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そしてもう一度、おいしいと

作者: Miris
掲載日:2026/05/02

 母が亡くなった朝、台所だけが、いつも通りの顔をしていた。


 シンクには、昨夜洗った茶碗が伏せてあった。まな板は壁に立てかけられ、布巾は蛇口の横に小さくたたまれている。窓から入る朝の光は薄く、白く、台所の床に四角く落ちていた。


 母がもういないことだけが、そこから抜け落ちていた。


 私は食卓の椅子に座ったまま、しばらく動けずにいた。


 夜のうちに病院へ運ばれ、夜明け前に母は息を引き取った。医師の言葉も、看護師の声も、親戚にかけた電話の内容も、どこか遠くの部屋で聞いているようだった。


 やることは山ほどあった。


 葬儀社への連絡。親戚への報告。夫への相談。娘の朝ごはん。


 それなのに、手が動かなかった。


 台所には、昨夜の匂いがまだ残っていた。炊きたてのご飯の湯気。少し焦げた海苔。母が握ったおにぎりの、塩の匂い。


 その匂いを吸い込んだ瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。


「……おばあちゃん」


 声に出したつもりはなかった。


 けれど、自分の声が耳に届いた。


 その呼び方が、母のことなのか、母の母のことなのか、私にもわからなかった。


 冷蔵庫の扉が、小さく開く音がした。


 振り向くと、三歳の娘が背伸びをしていた。寝ぐせのついた髪を揺らし、パジャマの裾を片手で握りながら、冷蔵庫の中をのぞき込んでいる。


「みお、なにしてるの」


 声がかすれた。


 娘は私を振り返らずに、両手で何かを取り出した。


 ラップに包まれた、小さなおにぎりだった。


 昨夜、母が握ったものだ。


 私は立ち上がろうとした。けれど、椅子の脚が床をこすっただけで、身体はそこから動かなかった。


 娘はおにぎりを皿にのせ、電子レンジの前に立った。まだボタンの意味などわからないはずだった。けれど、彼女は小さな指で迷わず押した。


 ぴ、と音が鳴る。


 私は何も言えず、その背中を見ていた。


 母が教えたのだろうか。


 昨日の昼間、私が洗濯物を取り込んでいる間に。あるいはもっと前から、娘は大人たちの手元を見て覚えていたのかもしれない。


 電子レンジの中で、皿がゆっくり回る。


 その小さな回転を見ていたら、私の時間まで一緒に巻き戻っていくような気がした。


 あたたまったおにぎりを、娘は慎重に取り出した。熱かったのか、指先を少し引っ込める。それでも落とさないように両手で皿を持ち、私のところまで歩いてきた。


「はい、ママ」


 食卓に皿が置かれた。


 白い湯気が、かすかに立っていた。


 娘はにこっと笑った。


「たーんとおたべ!」


 その言葉を聞いた瞬間、私はもう前が見えなかった。


 それは、祖母の言葉だった。


 母の言葉だった。


 そして、いつの間にか私の言葉にもなっていた。


 私がいちばん最初にその言葉を聞いたのは、祖母の台所だった。


 祖母の家は、古い木造の平屋だった。玄関を開けると、畳と煮物の匂いがした。廊下は冬になるとひどく冷たく、私は靴下のまま、つま先立ちで台所まで走った。


