そしてもう一度、おいしいと
母が亡くなった朝、台所だけが、いつも通りの顔をしていた。
シンクには、昨夜洗った茶碗が伏せてあった。まな板は壁に立てかけられ、布巾は蛇口の横に小さくたたまれている。窓から入る朝の光は薄く、白く、台所の床に四角く落ちていた。
母がもういないことだけが、そこから抜け落ちていた。
私は食卓の椅子に座ったまま、しばらく動けずにいた。
夜のうちに病院へ運ばれ、夜明け前に母は息を引き取った。医師の言葉も、看護師の声も、親戚にかけた電話の内容も、どこか遠くの部屋で聞いているようだった。
やることは山ほどあった。
葬儀社への連絡。親戚への報告。夫への相談。娘の朝ごはん。
それなのに、手が動かなかった。
台所には、昨夜の匂いがまだ残っていた。炊きたてのご飯の湯気。少し焦げた海苔。母が握ったおにぎりの、塩の匂い。
その匂いを吸い込んだ瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
「……おばあちゃん」
声に出したつもりはなかった。
けれど、自分の声が耳に届いた。
その呼び方が、母のことなのか、母の母のことなのか、私にもわからなかった。
冷蔵庫の扉が、小さく開く音がした。
振り向くと、三歳の娘が背伸びをしていた。寝ぐせのついた髪を揺らし、パジャマの裾を片手で握りながら、冷蔵庫の中をのぞき込んでいる。
「みお、なにしてるの」
声がかすれた。
娘は私を振り返らずに、両手で何かを取り出した。
ラップに包まれた、小さなおにぎりだった。
昨夜、母が握ったものだ。
私は立ち上がろうとした。けれど、椅子の脚が床をこすっただけで、身体はそこから動かなかった。
娘はおにぎりを皿にのせ、電子レンジの前に立った。まだボタンの意味などわからないはずだった。けれど、彼女は小さな指で迷わず押した。
ぴ、と音が鳴る。
私は何も言えず、その背中を見ていた。
母が教えたのだろうか。
昨日の昼間、私が洗濯物を取り込んでいる間に。あるいはもっと前から、娘は大人たちの手元を見て覚えていたのかもしれない。
電子レンジの中で、皿がゆっくり回る。
その小さな回転を見ていたら、私の時間まで一緒に巻き戻っていくような気がした。
あたたまったおにぎりを、娘は慎重に取り出した。熱かったのか、指先を少し引っ込める。それでも落とさないように両手で皿を持ち、私のところまで歩いてきた。
「はい、ママ」
食卓に皿が置かれた。
白い湯気が、かすかに立っていた。
娘はにこっと笑った。
「たーんとおたべ!」
その言葉を聞いた瞬間、私はもう前が見えなかった。
それは、祖母の言葉だった。
母の言葉だった。
そして、いつの間にか私の言葉にもなっていた。
私がいちばん最初にその言葉を聞いたのは、祖母の台所だった。
祖母の家は、古い木造の平屋だった。玄関を開けると、畳と煮物の匂いがした。廊下は冬になるとひどく冷たく、私は靴下のまま、つま先立ちで台所まで走った。
「こらこら、転ぶよ」
祖母はいつもそう言って笑った。
台所に立つ祖母の背中は、私にとって山のように大きかった。背は高くなかったはずなのに、幼い私には、祖母の背中が世界の壁のように見えた。
炊飯器が開くと、湯気がふわっと上がる。
祖母は手に水をつけ、指先に塩をのせる。それから、熱々のご飯を手のひらに受けた。
「熱くないの?」
私が聞くと、祖母は笑った。
「熱いよ。でもね、熱いうちに握ったほうが、おいしいんだよ」
祖母の手は、しわが多かった。指の節は少し太く、爪は短く切られていた。その手が、ご飯を包む。力を入れすぎず、でも崩れないように、ゆっくり形を作る。
丸くもなく、三角すぎもない。
祖母のおにぎりは、いつも少しだけ不格好だった。
けれど、私にはそれが一番きれいに見えた。
「はい」
祖母は小皿におにぎりをのせ、私の前に置く。
「たーんとおたべ」
私は両手で持って、かぶりついた。
やわらかかった。
口の中で、ほろりとほどける。ご飯の甘みの後に、ほんの少しだけ塩が来る。強すぎない。足りないわけでもない。舌の上で、ああ、おいしい、と思うところにぴったり届く塩加減だった。
