアは苦笑した。

「みんなが通らないから、生き物たちはブラッドを友だちにしてるのね」

「いい迷惑だ」と、ブラッドは目を据わらせる。

 ウェインは息を切らしながら、イリアを抱えながらも平気で歩くブラッドを斜め後ろから窺い深く息を吐いた。

「……ゼェ、……お、お前はホントに……、ゼェ……元気だな……」

「ウェインもよく付いてきてるわよ」

 イリアがにっこり笑顔で振り返って労うが、苦労のない彼女にそう言われても嬉しくもない。ウェインは不愉快そうに目を据わらせるが、文句を吐き出す力もなく、ただ後を追う。

 それからしばらく歩き続け、ブラッドは顔を上げて足を止めて場所を確認すると「ここだ」と頷いた。下ろしてもらったイリアは辺りを見回し、ぐったりと座り込んだウェインの隣で手を叩いた。すると、その数秒後に村人たちが現れ、彼らはキョロキョロと見回して「……こんな場所あったか?」などと話しをし出す。

「それで……どれ?」

 イリアが問うと、ブラッドは「こいつら」と道端の雑草たちに近寄って見下ろした。

「おい、イリアを連れてきたからさっきのことを話せよ」

 ザッザッと軽く地面を蹴って土をかけると、パシッ、と雑草が葉で爪先を叩き返してきた。ブラッドはムッと眉をつり上げ、今度は木を見上げた。

「ほら、ちゃんと言え。俺じゃわからないから」

 そう促すが、木は何も答えない――。

 ブラッドは顔をしかめて再び雑草を見下ろした。

「どうしたんだよ? 大変なんだろ?」

 雑草たちは知らんふりをして風に揺れている――。

 ブラッドは「……何シカトしてるんだよっ?」と低い回し蹴りで雑草たちをスパパパパッと一周蹴り回した。すると、雑草たちも仕返しにブラッドの足を引っかけ、ブラッドは危うく躓きそうになって慌てて体制を整える。

「おまえらな! 大変だって言うからイリアを呼んだんだぞ!」

 指差して睨み下ろすと、雑草たちは「うるせえクソガキ」と言わんばかりにパシパシッ! とブラッドの足を叩きだす。

 すぐに“喧嘩”が始まり、村人たちは顔を見合わせてため息を吐いた。

「……嘘だったのか」

 呆れるような声が聞こえ、ブラッドは目を見開き顔を上げると「嘘なんかじゃっ……」とすぐ身を乗り出したが、雑草に足を掴まれてドスッ! と、躓くように地面に倒れてしまった。村人たちは「やれやれ……」と、呆れ顔のままで姿を消していなくなっていく――。

 ブラッドは「くそ!」と雑草を睨み、倒れたままの格好で残されたイリアとウェインを見上げた。

「本当だって!! こいつらが俺に!!」

 焦りを露わにすがり見上げるブラッドに、「……ブラッド」と、ウェインは深く息を吐いて腕を組んだ。

「今、みんなピリピリしてるんだ、……知ってるだろ?」

「だから!」

「だから大人しくしていてくれ」

 呆れるように肩の力を抜いて言葉を遮る、そんなウェインを見て、ブラッドはそれ以上何も言えずに言葉を切らした。

 ウェインは、「んーっ……」と腰を伸ばして一息吐くと、視線を落とすブラッドを見下ろした。

「お前の言うことを信じないわけじゃないがな……、少し、時期が悪い」

「……」

「まあ、“いつものこと”だと、みんなすぐ忘れるだろうがな」

 そう肩をすくめると、彼もフっと姿を消した。

 ――しばらく静かな時間が過ぎ、ブラッドは間を置いてゆっくりと体を起こした。雑草たちは、もう葉を出さない。

 一人残されたイリアは腰を下ろして、胡座を掻いて背中を丸めるブラッドの俯く頭を撫でた。

「……帰りましょうか?」

「……、どうせ、俺の言うことは信じないんだろ……」

 イリアと目を合わすことなく、俯いたままで顔を逸らす。

「……どうせ……俺がデタラメを言ってるって、思ってるんだろ……」

 悔しそうに歯を食いしばると、段々と鼻が痛くなってきて視界が歪んできた。

 イリアは頭を撫でる手を止め、そのまま頬に手を寄せて彼の顔を強引に自分の方に向かせた。ブラッドは抵抗できないまま、潤んだ目を泳がし、真顔のイリアをチラッと見た。

「――ブラッド、いい?」

「……、な、なんだよ」

「みんなが何を言おうが、みんなが何をしようが、私はあなたの味方だし、あなたを誰よりも信じてる。……あなたのことを、誰よりも一番に想ってる」

「……」

「……あなたはどうなの? 私のことを信じてるの?」

 見透かすように目を細めて訊くと、ブラッドは悲しげに見開いた目を泳がし、口を噤んだ――。

 イリアは深く息を吐いて、ブラッドの肩をポンポン、と優しく叩いた。

「……帰ったら、夜食を作るのを手伝ってね」

「……、ヤダ」

「生意気」

 ギューッ、と頬をつねられ、ブラッドは「ひへへっ(いててっ)」と顔を歪める。

 イリアは苦笑して立ち上がると、「ほら」と笑顔で手を伸ばした。その手を見て、ブラッドは間を置き掴み立ち上がるが、

「それじゃ、帰りもよろしくね」

と、背中に回るイリアに目を据わらせた。

 ――結局、雑草たちの言葉を誰にも伝えることができないまま。

 雑草もイリアに何も言わないのなら、たいしたことではなかったのかもしれない、と、ブラッドも思うようになった。

 それから十数ヶ月……――。

 何事もなく時間が過ぎていった。本当に何も起こることなく。

 ブラッドもあれからしばらくは塞ぎ込んでいたが、時間が経つに連れ、全てのことを忘れていった。雑草たちも、あれから何も言わなくなった――。

「これはどうかしらっ?」

 イリアの家。

 ブラッドがグランバールに行っている日中、食卓テーブルに無数に広げられている大きな布の中からバッと一枚引き抜いて、イリアは楽しそうに風に揺らした。

「色合いが綺麗だと思わないっ? んーっ、ぜーったいに似合うわー! ウフフ!」

 グリングリンと体を捻りながら肩で笑って布を抱きしめる。そんな乙女チックなイリアを無表情にじっと見ていたセスは瞬きをゆっくりとした。

「……古くさいですね」

 イリアは目を据わらせて睨んだ。

「味があるって言ってくれない? まるで私がおばさんみたいじゃない」

「……子持ち同然ですから」

「……。それよそれ」

 イリアは布を置いて、戸惑いを交えて困惑げにセスにすがりよった。

「どうしたらいいのかしら。テラスタの教えを説くには……、私じゃあぁーちょっとおぉー」

 恥ずかしそうに体をくねらせる姿を前に、セスは冷静に目を据わらせた。

「……かわいくありませんよ」

「うるさいわね」と、イリアはセスを睨み、困った顔で深く息を吐いた。

「男親がいないのって、こういう時に困るのよねぇ……。あの子がテラスタを迎えるまでに、私もそれなりにいい人を見つけるだろうと思っていたのに」

「……残念でした」

「……、あなたに言われるとどうして腹が立ってくるのかしら?」

 不愉快げに頬をふくらまし、「……ああもうっ」と、布で顔を隠すように覆った。

「どうしよう。あの子、絶対に逃げるわ。もう、わかってるんだから」

「……ウェインに頼んではどうですか?」

「ウェイン?」

 布を下ろすと訝しげに繰り返して、「ああ……」と、気の抜けた返事で首を振った。

「あいつはダメよ。絶対ダメ。勘違いしそうだから」

「……勘違いも何も、ブラッドにとって、ウェインは父親も同然でしょう」

「やめてやめて!」

 イリアは嫌がってギュッと目を閉じ、首を振って耳を塞いだ。

「それを言ったら、つまり私とウェインが夫婦って事になるじゃない!」

「……いけませんか?」

「やめてやめて!」

「……素直じゃありませんね」

「何か言った?」と、イリアは目を据わらせて睨む。

 セスはため息を吐いて、布を一枚手に取り勝手に品定めした。

「……そう難しく考えることはないでしょう。……ブラッドは知識を集めるのが好きな子ですから、グランバールでそれなりの」

「相手は誰かしら!?」

 セスの言葉を遮り、イリアは顔色を変えてうろたえる。

「ど、どうしよう! どこの子を連れてくる気、あの子! もしっ、……もし変な力を使う子に引っかかったら! ……変なことをされたら!!」

 戸惑い落ち着きなく右往左往する。そんなイリアをうっとうしそうに横目で窺いつつセスは深く息を吐いた。

「……暴走しすぎですよ」

「けどっ、あの子は世間知らずなのよっ? 純粋な子なの! ……もし変な子に誘惑されて捕まってしまったら! 変なこと教わったりしたら!!」

「……親馬鹿も、ここまで来るとシラけてしまうものですね」

 冷静に判断しながら布を見比べる。そんなセスにイリアは冷めきって、拗ねて口を尖らせた。

「子どもを持てば誰だってこうなるのよ。……あなたもいい加減、誰か見つけなさい」

「……今は力をつけることに集中したいので」

「充分、能力値は高いわよ。私が見込んだだけはあるわ」

 「うんうん」と自慢げに頷きながら布を捲り選ぶ。

「現状だと、きっと最西端一ね」

「……イリアがいますが?」

「ああ、私なんかもうダメよ。すっかりお母さんになって。ブラッドに合わせてギーナレスもほとんど使わなくなったから。いやよねぇ……。なんだか老けたみたい」

「……老けてますが?」

「お黙り」

 イリアはセスを睨みつつ掴んだ布を引っ張り、そして「……あら?」と目をパチクリさせた。

「これ、綺麗じゃない?」

「……そうですね、いい色ですね」

「これに決めたわ! これにする! 見て! ブラッドにピッタリ!」

 大きく広げて目の前に上げると、イリアは嬉しそうに飛び跳ねた。

「ンもーっ、フェルナゼクス一のイイ男にしてやるんだからーっ!!」

「……目標が間違っていませんか?」

 と、意気込みを露わにするイリアにセスは無表情のまま突っ込んだ。




「ねえブラッド! 明日の予定はっ?」

「ちょっとっ……。ね、ねぇっ、今晩ヒューイッドの森に行かないっ? あそこは夜になると綺麗な花がっ」

「邪魔しないでよっ」

 ……笑顔なんだか怒っているんだか。

 次から次へと集まってくる女の子たちに、ブラッドはうんざり気味にため息を吐いた。

 グランバールにて――。

 とうとう17才になったブラッドの元に、先にテラスタを向かえていた女の子たちが殺到する。彼女らのコロコロ変わる表情を前に、ブラッドは逆に覚めていた。囲まれるのは嬉しいが、しかし、今はそんな心情じゃない。