「こらこら、転ぶよ」


 祖母はいつもそう言って笑った。


 台所に立つ祖母の背中は、私にとって山のように大きかった。背は高くなかったはずなのに、幼い私には、祖母の背中が世界の壁のように見えた。


 炊飯器が開くと、湯気がふわっと上がる。


 祖母は手に水をつけ、指先に塩をのせる。それから、熱々のご飯を手のひらに受けた。


「熱くないの?」


 私が聞くと、祖母は笑った。


「熱いよ。でもね、熱いうちに握ったほうが、おいしいんだよ」


 祖母の手は、しわが多かった。指の節は少し太く、爪は短く切られていた。その手が、ご飯を包む。力を入れすぎず、でも崩れないように、ゆっくり形を作る。


 丸くもなく、三角すぎもない。


 祖母のおにぎりは、いつも少しだけ不格好だった。


 けれど、私にはそれが一番きれいに見えた。


「はい」


 祖母は小皿におにぎりをのせ、私の前に置く。


「たーんとおたべ」


 私は両手で持って、かぶりついた。


 やわらかかった。


 口の中で、ほろりとほどける。ご飯の甘みの後に、ほんの少しだけ塩が来る。強すぎない。足りないわけでもない。舌の上で、ああ、おいしい、と思うところにぴったり届く塩加減だった。


「おいしい」


 私が言うと、祖母は目を細めた。


「そうかい。よかったねえ」


「もう一個」


「あらあら」


「だめ?」


「だめじゃないよ。たーんとおたべ」


 その言葉は、私にとって布団のようだった。


 やわらかく、あたたかく、すっぽり包んでくれる。


 私は祖母の家が好きだった。


 母が仕事で遅くなる日は、祖母の家で夕方まで過ごした。幼稚園のかばんを畳の上に放り投げ、台所の椅子に座って足をぶらぶらさせる。祖母はそんな私を叱りながらも、必ず何か食べるものを出してくれた。


 おにぎりの日もあれば、味噌汁の日もあった。切っただけのりんごの日もあった。


 でも、私が一番好きだったのは、おにぎりだった。


 祖母のおにぎりを食べていると、世界には怖いものがないような気がした。


 母が遅くなっても、夜が近づいても、外で風が鳴っても、祖母がいる。祖母の手がある。祖母のおにぎりがある。


 だから大丈夫だと思えた。


 その祖母が亡くなったのは、私が小学校に上がってしばらくしたころだった。


 葬儀のことは、ところどころしか覚えていない。


 黒い服。白い花。線香の匂い。大人たちの小さな声。母の横顔。


 母は泣いていなかった。


 少なくとも、私の前では。


 私はそれを見て、どうして泣かないのだろうと思った。


 祖母がいなくなってから、私は母のおにぎりを食べるようになった。


 母は朝早くから働きに出ていた。帰りも遅かった。私が学校から戻ると、テーブルの上にラップで包まれたおにぎりが置いてある日があった。


 メモも一緒に置いてあった。


『レンジで温めて食べてね』


 母の字は細く、急いで書いたように少し右へ流れていた。


 私はその字を見るたびに、少しだけ寂しくなった。


 ラップを外すと、おにぎりは冷たかった。


 母の手で握られたはずなのに、そこには手の温度が残っていなかった。電子レンジで温めても、どこか芯が固い。ご飯粒がぎゅっと押しつぶされていて、口の中でほどけるというより、噛んでほどく感じだった。