「おいしい」
私が言うと、祖母は目を細めた。
「そうかい。よかったねえ」
「もう一個」
「あらあら」
「だめ?」
「だめじゃないよ。たーんとおたべ」
その言葉は、私にとって布団のようだった。
やわらかく、あたたかく、すっぽり包んでくれる。
私は祖母の家が好きだった。
母が仕事で遅くなる日は、祖母の家で夕方まで過ごした。幼稚園のかばんを畳の上に放り投げ、台所の椅子に座って足をぶらぶらさせる。祖母はそんな私を叱りながらも、必ず何か食べるものを出してくれた。
おにぎりの日もあれば、味噌汁の日もあった。切っただけのりんごの日もあった。
でも、私が一番好きだったのは、おにぎりだった。
祖母のおにぎりを食べていると、世界には怖いものがないような気がした。
母が遅くなっても、夜が近づいても、外で風が鳴っても、祖母がいる。祖母の手がある。祖母のおにぎりがある。
だから大丈夫だと思えた。
その祖母が亡くなったのは、私が小学校に上がってしばらくしたころだった。
葬儀のことは、ところどころしか覚えていない。
黒い服。白い花。線香の匂い。大人たちの小さな声。母の横顔。
母は泣いていなかった。
少なくとも、私の前では。
私はそれを見て、どうして泣かないのだろうと思った。
祖母がいなくなってから、私は母のおにぎりを食べるようになった。
母は朝早くから働きに出ていた。帰りも遅かった。私が学校から戻ると、テーブルの上にラップで包まれたおにぎりが置いてある日があった。
メモも一緒に置いてあった。
『レンジで温めて食べてね』
母の字は細く、急いで書いたように少し右へ流れていた。
私はその字を見るたびに、少しだけ寂しくなった。
ラップを外すと、おにぎりは冷たかった。
母の手で握られたはずなのに、そこには手の温度が残っていなかった。電子レンジで温めても、どこか芯が固い。ご飯粒がぎゅっと押しつぶされていて、口の中でほどけるというより、噛んでほどく感じだった。
塩も少し強かった。
舌の上に、先に塩が来る。
私は水を飲みながら、それを食べた。
食べながら、祖母のおにぎりを思い出した。
やわらかくて、あたたかくて、少しだけ塩味がして、祖母が目の前で笑っているおにぎり。
母のおにぎりは、違った。
硬くて、冷たくて、塩辛かった。
それでも私は、残さず食べた。
母が帰ってくるころには、私は布団に入っていることも多かった。玄関の鍵が開く音。小さくため息をつく声。水道をひねる音。冷蔵庫を開ける音。
私は眠ったふりをしながら、それを聞いていた。
本当は「おかえり」と言いたかった。
でも、起きていると母が困るような気がした。
母はいつも疲れていた。
眉間にしわを寄せ、肩を少し丸めていた。私が話しかけると、ちゃんと返事はしてくれる。宿題も見てくれる。学校で必要なものも忘れずに用意してくれる。
けれど、母の周りにはいつも急いでいる空気があった。
「明日、図工で牛乳パックがいる」
「え、明日?」
「うん」
「もう。そういうのは早く言いなさい」
怒鳴るわけではない。
でも、その声には余裕がなかった。
私は小さく「ごめんなさい」と言う。母は引き出しやごみ箱を探し、どうにか空の牛乳パックを見つけて洗ってくれる。
私はそれを受け取りながら、ありがとうと言えないことが多かった。
言わなければいけないのはわかっていた。
でも、言う前に胸の中で何かが固くなった。
どうしてもっと早く帰ってきてくれないの。
どうして祖母みたいに笑ってくれないの。
どうして私のおにぎりは、いつも冷たいの。
その言葉たちは、口には出なかった。
代わりに、沈黙だけが部屋に残った。
母と私の間には、そういう沈黙が少しずつ積もっていった。
中学生になり、高校生になり、私は家で食事をする時間が減った。友達と寄り道をしたり、部活で遅くなったり、受験勉強を言い訳に自分の部屋へこもったりした。
母は変わらず働いていた。
朝には弁当を作り、夜には洗濯機を回し、休日にはスーパーの袋を両手に下げて帰ってきた。
その背中を見るたびに、私は少しだけ苦しくなった。
でも、何を話せばいいのかわからなかった。
