誰かの親友になりたい
親友という言葉を、二人同時に使うべきではない。
『最』も言うからには一人でなくてはならない。もし誰かが二人以上親友を挙げたのなら、それは友人への理解が粗雑だと自白している気がして嫌だった。
差別的だと言われるかもしれない。しかし世界中の誰をも愛するのは神にさえできない。ならば人間は、せめて一人だけと最も親しくあり、最も親しくされるべきだ。それだけで生きていくには十分だろう。
たとえこれが広辞苑や大辞泉の記載に反したとしても、私の信念であり、親友という言葉と形容される人物への敬意だった。
でなければ、私は私が誰の一番にもなれず、曖昧な関係に生かされるしかないのだと一生涯悩み続けなければいけなくなってしまう。
かつて私には親友がいた。
過去形で話すのは、決して決別や死を意味したいのではなく、短くはない私の人生の中でその人を超えて親しみを感じられる人が現れたからだ。
その人は私よりずっと美しく、背が高く、会話が上手で、愛想がよく、性格がいい人だった。
高校で出会い、一緒の大学に通った。ずっと自分の席に座って小説を読んでいる私に声をかけてきてくれて、友人と会話をしたという記憶のほとんどは彼女とのものだった。
なんで私なんかに、と何度も思った。思ったけれど口にしなかったのは、それがその人の優しさだったときが怖かったからだ。
高校三年になり、大学受験の時期を迎え、わたしは一足先に推薦で進路が決まった。その人は一般で受験し、勉強面では色々と苦労したようだが、最終的には二つの合格を貰った。
二つのうち一つは私と同じ大学で、その人はそちらを選んだ。私が入る大学だからという理由を聞いた日から、私はその人の優しさを疑うのをやめた。
大学に入り、一度目の年末年始を一緒にカラオケで過ごした。二度目はその人に恋人ができて違う過ごし方をしたが、年が明けた頃、去年の私との時間の方がぶっちゃけ楽しかったとの連絡をもらったとき、擽ったい喜びを感じた。
わたしはその人を親友だと思っている。
しかし、その人は私を、私が定義する親友だと思っているのだろうか。
私は口下手な人間だった。小説を好む人間によくあることなのか、私だけそうなのかは分からないが、正確に言葉を使いたがる癖があった。私自身の感情をいかに論理的に確実に伝えるための言葉を、会話の毎度ごとに頭の中で辞書を引いて探すようなことをしていた。間違ったことを言って、勘違いされてしまうのが怖かった。
そして皆、私との会話の間の悪さを嫌い、辞書の頁をめくっている間の沈黙を恐れ、遠のいていった。
それでいいと思った。仕方ないとはいえ、相手に申し訳ない気は十分にあった。それに急いで会話についていくために誤った言葉遣いをするなら、会話をしないほうがいいとさえ思った。
そうして何ヶ月かが過ぎ、二年生に上がった。去年の私を知っている人は近づいて来ず、初めての人も早かれ遅かれ私の癖に気付いて遠ざかっていった。そもそも私自身が嫌厭して、まともに会話しようとしなかったきらいがある。
しかしその人は違った。ホームルーム前、休み時間、移動教室の道すがら、雑多な瞬間にふらりと現れて声を掛けてきた。他と変わらず決して良くはない愛想で相対していたはずだが、私の生返事を気に留めず一頻りあったことを喋り通すと、満足した顔で去っていくのだ。
私は自転車通学で、その人は電車通学だった。おまけに高校の周辺は田畑と住で街に遊ぶような場所もなく、私的に会うような仲にはなかった。
なぜ私が大学の決め手になったのか今でもわかっていない。交友関係が広いその人なりに人間関係に思うところがあり、いっそ無関心に近い粗雑な扱われ方を楽にでも思ったのだろうと勝手に想像した。
だから関係が親密になったのは、大学に入り、帰り道が同じ方面になってからだった。
距離が近くなり、しかし私たちの関係の形は変わらなかった。
話すのはその人で、聞くのは私。
聞き上手であろうと道を決めたのもこの時期だったと思う。おかげで私は豊富な相槌の種類とバリエーションに富んだオーバーリアクションを習得した。
そこに無理も無茶も、私の意思に反した決定は何一つなかった。ボールの受け止め方とうまいトスの上げ方を覚えると、会話が上手くいっているような気さえした。
その人が話し、私が頷く。そういった役割で私たちの関係は成り立っていた。役割という言葉を使うと無理やり充てがわれたみたいに聞こえるが、そうではない。少なくとも私は私の役割に不満はなかった。
しかし、その関係を自覚したとき、私はその人を必死に見上げているような気がした。
その人が落としてくれるボールを必死に拾い集める自分の姿を想像してしまった。勝手に同じ土台にいると思っていた足場が途端に崩れて、私は自信を失った。
その人と私の高低差が、まるでその人との関係性を表しているようで悲しくなった。
あるいは、虚しい。親友というレッテルをその人に貼り付け、あたかも対等であると思い込んでいたのは自分だけだったのではないか、と。
親友という言葉に私なりの定義を見いだしたのは、ちょうどこのときだったと思う。
私は、私が親友だと思う人に親友だと思ってもらいたい。
誰よりも優先されたい。
誰よりも想われたい。
誰よりも大切にされたい。
二番では捨てられるかもしれないから。
私は心の底から想いたい。
私は安心したい。
親友という肩書が欲しい。
他に邪魔者のいない絶対的な関係が欲しい。
その人と私は親友になれない。
そんな確信があった。
その人が先に電車を降り、取り残された私の心はがらんとしていた。今までその人に感じていた価値と、私自身を支えていた自尊心が気付けば脆くひび割れていた。その人との些細な不和一つで、きっとそれらは砂塵になるだろう。
「わたしがいるじゃない」
そう語りかけてきたのは彼女だった。
隅の座席で、力なく頭をもたげていた私の横に座っていた。
「わたしはあなたを一番に思っているわ」
君じゃダメなんだ。
「どうして?」
君は私のことを一番に考えて当然なんだ。
「酷いこというのね」
仕方ないじゃないか。
君には私以外にいないんだ。
「そうね。わたしにはあなた以外いない」
それしかないからで選ばれるんじゃあ、私に失礼というものだろう。
「でも安心できる。あなたが高望みに敗れても、安全ネットは張られている」
私に落ちぶれろと?
「落ちはしないわ、戻ってくるだけ。あなたが大好きな場所。プラスマイナスゼロの地点」
私が親友を欲しがるのは高望みなのか?
「落ちて痛くない高さかどうかはあなたが決めること。今のあなたなら打撲程度で済むかもしれない」
…………。
「あなたは幸せ者ね。世の中にはわたしの存在も知らずに、落ちたら死ぬと思って血を滲ませながらしがみついている人がたくさんいるのよ」
落ちても大丈夫と知っていることは、死ぬ気で頑張れないということでもあるだろう。
「そうね。でもあなた好みじゃない?」
そうかもしれない。でも寂しいのも虚しいのも嫌だ。親友が欲しい。
「全部あなたが決めることよ。もし親友を得た上で戻ってきたくなったら、いつでも歓迎するわ」