 塩も少し強かった。


 舌の上に、先に塩が来る。


 私は水を飲みながら、それを食べた。


 食べながら、祖母のおにぎりを思い出した。


 やわらかくて、あたたかくて、少しだけ塩味がして、祖母が目の前で笑っているおにぎり。


 母のおにぎりは、違った。


 硬くて、冷たくて、塩辛かった。


 それでも私は、残さず食べた。


 母が帰ってくるころには、私は布団に入っていることも多かった。玄関の鍵が開く音。小さくため息をつく声。水道をひねる音。冷蔵庫を開ける音。


 私は眠ったふりをしながら、それを聞いていた。


 本当は「おかえり」と言いたかった。


 でも、起きていると母が困るような気がした。


 母はいつも疲れていた。


 眉間にしわを寄せ、肩を少し丸めていた。私が話しかけると、ちゃんと返事はしてくれる。宿題も見てくれる。学校で必要なものも忘れずに用意してくれる。


 けれど、母の周りにはいつも急いでいる空気があった。


「明日、図工で牛乳パックがいる」


「え、明日?」


「うん」


「もう。そういうのは早く言いなさい」


 怒鳴るわけではない。


 でも、その声には余裕がなかった。


 私は小さく「ごめんなさい」と言う。母は引き出しやごみ箱を探し、どうにか空の牛乳パックを見つけて洗ってくれる。


 私はそれを受け取りながら、ありがとうと言えないことが多かった。


 言わなければいけないのはわかっていた。


 でも、言う前に胸の中で何かが固くなった。


 どうしてもっと早く帰ってきてくれないの。


 どうして祖母みたいに笑ってくれないの。


 どうして私のおにぎりは、いつも冷たいの。


 その言葉たちは、口には出なかった。


 代わりに、沈黙だけが部屋に残った。


 母と私の間には、そういう沈黙が少しずつ積もっていった。


 中学生になり、高校生になり、私は家で食事をする時間が減った。友達と寄り道をしたり、部活で遅くなったり、受験勉強を言い訳に自分の部屋へこもったりした。


 母は変わらず働いていた。


 朝には弁当を作り、夜には洗濯機を回し、休日にはスーパーの袋を両手に下げて帰ってきた。


 その背中を見るたびに、私は少しだけ苦しくなった。


 でも、何を話せばいいのかわからなかった。


 祖母の話をすると、母がどんな顔をするのか怖かった。


 母のおにぎりが祖母の味と違うと言ったら、母を傷つけるような気がした。


 そうして私は、何も言わないまま大人になった。


 就職し、家を出て、結婚した。


 母は式の日も泣かなかった。


 白いハンカチを持っていたけれど、それを目元に当てることはなかった。ただ、私が夫と並んで頭を下げたとき、ほんの少しだけ唇を噛んでいた。


「幸せになりなさい」


 控室で、母はそう言った。


「うん」


 私はそれだけ答えた。


 ありがとう、とは言えなかった。


 母はそれ以上何も言わず、私の髪に少し触れた。


 その手は思っていたより小さかった。


 私が娘を妊娠したとき、母は何度も電話をかけてきた。


「体調はどう?」


「大丈夫」


「ちゃんと食べてる?」


「食べてるよ」


「無理しちゃだめよ」


「わかってる」


 短いやり取りばかりだった。


 母は手伝いに行こうかと言ってくれた。私は最初、断った。大丈夫だから、と答えた。


 本当は、大丈夫ではなかった。


 つわりは長く続き、食べられるものが少なくなった。夫はできる限り手伝ってくれたけれど、仕事もあった。昼間、ひとりで部屋にいると、急に不安に襲われることがあった。


 お腹の中に命がいる。


 そのことがうれしいはずなのに、ときどき怖かった。


 私はちゃんと母になれるのだろうか。


 おにぎりひとつ、やわらかく握れなかったらどうしよう。


 そんなことまで考えた。


 ある朝、起き上がれずにソファで横になっていると、チャイムが鳴った。


 玄関を開けると、母が立っていた。


 片手に紙袋。もう片方の手に、スーパーの袋。いつものように急いだ顔ではなく、少しだけ困ったような顔をしていた。


「来ちゃった」


 母は言った。


