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八、手をとりあって亡命

 貧民窟の男に拾われた翌日の朝。


「あ……り……がと……ざ……」

「まだ喋るな。ゆっくり回復すればいい」


 あいかわらず塩スープを手ずから飲ませつつ、男はアンが感謝を口にするのをとめた。


 アンはずっとベッドに寝ていた。男は彼女を看病しながら椅子に座っており、睡眠もそのままとっていた。彼がしたことといえばそのくらいだが、とほうもなく善良な行為なのはアンにも理解できていた。


「幸か不幸か、今日の俺は仕事がない。とにかく寝てろ。起きて腹が減ったようなら……」


 薄い壁をつきぬけて、耳障りな甲高い音が室内にこだました。鍋かフライパンかを叩きあわせているような酷さだ。


『謹聴! 謹聴! 公爵閣下からのお触れだ! イリグム様の元婚約者にして子爵家長女のアンはお尋ね者! 見つけ次第確保または通報! 生死不問で賞金! 逆に、かくまった者は処罰! 詳しくはビラ参照!』


 男のダミ声が、路上からそのままアンの耳に届いた。察するに、同じ人間が耳障りな鳴り物と聞き捨てならない呼びかけを交互に発しているのだろう。


 自分がお尋ね者になったのは心外だが、同時に先方はこちらの潜伏先……というのもおかしな話ではある……を把握していない。


 問題は、目の前にいる慈悲の塊がアンの正体を知ったらどうなるかだ。賞金に目がくらんで、あるいは罰を恐れて彼女をつきだす可能性は充分にある。


 生殺与奪……まさに命の分岐点。野垂れ死にをなんらいとわなかったはずのアンは、ここにきて恐ろしさに心が凍りついた。


「イリグムか。女ったらしの博打好きで、貴族のぼっちゃんじゃなけりゃただのろくでなしだよ」


 男は、苦々しげに吐き捨てた。


「おっと、あんたには関係ないよな。すまんすまん」


 とりつくろうように笑ってから、男は空になった皿を下げた。彼が洗い物をすませるべく椅子から離れたとき、アンはまた眠った。


 また目を覚ますと、壁にはベッドや椅子の影が長くのびていた。


 朝方に聞かされた、不快な布告はどこからもやってきていない。かわりに、アンを助けた男は椅子に座って彼女をじっと眺めていた。腕組みした右手にはビラとおぼしき紙がある。


「あんた……子爵家のアンとかいうお嬢さんか?」


 質問の根拠とでもいいたいのか、男は腕をほどいてビラを彼女に見えるように両手で広げた。詳細はともかく、誤解のしようもない人相描きがでかでかと掲載されている。


 もはやごまかしようがない。アンはだまってうなずいた。


「まあ、先にスープを飲め」


 男は、アンが予想していたよりもずっと落ちついていた。


「私をつきださないと、あなたまで罰をうけます」


 それが、アンからすれば意識をまともにとりもどして初めて口にした台詞となった。


「それは心配するな。とにかくスープだ」


 むろん、腹は減っている。


「ありがとうございます……もう、自分で飲めそうです」


 虚勢ではなく事実だった。アンは自力でゆっくり上半身を起こした。


「よし。あいにくだが皿は自分の膝にでも置いてくれ。布団ごしだから熱くはないだろう」

「はい」


 男は、アンにスプーンごと皿を渡した。


 これまでにも何度か口にした料理のはずだが、改めて意識するとこのうえなく美味だった。公爵家で、ずっと金のかかった食事を毎日消費してきたというのに。空腹もあるのだろうが、極限状況から生還できたという実感が大きいのだろう。


 もっとも、その実感には水がさされかねない事態となっている。


「ご馳走さまでした」


 スープを飲み終わり、男にちゃんと礼をいうのも初めてだ。


「お粗末」


 男は、皿とスプーンを流しに持っていってからすぐに帰ってきた。


「俺も名乗ろう。ウゴ。ただのウゴだ。日雇い仕事でどうにか生きてる。しかし、以前は公爵家の……厳密にはイリグム邸の……庭師だった」

「ええっ!?」


 事実そのものがもたらす衝撃も、当然に大きい。同時に、庭といえば彼女にとって特別な意味が少なくとも二つあった。一つは趣味の箱庭。もう一つは裏庭にあった倉庫。


「驚くのも無理はない。じつのところ、アンの衣服が元は高級そうだったから助けた。家まで案内すれば礼金かなにかもらえそうだったからな」


 ウゴの動機そのものについて、アンは幻滅しなかった。むしろ、損得勘定など考えもしなかったといわれた方が用心しただろう。


 いきだおれの身分が高そうなら高そうで、よけいなもめごとに巻きこまれる危険も高くなる。だから、どのみちたいていの人間が無視するのは当たり前だ。それを乗りこえるだけの現実的な動機が……この家からしても一目瞭然だが……わかっただけでも上等とせねばならない。