祖母の話をすると、母がどんな顔をするのか怖かった。
母のおにぎりが祖母の味と違うと言ったら、母を傷つけるような気がした。
そうして私は、何も言わないまま大人になった。
就職し、家を出て、結婚した。
母は式の日も泣かなかった。
白いハンカチを持っていたけれど、それを目元に当てることはなかった。ただ、私が夫と並んで頭を下げたとき、ほんの少しだけ唇を噛んでいた。
「幸せになりなさい」
控室で、母はそう言った。
「うん」
私はそれだけ答えた。
ありがとう、とは言えなかった。
母はそれ以上何も言わず、私の髪に少し触れた。
その手は思っていたより小さかった。
私が娘を妊娠したとき、母は何度も電話をかけてきた。
「体調はどう?」
「大丈夫」
「ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ」
「無理しちゃだめよ」
「わかってる」
短いやり取りばかりだった。
母は手伝いに行こうかと言ってくれた。私は最初、断った。大丈夫だから、と答えた。
本当は、大丈夫ではなかった。
つわりは長く続き、食べられるものが少なくなった。夫はできる限り手伝ってくれたけれど、仕事もあった。昼間、ひとりで部屋にいると、急に不安に襲われることがあった。
お腹の中に命がいる。
そのことがうれしいはずなのに、ときどき怖かった。
私はちゃんと母になれるのだろうか。
おにぎりひとつ、やわらかく握れなかったらどうしよう。
そんなことまで考えた。
ある朝、起き上がれずにソファで横になっていると、チャイムが鳴った。
玄関を開けると、母が立っていた。
片手に紙袋。もう片方の手に、スーパーの袋。いつものように急いだ顔ではなく、少しだけ困ったような顔をしていた。
「来ちゃった」
母は言った。
「来ちゃったって」
「迷惑なら帰るけど」
「……迷惑じゃない」
私がそう言うと、母はほっとしたように笑った。
その笑い方が、祖母に少し似ていた。
母は台所に立った。
冷蔵庫の中を見て、野菜を切り、味噌汁を作り、ご飯を炊いた。私はソファに横になったまま、包丁の音を聞いていた。
とん、とん、とん。
その音が、子どものころの祖母の台所と重なった。
しばらくして、母が皿を持ってきた。
「食べられそうなら、少しだけ」
皿の上には、おにぎりが二つ乗っていた。
私は起き上がった。
白いご飯に、海苔は巻かれていない。具も入っていない。小さめに握られた塩むすびだった。
手に取ると、あたたかかった。
私は一口食べた。
やわらかかった。
ご飯が口の中でほどけた。塩は強すぎず、弱すぎず、舌の上で静かに広がった。
祖母の味に似ていた。
あまりにも似ていて、私は咀嚼することを忘れそうになった。
「どう?」
母が聞いた。
「……おいしい」
それだけ言うのが精一杯だった。
その瞬間、お腹の内側で、ぽこん、と小さな感触があった。
私は思わずお腹に手を当てた。
「動いた?」
母が身を乗り出す。
「うん。今、蹴った」
「そう」
母は嬉しそうに目を細めた。
「この子も食べたいのかもしれないね」
私は笑った。
久しぶりに、母の前で自然に笑った気がした。
その日、母は夕方までいてくれた。洗濯物をたたみ、台所を片づけ、冷蔵庫に作り置きを入れてくれた。
帰る前、母は玄関で靴を履きながら言った。
「今まで、ちゃんと看てあげられなくてごめんね」
私は息を止めた。
母の背中は、小さかった。
昔はあんなに大きく見えたのに、玄関の明かりの下に立つ母は、年を取った普通の女の人だった。
「お母さん、仕事ばかりだったから」
母は続けた。
「寂しかったよね」
言葉が喉まで来た。
そんなことないよ。
忙しかったの、知ってるよ。
育ててくれて、ありがとう。
おにぎり、今日の、おいしかった。
言いたいことはいくつもあった。
けれど、どれも口から出てこなかった。
胸の中で、昔の私が泣いていた。
祖母のおにぎりが恋しかった私。母のおにぎりを冷たいと思っていた私。夜、玄関の音を聞きながら眠ったふりをしていた私。
その子を置き去りにしたまま、今の私だけが「ありがとう」と言うことは、どうしてもできなかった。
「……うん」