「来ちゃったって」


「迷惑なら帰るけど」


「……迷惑じゃない」


 私がそう言うと、母はほっとしたように笑った。


 その笑い方が、祖母に少し似ていた。


 母は台所に立った。


 冷蔵庫の中を見て、野菜を切り、味噌汁を作り、ご飯を炊いた。私はソファに横になったまま、包丁の音を聞いていた。


 とん、とん、とん。


 その音が、子どものころの祖母の台所と重なった。


 しばらくして、母が皿を持ってきた。


「食べられそうなら、少しだけ」


 皿の上には、おにぎりが二つ乗っていた。


 私は起き上がった。


 白いご飯に、海苔は巻かれていない。具も入っていない。小さめに握られた塩むすびだった。


 手に取ると、あたたかかった。


 私は一口食べた。


 やわらかかった。


 ご飯が口の中でほどけた。塩は強すぎず、弱すぎず、舌の上で静かに広がった。


 祖母の味に似ていた。


 あまりにも似ていて、私は咀嚼することを忘れそうになった。


「どう?」


 母が聞いた。


「……おいしい」


 それだけ言うのが精一杯だった。


 その瞬間、お腹の内側で、ぽこん、と小さな感触があった。


 私は思わずお腹に手を当てた。


「動いた?」


 母が身を乗り出す。


「うん。今、蹴った」


「そう」


 母は嬉しそうに目を細めた。


「この子も食べたいのかもしれないね」


 私は笑った。


 久しぶりに、母の前で自然に笑った気がした。


 その日、母は夕方までいてくれた。洗濯物をたたみ、台所を片づけ、冷蔵庫に作り置きを入れてくれた。


 帰る前、母は玄関で靴を履きながら言った。


「今まで、ちゃんと看てあげられなくてごめんね」


 私は息を止めた。


 母の背中は、小さかった。


 昔はあんなに大きく見えたのに、玄関の明かりの下に立つ母は、年を取った普通の女の人だった。


「お母さん、仕事ばかりだったから」


 母は続けた。


「寂しかったよね」


 言葉が喉まで来た。


 そんなことないよ。


 忙しかったの、知ってるよ。


 育ててくれて、ありがとう。


 おにぎり、今日の、おいしかった。


 言いたいことはいくつもあった。


 けれど、どれも口から出てこなかった。


 胸の中で、昔の私が泣いていた。


 祖母のおにぎりが恋しかった私。母のおにぎりを冷たいと思っていた私。夜、玄関の音を聞きながら眠ったふりをしていた私。


 その子を置き去りにしたまま、今の私だけが「ありがとう」と言うことは、どうしてもできなかった。


「……うん」


 私は、それだけ言った。


 母は少しだけ笑った。


「また来るね」


「うん」


 扉が閉まった。


 鍵の音がして、廊下に母の足音が遠ざかっていった。


 私は玄関に立ったまま、しばらく動けなかった。


 それから、ゆっくりしゃがみこんだ。


 声を出さないように泣いた。


 どうして言えなかったのだろう。


 ありがとう、と。


 ただそれだけの言葉が、どうして言えなかったのだろう。


 娘が生まれたのは、春の終わりだった。


 小さくて、赤くて、泣き声だけは驚くほど大きかった。胸に抱かせてもらったとき、私はその軽さに震えた。


 こんなに小さな命を、これから私は守っていくのだ。


 母は病院に来て、娘を抱いた。


「美緒ちゃん」


 名前を呼ぶ声がやわらかかった。


 母は娘の頬を指先でそっと撫でた。


「よく生まれてきたね」


 その声を聞いて、私はまた泣きそうになった。


 けれど、そのときもまだ、ありがとうとは言えなかった。


 娘が二歳になるころ、私はよくおにぎりを握るようになった。


 小さな手で持てるように、少し小さめに。崩れないように、でも硬くならないように。塩をつけすぎないように、でも味がぼやけないように。


 最初はうまくいかなかった。


 柔らかく握ると崩れた。崩れないように握ると硬くなった。塩を控えると物足りなくなり、少し増やすと強くなった。


 私は何度も作った。


 祖母の味を思い出しながら。


 妊娠中に母が握ってくれた味を思い出しながら。


