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九、脱けだしさ迷って

 翌朝。


 街の西門で、アンはウゴとともに四人の衛兵達から検分をうけていた。


 ウゴはこれまでとたいしてかわらない格好をしている。ほとんど問題ない。


 アンは、まず昨日のうちにシャワーを浴びた。どうせこの家にいるのは最後ということもあり、このうえなく念入りだった。石鹸も香料もなく、ただ水を浴びるだけではあったもののようやくさっぱりした気持ちになった。


 ズボンとパンツはウゴの所持品がそのまま使えた。胸はタオルを無理やりきつく巻いてできるだけへこませ、上着のボタンをどうにかとめた。とどめに染みだらけのフードつき長マントをかぶった。髪は耳やうなじがあらわになるほど切った。とどめに、口の中に綿をふくんで人相を変えてある。


 本人はもちろん、ウゴもクソまじめに男の二人連れとしてふるまっている。


 人相描きとおぼしき紙を手に、衛兵達はアン達をためつすがめつした。アンは無言無表情を保っているが、背中には汗がにじんでいた。


「よし、とおれ」


 隊長格らしき衛兵が、ようやくにも晴れ晴れしい言葉を授けた。


 黙って会釈し、二人は門を……ひいては街をでた。


 森まではかなり距離がある。障害物がないので、目にはできた。途中までは街道を進むので、しばらくは黙って歩かねばならない。


 アンは、もともと口数の少ない人間である。したがって苦にはならない。それより、口に含んだままの綿が唾液でべとべとになっている。そのほうがうっとおしかった。街道では誰にあうかわからないので、捨てるに捨てられない。


 などと地味な苦行を交えつつ、ウゴはついに街道を背にして森へ直進し始めた。アンはついていくのみ。


 公爵から追放され、丘を経由して街の手前まできたときには『森』というより『林』をすぎただけだった。飢えと疲労以外に危険はなく、極端なところ弁当と水筒があれば足りた。


 これから足を踏みいれるグナフの森は、近づけば近づくほどそんな生ぬるい場所でないと思い知らされた。うっそうとしげる木の幹や枝の間から、なにかがじっと自分を監視しているような気がする。まだ午前中だというのに、森の端にある木を一本あとにしただけで暗闇に飲まれそうだ。


 いよいよそこにきた。


 まずは、胸を抑えていたタオルを外さねばならない。さすがに、ウゴは適当な木の陰に隠れた。アンもまた、別な木をついたてがわりにしてタオルをだした。まだ役にたつので、捨てずにとっておく。準備が終わり、ウゴと合流していざ中へ。


 薄暗くはあっても、まるで視野がないというほどではなかった。そのかわりに、なにかががさがさはいまわったり飛びはねたりする音がひきもきらない。


「忘れていた。そろそろ綿を捨ててもいいだろう」


 歩きながらウゴが声をかけた。それでようやく、あれほどうっとおしかった含み綿を忘れていたのに気づいた。もちろん、たちどまらずにさっさと捨てた。


 さらに数時間。なにも起こらない。


 アンは悟った。こういう場所でなにも起こらないのは、安心していいとはかぎらない。むしろ逆な可能性がある。単調な道のりがつづくと、誰しも用心がゆるむ。そこへ不運な出来事があらわれ、ときとして致命傷になる。


 だから、油断はならない。そんなことはわかっているが、アンは兵士でも冒険者でもない。おおざっぱな方角と道のりを知っているだけだ。頭ではわかっていても、いきなり実践は難しい。


 それはそれとして、ぼちぼち昼をすぎたくらいな時間帯だ。野宿の準備をして、休憩せねばならない。日没まで歩くようなことをすれば、ウゴはまだしもアンだと数日で体力が尽きてしまう。明るいうちに寝床を作り、日没前には焚き火をあげておく必要があった。そうした段取りは、ウゴから基本的な心得として昨日聞かされた。