「……悪いけど、俺、体力作りしたいから」

 そう言って席を立つが、「……体力作りだって!」と女の子たちは意味深な笑いをする。ブラッドは「……?」と顔をしかめ、帰宅の途に就いた。

 ……本当にテラスタを迎えてしまった。ここで成人になってしまった――。

 トボトボと、一人で森の中を歩きながら気持ちを沈ませていた。

 ――もうダメなんだな、俺は。……ここで生きていくしかないんだ……。

 どうすることもできない現実に直面している。タイムリミットを迎えたも同然だ。

 ブラッドは、歩きながら遠い道の先を悲しげに見つめた。

 ……ここで生きていく、その決意を固めなくちゃ、な……。……みんなと馴染めるように、なんとかがんばろう。もう、元の世界には帰れないんだ。……俺は、ここで生きて行かなくちゃ。

 そう考えていると、泣きたくなってきた。

 元の世界――。段々と、その記憶も薄れてきている。見たものも、匂いも、音も、声も……。

 鼻の奥が痛くなって目頭が熱くなるが、ぐっと何かを堪え、顔を上げた。

 ……俺は、フェルナゼクスの人間になる。もう……元の世界のことは忘れる。……そう、……忘れるんだ。

 意を決して、力強く地面を踏みしめ歩いた。意地になりかけているが、しかし、そうならなければ心が挫けそうだった。

 真っ直ぐサザグレイを目指し、そして、のんびり歩いている村人を見つけると、深呼吸をして「……よしっ」と頷いた。

 いつものように家に向かい、村人とすれ違う。その時、勇気を出して息を吸い込んだ。

「……こんにちわっ」

 ブラッドの素早いその一言に、言われた村人は硬直し、「……へっ!?」と驚いた表情で彼の背中を振り返った。その気配を感じたブラッドは、こっ恥ずかしさに絶えきれず慌てて家まで走り、勢いよく中に飛び込んでドアを閉めた。

 覚悟は決めたものの、やはりいきなりすぎただろうか。とは言っても、結局“最初”は挨拶からになるだろうし。……いや、まずは笑いかけてみれば良かったか?

 そんなことを考えながらドアに背を付けて「……ふぅ」と脱力すると、いきなりバッと目の前が真っ暗になってビクッと肩を震わせた。

「ジャジャーン!」

 愉快げな声にブラッドは瞬きを繰り返し、「……ハッ?」と訝しげに眉を寄せた。

 イリアは出来上がったばかりのアシルナを下ろすと、「フフフッ」と嬉しそうに笑い、もう一度「ジャジャーンッ!」とブラッドの目の前にそれを広げた。

「どうっ? 綺麗な布でしょっ!?」

「……、あ、ああ……。まぁ……」

「ホラホラ! 着てみて!」

 持っていた荷物を強引に奪い、ひざまずいてアシルナをブラッドの腰に巻く。ブラッドは見下ろし困惑しながらも、腕を上げて、されるがまま。

 イリアはアシルナを巻いてベルトで縛ると、「うん!」と満足げに頷いてブラッドを改めて見、また強引に、「回って回って!」と彼の腰を掴んで体を回した。ブラッドは足をもつれさせながら一回転をして、自分の下半身を見下ろした。蒼いアシルナがユラユラと揺れている。顔を上げると、イリアは大満足そうな笑顔で手を叩いた。

「ピッタリ! やっぱり似合ってる! 私の見た目に間違いないわ! さすが私!」

 勝ち誇ったように拳を握る。そんな単純なイリアに、ブラッドは吹き出し笑った。

 イリアは「うんうん」と満足げに頷いて、笑顔でもう一度、アシルナの位置を整える。

「きつくない? 大丈夫?」

「……、うん、大丈夫」

「丈夫な布だから、元気よく動いても簡単には破れないわよー」

「……うん」

「ちゃんっとおまじないもかけておいたしっ。きっと、過去歴代のアシルナの中でもトップクラスのアシルナ間違い無しだわ!」

 自信満々な表情でアシルナを軽く引っ張り整える、そんなイリアを見下ろして、ブラッドは間を置いて小さく切り出した。

「……イリア……?」

「ん? なあに? あ、晩ご飯はね、ウェインがとーっておきの」

「俺……もう、戻れないんだよな……?」

挿絵(By みてみん)

 元気のない声に、イリアは動きを止めて表情を消し、ゆっくりとブラッドを見上げた。ほんの少しの驚きと、戸惑うような空気にブラッドは想いを隠そうと目を逸らし、それでもちょっと寂しげな笑みこぼした。

「……もう、いいんだ。テラスタ迎えたし……。俺……ここでまじめに暮らすから」

 はにかむような、ぎこちない笑顔でか細く告げるブラッドをイリアはじっと見つめていたが、腰を上げるとそっと彼の頬を撫でた。「……それでいいの?」と問うような悲しげな空気とその感触にブラッドは目を閉じ、そして目を開けて微笑んだ。

「イリアがバーさんになったら、俺がちゃんと面倒見てやるよ」

 イリアはキョトンとし、目を据わらせて腕を組んだ。

「あら。私はそう簡単には老けないわよ」

「確実に年取ってるって。自分でもわかるだろ?」

「失礼な子ね。そういう生意気なことを言っていると」

 トントン、と、ドアがノックされ、イリアは言葉を切らすと「はいはーい」と、ブラッドが場所を空けた玄関ドアを開けた。

 そこには村人たちが――。

「確か……今日で、ブラッドはテラスタだったな」

 複雑そうな顔で誰かが伺うと、イリアは「……そうだけど」と、曖昧な返事をして首を傾げた。村人たちは顔を見合わせ、躊躇いながらもそれぞれ何かを差し出す。「受け取れ」と言わんばかりに目の前に差し出された品々に、イリアはキョトンとした。

 ドアの向こう、傍にいたブラッドが「どうした?」と顔を覗かせると村人たちはギョッと慌て、うろたえだした。

「ああっ、こ、これはっ……!」

「ほ、ほら、一応……なっ」

 戸惑うみんなの手には、花や果物や、宝石箱のような物が――。

 ブラッドはそれらを見て一瞬、表情を無くした。どうしたらいいのかわからず困惑していると、村人たちもこの空気に耐えられなくなったのだろう、さっさとイリアにお祝いを押しつけ、「じゃ!」と、そそくさとその場を散っていく。分が悪そうな彼らの背中にイリアとブラッドは顔を見合わせた。

 イリアは小さく吹き出し笑い、そしてブラッドは、家々に帰る村人たちの背中を見回して笑みをこぼし、大きく息を吸い込んだ。

「……ありがとうみんな! ……すごく嬉しい!!」

 ブラッドの声に彼らは足を止めて振り返り、照れ隠しの笑みを返事にして家に入っていく。

 イリアは微笑み、穏やかな目をしているブラッドを見て抱えるお祝いを上げた。

「おいしそうなモノは私のものよ!」

 そう言って家に駆け込む。ブラッドは、「ずるい!」と慌てて彼女を追った。

 ――なんだかくすぐったくて、でも、嬉しくて……。こんな気持ちになったのは初めてだった。そして、今まで無愛想に過ごしてい自分が馬鹿だったんだと思った。たった一言の挨拶でここまで変わる。切っ掛けがただ必要だっただけ。「みんなが悪い」と思っていたけど、そうじゃない。誰が悪いとか、そうじゃなかった。

