彼女の言葉
彼女はたまによく喋り、たまに閉じた口に美しい微笑みを称えて一言も喋らないでいる。
最初は喋らない人なのだと思っていた。彼女と出会ってから初めて彼女の声を聞くまでには、しばらく間があった気がする。
いや、最初から彼女は喋っていたのだと思う。呼吸や呻きや叫びではなく、意味を含んだ言葉を発していた。ただ私が、それが同じ日本語であっても理解できなかっただけで。
泣いた赤子をあやす母親が、痛かったねとかお腹が空いたんだねと言葉にして、それを赤子は理解できないでいるように、出会ったばかりの私は言葉を知らなかった。
言葉。感情を論理に変換した言葉。
モヤモヤとか、ムカムカとか、シーンとか。
そういうものではない、理解のための言葉。
幸いにも私は文章を読むのが好きな子どもで、物事に言葉をつける作業は人並み以上に得意だった。けれど、選んだ言葉はほとんど正しくはなかったと思う。誤用していたし、意味も分からず雰囲気で使っていたかもしれない。そもそも私が使った言葉はどれも読んできた文章をごっそり持ち上げてきた借り物ばかりだった。
単語の意味を知り、使い方を学び、自分で接続詞を選んでパズルのように組み立てができるようになったのはつい最近のことだ。
言葉の使い方を覚えることが、彼女の言葉の理解につながるとわかったのも。
私の心が平穏であるとき、彼女は喋ることなく、部屋の隅に膝を抱えて座り、晴れた日はカーテンの隙間から空を眺め、雨の日は目を瞑り雨音を聴いていた。
彼女が喋るときは決まって、私の心が荒んでいるときだった。私の横に座り、あるいは円を書いて歩き回る私の中心に座って、あるいは崩折れた私を見下し、あるいは背後から耳元に唇を寄せて、いつも真実を言ってくる。
それは正しくもないし、間違ってもいない。残酷ではないし、卑劣でもない。彼女の言葉に非難や謙遜を思ってしまうのは、私というフィルターを通り抜けることで、そう変換されてしまうからにすぎない。
彼女は中立に立ち、主観し、俯瞰し、たどり着く真実だけを言っているのだ。
あるとき、通りすがりの嫌悪感に怯えて生きている話を彼女にした。
「ほんの少し白線の上を歩いただけで車に睨まれたり、たとえばストローが入っていなくてコンビニに貰いに戻ったら疲れた顔をされたり、何一つ私が悪くなかったとしても悪い気がしちゃうんだ。どうせ次の信号で別の誰かにキレるか、空っぽの脳みそには三秒も記憶に残らないだろうにさ。私だけずっと覚えて傷ついているなんて馬鹿馬鹿しいだろう」
「ずっと、ではないと思うけれど。あなたは少し物覚えがよくて、暗示が効かないだけ。今日か明後日かまでは覚えていても、一週間後には忘れている。そうでしょう? どこで誰にどう嫌われたか思い出せないはず。そうやって中身を置き去りにしているのに、感情だけが続いているから錯覚しているのよ」
「そうかもしれない。けど結局はそれが問題なんだ。錯覚してしまっている。嫌われたことを受け入れるのに精一杯で、区別なんかつけていられない。どうしようもないんだ」
「それと同じことよ。あなたがそう錯覚してしまう。コンビニ店員の疲れた顔は、もしかしたら無理なシフトを組んだ店長に向けてのものかもしれないのに。『それは私に向けての感情ですか?』と聞けるような人ではないものね。どうしようもない問題。あなたがあなたで居続ける以上、安静にして傷を浅くするくらいしか対処法がない難しい病気なの」
「どうしようもないのか」
「そう、どうしようもない。遠く静かな田舎に逃げても完全には逃げ切れない。逃げたら逃げたできっとその嫌悪感さえ恋しくなる。そういった生活方法を確立させた社会か、あるいは神を恨めば少しは……あなたには無理ね」
実際はもっともっと長い問答だった。私が私の感情を言語化するのに苦労し、だいぶ彼女を待たせてしまったが、言われたのはそういうことだった。
話す前と後でなにも変わってはいない。筋道を見いだせもしなかった。ただ理解しただけ。現状把握。灯り一つない暗闇でコンマ一の裸眼に眼鏡をかけるのと同じ。
でも意味がないとは思わなかった。とても悲しいけれど、解決しようがないと知ることで、私は無駄に肩肘張った力を抜くことができた。
彼女の言葉にはそんな力があった。力というにはあまりにも現実的で救いはないが、きっと目に見える世界を輝かしく一変させてくれるヒーローは私には性に合わない。圧倒的な力を目の当たりにして、ちっぽけな悩みを抱えていた私は、無力さに惨めになって存在意義を失ってしまうような気がするのだ。
私は楽になりたいのだ。
正解でも間違いでも残酷でも卑劣でもない言葉は、無神経に客観的ではなく、私という人間性を理解したうえで寄り添ってはくれず、過剰な思い込みと非現実的な可能性を排し、真実だけをくれる。
優しくはないが、惨めにもしない。
そしてそれは大抵、どうしようもないことなのだと知らせてくれる。
それくらいが丁度いい。