 ウゴは、アンより数歩前を歩いている。体力からしても人生経験からしても、彼が露払いをかねて先行するのは当たり前ではあった。


「あのう、そろそろ……」


 ウゴはぴたりとたちどまり、ふりかえった。


 その顔は本人ではなかった。カニとエビを合体させたかのような、赤黒く醜悪な化け物がうごめいている。


「きゃあああぁぁぁ!」


 絶叫で周りの木を揺らしながら、アンはでたらめな方向へ走りだした。これで冷静に対処できたらおかしいだろう。


 必死に遠ざかろうとしながら頭だけふりかえると、ウゴだったはずの化け物は追ってきている。


 もはや考えるゆとりはなかった。とにかく一歩でもへだたりたい。それだけのために脛を折りそうなほど逃げた。


 いくばくかの時間がすぎ、息の切れたアンは地面につきでた木の根につまずいた。両手をつきだすようにして倒れ、悲鳴をあげる余裕もない。


 手のひらを両方ともすりむき、膝頭も同じように打った。たつ力もなく、首だけどうにか曲げると化け物に追いつかれたのがわかった。アンにおおいかぶさろうとしている。


 恐怖でがたがた震える体験を、アンは生まれて初めて味わった。腕で顔をかばう力すら残ってない。


 化け物が、突然ぴんと背中を伸ばして硬直した。アンには指一本触れてない。まるで、透明な手で強制的に姿勢を正されたようだ。


 よくみると、化け物の全身には無数の細い網目ができている。あっという間に網目から血が吹きだし、化け物はコマ切れの玉ねぎのように硬直したまま分解された。


 アンは気絶した。


 夢のなかで、アンは公爵の屋敷にいた。思いだしたくもないのに、見覚えのある廊下や調度品がいちいち目につく。


 と、正面から鎧兜をがちゃがちゃさせてオローがあらわれた。抜き身の剣を手にしている。ただでさえ威圧感があるのに、もはや姿自体が暴力だ。


 オローが剣をふりあげた。アンはとっさに顔をかばおうとしたが、のろのろとしか腕が動かない。それでいてオローの方は現実とまったくかわらない。


 あっと思った直後、ウゴが二人の間に割ってはいった。素手でオローの剣を受けとめている。棒を握るようなもので、血の一滴も流れてない。


 いくら夢でも、アンは仰天せざるをえなかった。その驚きで、彼女は目を覚ました。


「こ、ここは……」


 平凡な問いかけのさなかに、彼女は心地よい肌触りの布団と枕でなんともふわふわした気持ちを味わった。天井はゆったりした高さを備えていて、どこからか乳香の香りがする白く薄い煙にまとわりつかれている。


「私の家だ。まだ寝たままでいろ」


 理知的できびきびした女性の声だった。枕に乗せた頭をそちらへむけると、声音にふさわしい雰囲気の人間が椅子に座っていた。青白いローブを身につけ、腰までありそうなレンガ色の髪が背もたれを覆っている。小柄でやせてはいるが、ちょっとやそっとでは近寄れない厳しい表情を崩さなかった。


「もう一人、三十代くらいで土色の髪をした男が少しはなれた場所で寝ている。お前の仲間か?」


 ウゴのことだとすぐ察しがついた。


「はい、仲間です」


 いわれたとおり、寝たままの姿勢でうなずいた。


「よし。どうやら大したケガではなかったようだな」


 いわれてやっと、転んだのを思いだした。


「あなたが助けてくださったんですか?」

「いまのところはな」

「いまのところ……?」


 純粋な善意とは、いくらアンでも思わない。しかし、改めてはっきりいわれれば彼女でなくとも不安になる。


「お前はずばぬけた魔力を発揮した。だから興味を持った。仲間のほうはまあ、ついでだ」

「魔力……?」


 アンは魔法のまの字も学んでない。


「倒れていたお前のかたわらには、コマ切れになった肉塊があった。真似獣だと判別するのに少し手間を食ったよ」

「マネケモノ?」


 我ながら、おうむ返しに質問してばかりな会話だ。


「真似獣は、獲物の真似をして相手を油断させる。大人の人間くらいな大きさまでなら大抵の生き物に化けられる。だが知能は低く、それまでに真似た生き物がごちゃ混ぜになることがある」

「真似したあと、獲物をどうするんですか?」

「襲って食う」

「……」


 こうして、アンは相手の正体を知った。


「真似獣は、慣れれば大した強さじゃない。だが、いくらなんでもあんな倒しかたは普通じゃない」


 話の筋からして、アンが真似獣をやっつけたらしい。なんの自覚もない。


 それに、彼女はずっとウゴのあとをついてきた。いつどうやってウゴと真似獣がすりかわったのかもわからない。


「詳しい事情はおいおい説明してもらうとして、まず名前を聞こう」


 これは困った。こんな事態は想定していないし、ウゴはまだ意識を回復していないようだ。


 一方で、やろうと思えば相手は自分達をどうにでもできるだろう。そういう自信がなければここまであけっぴろげにはしない。


「アンです」


 こういう決断は、アンの得意とするところだ。


「仲間は?」

「ウゴです」

「ふむ。では、私も名乗ろう。私はグナフ。この森の主だった一族の末裔だ。つまり、魔女だ」


 グナフの小さな身体が、とつぜん何倍にも大きくなったようにアンには思えた。

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