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十三、片づけと破綻

 翌朝。


「おはよう」


 アンの耳元で、聞きおぼえのあるボーイソプラノがささやきかけた。


「ん……おはよ……えぇっ!?」


 ケムーレが、床に座ってアンの顔を見おろしている。


 まだ室内は暗いままだ。夜明け前だろう。


 ケムーレの姿だけははっきりしている。まるで、舞台に一人でスポットライトを浴びているように。


「どうにか運がむいてきたみたいだね」


 ケムーレはにこにこ笑った。


「あなたの正体も聞きました」


 アンとしては事実を告げただけなのに、我ながらそっけない口調になった。


「そう。最初から僕とアンは一心同体なのさ」

「なら、もっとたくさん助けてくださってもいいじゃありませんか」

「真似獣をやっつけてあげたでしょ?」

「え……? じゃあ、あれはあなたが……」

「うん。グナフはとても優秀な魔女だし教師だけど、僕ほどの眼力はないよね」

「私の先生を悪くいわないでください」


 アンは気を悪くした。ケムーレは相かわらず上機嫌だ。


「今日は絶好の調合日和になるよ。だから、屋外で作業したほうがいいね」


 アンは、調合日和なる言葉を生まれて初めて耳にした。だからといって感動に打ちふるえなどしなかった。


 ケムーレが登場すると、良くも悪くもアンの運命は大きく変化する。それに気づけないほど彼女は愚かではない。せっかく、魔法を学ぶ修行が軌道にのりそうなときに。ウゴのことも少しは意識しそうになっている。当人は、知らぬが花で軽いいびきをかいているが。


「じゃあね」

「え? 待ってください!」


 ケムーレはパッと消えてしまった。どこでもない、アンの心に帰った。なんの実感もないが、一心同体という彼の説明が嘘でないのはたしかだ。わざわざでたらめをならべる筋あいがあるわけない。


 二度寝する気にもなれず、アンは夜明けを待った。ほどなくして、朝日が室内を満たした。


「ウゴさん。朝ですよ」

「う……うーん……」


 身体でも揺すろうかと思ったら、ウゴはパチっと目を開けた。


「おはよう、アン」


 アンからすれば、うらやましいくらいはっきりした寝おきだ。


「おはようございます」

「ふわぁ~あ。まずは顔くらい洗いたいな」

「そこの洗面所を使っていいぞ。まず私が先だがな」


 どこからともなくグナフが湧いてきた。


「先生!」

「いちいち驚くな。ウゴ、顔を洗ったら朝食を頼む。要領は夕べどおりに。アンは、顔を洗ったら今日の修行について簡単に説明しておく」


 アンとウゴがうなずくと、グナフは洗面所へむかった。


 そういえば、布団をどうすべきか。このままほったらかしとはいかない。しまおうと考えればいいのかと思い、アンはそう考えた。たちまち布団は消えた。


 そうなると、森にだしたままのシャワーが気にかかる。どうせまた使うことになるかもしれないが、片づけないとなにやら気分が落ちつかない。


 グナフは、あっけないほど早く洗面所をでてきた。


「どうせ俺はすぐすむし、朝食にさっさとかかりたいから先でいいか?」


 ウゴの申しではもっともだった。


「はい、どうぞ」


 アンは快く譲った。


 ウゴの説明は事実そのものだった。洗面所にいったかと思ったら、ほんの十数秒で彼は終わらせた。グナフも短かったが、ウゴはもはや芸といっていいくらいだ。


「お先」

「ど、どうも」


 最後にアンの番になった。グナフやウゴを踏まえると、公爵家にいたときのような感覚はとても保てない。また、そのつもりもなかった。


「よし。では、席につけ。朝の打ちあわせを始める」


 洗面所をあとにしたアンを目にするなり、グナフは命じた。


「はい、お願いします」


 そこからは、昨日手にしたメモ帳をグナフの指示にあわせてたしかめるだけですんだ。ケムーレのことを話そうかとは思ったが、つい機会を損なった。


 アンからすれば、日々の修行に専念せねばならない。


 アンジロダケと大蛇の内臓から、不可視看破薬を作る。必要な道具は自分の魔法で調達できる。もっとも、アンの力はまだまだ未熟だ。だから、できた薬はせいぜい彼女が手を伸ばせば触れられる範囲を看破できるだけだし、鼓動が十も打てば時間切れとなる。


「朝飯ができたぜ」

「ちょうど区切りがついた。食べよう」


 ハムエッグに野菜スープ、つけあわせに昨日と同じクルミパン。肥料がなんだろうが、うまいものはうまかった。


 朝食が終わると、ウゴがあとかたづけをする時間が浮いた形になった。


「先生、昨日の課題の終わりに森でだしたシャワーがそのままです。すぐに消せますから、一度席を外していいですか?」


 まさか、二度も三度も大蛇が襲ってはこないだろう。メモ帳を使えばすぐに往復できるし。


「わかった。いってこい」

「ありがとうございます」


 アンは、メモ帳の最初の頁を開いてわずかに意識を集中した。すぐに昨日の現場に進めた。


 そこにシャワーや大蛇の死骸はあった。大蛇に用などないのだから、シャワーを消して帰ればすむ。しかし、なんともいえない違和感があった。


 しばらく思案し、ついに彼女は悟った。大蛇の死骸に手が加えられている。昨日さばいたときには、腹が空をむいていた、いまは、上下が反対になっている。つまり、何者かがひっくり返した。


 死骸が動物に食べられたような変化なら、無視していい。だが、これは明らかに人の手が加わっている。なにかを調べるためにやったことだ。


 せめて足跡でもついてないかと地面に注目したが、痕跡はなかった。


 一人で悩んでもしかたない。彼女一人の力では、さすがにこれ以上の調べものは無理だ。


 とりあえずシャワーを消して当初の目的を果たした。それから、すぐにグナフの家に帰った。


「先生……」


 椅子に座ったままのグナフにかけた声が、途中で蒸発した。グナフの下半身も椅子も、床までもがおびただしい血に浸っている。


 苦痛と驚愕にかっと目を見開いたまま、彼女は背中から胸へかけて太く大きな矢に貫かれて死んでいた。矢が飛んできたであろう方向へ目をやると、壁にも穴が開いている。矢は、そこから椅子の背もたれまでをも突きぬけていた。


 いくらアンが武器や戦闘に無知でも、異常な手練れであり常軌を逸しているのは一目で把握できた。


 グナフほどの術者なら、こうした事態への手だても抜かりなかったはずだ。相手はそれをも凌いだことになる。


 一方で、室内は荒らされていなかった。ますます異様だ。


 そして、ウゴの姿がない。


「ウゴさん!」


 まだ近くに敵がいるかもしれない。こだわってなどいられなかった。


「ウゴさん! 無事ですか!?」


 返事はなく、家中を探し回ったが虚しかった。もっとも、敵がいないこともまたはっきりした。


「敵もさるもの、打つ手に無駄がないね」


 ウゴの代わりに、ケムーレが現れた。

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