 美緒は食卓の椅子に座り、足をぶらぶらさせて待っていた。まだ言葉は少し舌足らずで、何を言っても丸く聞こえた。


「できたよ」


 皿を置くと、美緒は目を輝かせた。


「おにいり!」


「おにぎりね」


「おにぎり!」


 両手で持たせると、美緒は小さな口をいっぱいに開けた。


「たーんとおたべ」


 私は自然にそう言った。


 言ってから、自分で少し驚いた。


 祖母の声が、自分の口から出たような気がした。


「いたらきます!」


 美緒は元気に言って、おにぎりにかぶりついた。


 ご飯粒が頬につく。


「おいしい?」


 私が聞くと、美緒は口をもぐもぐさせながら、何度もうなずいた。


「おいしい!」


 その顔を見て、胸の奥があたたかくなった。


 私はこの子に、世界はあたたかいのだと知ってほしかった。


 もちろん、世界がいつも優しいわけではないことは知っている。冷たい日もある。硬い日もある。塩辛くて、水を飲まなければ飲み込めない日もある。


 それでも、どこかに帰れる場所がある。


 小さな手で持てるぬくもりがある。


 おいしいと言えば、笑ってくれる人がいる。


 そういう世界を、まず渡したかった。


 美緒が三歳になったころ、母が倒れた。


 最初は軽いめまいだと聞いていた。けれど検査が続き、入院になり、病名がついた。


 医師の説明を聞きながら、私は理解しているふりをした。


 治療。経過観察。再発の可能性。体力の低下。


 言葉は頭に入った。


 でも、母がいなくなるかもしれないということだけが、どうしても現実として飲み込めなかった。


 母はしばらく入院したあと、家で過ごすことになった。


 私たちの家に来ないかと提案したのは夫だった。


「そのほうが、君も安心だろ」


 私はうなずいた。


 母は最初、遠慮した。


「迷惑かけるから」


「迷惑じゃない」


「でも、美緒ちゃんもいるし」


「美緒も喜ぶよ」


 実際、美緒は大喜びだった。


「おばあちゃん、いっしょ?」


「そうだよ」


「ずっと?」


「しばらくね」


「やったあ」


 母はその声を聞いて笑った。


 病気になってから、母の身体は目に見えて細くなった。歩くのもゆっくりになり、階段を上るだけで息が切れた。手の甲には血管が浮き、指先の力も弱くなっていた。


 それでも母は、できることを探した。


 洗濯物をたたもうとする。美緒の絵本を読もうとする。私が台所に立つと、椅子に座ったまま「それ、火を少し弱めたほうがいいよ」と言う。


「休んでて」


 私が言うと、母は苦笑した。


「休んでばかりだと、よけいに病人になるから」


「病人なんだから、休んでよ」


「それもそうね」


 そんなやり取りをしながら、日々は過ぎていった。


 母と一緒に暮らすのは、私が家を出て以来だった。


 最初はぎこちなかった。


 同じ台所に立つと、どちらが何をするのか迷う。洗剤の置き場所ひとつで、母は「こっちのほうが使いやすいのに」と言い、私は「ここでいいの」と返す。


 けれど、美緒が間に入ると、空気はすぐにほどけた。


「おばあちゃん、みて!」


「上手に描けたねえ」


「これはママ」


「あら、ママ美人ね」


「これはおばあちゃん」


「まあ、髪の毛が三本しかない」


「あるよ! ここ!」


 母はよく笑うようになった。


 私も、母の笑い声をこんなに近くで聞いたのは久しぶりだった。


 ある日の夕方、私は買い物から帰ってきて、玄関で靴を脱ぎながら異変に気づいた。


 台所から、炊きたてのご飯の匂いがした。


「お母さん?」


 慌てて台所へ行くと、母が立っていた。


 椅子に片手をつき、もう片方の手で炊飯器の内釜を押さえている。顔色はよくなかった。額にはうっすら汗が浮いていた。


「何してるの」


 私の声は思ったより強くなった。


 母は振り返った。


「おにぎり」


「そんな身体で」


「大丈夫。座りながらやるから」


「大丈夫じゃないでしょ」


「大丈夫よ」


 母は静かに言った。


「あなたたちに、おにぎりを作ってあげてるんだよ」


 私は言葉を失った。


