アッシャーさんの真実
ベッドに入って眠りにつくまで、ダニエラは先日のパーティーの後の事が夢だったのか現実だったのか考えていた。
意識が朦朧としていた時に聞いた事。
アッシャーさんはセオドリック様なの?
嫌、そんなはずはない。
セオドリック様は、罵倒されるのが好きなちょっと変わった公爵様だ。
普通、影武者は本人そっくりに振る舞うはずなので、もしもアレが影武者だとしたら、セオドリック様本人も罵倒されるのが好きなんだろう。
どっちにしろ変態だって事よ。
気にしたってしょうがない。私は仮の婚約者だから、どんな趣味だろうが私には関係ない。
それよりもチェルシーの処遇が心配だ。さすが女優なだけあって、咄嗟の演技は素晴らしい。
だから、これから潜入活動をやらされるのかもしれないわ。
問題は、それを本人に知らせるのか知らせないのかよ。
色々と考えすぎて眠れない。
ホットミルクでも作ろうとキッチンに向かうことにした。
部屋を出て、改めて廊下を見る。
毛足の長い絨毯に、豪華な調度品。
カーテンは上質のオーダーメイドで、綺麗にワックスがかかった手摺り。
数ヶ月前までの質素な我が家とは大違い。
これが婚約者になった恩恵だ。
一階に降りると、サロンの電気がついていた。
中を覗くと、ローズさんが本を読みながらスコッチを飲んでいる。
手元にあるのは分厚い専門書のようだ。
ローズサファイアとしてのローズさんとは違い、考古学を専攻しているローズさんの顔つきは同一人物だとは思えない。
真剣な表情のローズさんに話しかけるのを諦めて、キッチンに入る。
ミルクを温めながら蜂蜜を探していると、カタンと音がして誰かがキッチンに入って来た。
「おや、ダニエラ様、どうかなさいましたか?」
棚を漁っている私に話しかけてきたのはアッシャーさんだった。
「眠れないのでホットミルクを作ろうと思いまして、蜂蜜を探していたんです」
「アッシャーさんはどうされたのですか?」
「私はホットワインを作ろうかと思いまして」
ワインを棚から取り出し、棚からスパイスを出す姿はテキパキというよりも、ゆったりとしているのに機敏に見える。
執事たるもの、優雅に品よく見せないと主人の格も下がるというものなのね。
「ダニエラ様、あなた様がセオドリック様の婚約者で良かったと感じております。これからも、人目のあるところでの私の忠告は厳しく感じるかもしれませんが、ご理解くださいませ」
にっこり笑ってキッチンから出ていくアッシャーさんは、主人を案じる素晴らしい執事に見えた。
いつも厳しくしてくれているのは、公爵家に嫁ぐには未熟だからなのよね。
わかっている。
しばらくは扉の方を見ていたが、ミルクの沸騰する音で鍋の方を向くと、カップの横に蜂蜜が置いてあった。
ホットミルク用にアッシャーさんが出してくれたんだ。
スパルタの部分も多いけど、基本的には優しいのよね。
ミルクに蜂蜜を混ぜてカップに注いでいると、アッシャーさんが戻ってきた。
「蜂蜜を出してくれてありがとうございます」
「お礼を言われるほどの事ではございません。私が心配するのは、ダニエラ様のお体でございます」
シルクのストールを肩からかけてくれたのだ。
わざわざ持ってきてくれたのね。
「ダニエラ様はお立場をご理解ください。もうヒラリー様と二人暮らしではないのです。そんな薄着で屋敷内を歩き回るのは感心致しません。男性の使用人達もいるのですから」
小言を言うために戻ってきたのだろうか?
ホットワインを作りにきた時は優雅だったのに。
ため息をついてカップを持とうとすると、チョコレートが置いてあるのを見つける。
蜂蜜の次はチョコレート。
アッシャーさんってなんだかんだ言って優しいわ。
「チョコレートありがとうございます。先ほどのハチミツはホットミルクに入れましたので、いい匂いがしますよ」
「蜂蜜…?ワインに入れるために」
私の為だと誤解してしまったので顔が赤くなる。
「そうでしたか。てっきりカップの横にあったので、出してくれたのかと」
「カップの横…そ、そうです。ダニエラ様のために出したのですよ」
「少し多く作ってしまいましたのでご一緒にいかがですか?」
アッシャーさんの分のカップを出してミルクを注ぐ。
手渡しはマナー違反だからしない。
「ありがとうございます」
アッシャーさんが横を向いた時、首元にゴミが付いていた。
「あら?ゴミがついていますよ?」
光の加減かしら?