 なんだか、体を包んでいた重いものがフッとなくなった。そんな感じだ。その感じをなくしたくないと強く思った。

 ――その後、ウェインが来て、彼が腕を奮って料理を作り、三人で楽しく食事を過ごした。他愛もないような会話で盛り上がって。

「ウェインがテラスタ迎えたときは、誰を誘ったの?」

 ブラッドがムグムグと食べながら訊くと、ウェインは腕を組んで「はっはっはーっ」と、わざとらしく笑った。

「そんな昔のことは忘れちまったぜ……」

 フッ……と、かっこつけているつもりなのか、遠くを見て薄ら笑いを浮かべる、そんなウェインにブラッドは嫌らしく目を細めた。

「ははーん、……イリアに振られたんだろ」

 ウェインはズーン、と沈み込む。「……、ホ、ホントに?」と、ブラッドは苦笑するイリアにこっそりと訊いた。

「……ホントに振ったのかよ?」

「だって、ウェインったらそのときすーっごくブサイクで」

「聞こえてる聞こえてる」と、ウェインが顔を上げて睨むと、イリアは誤魔化すように舌を出す。

 ウェインは「ちぇ……」と悔しそうに舌を打ち、ハグハグと肉を食べるブラッドのことを方眉を上げて窺った。

「お前はどうなんだ? グランバールじゃいい子はいるのか?」

「どうだろうなぁ……」

 無関心な返事をしつつ、ゴクンと飲み込んで一息吐く。

「結構声はかけられるけど……」

「さっすが私の子!」と、イリアがしめた顔で嬉しそうに拳を作ると、「誰がだよ」と、ブラッドは目を据わらせた。

「別にイリアの血を継いでるワケじゃないだろ」

「あら、私の育て方がよかったからモテるのよ? 感謝しなさい、ボーヤ」

 ツンと高飛車な態度で顎を上げると、「ウェイン、なんか言ってやって」と、ブラッドはふて腐れてウェインに助けを求める。

 ウェインは苦笑したが、「……コホン」と軽く咳払いをすると、ゴクリと唾を飲んで弛んだ表情を引き締めた。

「……ブラッド」

「うん?」

 再び肉に食らいつこうとフォークを刺す。イリアは「来た来た!」と背筋を伸ばし、ウェインの出方を窺った。

 ウェインは、「……コホン」と再び咳払いをし、緊張のあまりに顔を強ばらせながらも、なんとか、ぎこちなく切り出した。

「なんと言うか……。こうして、テラスタを迎えてくれたことは、イリアにとっても、俺にとっても嬉しいことだ」

「ふうん」と、ブラッドは興味なさげに肉に食らいつく。

「これでお前も一人前になったし……、俺たち大人の仲間入り、ってわけだな」

「ふーん。……んぐ」

「つまり、だ。そのぉ……なんだぁ。……母親としては、イリアが立派に努めてくれているわけだが……しかし、お前には……父親ってのが、な、現状……いないわけだ」

「ふむ、……ムグ。……うん」

「だから、だ、……ここは、俺がひとつ、父親代わりって事でな、……話しをせねばならないわけだ」

「ふうん。……んぐ。なんの話し?」

「……大事なことだからよぉく聞けよ、いいな?」




 ブラッドはバンッ! とドアを破る勢いで開けて走って逃げた。背後で「逃げるなコラー!」とウェインの大声が響いていたが、それで足を止めるわけはない。

 ば、馬鹿か!? そんな話しをするか!? しかも……イリアの前で!!

 いわゆる性教育というものだ。ブラッドは途中で唖然と固まってしまい、まだまだ話しを続けようとするウェインに対して我慢の限度を超えた。

 ウェインは絶対馬鹿だ!! イリアも馬鹿だ!! どいつもこいつも馬鹿ばっかりだ!!

 走っているせいか、顔がカッカと熱くてたまらない。幸いラルーナにはカラナはいないし、ちょっと一泳ぎして熱を冷まそうと思った。……じゃないと、このまま帰ったら本当にイリアと目を合わすことも無理だ!

 なんなんだよ本当に! たかがテラスタ迎えただけだろ! たったそれだけでなんなんだいったい!

 嫌気が刺してくる。こんなことを他のみんなもやっているのかと思うとゾッとする。

 息を切らし、止まることなくラルーナまで来てしまった。「はぁ……はぁ……」と荒く息をしながら夜光虫の飛ぶその中を歩く。そのまま湖の方を目指し歩いていたが、

「……カラナはいませんよ」

 そう頭上から声がして振り返り見上げると、畔の傍にある大木の枝にセスが座っていた。

 ブラッドは息を切らしたまま、何度か深呼吸をした。

「カラナに食われに来たんじゃない。……ちょっと泳ぎたくて」

「……こんな夜更けに?」

「それを言うならお前もだろ。こんな夜更けに何してるんだよ」

 訝しげに訊くと、セスはふわりと浮いてそのままゆっくり地面に降り立ち、湖の方を見回した。

「……私は、カラナを探しているんです」

「探すも何も、どっか行ったんだろ? 放っておけばいいじゃんか」

 素っ気ない態度のブラッドに、セスは彼の足下に目を向け、顔を上げた。

「……アシルナですね。……テラスタを迎えましたか」

 そう言われた途端、ボッとブラッドの顔が真っ赤になり、セスは小首を傾げた。

「……どうしました?」

「な、なんでも!」

 無愛想にそう吐き捨てると、そのまま湖に入ろうと足を向けたが、セスに腕を掴まれ止められ、ブラッドは「?」と振り返って顔をしかめた。

「なんだよ?」

「……水には入らない方がいいですよ」

「なんで?」

「……水質が以前と変わってきているんです。……人体に影響はないとは思いますが……」

 ブラッドは更に顔をしかめて湖に入るのをやめ、セスの方に体を向けた。

「なんだよ、それ」

「……不明ですが、カラナがいなくなってしまったことが原因かもしれませんね」

 闇で黒い湖の方を見回しながら答えるセスに、ブラッドは少し眉を動かした。

『カラナはラルーナの護り神だ。水神だ。神が逃げ出せばどうなる』

 もう忘れていた、十数ヶ月も前に雑草に言われた言葉。

 ――水神のカラナが逃げ出せば……

 ブラッドはゆっくりと湖を見つめた。

 ……水は乾く――

「……お祝いは終わりました?」

 不意にセスに問われ、ブラッドは「あ、ああ……」と頷いた。

「村のみんなからもお祝いをもらったよ」

「……そうですか。……よかったですね」

「……変な感じだけどさ」

 ブラッドは、風にアシルナを揺らしながら木に近寄り、そこに背もたれて爪先に目を向けた。

「この間まで、みんなのことをずっと無視してたのに。なんか、すごく変な感じだ。……変な感じなのに……、でも……」

 少し嬉しかった――。そう言葉には出せず、ただ、優しい笑みを浮かべるブラッドに、セスは変わらずの無表情さで小さく頷いた。

「……それが、テラスタの魔法です」

 ギーナレスが使えない身分なだけに“魔法”と言われてもピンと来ない。

 ブラッドは「魔法、ねぇ……」と、呟いて星空を見上げた。とても近くて、たくさんの光の粒が輝いている――。

「……俺……、ここでちゃんと生活することに決めた」

 星空から目を逸らすことなく、強い表情で告げたブラッドを、セスはじっと見つめた。

「……元の世界は、どうするんですか?」

「……どうせ帰れないだろ……?」

 言い終わると同時に深く息を吐き、再び足下へと目を落とす。

「テラスタも迎えたし……。俺もいい加減、覚悟決めなくちゃなって。……そう、思ったんだ……」

 言葉にしていると、段々悲しみが沸き上がってくる。けれど、それを見透かされたくなくて、ブラッドは「……ふうっ」と一気に息を吐き出し顔を上げた。

「ま、ここの生活にはもう慣れたしな」

 へっちゃらな顔で肩をすくめるが、やはりセスは無表情で、感情が読めない。そんな彼女を気にすることなく、ブラッドは再び星空を見上げた。

「……もういいや。……、もう……」

「……元の世界に、未練はありませんか?」

「……、ないって言ったら嘘になるだろうけど、でも……帰れないんだから。……ないモノを求めても、な……」

「……そうですね」

 セスはブラッドの隣に背もたれ、同じように星を見上げた。

「……いつか戻れるんじゃないかと、そう思っていたんですが……」

「……ああ、……俺も」

「……残念ですね……」

「……、ああ……」

「……元の世界の、あなたを知っている人たちも、きっとこうして同じように空を眺めているんでしょうね……。……あなたを待っているかもしれません」

「……。それはどうかな。……きっと、俺のことは忘れてるよ」

「……そうでしょうか……」

 そのまま無口になり、時間が過ぎる。

 ブラッドは、深く息を吐いて木から背を離した。

「あーあ。なーんかおもしろいことでもないかなー」

 大きく背伸びをして言う、そんなブラッドの横顔にセスは小さく切り出した。

「……私との勝負も残ってますよ? ……私が3419全勝中なのでおもしろくはないでしょうが」

 ブラッドは目を据わらせてセスを睨んだ。

「いいか? 俺もテラスタを迎えたんだ。これからは意地でも勝ってやるぞ」

「……早く私より強くなって頂きません?」

 冷静な顔であしらわれ、ブラッドは「ははは……」と頬を引きつらせて笑うと、木から離れて数歩歩き、足を止めて振り返った。

「勝負だ! ギーナレスを使うのは無し!」

 意気込みを露わに挑むと、「……、いいですよ」と、セスはやはり冷静に受けて立つ。ブラッドは「こいつー!」と眉をつり上げて拳を握った。

 この前は木にぶつけられた。その前は崖から突き落とされた。またその前はバララールの巣に投げ込まれた。全部ギーナレスを使うからだ!

 指の骨を鳴らし、飛びかかって羽交い締めにしてやろうと体制を整える、そんなブラッドに、セスはゆっくりと近寄った。ブラッドは一瞬たじろいだが、しかし、ギーナレスを使えないんじゃ近寄ってこられても問題ない。武器も持っていない。力なら自分の方が断然上だ。

 勝てる! 今日こそは勝てるぞ!

 テラスタになった記念だ。勝利で飾ってこそ相応しい。

 ブラッドは不敵な笑みを浮かべるが、セスは無表情に彼に近寄ると、ピタリと足を止めた。本当に間近で。ブラッドは、背丈の変わらないセスを目の前にして「……へ?」と瞬きをした。セスは腕を上げると、ブラッドの頬を手で撫で、じっと目を見つめた。

 ……ドクン。と、心臓が高鳴ってセスから目が逸らせない。

 セスはブラッドの頬を撫でていた手を止め、顔を寄せた。ブラッドは除けることも身を退くこともなく、そのまま目を閉じ、自分の唇を重ねた。――ふわりとした柔らかい感触。心音が更に速くなっていく。不意に、ウェインが話していた内容が頭に浮かび、段々と気が動転してきた。どうしたらいいのかよくわからず、けど……気持ちが高ぶっていた。

 そっと唇が離れ、ブラッドは深く息を吐いて、ゆっくりと目を開けた。

「……」

 ――目の前を見たとき、一瞬、何がなんだかわからなかった。頭の中で“これ”がなんなのか懸命に考えた。

 ……セスじゃない。いや、それどころか人でもない。……なんか……変な生き物だ。

「うおぉぃ!!」

 ズザザッ! と後退して慌てて口をゴシゴシ拭う。

 セスは、抱き上げていた小動物のペペルを胸の高さまで下ろし、唖然とするブラッドを無表情に見つめた。

「……3420勝」

 ブラッドは、ハッ! と目を見開き、怒りを露わに腕を振りかざした。

「ひ、卑怯だぞ! ペペルを使うなんて!!」

「……ギーナレスは使っていませんが?」

 サラリと交わされ、ブラッドは顔を赤くして拳を握りしめる。

 セスは、「……はい」と、ブラッドの胸にペペルを渡した。

「……可愛がってあげてください。……テラスタのお祝いです」

 ブラッドは、チョロチョロと頭の上に移動してそこに居着くペペルをそのままに目を据わらせた。

挿絵(By みてみん)

