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四、見知らぬ令嬢

 アンはそのまま気を失った。そして夢を見た。


 夢の中で、彼女は白馬から落ちて地面に座りこんでいた。馬には彼女以外だれものっておらず、そのまま走り去った。


 どうにかたちあがると、辺りは乾いてひび割れた粘土のような土が広がる荒地だった。


 あてもなく歩き始めた彼女に、大小様々な虫がよってきた。悲鳴をあげて逃げだすと、身体がなにか大きな両手に包まれて……。


「寝てるなら起きてください!」


 サバルの命令……としかいいようがない……に、ハッと我に返った。


 最初から、アンは自分の部屋にいた。作りかけの箱庭までそのままだ。


 けたたましくドアがノックされている。


「サバル、ごめんなさい」


 ドアを開けてまず、アンはサバルの憤激した顔にあやまらねばならなかった。


「いくら休日とはいえ、お昼寝のしすぎですよ。ともかく、ご主人様がお帰りになられました。一階ホールにおいでください」


 前回は、酔いつぶれていたから簡単だった。今回は、なにか違いそうだ。それも、悪いほうに。


「少し待って」

「お化粧でございましたら、お手伝いします」

「いいの、すぐすむから」


 サバルの提案を断ってから、アンは自分の発言に心のなかで驚いた。『断る』という決断じたい、ここにきてから非常に珍しくなっていたからだ。


「かしこまりました。お待ちします」


 しぶしぶサバルはドアを閉じた。


 アンは、なんだか自分がかわったような気がしてきた。


 それでも、いたずらに時間をかけられない。さっさと簡単な化粧をすませて部屋をでた。


 ホールでは、珍しく礼服姿のイリグムがいた。彼の隣には、初めて目にする女性がいた。彼女はアンと同年代のようだが、柳腰という言葉がぴたりくる整った身体の線を備えている。アンのそれは、豊かではあるが手足の筋肉は若干ながら余計な部分があった。


「紹介しよう。さる貴族のお嬢さんで、エランだ。今回、私の家庭教師として住みこみで教えてもらうことになった」


 このうえなく満面の笑顔で、イリグムはのたまった。


 イリグムの婚約者であるにもかかわらず、アンは嫉妬にかられるような愛情などもちあわせていない。一方で、エランの存在自体にはある種の警報がアンの精神を騒がせていた。


 たんにエランが気にいったから婚約破棄、ならまだいい。エランは、アンがいまいる座を奪うためならどんな策略でも使いかねない。初対面ながら、アンはそう直感した。


「初めまして、アン様。この度は、イリグム様に認めて頂き大変な栄誉と存じております。今後ともイリグム様……ひいては公爵様ご一族のために微力を尽くしてまいりますのでよろしくお願いいたします」


 非の打ちどころがない挨拶だった。


「丁重なお言葉痛みいります。こちらこそ、よろしくお願いします」


 アンとしても、そう返すほかない。


「では、さっそく今日の授業にはいろう」

「はい、イリグム様」


 イリグムは、みずからエランを案内して姿を消した。


「アン様。お話がございます」


 がらんとしたホールで、サバルは顔つきも険しく切りだした。


「なんですか?」

「あなたのお部屋でお話したいです」

「ここでいえないことですか?」


 今日はいったい、どうしたことだろう。サバルにかぎらず、だれの意見にも逆らってこなかったアンが。


 サバルは一瞬、ぎょっとした表情になった。さっきまでの、敵意とさえいえる様子からすれば痛快といっていいくらいだ。


「はい」


 どうにかサバルは返事をした。


「なら、私のお部屋にいきましょう」

「ありがとうございます」


 サバルとともに、アンは自分の部屋にもどった。アンが着席するのももどかしそうに、サバルは……さすがに本人はたったまま……用件を実行に移した。


「アン様。まさか、ご主人様からこの話をあらかじめお聞きになっていたのではないですよね?」

「まったく寝耳に水です」

「なおさら、アン様はなにも思わないのですか?」

「イリグム様のご交友ならとうに存じています」


 さすがに、アンとしては皮肉の一つでもいいたくなる。


「今回は、そんな生ぬるいお話ではありません。単刀直入に申しますが、婚約破棄の可能性さえでてきかねないのですよ」

「仮にそうなったとして、あなたはなにが困るの?」


 質問を装って、アンは突き放した。


「もちろん、アン様がイリグム様にとって理想の伴侶となるよう働いてきたことが無駄になるからです」


 サバルの立場からすると、ある意味で大胆な発言だった。不遜とそしられても文句はいえない。


 アンの胸には、サバルの本意が……あやふやながらも……にじむように伝わってきた。


 サバルは、アンをつうじて『復讐』したいのだ。自分からは絶対に明かさないだろうが、ある一時期にイリグムの『遊び相手』だったのだろう。なにか無責任な約束をかわしていたかもしれない。


 アンのおかげで……当人にはひとかけらの責任もないが……イリグムの寵愛は強制的におわった。そこでアンとイリグムが相思相愛にでもなれば、いっそサバルの自尊心もいくばくかは満たされただろう。しかし、事実はその逆だった。


 アンは、根拠があって推察しているのではない。だというのに、確信すら抱いていた。


「私に魅力がないから、イリグム様がいっこうに落ちつかないといいたいのですか?」


 あえて、アンは卑俗な質問をした。


「そうは申しません。ですが、さきほどの紹介でも釘をさすくらいなことは……」

「サバル」


 今度はアンが表情と方針を改める番だった。


「はい」

「イリグム様との関係をどうするかは、私の問題です。これ以上のせんえつは許可しません。おさがりなさい」

「か、かしこまりました。ですぎた発言で申し訳ありません」


 サバルはお辞儀して退場した。


 気がつくと、もう夜になっていた。本来なら夕食になる。わざわざホールにいく気にはなれず、まさかサバルに給仕させるつもりもない。


 アンは、一度部屋をでて手近なメイドに夕食を自室へ届けるよう命じた。サバルではない者にやらせるよう、念おしするのを忘れずに。また、今日の夕食から先はサバルをアンの世話係そのものからかえるようにとも強く伝えておいた。


 部屋に帰ると、急に箱庭以外の品々が色あせて思えた。地味をとおりこしてみすぼらしい。趣味は別問題として、どうして自分はこんな冴えない部屋で満足していたのか。


 やがて運ばれてきた夕食をうけとり、アンは一人で食べ始めた。そういえば、食事もけっして華やかとはいえない。


 明日から、やるべきことが山ほどふえそうだ。

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