そう思って、立ち位置を変えた時、それがゴミではないのだと気がつく。
顔と首の間にうっすら隙間がある!
これって、顔は被り物。仮面なのね。
ということは、このアッシャーさんは偽物。
何故ここに偽物が?もしや、王家にお勤めだった関係で、暗殺の対象だとか?
アッシャーさんが偽物だと気がついたせいで、一歩下がる。
気がついた私が狙われるかもしれない。
ジリジリと後退りをした。
偽アッシャーさんは、首を触り、何かに気がついた。
「ダニエラ様、これには訳が!」
どんな訳があるっていうのよ。
そういえば、カサブランカの噂話で、「婚約破棄させたい相手の家に異性を差し向けて、一晩過ごさせて、醜聞を流す」って聞いた事がある。
公爵家との婚約を、権力の足がかりにしたい貴族もいるだろう。
だから私が狙われたの?
なんとかしてキッチンから出て、ローズさんに助けを求めなきゃ。
そうだ、声を出せば。
そう思ったら、口を塞がれた。
「叫ばないで。これはミスだ。仕方ない、カラクリを見せるよ」
偽アッシャーさんは首元の隙間に手を掛けて、被り物を脱いだ。
そこに居たのは、セオドリック様だったのだ。
「あわわわわ」
驚きのあまり言葉にならない。
「だから、叫ばないでくれる?」
体に入っていた力が抜けてきたので、セオドリック様も私の口を押さえつけていた手を離してくれた。
「本当の事を話すからついてきて」
トボトボとセオドリック様の後ろを歩く。
階段を登り、3階へと上がる。
ここは使用人達の私室があるフロアだ。
お母様と2人で住んでいた時は掃除しに来ていたくらいだし、ハートフォード公爵家と婚約して、屋敷が一変してからは一度も来ていないが、フロアのドアが取り替えられている。
セオドリック様は、廊下の中程で立ち止まりドアノブを触る。
封印が解けるかのようにドア全体が光った後、ゆっくりと押した。
「どうぞ」
中はこのお屋敷の主賓室より広い。
どうなっているの?
ここは使用人用の寝室で、ベッドが二つ入るくらいのスペースしか無いはずなのに、100人くらい入る大きなフロアになっている上に、豪華な家具が置かれている。
驚いていると、アッシャーさんが壁際に控えていた事に気がつく。
「ダニエラ様は真実を知ってしまったのですね」
にっこり笑うアッシャーさんは穏やかなアッシャーさんだった。
「このフロア、もしかしてこのおやしきに調度品を運んだ時に?」
「そうです。改装いたしました。本当の執事室はフロアの入り口にありまして、この周りに配置されている部屋は、全部護衛の部屋なんです」
アッシャーさんが教えてくれた事にまたもや声を失う。
護衛?
どこに護衛がいるの?