 母は椅子に座り、ゆっくり手に水をつけた。指先に塩をのせる。炊きたてのご飯を手に取ると、少し顔をしかめた。


「熱いでしょ」


「熱いね」


「やめて。私がやるから」


「いいの」


 母は首を横に振った。


「今日は、私が握りたいの」


 その声には、昔のような急いだ響きはなかった。


 強くもなかった。


 けれど、拒めない静けさがあった。


 私は黙って、母の隣に立った。


 母の手は、祖母の手に似ていた。


 しわが増え、指の節が少し太くなり、爪は短く切られている。その手が、ご飯を包む。力を入れすぎず、でも崩れないように、ゆっくり形を作る。


 私は息を止めるように見ていた。


 小さな頃、祖母の手元を見ていた私と同じように。


「ママ、おなかすいた!」


 美緒が走ってきた。


 私ははっとして、食器棚から娘の皿を出した。


「ちょっと待ってね」


「もう食べたい!」


「熱いから」


「ふーふーする!」


 母が笑った。


「じゃあ、ひとつだけね」


 皿に小さなおにぎりが置かれた。


 美緒は椅子によじ登り、両手を合わせた。


「いただきます!」


 母は美緒の前に座り、少し身をかがめた。


「たーんとおたべ。おなかいっぱいになるといいね」


 美緒はおにぎりにかぶりついた。


 そして、目を丸くした。


「おいしい!」


 母の顔が、ふわっとほころんだ。


「そう」


「お母さんと同じおにぎりだ!」


 その言葉は、私の胸の真ん中に落ちた。


 お母さんと同じ。


 美緒にとっての「お母さん」は、私だ。


 母のおにぎりが、私のおにぎりと同じだと言ったのだ。


 私はその場に立ったまま、動けなくなった。


 走馬灯のように、記憶が押し寄せてきた。


 祖母の台所。


 やわらかいおにぎり。


 母が作った、冷たくて硬くて塩辛いおにぎり。


 テーブルの上のメモ。


 夜遅くに帰ってくる母の足音。


 洗濯機の音。


 疲れた背中。


 冷めたご飯。


 私はずっと、母のおにぎりを冷たいと思っていた。


 でも、そうではなかったのかもしれない。


 母のおにぎりは、冷たかったのではなかった。


 冷めるまで、母が働いていたのだ。


 硬かったのではなかった。


 崩れないように、急いで強く握るしかなかったのだ。


 塩辛かったのではなかった。


 汗をかいて、涙を飲んで、それでも私を育てるために立ち続けた母の味だったのだ。


 出産後すぐに父を亡くした母。


 ひとりで私を抱え、仕事をし、生活を守り、学校の用意をし、熱を出せば病院へ連れて行き、行事にはできる限り顔を出してくれた母。


 その合間に握ってくれたおにぎり。


 それは、祖母のように穏やかな愛情ではなかった。


 でも、愛情ではなかったわけではない。


 この世界で私を生かすための、母の覚悟だった。


 私は口元を押さえた。


 涙がこぼれた。


「ママ?」


 美緒が不思議そうに私を見た。


「どうしたの?」


 母も私を見上げた。


「どこか痛い?」


 私は首を振った。


 言葉が出なかった。


 本当は、その場で言えばよかった。


 お母さん、ありがとう。


 あのとき言えなかったけど、ありがとう。


 おにぎり、おいしい。


 ちゃんと伝わってる。


 私にも、美緒にも。


 そう言えばよかった。


 けれど、私はまた言えなかった。


 涙だけが止まらなかった。


 母は困ったように笑った。


「泣くほどの味じゃないでしょう」


 私は何度も首を振った。


 違う。


 違うのだ。


 これは、泣くほどの味なのだ。


 この食卓は、私の生きてきた世界で、いちばん尊い場所だった。


 祖母がいて、母がいて、私がいて、美緒がいる。


 誰も完璧ではなかった。言えなかった言葉も、すれ違った時間も、寂しかった夜もあった。


 それでも、ここまで来た。


 おにぎりひとつを握りながら、私たちは途切れずに来た。


 その夜、母の容態が急変した。