「……覚えてろよっ」

「……ええ、忘れません。……あ」

「なんだよっ?」

「……ペペルは育てるのが難しい生き物ですから、殺さないでくださいね」

 それだけ言って、セスはフッと消えてしまった。

 残されたブラッドは唖然とし、頭の上、重みのあるそこに気を向ける。

 ――待てよ。……ペペル、だったな。確か、資料で読んだことがあるぞ。

 脳裏で思い出すその内容……。

 ペペルは夜行性の動物で雑食。光を浴びると死んでしまう。人には懐かないけど……、口と口を合わせた人間を生涯の飼い主として共に生き続ける……。

 ブラッドは嫌そうに目を細め、頭の上のペペルの毛を掴んで目の前に下ろした。

 白くてフワフワの毛に包まれた、丸い、綿毛のような生物で、とても短い手足が見え、クリクリとした大きな黒い目が特徴だ。

 ペペルは、「ニュ?」と可愛らしい顔で首を傾げ、短い手をブラッドに向けてニギニギ動かした。まるで「だっこ」と言っているよう。

 ――ブラッドは、ガックリと頭を落とした。






「……なあ、イリア」

「なぁに?」

「……、これ、どうしたらいい?」

 ブラッドは、途方に暮れた表情で服の盛り上がっているお腹を指差した。

 翌朝――。

 昨晩家に帰ると、結局、ウェインに捕まってコンコンと話しを聞かされた。ただでさえ、昨夜はセスと危うい所だったのに……。

 イリアはギーナレスで勝手に朝食を作りながら腕を組み、呆れ顔でため息を吐いた。

「まったく……。セスも厄介なことを」

「……ああ」

「けど、ペペルっておいしいのよ?」

 思い出したようにニッコリ笑うと、ブラッドは目を据わらせてお腹を抱えた。

 光が苦手なペペルは表に出てこれない。けれど、ご主人様から離れることもできないのだ。

 ブラッドはため息を吐いてペペルをかばいながら椅子に座り、お腹を見下ろした。

「……どうしたらいいんだよ、こいつ」

「煮るとおいしい」

 ニッコリ笑顔で遠回しに答えるイリアに、「食うなよ」と、ブラッドは鼻から不愉快そうな息を吐いた。

「このまま腹に居着かれても困る。俺、グランバールに行かなくちゃいけないのに」

「連れていったら? どちらにしても、ペペルは飼い主からは離れられないから。離れちゃったら、すぐ生き甲斐なくして死んじゃうわ」

「……ひ弱な生き物だなぁ」

「だから、ここは一番いい解決として」

「食うなって」

 ブラッドはイリアを睨み、“お腹”を撫でた。

「ペペル用の袋かなんか作ってくれよ」

「ペペルはあなたにピッタリくっついていないと不安がって病気にかかるわよ。寂しがり屋な生き物だから」

「……。やっぱり食うか」

「晩ご飯ね」

「嘘だって」と、断ってため息を吐く。

「……仕方ないな。グランバールでもっと詳しい資料を探すか……」

「ついでにおいしい食べ方も調べてきて」

 笑顔で包丁を握るイリアに、ブラッドは目を据わらせて背中を丸め、お腹を隠した。




「キャアッ、ブラッド、そのお腹なにっ?」

 グランバールに行くと、想像通り女の子たちが集まってきて、ペペルに懐かれた、と説明すると、「ブラッドって、かわいーっ!」と笑われた。

 ……かわいいだ? ……嬉しくもなんともない!

 一人トボトボと資料室に向かい、できるだけ薄暗い隅の席を選んで鞄の中から袋に入った野菜を取りだした。ぺぺルのご飯だ。前以てイリアに頼んで食べやすいサイズに切ってもらった野菜スティックを、軽く捲った服の中にスッと差し入れた。

「……ホラ、食べろ。お腹空いただろ?」

 しばらくすると、「シャリシャリ」と野菜をかじる音が聞こえ出した。野菜を掴んで支えているブラッドの指を、ペペルの小さな手が掴んでいる。

 ブラッドはため息を吐いた。

 ……懐いてくれるのはいいけど、このままピッタリじゃあ疲れる。

 どうしてセスがペペルをくれたのか、なんの意味があるのかさっぱり理解不能だ。

 食べ終わるとまた別の野菜を与え、小さなカップに水を入れてそれを飲ませる。たまに誰かが現れてブラッドのその様子にクスクスと笑っていくが、そんなこと、もう気にもしない。昔からここじゃ自分は外れ者扱いだから。

 ペペルも満腹になっただろう頃を見計らい、ちょっと重くなったお腹を抱くように支えながら、資料棚でフェルナゼクスの生態系の本を探す。

 えーと……。小動物……、小動物……――。

 目で探しながら歩いていたが、ふと、視線が止まった。しばらく考えて手を伸ばし、それを掴み取ると、近くの壁に背をつけて座り、ペペルの位置を整えながら本を捲った。真っ白いページに次第に文字が浮かんできて、それを目で追う。

 ……ただ、じっと読み耽っていた。時々何かを考えるように視線を斜め下に置き、ペペルの様子を見て「……寝てるみたいだな」とわかると、そのまま本を読み続ける。

 【フェルナゼクスの伝説集】――。そう表題が記されてある。ひょっとしたらそこに“気になること”が書いてあるんじゃないかと思った。

 パラパラとページを捲っていた手を止め、目で文字を追った。

【フェルナゼクスの四大湖に住む四匹のカラナは、元々は一匹の大蛇だった。古の力によって少女が化けた姿だと言われている】

 ブラッドは顔をしかめた。

 ……少女?

 そんな話しは今まで一度も聞いたことがない。更にページを捲って調べていくが、関連している記事は何もない。

 お腹にくっついて眠っているペペルを抱え直して、深く息を吐いた。

 ……カラナは元々一つ。それが四つになったってコトか? どうやって? ギーナレスで? それより、古の力で少女が化けたって……。

 何があってもおかしくない所だが、カラナの“秘密”にはなんとなく興味が出てきた。「もっと他にないかな……」と、ペペルを支えながら立ち上がって他の本を探すが、しかし、それらしい本が見あたらない。これは、帰ってイリアに訊いた方が早いか。

 カラナが消えたことといい、ラルーナの水質が変わったことといい、何かが起きそうな気がする。大したことでなければいいのだが……。

 ブラッドは、ため息を吐いた。

 ……ま、俺にはどうせ何もできないだろうし。何かあっても、みんながギーナレスで対応するしな。

 余計な詮索はしない方がいいか? と、ため息混じりで再びペペルに関する本を探すと、「キャッ……」と小さな悲鳴が本棚の向こうから聞こえ、ブラッドは「ん?」と顔を上げてペペルを支えながら裏に回り、そっと覗いた。

 女生徒が、床に散らばった用紙をせっせと集めている。

 ――奇妙な光景に、ブラッドは少し顔をしかめた。何が起こったかは知らないが、あんな散らばった紙なんか、ギーナレスを使えばすぐにまとまって手元に戻るはずなのに。ギーナレスを使おうともせずに手で集めている。そんな行動をするのは自分だけだと思っていたのだが。

 ブラッドは半ベソ気味に紙を集める少女を訝しげに見ていたが、不器用に集める姿にため息を吐き、静かに近寄って腰を下ろすと紙を拾うのを手伝った。その気配に少女は顔を上げ、キョトンとした。

「え、と……、あなた……ブラッド?」

 ここでは自分は有名人だ。ブラッドは「ああ」と返事をしつつ紙をテキパキと拾い集める。

「こんなこと、ギーナレスを使えばすぐだろ?」

 無愛想に訊くと、少女は苦笑した。

「うん。でも私ね、ギーナレスを使うのが下手くそなの」

 ヘヘヘ……と寂しそうに笑う少女に、ブラッドは手を止めて顔をしかめた。

「下手くそ? ……上手いとか下手とかあるのか?」

「あるよ。集中力が足りないんだって、よく言われるけど……」

 少女は答えながらもブラッドの盛り上がったお腹をじっと見る。ブラッドは「ああ……」と軽く視線を向けた。

「ペペルがいるんだ。懐かれてしまって……」

「フフ。ペペル、かわいいよね」

「邪魔だ、こいつ」

「でも、がんばった方がいいよ。ペペルの力は大魔女様以上だって聞いたことがあるもの」

 笑顔で話しながらまた紙を集める、そんな少女にブラッドは瞬きをした。

「……ペペルのこと、知ってるのか?」

「知ってるって……なにが?」

「習性とか」

「んー……詳しくはないけど。でも、まあ、多少は」

「教えてくれ!」

 と、すがるように身を乗り出され、少女はヒョッと身を逸らして苦笑した。

「ブラッドって、頭がいいって訊いたけど……」

「……、こいつのことは予想外の出現だったんだ」

「え? 自分で育てるって決めたんじゃないの?」

「……、テラスタのお祝いにもらった」

「あ、そうなんだ」

 ガックリと肩を落とすブラッドの様子に少女は少し笑った。

「誰にもらったか知らないけど、でも、それはブラッドのためになることだよ」

「……俺の?」

 ブラッドが顔をしかめると、少女は笑顔で頷いた。

「私たちならどうってことないけど、ギーナレスが使えないブラッドには、いずれペペルの力が必要になると思う」

「……よくわからない」

「ペペルはね、たくさんの愛情を注いであげるとそれだけご主人様に対して忠実になるの。その愛情をずっと蓄え続けて、いずれ、ここぞというときにペペルは恩返しをする。たくさんもらった愛情に負けないくらいの、物凄い力でね」