私は、それだけ言った。
母は少しだけ笑った。
「また来るね」
「うん」
扉が閉まった。
鍵の音がして、廊下に母の足音が遠ざかっていった。
私は玄関に立ったまま、しばらく動けなかった。
それから、ゆっくりしゃがみこんだ。
声を出さないように泣いた。
どうして言えなかったのだろう。
ありがとう、と。
ただそれだけの言葉が、どうして言えなかったのだろう。
娘が生まれたのは、春の終わりだった。
小さくて、赤くて、泣き声だけは驚くほど大きかった。胸に抱かせてもらったとき、私はその軽さに震えた。
こんなに小さな命を、これから私は守っていくのだ。
母は病院に来て、娘を抱いた。
「美緒ちゃん」
名前を呼ぶ声がやわらかかった。
母は娘の頬を指先でそっと撫でた。
「よく生まれてきたね」
その声を聞いて、私はまた泣きそうになった。
けれど、そのときもまだ、ありがとうとは言えなかった。
娘が二歳になるころ、私はよくおにぎりを握るようになった。
小さな手で持てるように、少し小さめに。崩れないように、でも硬くならないように。塩をつけすぎないように、でも味がぼやけないように。
最初はうまくいかなかった。
柔らかく握ると崩れた。崩れないように握ると硬くなった。塩を控えると物足りなくなり、少し増やすと強くなった。
私は何度も作った。
祖母の味を思い出しながら。
妊娠中に母が握ってくれた味を思い出しながら。
美緒は食卓の椅子に座り、足をぶらぶらさせて待っていた。まだ言葉は少し舌足らずで、何を言っても丸く聞こえた。
「できたよ」
皿を置くと、美緒は目を輝かせた。
「おにいり!」
「おにぎりね」
「おにぎり!」
両手で持たせると、美緒は小さな口をいっぱいに開けた。
「たーんとおたべ」
私は自然にそう言った。
言ってから、自分で少し驚いた。
祖母の声が、自分の口から出たような気がした。
「いたらきます!」
美緒は元気に言って、おにぎりにかぶりついた。
ご飯粒が頬につく。
「おいしい?」
私が聞くと、美緒は口をもぐもぐさせながら、何度もうなずいた。
「おいしい!」
その顔を見て、胸の奥があたたかくなった。
私はこの子に、世界はあたたかいのだと知ってほしかった。
もちろん、世界がいつも優しいわけではないことは知っている。冷たい日もある。硬い日もある。塩辛くて、水を飲まなければ飲み込めない日もある。
それでも、どこかに帰れる場所がある。
小さな手で持てるぬくもりがある。
おいしいと言えば、笑ってくれる人がいる。
そういう世界を、まず渡したかった。
美緒が三歳になったころ、母が倒れた。
最初は軽いめまいだと聞いていた。けれど検査が続き、入院になり、病名がついた。
医師の説明を聞きながら、私は理解しているふりをした。
治療。経過観察。再発の可能性。体力の低下。
言葉は頭に入った。
でも、母がいなくなるかもしれないということだけが、どうしても現実として飲み込めなかった。
母はしばらく入院したあと、家で過ごすことになった。
私たちの家に来ないかと提案したのは夫だった。
「そのほうが、君も安心だろ」
私はうなずいた。
母は最初、遠慮した。
「迷惑かけるから」
「迷惑じゃない」
「でも、美緒ちゃんもいるし」
「美緒も喜ぶよ」
実際、美緒は大喜びだった。
「おばあちゃん、いっしょ?」
「そうだよ」
「ずっと?」
「しばらくね」
「やったあ」
母はその声を聞いて笑った。
病気になってから、母の身体は目に見えて細くなった。歩くのもゆっくりになり、階段を上るだけで息が切れた。手の甲には血管が浮き、指先の力も弱くなっていた。
それでも母は、できることを探した。
洗濯物をたたもうとする。美緒の絵本を読もうとする。私が台所に立つと、椅子に座ったまま「それ、火を少し弱めたほうがいいよ」と言う。
「休んでて」
私が言うと、母は苦笑した。
「休んでばかりだと、よけいに病人になるから」
「病人なんだから、休んでよ」
「それもそうね」
そんなやり取りをしながら、日々は過ぎていった。
母と一緒に暮らすのは、私が家を出て以来だった。
最初はぎこちなかった。