「だが、それだけじゃない。俺もな、イリグムから追放されたクチなのさ」

「ええっ!?」


 今日はよく驚かされる日だ。


「深い理由はない。何年も前になる。あそこで庭師をやっててな、ある日裏庭にある廃品倉庫に壊れた植木バサミを持っていったんだ」


 だいたい想像がつく。


「そうしたら、イリグムがどこかのお嬢さんと子孫繁栄のまっさいちゅうだった。それだけなら若気の至りだったが、問題は相手が外国の貴族だったってことだ」


 公爵ともなれば王家の政策や機密にも間接的にかかわりえる。だから、外国の貴族とつきあうのは神経をつかう。イリグムが、そんな細かい配慮や分別をまるでもたないのは誰もが知っていた。


「俺は、もちろんぺらぺら口にする気はなかった。だが、猜疑心にとりつかれたイリグムは無実の罪で俺を追放した」

「なんてひどい……」

「よっぽど、酒場かどこで洗いざらいぶちまけてやろうかと思ったよ。だが、そんなことをすれば本当に首が飛ぶ」


 たしかに、そういう仕事だけは早そうだ。


「それからは、ドブさらいだの道路の石材担ぎだのが俺の仕事だ。人間、その気になればたいていの環境には慣れるもんだな」


 自嘲気味にしめくくったウゴへ、すぐにはかける言葉がでてこなかった。


「どうせ、アンだってろくでもないでっちあげにさらされたんだろ? いや、いいたくなければ無理には聞かないよ」

「いえ、お話します」


 そうとわかれば遠慮する必要はなかった。アンは、かいつまんでいきさつを打ちあけた。もっとも、ケムーレや彼にかかわるいきさつはあまりにも怪しすぎるので差し控えた。


「俺をクビにしたときよりはるかに酷くなってるな。まともなのはコンゾさんぐらいか」


 アンとしては、コンゾはよくもわるくもイリグムに忠実な執事という印象しかなかった。コンゾに対して悪意はないが、懐かしく思いだすような人間でもない。


「あのう……私、やっぱり……」

「アンさえよけりゃ、二人でこの街をでないか?」

「ええっ!?」


 まただ。無芸にも、また同じ言葉がでてきた。


「俺がアンをつきだして、公爵家の連中が賞金を払うと思うか? むかしの因縁を蒸し返して、アンの浮気相手が実は俺だったとでも決めつけるのが目に浮かぶな」


 イリグムならやりかねない。


「でも、ここをでてからどこへ……」

「手近な外国にいくんだ。亡命するんだよ。俺はアンの従者なり付人なり、適当な立場になればいい」


 そこまでの思案や決断には、とうていいきつかなかった。飛躍といえば飛躍だ。それでいて、一度意識させられるとこのうえなく魅力的でもあった。


 控えめに想像しても、公爵領にいるかぎりは遅かれ早かれ捕まるだろう。ウゴが金持ちならべつだが、こんな生活をしていていつまでもアンを養えるはずがない。必然的に、アンもどこかで働かねばならない。つまり、世間に姿をさらすことになる。顔だけなら他人の空似ですむが、アンには貴族特有の物腰が染みついている。庶民からすればすぐ察しがついてしまうに違いない。


「どこへいこうと、街道はすぐに通報されてしまいます」


 亡命しかないのを踏まえつつ、アンはあえて否定的な可能性をだした。


「そう。だから道なき道をいく。ここからなら、街の西にある森をぬければすぐに国境だ」

「森……」


 アンも知らないわけではなかった。もともと、国境は山脈や大河が果たすことが多い。森がそうなるのは異例だが、理由があった。


 グナフの森。紡錘形をした広大な地域で、一番長い部分なら端から端まで歩いて十日はかかる。一番短い部分でも同じく三日ほどかかる。国境にいきつくには、森のなかで十日を経ねばならない。


 道に迷って命を落とす者も年に数人はいる。さらには、恐ろしい魔物や悪鬼がうろつくともいう。だからこそ、外国との緩衝地帯として有効でもあった。


 追っ手や密告をかわすには、どのみち森を利用するしかない。


「選ぶのはアンだ。やるか? やらないか?」


 ウゴがまっすぐ自分を見た。


「足手まといだとは思いますが、やります。でも、私にはできないことだらけです」


 アンはウゴをまっすぐ見返した。


「いいよ、上等だ。準備もあるし、アンの体調もある。あと一日だけここにいよう」

「わかりました」

「それと、粗末だがシャワーがある。歩けるようなら浴びるといい……いや、着がえがないか」


 下半身は男もののズボンや肌着でもいいが、上半身はどうしても胸が邪魔になる。


「森にいきつくまでなら、布かなにかできつく巻きつけば一応ごまかせます。少し苦しいですけど」


 一度腹が据わると、アンは自分でも意識してなかったほど大胆になった。一つには、ウゴの人間性が理解できて信頼を寄せられるようになったからでもある。


「きまりだな」


 ウゴは笑った。アンもつられて笑った。笑うのは、彼女にとって数年ぶりの体験だった。

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