 ブラッドは顔をしかめてお腹に寄り添い寝息を立てているペペルを見下ろし、顔を上げた。

「……やっぱり意味がわかんないけどさ、とにかく、このままじゃ俺も疲れるんだ。けど、離すわけにもいかないみたいだし……」

「ペペルの育て方、訊かなかったの?」

「訊く前にいなくなった」

 不愉快そうに口を尖らすと、少女は「ふふふっ」と笑った。

「その人、おもしろい人だね」

「俺の天敵だ」

「ふふ、ブラッドもおもしろい」

 少女は笑うと、拾い集めた紙をまとめ、傍に置いていたファイルにまとめた。

「確かに離して育てることはできないけどね、でも、それはペペルに対しての愛情を怠った場合の話し」

「……、つまり?」

「ペペルの育て方、その1。まずは名前を付けてあげる」

 そう少女に笑顔で助言され、ブラッドはお腹のふくらみを見つめて考え込み、口を開いた。

「……クラウディア」

「好きな子の名前?」

 首を傾げられて、ブラッドは小さく微笑んだ。

「昔の……友だち」

「ふうん」

 少女は深く追求することなく、人差し指を立てた。

「名前を付けてあげたら、ちゃんと反応するまでその名前で呼び続けてあげる。すぐに覚えるから簡単よ」

「……、クラウディア」

 ブラッドはお腹を見て呼びかけた。だが、もちろんペペルは動かない。

「……おい、おまえのことだぞ。こら」

 ユサユサとお腹の膨らみを撫でると、ペペルがもぞもぞと動き出した。

「クラウディア、……ほら、お前のことだ。クラウディア」

「……ニュー……」

 小さな声が聞こえて、ブラッドはユサユサとお腹の上で動くペペルの身体を揺らした。

「お前はクラウディア。クラウディアだぞ。わかったか?」

「……ニュー……ン」

「クラウディア」

「……」

「お前のことだって」

「……ニューン」

「クラウディア?」

「……、……ニュー」

「クラウディア?」

「……ニュー」

「クラウディア」

「ニュ」

 ちゃんと返事をしてきて「よし」とブラッドは頷く。少女も笑顔で頷くと、言葉を続けた。

「ペペルは飼い主の気持ちをとてもよく感じ取るの。偽りのない気持ちで、ペペルに大事だって事を伝えてあげて」

「……、どうやって?」

「ブラッドの愛情表現でいいよ」

 愛情表現といわれても、何をどうすればいいのか。

 戸惑い考え込むブラッドに、少女は苦笑した。

「抱き締めてあげるとか、撫でてあげるとか。言葉で大事だって言ってあげてもいい。ようは、ペペルにちゃんと伝わるか伝わらないか、だから。ブラッドがペペルをかわいくないって思っていたら、ペペルはそれを見抜いて悲しがるよ」

 ブラッドは優しく教える少女からお腹を見下ろした。

 ――相手に伝える。

 不意に、遠い昔の記憶が甦った。とても懐かしい光景。……湖に映っていた女の子。何度も彼女に元気付けられた。彼女の話がおもしろくて、彼女と過ごす時間が楽しくて。水の向こうから笑いかけてくるあどけない笑顔が、なぜか心を穏やかにさせた。大人達に囲まれて育っていたからだろうか。彼女の存在はとても大事で、例え母と会えなくても、例え父に無視されても、三人の護衛達に怒られても、彼女と会えれば「一人じゃない」と感じることが出来た。

 いつしか、「かけがえのない人だ」と幼心で認識しだしていた……。

「……大事だよ、……すごく」

 視線を落として寂しげに呟く。すると、ペペルがもぞもぞとお腹の中で動き、「ニューン……」と、愛おしむような声でヒシッとお腹にしがみついてきた。ブラッドがキョトンとすると、その様子を察して少女が笑った。

「ペペルも、大事だ、って」

 ブラッドはこっ恥ずかしそうに視線を上に向ける。

「時々、そうやって想いを伝えてあげて。そうしているうちに、ペペルはブラッドに大切にしてもらっているって、強く信じるようになって、離れて過ごすのも平気になるから。それまではね、しばらくはこのままで我慢。慣れてきたら、ブラッドの洋服をペペルに貸してあげるといいよ。ブラッドの匂いだけでもペペルは安心するから」

 それだけ言って紙をまとめ、腰を上げる少女に、ブラッドもペペルを支えながら立ち上がって苦笑した。

「助かった……。なんとかがんばって育ててみる」

「うん、そうだね」

 少女は笑顔で頷き、「それじゃあね」と“歩いて”行く。その後ろ姿にブラッドは顔をしかめた。

 ……なんでギーナレスを使わないんだ?

 疑問に感じながら「……あ」と顔を上げた。

 そういえば……誰だ? クラスの女子じゃなかったな……。




「――ほら」

 野菜をつまんで渡すと、“クラウディア”はそれを両手でしっかり持ってシャリシャリと食べる。

 その日の夜……。

 夜食が済んで腹休めをしている間、ブラッドの膝の上に座っているクラウディアの様子に対面の席からイリアは苦笑しつつ口を尖らせた。

「食べないのぉー?」

「食べないって」

 と、ブラッドが目を据わらせると、イリアは「残念」と深く息を吐き、思い出したように表情を真顔に変えた。

「そうそう。明日、北の大魔女のところに行くから、帰りが遅くなるかもしれない。セスに来てもらっておくわね」

 ブラッドは顔を上げて首を傾げた。

「大魔女? なんで?」

「ほら、ラルーナのカラナがいなくなったでしょ? オプレタのカラナもいなくなって。そのあとにね、どうも、クレワナとフルレズナのカラナもいなくなったらしいのよ」

 ため息混じりに告げるイリアに、ブラッドは顔をしかめた。

「四大湖のカラナが全部いなくなった? ……なんかおかしいんじゃないか?」

「でしょ? 調査はしているんだけど、見当が付かないらしいわ。おまけに湖の水質が変わってきているみたいだし」

 イリアは再び深く息を吐いてうんざり気味に肩をすくめる。

「それでお呼び出しがかかったの。……あんなクソババァのところには行きたくはないんだけど」

「ふうん……」

 ブラッドは鼻で返事をして、「ちょうだい」と手を伸ばすクラウディアに野菜をあげ、イリアに目を戻した。

「あのさ、グランバールの資料室で見たんだけど……カラナって、元々は一匹の大蛇で、古の力で女の子が化けたって。ホントなのか?」

 イリアは空いた食器を重ねつつ、顔を上げると小さく微笑んだ。

「そうよ、よく勉強したわね」

「知ってるのはそれだけ。……それって、どういうこと? 女の子が化けたって、何? なんで一匹のカラナが四匹になったんだ?」

 訝しげに問うブラッドに、イリアは深く息を吐いて口を開いた。

「フェルナゼクスの伝説よ」

「ってことは作り話?」

「それはどうかしら……。子どもの頃、夢語りで聞いていた話しだけど、それが嘘か本当か、誰も追求したことはないと思うわよ」

「どんな話し?」

 身を乗り出して訊くと、イリアはゆっくりと話しをし出した。

「遠い遠い昔。その頃のフェルナゼクスはまだこんなに豊かじゃなかった。いろんな災いに襲われていたらしいの。困り果てた人たちは、フェルナゼクスで一番のギーナレスを持った少女になんとかできないものかと相談した。少女はフェルナゼクスの将来を案じて、自らの意志で神の化身、カラナとして生まれ変わり、その魂を四散した。四方に聖なる湖を作り、水神カラナとなり、私たちの命を潤すため、その身を犠牲にしてくれた、それがカラナ伝説」

「……、そのカラナがいなくなってるっていうことは……その女の子に何か関係があるってことなのかな?」

「あくまでも伝説よ」

 真剣に考えるブラッドにイリアは苦笑した。

「本当かどうかもわからないんだから」

「まあな。……北の大魔女なら、いろいろわかるんじゃないのか?」

「モウロクしてきてるからどうかしら」

 と、イリアは肩をすくめる。

 ブラッドは「ちょうだい」と手を伸ばすクラウディアを見て顔をしかめた。

「お前、食べ過ぎだぞ? 後でお腹を壊しても知らないからな」

 注意すると、クラウディアはポテッと拗ねるように膝の上で短い足を伸ばして座り込む。

 ブラッドは小さく息を吐き、「これでおしまいだぞ」と野菜をあげて、イリアに目を向けた。

「大魔女に頼んだら新しいカラナが生まれるのか?」

「それはどうかしらね。カラナがいなくなった理由もわからないままだし」

 イリアはため息を吐いて、更に「ちょうだい」と手を伸ばすクラウディアに「もうだめだって言ってるだろ」と注意するブラッドを見た。

「何もないとは思うけど……、もし私の留守中に何かあったらちゃんとセスの言うことを聞くのよ? 喧嘩しないようにね?」

「セスが喧嘩を仕かけてくるんだ。ちょっとギーナレス使えるからって威張ってさ」

 ふてくされながら、「これが絶対最後だぞ」とクラウディアに野菜をあげるブラッドに、イリアは苦笑してテーブルに肘をついた。

「セスもあなたがかわいいのよ」

「はあ?」

 と、ブラッドは不愉快げに眉を寄せた。

「かわいい? ……ああ、いじめ甲斐があるってことか」

 嫌そうにそっぽ向くと、イリアは少し笑って首を振った。

「そうじゃなくて。あなたといるのが楽しいってこと」

「はあぁ?」

「セスは感情表現が下手くそだから勘違いされがちだけど、でも、とてもいい子よ。周りのことをよく見ているし、何か問題があれば、一番いい解決法をちゃんと見つけてそれを実行できる。ああいう子は滅多にいないわ」

「……よくわかんねえけど」

 ブラッドは無関心そうに言って、膝の上で立ち上がってまだ「ちょうだい」と手を伸ばすクラウディアに目を据わらせ、柔らかい毛でフカフカのお腹をつついた。

「ほら、もうこんなにお腹が出てるじゃないか。腹八分目でやめておけって」

 クラウディアは拗ねるように「ニュー……」と小さい声を出してポテ、と座り込み、悲しげに目を細める。ブラッドは「こいつー……」と更に目を据わらせ、ため息を吐きつつイリアを見た。