同じ台所に立つと、どちらが何をするのか迷う。洗剤の置き場所ひとつで、母は「こっちのほうが使いやすいのに」と言い、私は「ここでいいの」と返す。
けれど、美緒が間に入ると、空気はすぐにほどけた。
「おばあちゃん、みて!」
「上手に描けたねえ」
「これはママ」
「あら、ママ美人ね」
「これはおばあちゃん」
「まあ、髪の毛が三本しかない」
「あるよ! ここ!」
母はよく笑うようになった。
私も、母の笑い声をこんなに近くで聞いたのは久しぶりだった。
ある日の夕方、私は買い物から帰ってきて、玄関で靴を脱ぎながら異変に気づいた。
台所から、炊きたてのご飯の匂いがした。
「お母さん?」
慌てて台所へ行くと、母が立っていた。
椅子に片手をつき、もう片方の手で炊飯器の内釜を押さえている。顔色はよくなかった。額にはうっすら汗が浮いていた。
「何してるの」
私の声は思ったより強くなった。
母は振り返った。
「おにぎり」
「そんな身体で」
「大丈夫。座りながらやるから」
「大丈夫じゃないでしょ」
「大丈夫よ」
母は静かに言った。
「あなたたちに、おにぎりを作ってあげてるんだよ」
私は言葉を失った。
母は椅子に座り、ゆっくり手に水をつけた。指先に塩をのせる。炊きたてのご飯を手に取ると、少し顔をしかめた。
「熱いでしょ」
「熱いね」
「やめて。私がやるから」
「いいの」
母は首を横に振った。
「今日は、私が握りたいの」
その声には、昔のような急いだ響きはなかった。
強くもなかった。
けれど、拒めない静けさがあった。
私は黙って、母の隣に立った。
母の手は、祖母の手に似ていた。
しわが増え、指の節が少し太くなり、爪は短く切られている。その手が、ご飯を包む。力を入れすぎず、でも崩れないように、ゆっくり形を作る。
私は息を止めるように見ていた。
小さな頃、祖母の手元を見ていた私と同じように。
「ママ、おなかすいた!」
美緒が走ってきた。
私ははっとして、食器棚から娘の皿を出した。
「ちょっと待ってね」
「もう食べたい!」
「熱いから」
「ふーふーする!」
母が笑った。
「じゃあ、ひとつだけね」
皿に小さなおにぎりが置かれた。
美緒は椅子によじ登り、両手を合わせた。
「いただきます!」
母は美緒の前に座り、少し身をかがめた。
「たーんとおたべ。おなかいっぱいになるといいね」
美緒はおにぎりにかぶりついた。
そして、目を丸くした。
「おいしい!」
母の顔が、ふわっとほころんだ。
「そう」
「お母さんと同じおにぎりだ!」
その言葉は、私の胸の真ん中に落ちた。
お母さんと同じ。
美緒にとっての「お母さん」は、私だ。
母のおにぎりが、私のおにぎりと同じだと言ったのだ。
私はその場に立ったまま、動けなくなった。
走馬灯のように、記憶が押し寄せてきた。
祖母の台所。
やわらかいおにぎり。
母が作った、冷たくて硬くて塩辛いおにぎり。
テーブルの上のメモ。
夜遅くに帰ってくる母の足音。
洗濯機の音。
疲れた背中。
冷めたご飯。
私はずっと、母のおにぎりを冷たいと思っていた。
でも、そうではなかったのかもしれない。
母のおにぎりは、冷たかったのではなかった。
冷めるまで、母が働いていたのだ。
硬かったのではなかった。
崩れないように、急いで強く握るしかなかったのだ。
塩辛かったのではなかった。
汗をかいて、涙を飲んで、それでも私を育てるために立ち続けた母の味だったのだ。
出産後すぐに父を亡くした母。
ひとりで私を抱え、仕事をし、生活を守り、学校の用意をし、熱を出せば病院へ連れて行き、行事にはできる限り顔を出してくれた母。
その合間に握ってくれたおにぎり。
それは、祖母のように穏やかな愛情ではなかった。
でも、愛情ではなかったわけではない。
この世界で私を生かすための、母の覚悟だった。
私は口元を押さえた。
涙がこぼれた。
「ママ?」
美緒が不思議そうに私を見た。
「どうしたの?」
母も私を見上げた。
「どこか痛い?」
私は首を振った。
言葉が出なかった。
本当は、その場で言えばよかった。
お母さん、ありがとう。
あのとき言えなかったけど、ありがとう。
おにぎり、おいしい。
