第2話 王家の庭は今日から練兵場
翌朝、午前五時半。 白々と夜が明け始めた王宮の庭園に、優雅さのかけらもない悲鳴と、冷徹なカウントの声が響いていた。
「……じゅう、はち! ……じゅう、く! ……に、にじゅうっ!」 「声が小さい! 腹から声を出せ、腹から! 貴族のプライドはどこへやった!」 「ひっ、ひぐっ……もう、無理……足が、棒のようですわ……!」
バラの香りが漂う美しい庭園で、豪奢なドレスを脱ぎ捨て、簡素なシャツとズボン(俺が用意させた訓練用装備)に身を包んだ公爵令嬢エリザベートが、生まれたての子鹿のようにプルプルと足を震わせていた。
彼女が行っているのは、スクワットだ。 ただし、ただの屈伸ではない。俺が前世で新入社員に課していた「地獄の空気椅子キープ」を取り入れた特別メニューである。
俺、セドリックは腕組みをして、彼女のフォームをチェックする。
「エリザベート、膝がつま先より前に出ているぞ。それでは太ももではなく膝を痛めるだけだ。お尻を突き出し、背筋を伸ばせ。貴族たるもの、いついかなる時も姿勢を崩すなと言ったはずだ」
「殿下は……鬼、ですわ……悪魔……サディスト……ッ!」 「なんとでも言え。口が動くうちはまだ余裕がある証拠だ」
俺は冷ややかに言い放ちながら、心の中では(いいぞ、その調子だ)と頷いていた。
原作のエリザベートは、ヒステリックな癇癪持ちだったが、その実、体力は皆無だった。 少し叫んで暴れればすぐに息切れし、そのストレスをまた暴食や散財で発散する悪循環。
断罪イベントの際、彼女が衛兵に捕らえられたのも、逃げようとしてわずか十メートルでドレスの裾を踏んで転んだからだ。
(破滅を回避するには、まず逃げ足……いや、基礎体力が必要だ)
それに、筋トレはメンタルに効く。「筋肉は裏切らない」は前世からの俺の座右の銘だ。セロトニンを分泌させれば、あのヒステリックな性格も多少はマイルドになるはずだ。
「水だ。飲め」
俺は膝から崩れ落ちたエリザベートに、水筒を差し出した。 彼女は「ありがとう」も言わずにそれをひったくり、令嬢にあるまじき勢いでラッパ飲みする。喉を鳴らして水を飲むその姿は、ある意味で生命力に溢れていた。
「ぷはっ……! ……もう、限界ですわ。お父様に言いつけます。こんな野蛮な真似、淑女のすることでは……」 「淑女?」
俺は鼻で笑った。
「エリザベート。お前は昨日、癇癪を起してティーカップを割ったではないか。そんな人間に、国が支えられるとでも?」 「うっ……それは……」
「それに、お前のその白い肌。不健康な白さだ。血行が悪すぎる。それでは脳に酸素がいかず、思考もネガティブになる。だから短絡的に『処刑』だの『追放』だのと叫ぶことになるんだ」
俺はしゃがみこみ、汗で濡れた彼女の前髪を指で払った。 不意の接触に、エリザベートがビクリと肩を震わせ、上目遣いで俺を見る。その瞳には、恐怖と、困惑と、ほんのわずかな「期待」が混じっていた。
「……綺麗になりたいか?」 「え……?」
「今のままでは、お前はただの『化粧の厚い、顔色の悪い女』だ。だが、このトレーニングを続ければ、内側から発光するような血色と、どんなドレスも着こなせるしなやかな肢体が手に入る」
俺は前世の営業トークスキルを全開にした。
「想像してみろ。夜会で、他の令嬢たちがコルセットで無理やり腹を締め付け、酸欠で青い顔をしている中……お前だけが、涼しい顔で、凛と背筋を伸ばして立っている姿を。それが『真の美しさ』だと思わないか?」
エリザベートがゴクリと唾を飲み込んだ。 彼女はプライドが高い。そして「美しさ」への執着も人一倍だ。そこを突く。
「……ほ、本当ですの? 足が太くなったりしませんこと?」 「俺の指導に従えば、無駄な肉は削げ、必要な筋肉だけがつく。彫刻のような美貌が手に入ることを約束しよう」
「彫刻……」 「やるか、やらないか。ここで止めてもいいぞ。その代わり、お前は一生『青白いヒステリー女』のままだがな」
沈黙が流れた。 エリザベートは悔しそうに唇を噛み締め、震える足に力を込めた。 そして、土で汚れることも厭わず、地面に手をついて立ち上がる。
「……やりますわよ」 「聞こえないな」 「やると言ったのです! わたくしは公爵令嬢エリザベート! 誰よりも美しく、誰よりも上に立つ女ですもの! スクワットごときで負けたりしませんわ!」
彼女の瞳に、不屈の炎が灯った。 それだ。その「負けん気」こそが、俺の推した悪役令嬢エリザベートの最大の魅力だ。
俺はニヤリと笑い、懐からストップウォッチを取り出した。
「いい返事だ。その意気に免じて、特別メニューを追加してやる」 「は……?」 「次はランニングだ。庭園外周、3周。遅れたら昼食のデザートは抜きだぞ」 「鬼ぃぃぃぃぃぃッ!!!」
早朝の王宮に、エリザベートの絶叫が再び木霊した。 だが、その足取りは、最初の一歩よりも確実に力強くなっていた。
(よし……これで第一段階はクリアだな)
逃げ惑う彼女の背中を追いかけながら、俺は心の中でガッツポーズをした。 彼女の矯正計画は、まだ始まったばかりだ。