「大魔女のとこに行っても明日中には帰ってこれるんだろ? だったらセスに来てもらわなくてもいいよ」

「だーめ。一人でお留守番なんてまだ早いわ」

「あのな、俺はもうテラスタ迎えたんだぞ?」

「だから余計。変な女の子が来ちゃ大変じゃない」

「来るかよ、そんなやつ」

 不愉快げに口を尖らせて野菜をクラウディアにあげると、イリアは意地悪っぽく目を細めて笑った。

「早く好きな子を見つけないと、ウェインみたいになっちゃうわよー?」

「……。それはそれで困る」

「おじさんになるのはあっという間なんだから」

 イリアは笑いながら椅子を立つと、食器を片付け始めた。

 ブラッドは「ごちそーさん」と挨拶して、「ちょうだい」と、なおも手を伸ばすクラウディアを抱え上げた。

「ほら見ろ、こんなに重くなったじゃないか」

「ニュー」

 クラウディアはジタバタと手足を動かす。まるで「ちょうだいちょうだい」とわがまま言っているよう。

「お前、そんなに食べてるとプクプク太って、そのうちイリアに食われるぞ?」

 ブラッドが目を据わらせると、流しの方から

「包丁研いでおくからねー」

と、イリアの愉快げな声が聞こえてきた。

 クラウディアはわがままを言うのをやめ、「だっこ」と手を伸ばす。

 ブラッドは深く息を吐いてクラウディアを腕に抱き、カタカタと音の鳴る窓辺に近寄って外を見た。

 ――空が曇っているのか、闇夜で辺りは何も見えない。

「……雨が降りそうだな」

 つぶやくように言うと「ニュ」とクラウディアが返事をする。「嵐にならなきゃいいけど」と、ブラッドはクラウディアを抱き直してカーテンを閉めた。






「……本当に世話の焼ける人ですね」

「うるせーよ」

と、ブラッドはびしょぬれの格好で目を据わらせた。

 翌日の夕刻頃――。

 グランバールから帰る途中で大雨に襲われ、急いで帰ってきたものの、すでに濡れに濡れてしまった。出かけているイリアにお願いされてやってきていたセスは、玄関先に立つブラッドを見て深く息を吐き、丸みのあるお腹に目を向けた。

「……妊婦さんみたいですが?」

「お前のせいだろ」

 ブラッドはそう不愉快そうに答えてお腹を見下ろした。

「おい、クラウディア。出てこい」

「……クラウディア?」

 セスが首を傾げると、ブラッドは「ああ」と頷きながら濡れた服を引っ張った。

「名前付けたんだ」

「……そうですか」

「ほら、出てこいって」

 ブラッドが服をめくると、クラウディアはしっかりとブラッドのお腹にしがみついている。毛が濡れて、微かに震えているその身体を見てセスはため息を吐き、ブラッドに目を向けた。

「……服を脱いでください」

「……、へ?」

「……濡れた服は洗濯場へ。……クラウディアは乾かします」

「お、おお」

 ブラッドは濡れて重くなった服を脱いでいく。その間もしっかりとしがみついているクラウディアを見て、セスはやはりいつもと変わらぬ無表情で一息吐いた。

「……面倒のかかるペットですね」

「お前がくれたんだろ」

 ブラッドが上半身裸になって腕を広げると、セスは軽く、右手人差し指を振り上げた。風が吹き抜け、ブラッドは「っ……」と目を細め、風が止むと同時に目を開けた。濡れていた身体も髪の毛も、クラウディアの毛も乾燥済みだ。ブラッドは乾ききれていないズボンに気持ち悪さを感じながら、フルフルと毛を揺らすクラウディアを見下ろした。

「ほら、そこじゃ邪魔だろ」

 そう言うと、クラウディアは顔を上げ、「よいしょ、よいしょ」とブラッドの身体を登って頭の上に居着く。その様子をやはり無表情でじっと見ていたセスは、ブラッドに目を向けた。

「……すっかり懐きましたね」

「懐くのは早かったけど、独り立ちするのが遅い」

 ブラッドは答えながら脱いだ服を持って浴室に持って行き、そこでズボンも着替えて服を着てきた。

「イリアは? まだか?」

「……まだですね」

 セスは玄関の向こう、透視でもするように大雨が降っている外へと目を向けた。

「……この天気ですから、帰ってくるまで少々時間がかかるかもしれません」

「仕方ねえなあ……。あんまり長居すると、また大魔女と喧嘩するぞ」

「……可能性はありますね」

 セスは軽く息を吐いてブラッドを振り返った。

「……夜食の準備をしますから、くつろいでいてください」

「うん、わかった」

 ブラッドは素直に頷いて台所に向かうセスとすれ違い、広間に行って床に座ると「よいしょ」と頭の上のクラウディアを抱え床に置いた。クラウディアはブラッドを見上げて「だっこ」と言わんばかりに手を伸ばす。

「大切にしてるだろ? そろそろ心配するのはやめたらどうだ?」

 ぐりぐりと頭を撫でると、「ニュー」とクラウディアは不満げな声を出し、自らブラッドに近付いてきた。だが、ブラッドは頭を押してそれを制す。

「駄目だ。いつまでもべったりしてるわけにはいかないんだからな」

 厳しくしつけるが、「ニューン……」と、クラウディアは寂しげな声を出す。

 ブラッドは「ったく……」と、浴室から持ってきた自分の服をクラウディアの前に置いた。

「ほら、俺の服」

 クラウディアはクンクンと服の臭いを嗅ぐと、それを手にとって短い腕で抱きしめた。その姿がなぜかとても愛おしい――。

 その場にちょこんと座って洋服をじっと抱いているクラウディアにブラッドは「うっ……」と分が悪そうに息を詰まらせ、間を置いて深く息を吐き、洋服を取り上げて自分で抱いた。クラウディアは「ニューン」と嬉しそうな声を出してしっかりとブラッドにしがみつく。

「ホント、放っておけないやつだなあ……」

 ため息混じりに撫でると、クラウディアはクルクルと喉を鳴らす。

 ブラッドはクラウディアを抱いたまま立ち上がって台所へと足を向けた。いい匂いが漂ってきて、そこを覗くと、セスがのんびりと料理をしている。たまに手で、たまにギーナレスを使って。ブラッドは壁に寄りかかってその姿を見つめながら口を開いた。

「四大湖のカラナが全部消えたって?」

 そう問いかけると、セスは振り返ることなく「……そうですね」と答えた。

「……原因はよくわかりませんが……、けれど、カラナが消えたことで湖の水質が落ちてきていますし、このままでは生態系に悪影響が出ますから」

「カラナの伝説をイリアから聞いた。女の子が化けたんだって」

「……ええ、私も昔、聞いたことがあります」

「作り話かもしれないみたいだけど、本当だったら、自分からカラナになるなんてすごいヤツだな」

 感心気味に言いながらクラウディアの毛を撫でていたが、調理の手を止めたセスに気が付き、首を傾げた。

「どうした?」

「……、自分からカラナになった、とは?」

「そう聞いた。イリアが言ってた」

「……、そうですか……」

 セスはそう小さく返事をして再び調理を始める。何か知っているような空気を感じ、ブラッドは顔をしかめた。

「なんだよ? 違うのか?」

「……いいえ。なんでもありませんよ」

「なんかおかしい。絶対おかしい」

「……そうですね。では、そういうことで」

「って、納得いくか」

 と、ブラッドは目を据わらせが、セスはそんな彼は無視して、「退いてください」と、ブラッドの横にある食器棚の方を振り返り、手を挙げた。すると、勝手に食器棚の扉が開いてそこから二人分の食器が次々に出てきてテーブルに並ぶ。ブラッドは、「チェ」と舌を打って口を尖らせ、目の前の食卓に向かった、が、――ガシャンッ! と、いきなり食器の一枚が床に落ち、割れてしまった。驚いたブラッドは目を大きくして仰け反り、食器が砕けた床からセスに目を向けた。セスは無表情ながらも少し眉を寄せている。

「……どうしたんだよ? ギーナレス、失敗するなんてらしくないぞ」

「……」

「おい、セス?」

「……」

「……、セス?」

 呼びかけても返事がない。

 ブラッドは、無反応な彼女を見て顔をしかめ、近寄った。

「おい、どうした?」

 目の前で止まってセスの顔をじっと見つめ、彼女の視線の先で手を振った。

「おい、……おいセス?」

 心配げに顔を覗き込んでいると、ゆっくりとセスの目が動いた。まるで何かを確認するかのように辺りを見回し、ブラッドに目を向けた途端、訝しげな顔をした。そして――

「……、セス?」

 それは誰? と言わんばかりの彼女の一言に、ブラッドは眉間にしわを寄せ、戸惑いながらもセスの腕を掴んだ。

「何言ってんだよ、お前のことだろ」

「……、……」

 セスはブラッドに揺さぶられながらゆっくりと視線を動かした。明らかに様子のおかしいセスに、ブラッドは、「おい」と、真顔で彼女の顔を覗き込んだ。

「どうした、セスっ」

「……」

「セスっ……! ……俺がわかるかっ?」

 セスは真剣な表情のブラッドに目を向けると、少し眉を寄せ、口を開いた。だが、その口から漏れる言葉がブラッドにはわからなかった――。

 何を言っているのかさっぱりわからず、ブラッドは「……え?」と目を見開いた。

「……おい、……なんだよ? わ、わかんねえって」

「………………」

「……ちゃんとした言葉しゃべれよっ。何言ってるのかわからねえって!」

 焦ってセスの腕を強く掴むと、セスは、オロオロと視線を泳がすブラッドを真っ直ぐな目で見て、彼の頬に手を当て、強引に顔を近付けた。近距離で互いにじっと目を見つめ合う。ブラッドは混乱しながらもセスの目の奥を見つめた。

