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十五、公爵邸ふたたび 一

 たしかに公爵家は公爵家だ。


 しかし、現当主……カンドの屋敷ではない。


 懐かしさなど微塵も感じない、それどころかある種の屈辱感をすら引きおこす。イリグム邸にあった自分の部屋だ。


 むろんというべきか、調度品はすべて取りはらわれている。ただのがらんどうにすぎない。


 多少なりと暖かみを味わえることがあるとすれば、ここで作ってきた箱庭くらいか。もっとも、公爵家の連中……たとえばサバル辺り……に、まっさきに処分されただろう。


 イリグム邸の面々は、アンからすれば荒事とは無縁だ。まさかこの家にまで罠をしかけはするまい。


 アンは、この部屋からでた。純粋に自分の意志だけでそうするのは、生まれて初めてだった。


 イリグムはただのろくでなしだし、当主の他の兄弟は自立して宮廷に出仕しているから関係ない。


 ウゴを人質にしているなら、オロー隊長あたりがカンドの屋敷の地下におさえているはずだ。元自分の部屋のみならず、イリグム邸そのものをさっさとでねばならない。


 ドアを背にして廊下を進むと、血の臭いが濃くなりだした。大蛇の一件で少しは慣れたものの、こんな場所ではさすがに違和感が強くなる。


 一階のホールに、臭気の原因があった。


 かつては来客をもてなしダンスパーティーやカクテルパーティーでも開かれたであろうホールに、十数人の死体が折りかさなっていた。


 イリグムは、物いわぬ身体を召使い達のうえに横たえていた。絹とビロードをふんだんにあしらったぜいたくなシャツやズボンは乾いた血や他の汚物にまみれている。


 アンは、イリグムと目があう形になった。イリグムが彼女に与えた恩義といえば、指一本触れなかったことくらいか。いまとなっては、屈辱の原因であるそれに皮肉な感謝の念すら抱いた。当人が生きていたら、まさにその念こそが最大の恥辱となっていただろう。


 サバルは、イリグムの真下にいた。水泳でもしているような、両手両足をまっすぐのばした姿勢で。


 アンへの嫌味と意地悪が生きがいのような人間だったが、こうして死体を眺めてもなんの感慨もわかなかった。これが数週間前なら拍手喝采したかもしれないが、魔法の箱庭にグナフの魔力まで受け継いだアンにとっては道端の小石とかわらない。


 サバルから床に近い高さまでは、顔もよく覚えてないメイドばかりだった。


 最下層、つまり床にうつぶせとなった死体の一つがコンゾだった。汚れ具合は最大級ながら、この中では一番ましなかかわりがもてた人間だ。たしか、ウゴもコンゾについては悪くいってなかった。


 たぶん、コンゾはここにいる人々すべてのために命を賭けて抵抗したのだろう。だからまっさきに殺された。逆説的に、イリグムは召使い達を盾にして逃げまわったと想像できる。


 イリグムやサバルよりは、コンゾの死はいたましく思えた。グナフのように自分の心へ置いておくほどでもないが。


 死体の山から玄関へと、幾組もの足跡が血のスタンプをならべていた。アンは、自分の靴が汚れないよう気をつけながらイリグム邸をあとにした。


 よく晴れた、穏やかな日和ですらある。屋内は地獄絵図だったのに比べ、中庭は木の枝に乗った小鳥がさえずってさえいる。


 ケムーレと初めて会ったのはここだ。いうまでもなく、あの出会いこそが人生の分岐点だった。感慨にふけっている場合ではないものの、感謝していることに変わりはない。


 カンドの屋敷へ近づくと、むこうから玄関が開いた。鎧兜に帯剣した人間が一人、玄関をでてこちらにやってくる。アンは少しも歩調をゆるめなかった。


 オロー隊長は、アンから数歩というところでようやく止まった。


「アン、貴様を拘束して連行する」


 オローのいかめしい口調は、アンに毛ほどの動揺さえもたらさなかった。


「なんの理由で?」


 べつに聞く必要はない。ただ、相手の真意をある程度まで知られるから聞いた。


「追放令の無視、不法侵入、無許可魔法使用容疑だ」

「そうですか」


 アンはすたすた彼の脇をとおりさった。


「待てっ!」


 がしゃっと鎧がきしみ、なにかをかまえる音がした。怖いのではなく、好奇心からアンは振りかえった。足はとめないまま。


 オローはベルトをつけた巨大なボーガンを用意していた。対面したときは背負っていたのだろう。矢もつがえてある。


「止まれ! このボーガンは魔法を無力化するようにできている。グナフの死体はもう見たか?」


 ただの脅しでないということと、グナフを殺したのが彼だということと。二つが同時に明らかになった。いくら公爵家でも、こんな代物は一つあれば十分だろうから。使いこなせる人間もまた、彼以外にいないだろう。