「侍従に、シェフ、男性職員のほぼ全部が護衛です」
「じゃあマギーさんは?」
「マギーは私の本当の妻です」
アッシャーさんの言葉に安心する。
よかった。
あの外見で、女騎士とかだと、本当に世の中何を信じていいかわからなくなる。
どこからどう見ても、品の良いご婦人だもの。
「ただ。第一王女殿下の乳母でした。王女殿下が隣国に嫁いだので、転職したんですよ」
開いた口が塞がらない。
そんなすごい人がメイド頭だなんて。
退職して王室から他の貴族のところで働くのなら、もっと裕福な家があっただろう…って、私は公爵家の婚約者になるからなのね。
「何故このような事に?」
頭が混乱して、漠然とした質問しかできない。
「昔話をしよう。学生時代から、色目を使うご令嬢達にうんざりしていた。本当は立場上騎士団に入るのが筋なんだけど、森林組合の職員になる事にした」
「確かに、未来の花婿の勤務先としてはあまり素敵ではありませんね」
「で、陰で国家安全局の仕事をする事にした訳だよ」
「それと、この状況と何の関係が?」
そんなモテ話、自慢したいのかしら。
「おお、その顔は氷上のドライフラワーだね。まあ、最後まで聞いてくれ。その諜報活動の中で、自分の婚約者の裏の顔を知った訳だよ。高級娼婦として働いているなんて、あり得ないでしょ」
「ご自身で、お相手の裏側を見つけてしまったんですね」
確かにそれはショックだと思うわ。
「王家が決めた婚約だから、破棄は証拠が必要だし、次の婚約者探しも同時にしないといけない。組織の全貌も暴かないといけないから、沢山のご令嬢を調査したよ」
「それは大変でしたね」
ここまでくると落ち着いてきて、アッシャーさんに勧められるがままソファーに座り、ハーブティーを飲む。
「同時に複数のご令嬢達の調査中、1人のご令嬢の行動が目についた。派手な外見で私生活が謎に包まれたご令嬢だが、人よりよく働き、定時に帰っていくんだ」
ハーブティーを飲む手が止まる。
「彼女は、王立学園を好成績で卒業しているが通信教育で、誰も学生時代の彼女を知らない。しかも、職場でも、仕事場を出たが最後。彼女の姿を見たものはほとんどいない。朝も同じだ。彼女の姿を職場以外で見たものはいない」
「それって」
「君の事だよ」
確かに、怪しく見えるわよね。
「調べると、マントを目深に被って、歩いて通勤しているんだ。普通は馬車なのに不思議だよね。しかも、家ではメイドの格好をして、仕える主人がいないのに、さも豪華な生活をしているように装っているんだ」
おかしくてたまらないというように、セオドリック様は笑う。
「しかも、王都トップのショーレストランの歌姫の専属メイクアップアーティストで、その歌姫も身分を偽った貴族だった。こんな面白い事ないじゃないか」
「そうですか」
人の人生掘り起こして何が楽しいのかしら。
冷たい返事しかできない。
「ちなみに今、私は微妙な立ち位置にいる。王位継承権があるせいでね。面倒な権力抗争に引き込まれそうになっているんだ。それで、不意打ちと夜這いを恐れて影武者がハートフォード邸に住んでいるんだよ」
「それと私を婚約者に選んだのはどんな理由が?」
「誰も本当の君を知らない。お金も権力もないけれど、クルーガー家を利用しようとする輩もいなければ、後ろ暗い事もしていない。こんなにベストな婚約者はいない」
ここで、アッシャーさんが咳払いをした。
「大切なお言葉が抜けていらっしゃいます」
控えめに口を挟んだが、大切な事って何かしら?
「将来妻を迎えた時、一緒に諜報活動をしてもらうのにうってつけだ。海外に夫婦で外遊する事もあるだろうしね」
「また勝手なお話ですわ。私がいつ、その活動に手を貸すと?」
「拒否権があると思ってるの?」
投入してもらった資金を考えると無いよね。
「…ありませんね。従うしか無いという事ですね」
「ダニエラ嬢の友人のチェルシー嬢も、かなり素質があるしね。スカウトする予定だよ」
「それで彼女に引っ越しを持ちかけたんですね」
「そう。アドラーの魔法靴屋の孫娘である事はわかったけど、あんなに裕福なのに質素な生活をしているのが面白い」
「チェルシーの生家って裕福なんですか?」
「彼女が作る魔法のダンスシューズのおかげでね。チェルシー嬢を育てた祖父は、チェルシーの将来のため、お金は使っていないらしいし、チェルシーは自分を貧乏だと思っているようだ」
「フフフフ。チェルシーらしいわ」
「彼女は諜報活動をするかどうか拒否権があるから。うんと言ってくれることを期待するよ。彼女、センスあると思うから」
どうやってチェルシーにうんと言わせるのかしら。
疑問だけれど、今それよりも目の前に問題が転がっている。
セオドリック様の企みが怖い。
「本当の秘密を明かしたのだから、絶対に逃げられないよ。婚約者殿」
膝を突き、私の手を取ると、手の甲にキスをして視線を合わせてくる。
セオドリック様の瞳はすごく魅力的だった。
これって、影武者とは外見以外何一つ同じじゃ無いわね。