 夕食のあと、美緒を寝かしつけていると、隣の部屋から小さな物音がした。行ってみると、母が布団の上で苦しそうに胸を押さえていた。


「お母さん!」


 救急車を呼び、病院へ向かった。


 美緒は夫に預けた。


 救急車の赤い光が、夜の住宅街を染めた。私は母の手を握っていた。母の手は冷たかった。


「お母さん」


 呼びかけると、母はうっすら目を開けた。


「美緒ちゃんは」


「家にいる。大丈夫」


「そう」


「しゃべらなくていいから」


「おにぎり」


「え?」


「冷蔵庫に」


 母は息を継いだ。


「残ってるから」


「そんなこと、今いいから」


「朝、食べて」


 私は涙をこらえた。


「わかった。食べる。だから、ちゃんと帰ろう」


 母は小さくうなずいた。


 それが、母と交わした最後の会話になった。


 夜明け前、母は帰らぬ人になった。


 病室の窓の外が、少しずつ白んでいくのを見ていた。看護師が静かにカーテンを整え、医師が死亡時刻を告げた。


 私は母の手を握ったまま、そこにいた。


 もう動かない手。


 おにぎりを握ってくれた手。


 祖母に似ていた手。


 ありがとう、と言いたかった。


 けれど、母はもう聞いてくれなかった。


 家に戻ると、美緒はまだ眠っていた。


 夫が玄関まで来て、何も言わずに私を抱きしめてくれた。私は泣けなかった。涙は、どこかで尽きてしまったようだった。


 葬儀社に連絡し、親戚に電話をかけた。母の荷物を整理しなければならなかった。けれど、何をしても現実感がなかった。


 台所の椅子に座ったとき、ふと母の言葉を思い出した。


 冷蔵庫に残ってるから。


 朝、食べて。


 私は立ち上がれなかった。


 食べたら、母が本当にいなくなるような気がした。


 そのとき、美緒が起きてきたのだ。


 寝ぐせのついた髪。眠そうな目。小さな足音。


 彼女は冷蔵庫を開け、ラップに包まれたおにぎりを取り出し、電子レンジで温めた。


 そして、私の前に置いた。


「たーんとおたべ!」


 私は泣いた。


 声を出して泣いた。


 美緒はびっくりした顔をしたあと、私の膝にのぼってきた。


「ママ、いたい?」


 私は首を振った。


「いたくない」


「かなしい?」


「うん」


「おばあちゃん?」


「うん」


 美緒は小さな手で、私の頭を撫でた。


 ぎこちない手つきだった。


 それでも、私はその手を知っていた。


 小さいころ、祖母が私を撫でてくれた手のようだった。


 妊娠中、母が私の髪に触れた手のようだった。


 私は美緒を抱きしめた。


 どれくらいそうしていたのか、わからない。


 美緒が私の腕の中でもぞもぞ動いた。


「ママ」


「なに?」


「おなかすいた」


 その言葉に、私は泣きながら笑った。


「そうだね」


「おにぎり、たべる?」


「うん。一緒に食べようか」


 私は皿の上のおにぎりを手に取った。


 あたたかかった。


 ラップを外すと、湯気がほんの少し立った。


 白いご飯。少しだけついた塩。母の手の形が、まだそこに残っているような気がした。


 私は一口かじった。


 やわらかかった。


 口の中で、ほろりとほどけた。ご飯の甘みのあとに、少しだけ塩が来る。強すぎず、弱すぎず、ちょうどいいところで止まる。


 祖母の味だった。


 母の味だった。


 私の味だった。


 美緒が隣で、小さなおにぎりを頬張っている。


「おいしいね」


 美緒が言った。


 私は何度もうなずいた。


「うん」


 声が震えた。


「おいしい」


 その一言を口にした瞬間、胸の奥で何かがほどけた。


 あの日、祖母に言った言葉。


 母に言えなかった言葉。


 昨日の夜、言えなかった言葉。


 ありがとうの代わりに、私はもう一度言った。


「おいしい」


 美緒は嬉しそうに笑った。


「ママ、もっとたべて」


「うん」


「たーんとおたべ」


 私は泣きながら、もう一口食べた。


 母はもういない。


 祖母もいない。


 けれど、いなくなったわけではないのだと思った。


 祖母の手は、母の手に残った。


