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六、婚約破棄 二

 翌朝。


 ドアが乱暴にノックされる音で、アンは起きねばならなくなった。


 起きただけではノックはとぎれない。やむをえず、顔を洗って口をすすいだだけでドアの前まできた。


「だれですか?」

「アン様、公爵様がお呼びです。五分以内に支度をなさってください」


 ドアごしに、サバルがいいはなった。もはや命令にひとしい。


 アンは、身支度そのものにはなんの心配もしなかった。それより、ケムーレからの差しいれが気になった。食器の汚れを水で流すくらいなことはしたが、そんなことより飲食の痕跡そのものがよけいな疑いを招くだろう。ただでさえ面倒な席が待っているのに、痛くもない腹を探られるのは願い下げだ。


 テーブルには、未完成の箱庭があるきりだった。食器など影も形もない。そのくせ、空腹はこれっぽっちも感じなかった。


「わかりました」


 二重三重に自分を助けてくれる不思議ないきさつに、アンは思わず気力のこもった返事をした。


 五分なら、新しい服をきて大雑把に髪をとかすくらいか。先方からすれば、軟禁と絶食を与えたうえに身だしなみでも嫌がらせをしているつもりなのだろう。


 五分して、アンはまた戸口にきた。準備ができたと宣言する。間髪をいれず、外づけの錠前に鍵をさしこんでまわす音がした。


「おはようございます」


 サバルが、全身から陰気で冷淡な様相をにじみだしつつ歯車さながらにお辞儀した。彼女の背後には執事のコンゾがいる。サバルとは違い、なんの存在感もななかった。アンが暴れたり逃げだしたりするのに備えているのだろう。アンにそんな意図は微塵もない。


「おはようございます」


 アンもまた、冷ややかな口調を隠さなかった。


「これから公爵様のお屋敷までご案内します」

「はい、お願いします」


 アンは、サバルとコンゾに前後を挟まれてイリグム邸をあとにした。


 道筋というほどのものではないが、オロー隊長に連れていかれたときと変わらない要領なのは内心ほっとした。いきなり処刑場いきという可能性すらなくはなかったからだ。


 結局、イリグムの名代としてカンドから話を聞かされた部屋へふたたびくることになった。


 室内にはイリグムの姿もエランの姿もなかった。カンドと、なんの面識もない召使いの男性が一人。サバルとコンゾはアンを送り届けた時点で回れ右した。


「アン、座らないまま説明してもらう」


 カンド自身は座ったまま切りだした。召使いもアンと同様で、二人がならんでテーブルのむこうにいるカンドと話をする状態になっている。


「なにについての説明でしょうか」


 アンは淀みなく聞いた。彼女の隣で、召使いの男はひどくおどおどしている。


 カンドを一目見て、およその察しはついた。この、気の毒な召使いとアンが不倫したという筋にしたいのだろう。公爵家当主として、イリグムの所業を苦々しく思っているのはまちがいない。しかし、イリグムともどもアンよりはエランを選んだ。ならばエランが、なにかしらカンドの弱みを握った可能性が高い。エランがただの家庭教師でないのは明白だ。単純な立身出世でイリグムに近づいたとも思えない。


「君らの不倫についてだ。わざわざいわせるな」


 不満げな表情をしめしたのは、領内でならそうすることによってだれもが恐れいるからだ。


「不倫ならイリグム様が……」

「イリグムは廃棄物処理の社会実習をエランから学んでいただけだ!」


 居丈高にカンドは怒鳴った。数日前のアンなら震えあがって許しをこうただろう。いまや彼にはしようもない小物という印象しか残らない。


「裸に近い格好でですか?」

「そんなことはない! 君のでっちあげだ! 話をそらすな!」

「話とおっしゃるのは、公爵様がおっしゃる私の不倫なる話題についてですか?」

「さっきからそういってる!」

「ならば、事実無根にございます」

「しらばっくれるな! 証人もいるぞ!」

「この領内に在住する人間なら、公爵様のいいなりになって当たり前でございます。証人としての客観性が……」

「オロー!」


 カンドが叫ぶように呼ぶと、即座にドアが開いた。


「お呼びですか、閣下」


 オロー隊長は、先日と違い帯剣していた。


「実行してくれ」


 カンドの要求に、オローはドアをうしろ手に閉めながら黙ってうなずいた。


 次の瞬間、アンの隣にいた召使いは背後から一刀でオローに首をはねられた。斬り口から血しぶきが散り、壁や天井……そしてアンの袖を濡らす。頭を失ったむくろは、がくんと膝を折りながら横たおしになった。アンにもたれかかってこなかったことだけが、まだしもの幸いだ。