「私が森に残したシャワーや大蛇の死体からグナフ先生の家を特定できたのですか?」

「それだけじゃない。綿の塊もあった」


 なんのことはない。アンが自分から手がかりを与えていた。甘すぎた罰だ。とはいえ、罰を乗りこえてこそ次なる成長がもたらされる。


 好奇心が満たされ、アンは顔のむきを正面にもどした。玄関まではすぐそこだ。


 ばしゅっ、と低く太い音がした。


「おおおっ!?」


 アンの背後で、グナフが彼女の背中から湧いてきて矢をつかんだ。そのまま地面に捨て、またアンの身体へと消えた。


「バ……バカな!」


 アンは、玄関のドアに手をかけた。急ピッチで走るオローの足音が耳ざわりに響く。


 ドアを開けて、屋内へ数歩入ったとたん目の前に数名の兵士がでてきて行く手をふさいだ。オローの部下達なのはすぐわかる。


「どんな魔法を使ったか知らんが、直接取りおさえられたらそこまでだろう。今度こそ終わりだ!」


 玄関口で叫ぶオローに応じ、兵士達も手に手に剣を抜いた。あまり抵抗が強いようなら殺せとでも命令されているのだろう。


 さすがにアンは足をとめた。前後からオロー達が慎重に距離を詰めてくる。


 彼らの用心深さを逆手にとり、アンは天井のシャンデリアを吊るす鎖に魔法で現した金切り鋏を用いた。グナフの魔力をえているので、手を使わなくても思うがままに遠隔操作できる。


 兵士達がアンに手をかける寸前、彼らの頭上で鎖から放たれたシャンデリアがまとめて叩き潰した。耳を引き裂くような酷い音はしたが、破片一つアンにはかからない。


 ここでようやく、アンは振りむいた。剣を握ったまま、驚愕もあらわに口をぱくぱくさせていたオローへと彼女は金切り鋏を魔法の力で投げつけた。


「ぎゃあああぁぁぁーっ!」


 オローの右目を貫いた金切り鋏は、そのまま眼底を砕いて彼の脳をズタズタにした。傷口のみならず、耳からも鼻からも口からも血を流してオローはあおむけに倒れた。もはやピクリとも動かない。


「グナフ先生の仇、思い知ったか」


 アンは吐き捨てて、シャンデリアごと倒れた兵士達のそばを抜けた。


 それにしても、もっともっと大勢の兵士がアンを捕まえにきておかしくないはずだ。カンドからすればアンに裏をかかれて奇襲された格好になってはいるが、呆気なさすぎる。


「たいして時間はかからないから、グナフの課題をやっちゃいなよ」

「ケムーレ!」


 いつぞや濡れ衣をきせられそうになった部屋の前まできて、ケムーレはついに姿をあらわにした。


「グナフの魔力もあるから、最初考えていたよりずっと強い薬ができるよ」

「でも……どこで作れば……」

「ここでやっちゃえば?」


 ここは廊下だが関係ない。ようはアンの決断一つだ。


 腹をくくり、アンはメモ帳をだして必要な品々を次々に確認しては用意した。入れかわりにケムーレはいなくなった。


 グナフが生きていたときなら、ウゴを助手にしても半日かけて弱い作用の薬ができただけだったろう。いまや彼女は、五分とたたずにはるかに強い薬を作ることができた。


 図らずも、グナフ最後の課題となった薬品……不可視看破薬を、アンは精製し終えるが早いかすぐに飲んだ。


 効果てき面とはこのことだ。不可視看破どころか千里眼に等しい。


 屋敷には、いまや三人しかいない。ウゴが地下牢、最上階の一室にエランとカンド。召使い達は、イリグム邸のように殺されたのではないが一人もいない。


 ウゴはまだ生きているが、酷い拷問を受けて全身血まみれになっている。両手は壁から鎖で吊るされ、頭から爪先まで切り傷や火傷だらけだ。しかも、グナフの死体に仕掛けたのと同じ罠まで設けてある。


 さらに、公爵領の領地を出入りする道路はオローの部下達が配置されていた。


 ここまであっさりいけた謎が、多少なりとも解けた。問題は、だれがなんのためにこんな配置を実行させたかだ。


 イリグムの新しい婚約者だったはずのエランが、何故かイリグムの兄であるカンドとともにいる。最後の鍵はそこにあるだろう。


 千里眼の効き目が続く内に、アンは彼らの部屋へと瞬間移動した。メモ帳の力の応用だ。


「ア、アン!?」


 エランとカンドは、そろって目を丸くした。さらに台詞のタイミングから抑揚まで歩調をそろえていた。


 カンドの私室であるのは、屋根つきのベッドや金糸銀糸をふんだんにあしらったタペストリーで簡単に察しがついた。

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