 母の手は、私の手に残った。


 私の手は、いつか美緒の手に残るのかもしれない。


 おにぎりは、ただのご飯だ。


 塩をつけて、手で握っただけのものだ。


 それなのに、そこには人が生きてきた時間が入る。言えなかった言葉が入る。守りたかったものが入る。忙しさも、寂しさも、覚悟も、やさしさも、全部入る。


 だから味は、ひとつではない。


 あたたかい日もある。


 冷たい日もある。


 やわらかい日も、硬い日もある。


 塩が少し強い日もある。


 それでも、誰かが誰かのために握ったものなら、その中にはきっと、言葉にならなかった愛がある。


 私はおにぎりを食べ終えた。


 皿の上には、ご飯粒がひとつ残っていた。美緒がそれを小さな指でつまみ、ぱくりと食べた。


「ぜんぶたべた!」


「えらいね」


「ママも?」


「ママも、全部食べたよ」


 美緒は満足そうにうなずいた。


 窓の外が、明るくなっていた。


 母のいない朝が始まっていた。


 けれど、食卓にはまだ、母の味が残っていた。


 私は立ち上がり、空になった皿をシンクへ運んだ。水を出し、皿を洗う。水の音が台所に広がる。


 ふと、自分の手を見た。


 少し赤くなった指先。短く切った爪。水に濡れた手のひら。


 母の手に似てきた、と思った。


 祖母の手にも、少し似ているのかもしれない。


「ママ」


 美緒が呼んだ。


「なに?」


「また、おにぎりつくってね」


 私は振り向いた。


 美緒は椅子に座ったまま、足をぶらぶらさせていた。子どものころの私のように。


 私は笑った。


「うん。作るよ」


「やわらかいやつ」


「うん」


「おばあちゃんのと、おんなじやつ」


 胸がまた熱くなった。


 でも、今度は泣かなかった。


「そうだね」


 私は手を拭き、美緒のそばへ行った。


「おばあちゃんのと、ひいおばあちゃんのと、ママのと、みんな入ったおにぎりを作ろう」


 美緒は意味がわからない顔をした。


「みんな?」


「うん。みんな」


「みんなでたべる?」


「そうだね」


 私は美緒の髪を撫でた。


「みんなで食べよう」


 美緒は笑った。


 その笑顔を見て、私はようやく、母に言えなかった言葉を心の中で言った。


 お母さん。


 ありがとう。


 おにぎり、おいしかったよ。


 ちゃんと、届いていたよ。


 そして、これからも握るよ。


 あなたが私にしてくれたように。


 あなたが祖母から受け取ったように。


 私も、この子に渡していく。


 たーんとおたべ、と言いながら。


 おなかいっぱいになるといいね、と願いながら。


 この世界を、少しでもあたたかい場所だと思えるように。


 私は台所に立った。


 炊飯器の中には、まだ少しご飯が残っていた。


 手に水をつける。


 指先に塩をのせる。


 熱いご飯を手のひらに受ける。


 熱い。


 けれど、熱いうちに握ったほうがおいしい。


 祖母の声がした気がした。


 私はゆっくり、ご飯を包んだ。


 力を入れすぎず、でも崩れないように。


 母がそうしていたように。


 私が覚えているすべての手を、手のひらの中に重ねるようにして。


 小さなおにぎりが、ひとつできた。


 少しだけ不格好だった。


 でも、それでいいと思った。


 私は皿にのせ、美緒の前に置いた。


 美緒は目を輝かせた。


「たべていい?」


「いいよ」


 私は笑って言った。


「たーんとおたべ」


 美緒は両手を合わせた。


「いただきます!」


 小さな口が、おにぎりにかぶりつく。


 その瞬間、朝の光が食卓に差し込んだ。


 白い皿の上で、ご飯粒がきらきら光っていた。


 美緒は頬をいっぱいにして、笑った。


「おいしい!」


 私はその言葉を、胸のいちばん深いところで受け取った。


 そして、もう一度、心の中で母に言った。


 おいしいよ。


 今度は、ちゃんと言えたよ。



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