ちゃんと伝わってる。
私にも、美緒にも。
そう言えばよかった。
けれど、私はまた言えなかった。
涙だけが止まらなかった。
母は困ったように笑った。
「泣くほどの味じゃないでしょう」
私は何度も首を振った。
違う。
違うのだ。
これは、泣くほどの味なのだ。
この食卓は、私の生きてきた世界で、いちばん尊い場所だった。
祖母がいて、母がいて、私がいて、美緒がいる。
誰も完璧ではなかった。言えなかった言葉も、すれ違った時間も、寂しかった夜もあった。
それでも、ここまで来た。
おにぎりひとつを握りながら、私たちは途切れずに来た。
その夜、母の容態が急変した。
夕食のあと、美緒を寝かしつけていると、隣の部屋から小さな物音がした。行ってみると、母が布団の上で苦しそうに胸を押さえていた。
「お母さん!」
救急車を呼び、病院へ向かった。
美緒は夫に預けた。
救急車の赤い光が、夜の住宅街を染めた。私は母の手を握っていた。母の手は冷たかった。
「お母さん」
呼びかけると、母はうっすら目を開けた。
「美緒ちゃんは」
「家にいる。大丈夫」
「そう」
「しゃべらなくていいから」
「おにぎり」
「え?」
「冷蔵庫に」
母は息を継いだ。
「残ってるから」
「そんなこと、今いいから」
「朝、食べて」
私は涙をこらえた。
「わかった。食べる。だから、ちゃんと帰ろう」
母は小さくうなずいた。
それが、母と交わした最後の会話になった。
夜明け前、母は帰らぬ人になった。
病室の窓の外が、少しずつ白んでいくのを見ていた。看護師が静かにカーテンを整え、医師が死亡時刻を告げた。
私は母の手を握ったまま、そこにいた。
もう動かない手。
おにぎりを握ってくれた手。
祖母に似ていた手。
ありがとう、と言いたかった。
けれど、母はもう聞いてくれなかった。
家に戻ると、美緒はまだ眠っていた。
夫が玄関まで来て、何も言わずに私を抱きしめてくれた。私は泣けなかった。涙は、どこかで尽きてしまったようだった。
葬儀社に連絡し、親戚に電話をかけた。母の荷物を整理しなければならなかった。けれど、何をしても現実感がなかった。
台所の椅子に座ったとき、ふと母の言葉を思い出した。
冷蔵庫に残ってるから。
朝、食べて。
私は立ち上がれなかった。
食べたら、母が本当にいなくなるような気がした。
そのとき、美緒が起きてきたのだ。
寝ぐせのついた髪。眠そうな目。小さな足音。
彼女は冷蔵庫を開け、ラップに包まれたおにぎりを取り出し、電子レンジで温めた。
そして、私の前に置いた。
「たーんとおたべ!」
私は泣いた。
声を出して泣いた。
美緒はびっくりした顔をしたあと、私の膝にのぼってきた。
「ママ、いたい?」
私は首を振った。
「いたくない」
「かなしい?」
「うん」
「おばあちゃん?」
「うん」
美緒は小さな手で、私の頭を撫でた。
ぎこちない手つきだった。
それでも、私はその手を知っていた。
小さいころ、祖母が私を撫でてくれた手のようだった。
妊娠中、母が私の髪に触れた手のようだった。
私は美緒を抱きしめた。
どれくらいそうしていたのか、わからない。
美緒が私の腕の中でもぞもぞ動いた。
「ママ」
「なに?」
「おなかすいた」
その言葉に、私は泣きながら笑った。
「そうだね」
「おにぎり、たべる?」
「うん。一緒に食べようか」
私は皿の上のおにぎりを手に取った。
あたたかかった。
ラップを外すと、湯気がほんの少し立った。
白いご飯。少しだけついた塩。母の手の形が、まだそこに残っているような気がした。
私は一口かじった。
やわらかかった。
口の中で、ほろりとほどけた。ご飯の甘みのあとに、少しだけ塩が来る。強すぎず、弱すぎず、ちょうどいいところで止まる。
祖母の味だった。
母の味だった。
私の味だった。
美緒が隣で、小さなおにぎりを頬張っている。
「おいしいね」
美緒が言った。
私は何度もうなずいた。
「うん」
声が震えた。
「おいしい」
その一言を口にした瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
あの日、祖母に言った言葉。