 ――そのまましばらく時間が経ち、セスがゆっくりと口を開いた。

「……落ち着いてください」

 彼女の言葉がわかって、ブラッドは軽く目を見開き、ホッとしたように肩の力を抜いてその場に座り込んだ。

「脅かすなよー……。本気でびっくりしただろー……」

 クラウディアを抱きしめながらぐったりと頭を落とす。情けない声を出す彼を見てセスはゆっくりと腰を下ろし、ブラッドの肩に手を置いた。

「……今一瞬、……ギーナレスが消えました」

 その言葉にブラッドは不思議そうな顔を上げた。

「消えた?」

「……はい」

「ギーナレスって……消えるのか?」

「……わかりません。……けど、確かに消えました。使えなかったんです」

 冷静に答える声とは裏腹に、彼女自身も少し戸惑っているのがわかり、ブラッドは顔をしかめた。

「だから言葉がわからなかったのか……」

「……そうですね」

「けど……お前、自分のこともわからなかったみたいだぞ?」

「……ええ。……そうですね」

 セスはそう小さく返事をして視線を斜め下に置き、訝しげな顔をしているブラッドに目を戻した。

「……嫌な予感がします。……あなたはここにいてください」

 制して立ち上がるセスを見上げていたブラッドもすぐに腰を上げ、玄関に向かう背中を追った。

「待てよ! ここにいろって言ったって!」

「……ブラッド」

 セスは足を止めて真顔でブラッドを振り返った。

「……状況は刻一刻と悪化しています、それはあなたにもわかるでしょう?」

「だから!」

「だから、じっとしていてください」

 真剣で真っ直ぐな瞳に、ブラッドはうろたえながらも拳を作った。

「そんなこと言われたって!」

「……怖がってますよ」

 ゆっくりと視線を向けるセスの目を追うと、クラウディアがしっかりとブラッドにしがみついて縮こまっている。

 ブラッドはクラウディアの毛を撫でながら、焦りを露わにセスを窺った。

「このままじっとしてるわけにもいかないだろっ。……お前、変になってたんだぞっ?」

「……私はまだ大丈夫。……あなたと長くいたからでしょうか」

 セスは冷静に首を振って、玄関のドアノブに手をやった。

「……問題は……“それ以外”の人たち」

 そう答えてドアを開けると、開け放たれた視界の向こう、それを見てブラッドは顔をしかめ、唖然とした。

 雨が降っているのに、みんなが表に出てなにやら騒いでいる。ブラッドには全く言葉がわからない。口々に何かを言い、慌てているようだ――。

「……どうしたんだ?」

 ブラッドが呟くと、村人たちが彼に気が付いて駆け寄ってきた。戸惑いを含める者もいれば、不愉快さを滲ませる者もいる。だが、やはりブラッドには何を言っているのかわからない。

 セスはみんなを見回し、彼らの言葉を聞きながら困惑しているブラッドに首を振った。

「……ギーナレスが完全に失われたようです」

 ブラッドは顔をしかめた。

「どういうことだ?」

「……わかりませんが……」

 セスは言葉を切って顔を上げた。――遠くからウェインが息を切らし走ってくる。そしてみんなが集まるそこに辿り着くとゼエゼエと息を切らしつつ戸惑いを露わに腕を大きく広げた。

「なんてこった!! こりゃいったいどういうことだよ、ええ!?」

 ウェインの言葉はわかり、ブラッドは目を見開いて身を乗り出した。

「ウェイン!! ウェインの言ってることはわかる!!」

「ホ、ホントか!?」

 ウェインは目を見開き、傍に近寄った。ほかの村人たちはガックリと肩を落とす。

 セスは深く息を吐いた。

「……どうやら……ブラッドと身近にいた者には微かにギーナレスが残っているようですね。なんらかの抵抗力でしょうか……」

 ブラッドは「……え?」と表情を消して村人たちに目を向けた。

「みんな……、ホントにギーナレスが使えなくなったのか?」

 不安げな声に村人たちは目を見合わせ、そして何も答えられずに視線を落とす。

 ウェインは舌を打って目を泳がせながら腰に手を置いた。

「こりゃやばいぞ……」

「……ええ。そうですね」

 相槌を打つ二人に「なにが?」とブラッドが顔をしかめると、ウェインは真顔で腕を組み、ため息を吐いた。

「ギーナレスが使えないのは、命取りってことだ」

「……、なんで?」

「お前は元々使えないから気にもならねえだろうが、俺たちはギーナレスに頼って生きてきた。何もかもがギーナレス中心だったんだぞ? ……それが使えなくなってみろよ。俺やセスはお前の相手をしてきたからな、ギーナレスが使えなくてもまだマシな方だ。……けどよ、みんなはそうもいかねえ」

 ウェインは力無く肩を落とす村人たちを深刻げに見回した。

「お前みたいに体力はねえし、知恵もねえし。治癒も使えねえんじゃ病気にかかったらどうする? ちょっと遠出しただけでも心臓が飛び出しそうになる連中ばっかりだぜ? 掃除だって料理だって、何から何までギーナレス使ってたのによ。……一人じゃ何もできねえんだよ」

 ため息混じりに首を振るウェインに、ブラッドは戸惑うような目でみんなを見回した。

 ――確かにそうだ。彼らはギーナレスをなくしてしまえば子ども、いや、それ以下だ。

 セスは、段々と日が沈んでくる空を見上げて目を細めた。

「……無事に帰ってこれるといいんですが……」

 そう呟いたセスの言葉の意味を咄嗟に理解したブラッドは、目を見開いてウェインにすがりよった。

「イリアは!? イリアがまだ帰ってきてない!!」

 胸の服を掴んで焦り見上げるブラッドに、ウェインも気がかりなのか、「……ああ」と頷いて、真剣な表情で遠くを見た。

「まだ大魔女様のところにいれば……」

「……、俺、探してくる!!」

 すぐに走り出そうとしたが、セスに腕を掴まれて踏み出した足を止めた。村人たちが戸惑う中、ブラッドは困惑げに、いつものように無表情な彼女を振り返った。

「なんだよ!?」

「……危険です。やめなさい」

「そんなこと言っても!! ……もしどっかに“落ちて”たら!!」

「……大丈夫。……イリアはあれで、大魔女に次ぐギーナレスの使い手ですよ。……この異変も察知しているはずですから」

「けど……!」

 落ち着かずにウロウロと目を泳がすブラッドの肩にウェインはため息混じりに手を置いた。

「とにかくしばらく様子を見るんだ。……俺たちも迂闊には動けない」

 ブラッドは不服そうに顔を歪めていたが、セスに何かを告げられて不安を露わに顔を見合わせる村人たちを視界の隅に捉えると、あまり大騒ぎも出来ず。

 雨の中、肩を落として家に戻っていくみんなの背中を見送って、クラウディアを抱きしめて悲しげに視線を落とし俯くブラッドに、ウェインは「さあ」と、背を押してイリアの家の中に入った――。

「……いったい何がどうなってるんだろうな」

 広間に来ると、ウェインは力なく床に寝転がり、セスは雨粒が打つ腰窓の外を見つめ、ブラッドは壁にもたれて座り込んでちょろちょろと体の上を徘徊するクラウディアにされるがまま。

 ウェインは深く息を吐いて、ゴロンと仰向けに転がり天井を見つめた。

「カラナといい、ギーナレスといい。……次は何が起こるんだ」

「……次に消えるとしたら、私たちでしょう」

 セスの静かな声にウェインは「おいおい!」と上半身を軽く上げて訝しげに彼女を睨んだ。

「恐ろしいことを簡単に言ってくれるなよ!」

「……けれど、それが現実じゃありませんか?」

 セスはゆっくりと、いつものような無表情さでウェインを振り返った。

「……次に消えるものがあるなら、それはどんなものであれ命に関わるもの。……ギーナレスがなくなり、すでに私たちの中の半分は失われたも同然なんですから」

「そりゃ……そうだがよ」

 ウェインは納得いかなげに床に体を預けて、口を尖らせつつ天井を見つめた。

「だからって、このままって訳にもいかねえだろ」

「……そうですね。……このままじっとしているつもりはありません。……けれど、状況が飲み込めない今は」

「俺、大魔女のとこに行く」

 クラウディアの行動を見つめながら、セスの言葉を遮って告げるブラッドに、ウェインは深く息を吐いた。

「行くって言ったってなあ……。大魔女様のところまで、どれだけ距離があると思ってるんだ?」

「俺なら行ける。どうってことない」

「そう言われても、お前を一人で行かせるわけにはいかんだろ」

 ウェインはそう答えて身体を起こし、背中を丸めて深く息を吐いた。

「お前に何かあった日にゃあ、それこそイリアに殺される」

「でも……、行かなくちゃ……」

言葉を細めて不安げに視線を落とす。そんなブラッドの前に降り立って「ニューン……」とあぐらを掻く足に手を置き、「大丈夫?」と顔を見上げるクラウディアに、ブラッドは少し笑みをこぼした。