 アンは、いくらなんでもこんな展開までは読めなかった。さりとて恐怖はなく、怒りもない。召使いには同情したものの、ここで表にすると相手の思うツボ。


 カンドには、イリグムに対するものとはまたべつな軽蔑を新たにした。つまるところ、体裁や外面だけが重要な人間。どうせこの部屋を掃除して遺体を埋葬するのも、召使いのやることだし。


「公爵領で起きた事件は、私が全権をもって裁く。むろん、身分に応じて罰則は異なる。ただ、君は一時期なりと弟の婚約者だった人間だ。あと一回だけ、非を認める機会を与えよう」


 カンドの口調は、棒読みとしか批評のしようがなかった。そのくせ手足は小刻みに震えていた。だれかのいれ智恵で筋書きを実行しているのがみえみえだ。


「ならば、死体はあと二ついりますね」


 アンは、眉一つぴくりともさせなかった。


「なんだと?」


 カンドは、ここまでしてもまるで意に介さないアンに不快というより不審を抱きつつあるようだ。


「私は処女です。イリグム様が私の相手を一つもなさってないからです。それはイリグム様の召使い達全員が知っています。私が何者かと浮気したとおっしゃるなら、私の処女を奪った相手がいないとおかしいでしょう」


 その候補は、たったいまオローが殺した。だから、またべつな男がいる。


 やろうと思えば、男なしでもアンの処女を失わせることはできる。たとえばエランなら、そのくらいは思いついたろう。


 しかし、アンに話の主導権を奪われっぱなしのカンドにそこまでの余裕はない。アンがべつな男を持ちだしたせいで、カンドの頭はすっかり影響されてしまった。


 いくら公爵とはいえ、無実の罪人を一度に二人だすのはまずい。イリグム家の召使い達と、カンドのそれが話をつきあわせればいくらでも矛盾が生じる。


 それでも、最終的にはカンドとて濡れ衣をいくつでも増やしただろう。ふだんならば。


 アンは、エランが悪い意味でただ者ではないと考えている。どのくらい前からイリグムとつきあっていたか知らないが、こうもあっさり婚約者の地位を……カンド公認で……奪うとは。アンにとっては、エランが自分に望んできさえすれば喜んで譲るつもりだったのに。皮肉であり、醜悪な茶番であった。


 ともかく、カンドとしてはエランにこれ以上の干渉を許したくない。ならば、アンの婚約破棄を認めて追放……そこが落としどころとなるしかない。


「ならば、当主の私へ不敬を働いたということにする」


 どうにか思いついた、まにあわせの理屈なのは明白だ。


「公爵様のご要望にそむいたからでございますか?」

「そうだ……い、いや違う。あくまで不倫を認めなかったからだ」

「それが不敬と仰せになるなら、そのとおりですわ」


 どうせ結論ありきで話が進んでいる。アンは皮肉をこめてわざと同意した。


「君はこの場かぎりで弟のイリグムとは婚約破棄。即刻追放とするが、かまわないのか? 実家にすらもどれないぞ?」


 これは、子爵家が無体なやり口を根に持たないよう圧力をかけることを意味した。


「実家につきましては、お好きなようになさいませ」

「君の私物……箱庭もふくめてだが……は、いま身につけている衣服以外、没収のうえ廃棄する」

「かしこまりました」

「よかろう。では失せろ」

「失礼します」


 頓珍漢な密室裁判は終わった。アンは心からほっとした。公爵家だけでなく、自分を道具としか考えてなかった実家からもはなれられる。


 ひきかえに、過酷で冷厳な人生が待っている。数日後には飢え死にしているかもしれない。あるいはもっとひどい運命かもしれない。


 それでも、アンは自分の足でいけるところまでいってみたかった。

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