母に言えなかった言葉。
昨日の夜、言えなかった言葉。
ありがとうの代わりに、私はもう一度言った。
「おいしい」
美緒は嬉しそうに笑った。
「ママ、もっとたべて」
「うん」
「たーんとおたべ」
私は泣きながら、もう一口食べた。
母はもういない。
祖母もいない。
けれど、いなくなったわけではないのだと思った。
祖母の手は、母の手に残った。
母の手は、私の手に残った。
私の手は、いつか美緒の手に残るのかもしれない。
おにぎりは、ただのご飯だ。
塩をつけて、手で握っただけのものだ。
それなのに、そこには人が生きてきた時間が入る。言えなかった言葉が入る。守りたかったものが入る。忙しさも、寂しさも、覚悟も、やさしさも、全部入る。
だから味は、ひとつではない。
あたたかい日もある。
冷たい日もある。
やわらかい日も、硬い日もある。
塩が少し強い日もある。
それでも、誰かが誰かのために握ったものなら、その中にはきっと、言葉にならなかった愛がある。
私はおにぎりを食べ終えた。
皿の上には、ご飯粒がひとつ残っていた。美緒がそれを小さな指でつまみ、ぱくりと食べた。
「ぜんぶたべた!」
「えらいね」
「ママも?」
「ママも、全部食べたよ」
美緒は満足そうにうなずいた。
窓の外が、明るくなっていた。
母のいない朝が始まっていた。
けれど、食卓にはまだ、母の味が残っていた。
私は立ち上がり、空になった皿をシンクへ運んだ。水を出し、皿を洗う。水の音が台所に広がる。
ふと、自分の手を見た。
少し赤くなった指先。短く切った爪。水に濡れた手のひら。
母の手に似てきた、と思った。
祖母の手にも、少し似ているのかもしれない。
「ママ」
美緒が呼んだ。
「なに?」
「また、おにぎりつくってね」
私は振り向いた。
美緒は椅子に座ったまま、足をぶらぶらさせていた。子どものころの私のように。
私は笑った。
「うん。作るよ」
「やわらかいやつ」
「うん」
「おばあちゃんのと、おんなじやつ」
胸がまた熱くなった。
でも、今度は泣かなかった。
「そうだね」
私は手を拭き、美緒のそばへ行った。
「おばあちゃんのと、ひいおばあちゃんのと、ママのと、みんな入ったおにぎりを作ろう」
美緒は意味がわからない顔をした。
「みんな?」
「うん。みんな」
「みんなでたべる?」
「そうだね」
私は美緒の髪を撫でた。
「みんなで食べよう」
美緒は笑った。
その笑顔を見て、私はようやく、母に言えなかった言葉を心の中で言った。
お母さん。
ありがとう。
おにぎり、おいしかったよ。
ちゃんと、届いていたよ。
そして、これからも握るよ。
あなたが私にしてくれたように。
あなたが祖母から受け取ったように。
私も、この子に渡していく。
たーんとおたべ、と言いながら。
おなかいっぱいになるといいね、と願いながら。
この世界を、少しでもあたたかい場所だと思えるように。
私は台所に立った。
炊飯器の中には、まだ少しご飯が残っていた。
手に水をつける。
指先に塩をのせる。
熱いご飯を手のひらに受ける。
熱い。
けれど、熱いうちに握ったほうがおいしい。
祖母の声がした気がした。
私はゆっくり、ご飯を包んだ。
力を入れすぎず、でも崩れないように。
母がそうしていたように。
私が覚えているすべての手を、手のひらの中に重ねるようにして。
小さなおにぎりが、ひとつできた。
少しだけ不格好だった。
でも、それでいいと思った。
私は皿にのせ、美緒の前に置いた。
美緒は目を輝かせた。
「たべていい?」
「いいよ」
私は笑って言った。
「たーんとおたべ」
美緒は両手を合わせた。
「いただきます!」
小さな口が、おにぎりにかぶりつく。
その瞬間、朝の光が食卓に差し込んだ。
白い皿の上で、ご飯粒がきらきら光っていた。
美緒は頬をいっぱいにして、笑った。
「おいしい!」
私はその言葉を、胸のいちばん深いところで受け取った。
そして、もう一度、心の中で母に言った。
おいしいよ。
今度は、ちゃんと言えたよ。
******
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