「……ああ、心配するな」

 そう答えて頭を撫でると、クラウディアはクルクルと喉を鳴らして膝の上に乗ってくる。ブラッドは毛を指先で撫でながらウェインに目を移した。

「ギーナレスが使えないんじゃみんなは動けないし。そうなったら、何やるにしても俺しかいないだろ?」

「そりゃまあ、そうだが……」

「いいよそれくらい。すぐ大魔女のトコに行ってさ、現状聞いて、んで、またこっちに戻ってくるよ。イリアの無事も確認したいし」

「そう言ってもなあ……」

 ウェインが浮かない表情で腕を組むと、じっと窺っていたセスは間を置いて深く息を吐いた。

「……私も同行しましょう」

 冷静な声にブラッドは振り返り、顔をしかめた。

「ギーナレス使えないんじゃ、疲れるだけだぞ?」

「……3420戦全勝しているおかげでしょうか。体力には多少なりと自信はあります」

 静かに貶されてブラッドは目を据わらせる。

 ウェインは、「……はぁ」と、肩の力を抜いてため息を吐いた。

「仕方ねえなあ……。お前らが行くんじゃ、俺もじっとしてるわけにはいかんだろ」

 ブラッドが少しキョトンとした表情を見せると、ウェインは苦笑して首を振った。

「足手まといにならないようにするぜ。俺も今後のことが気にかかるしな」

 ブラッドは「……うん」と頷き、見上げるクラウディアに目を移した。

「お前も行くか? ……って、連れて行かないと寂しがるもんな」

「ニュ」

 と、“即答”するクラウディアに、ブラッドは苦笑して頭を撫でた。






『どうしたの?』

『……』

『……、水が怖いの?』

『……、……』

『……。そうね。溺れた上にカラナに出くわしたんじゃ、水に近付きたくはないわよね』

『……。……違う』

『え?』

『……、ボク……、……父様に……、……』

『……、ブラッド?』

『……』

『……いいのよ、無理に話す必要はないから』

『……、ボク……、……ここにずっといるの?』

『そうね……。どうかしらね……』

『……』

『帰りたい?』

『……、うん。……でも……。……ボク、悪い子だから……』

『……ブラッド。あなたがここに来たのにはきっと何か理由があるの。……みんなは不安がって、あなたのことを悪い子だって言うけれど、そんなことはない。……悪い子で生まれてくる子どもなんて、どこにもいないのよ』

『……』

『あなたがどうしてここに来たのか、その理由がわかるまで、あなたの傍には私がいるから』

『……、ホント、に……?』

『本当よ。大丈夫。あなたのことは私が護ってあげる。だから、いい? ……あなたも私のことを信じてね?』

 ――ブラッドはゆっくりと目を覚ました。カーテンから微かな光が入ってきて、朝を迎えたんだと理解しつつ身体を起こす。枕元に眠っていたクラウディアも目を覚まし、ヨロヨロとブラッドの膝に乗ってきた。

 ブラッドは、ぼんやりと遠くを見つめながらクラウディアの頭を撫でた。

 ……古い夢を見た。もう十年も前のこと。ここに来た当時のこと。……忘れていたこと。今頃思い出すなんて――。

 ブラッドは深く息を吐いて目を閉じた。

 理由、か……。考えたこともなかったな……。




 昨夜の雨が嘘のように上がり、朝焼けが広がる綺麗な空を見上げた。もしかしたら、何もかもが夢のようになくなっているんじゃ? と思っていたが……出てきた村人たちの様子からして、やはり、ギーナレスは使えないようだ。みんな、疲れ切った顔をしている。

 セスとウェインの説明で、大魔女の元に行くと告げた。その見送りでみんなが出てきている。彼らもわかっているのだろう。ギーナレスが使えない今、ブラッドが唯一の頼みの綱だと。

 いろいろと声をかけてもらうが、ブラッドには言っていることが何一つわからず、戸惑いながらも、それでも笑顔を向けた。

「すぐに戻ってくるよ。大魔女から話しを聞いてくるから」

 そう答えて。

 ――ほんの前とは大違いだ。村のみんなから嫌われて、除け者扱いされていたのに、テラスタを迎え、それから確実に交流が増え、今では“本当の仲間”のように見てくれる。ブラッドも、彼らのことをこのまま放っておきたくはないという気持ちが強かった。

「荷物はこれだけで充分だろう」

 ドサッ、と、大きな革鞄に物をいっぱい詰めて、ウェインが地面に下ろす。それを見たブラッドは顔をしかめた。

「そんなにたくさんの荷物、どうするんだよ」

「どうって……。まさか半日で大魔女様の所には着かないだろ? どこかで寝泊まりしなくちゃいけないから、毛布とか着替えとか食料とか食器とか」

 指折り数えて準備してきたものを告げるウェインに、ブラッドはため息を吐いた。

「そんなのいらないって」

 呆れるように首を振るが、ウェインは不可解げに眉を寄せた。

「いらないって言ったってな、夜は寒くなるし、飯も取らないといけないし」

「食べ物と強い紐があれば充分だよ」

 サラリと交わされ、ウェインは「たったそれだけか!?」と唖然とする。

「……準備はできましたか?」

 セスが手ぶらでやってくると、ウェインは「……こいつら大丈夫なのか?」と、一人、不安に陥りながら荷物を選びまとめる。

 ブラッドは、背中の鞄の中で眠っているクラウディアが起きないように「ああ」と頷いた。

「……途中でキュラレラに立ち寄りましょうか。ヴィヴィールが何かを知っているかもしれませんから」

 冷静なセスの言葉を聞いて、ウェインが嬉しそうに目を見開いた。

「キュラレラ!? うおー! 久しぶりだぜ!!」

 満面の笑みを浮かべるウェインに、ブラッドは顔をしかめた。

「キュラレラって……聖なる妖精が住んでるって所だろ? 何が嬉しいんだ?」

「フッ、お前にはまだちょーっと早い」

 ウェインが鼻で笑いあしらうと、

「……ヴィヴィールにも、人を選ぶ権利はあります」

 と、セスがいつものように無表情で告げ、「うるせえ」と、ウェインは目を据わらせた。

 ブラッドは首を傾げつつ、気を取り直して村人たちを見回した。

「すぐ帰ってくるからさ、まあ……待っててくれよ」

 小さく笑みを浮かべて言うと、セスがそれを訳する。村人たちは笑顔で頷き、そして、その中の一人がブラッドに何かを差し出し渡した。

 ――布に包まれた長くて重いもの。

 ブラッドは、「なんだ?」と首を傾げつつ受け取って、布をめくり、中身を見た。

「……、これっ……」

 ブラッドは少し目を見開き、手に掴んで持った。

 ――剣だ。

 綺麗な石の宝飾がされた黄金色の鞘、そして、そこから引き抜いてみた剣は銀色に輝いている。

 ブラッドは、その重さにも驚いたが、こんなものがここにあることにも驚き、みんなを見回した。

「こんなもの、いったい……」

 唖然とするブラッドに代わってセスが訊くと、誰かが身振り素振りで話しをする。そして、間を置いてセスがブラッドに教えた。

「……太古の武器だったそうです」

「……、太古の?」

「……今ではギーナレスがありますが、その昔はまだそのような武器を使っていたそうです。ほとんど見かけることはありませんが……、あなたがよく、木の棒を振りかざして遊んでいるのを見て、それで、いつかあなたに贈ろうと、そう思っていたらしいです。あなたなら、これを使いこなせるんじゃないかって。……カラナに出くわしても、これで命を失うことはないだろうって」

 セスの言葉を聞いて、ブラッドは照れくさそうにしているみんなを見回した。

 まさか、そんな風に思っていたなんて――

 素っ気なくしながらも、自分のことを見てくれていたんだ……。そう思うとジンと鼻の奥が痛くなり、少し目に涙を浮かべ、剣を鞘に収めながら鼻を軽くすすると笑顔で「ありがとう」と礼を告げた。

「俺、大事に使うよ。……うん、大事にする」

 微笑み言いながら、剣を巻いていた布を伸ばし、それで腰に帯刀する。ギュッときつく絞めて剣がずれないことを確認すると、ブラッドは「……よし」とウェインとセスを見た。

「じゃあ……行こうか」

「おう」

 鞄を抱えたウェインが歩き出してセスがついて行く。ブラッドもみんなに「行ってきます」と笑顔で告げて歩き出した。背後で手を振る彼らの、言っていることのわからない言葉を耳に留めながら――。











 ブラッドは、青空の中で流れる雲をぼんやりと目で追いかけた。その傍では、“大の字”のブラッドの頭に右膝を占領されたジョージが木を背もたれにして本を読んでいる。

 ――涼しい風が吹き、木の葉がはらりと舞い落ち、無口ながらも穏やかな時間が過ぎていた。

 ブラッドは空をじっと見つめていたが、目を細め、ゆっくりと瞬きをした。

「……なあ、ジョージ……」

 不意に声をかけられ、ジョージは本からブラッドに目を向けた。だが、彼は目を見合わすことなく、空をじっと見つめている。

「ここをどうにかしようって、そう思ったとき、……どうだった?」

「……どうとは?」

「……クレア、……辛そうだった?」

 静かな問いかけに、ジョージは間を置いて小さく笑みをこぼした。

「……クレア様は、その先に幸せが待っているという、その希望があれば、どんなことをも笑顔で乗り切ろうとする意志が強かったですからね。悪く言えば、それが弱さでしたが……、しかし、わたしたちもお傍に仕えておりましたし……。旅路でも、笑顔は絶えませんでしたよ」

「あいつらしいな」

 ブラッドは少し笑みを浮かべると、「……そうか」と、安堵のため息を吐いた。

「なら、いいんだ……」

「……とは?」

「ん? いや、ほら……さ。最初から最後まで辛かったら、嫌になるだろうなって。……こんな世の中なんか、見切り付けるんじゃないかな、って……」

「……そうですね。……けれど、クレア様の場合は楽しかったことを覚えていますからね。……この世界がすばらしいことをよく承知していますから」

「……、そうだな」

「……あなたはどうですか?」

 問われたブラッドは「え?」と目を見開いて、ようやくジョージを見た。ジョージはいつもと変わらぬ、穏やかな目をしている――。

「……あなたはさぞ、辛い思いをされたことでしょう。……あなたを見ていると、時折、何か思い悩んでいるようにも見えます」

 優しく言うジョージにブラッドは表情を消すが、すぐに「そうかな?」と笑みをこぼした。

「国務で忙しいから、ちょっと頭がボーっとしてしまうんだよ」

「……、そうですか……」

 ジョージはしばらく言葉を切り、しかし、それ以上問い詰めることも、深く詮索することもなく、手を伸ばしてブラッドの髪を指先で優しく解いた。

「……重い気持ちは心に留めず、打ち明けてください。……苦しみを分かつため、わたしはいるのですから」

 優しい声と同時に髪を解かれながら、ブラッドは「……ああ」と小さく返事をした。

 心地のいい時間だった……――。

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