雄鶏とボイトレ
「高い方のキーにしましょう」
ピアノの鍵盤に指を置いたまま、トモカセンセイは断言した。
高音を出すのはしんどい。ニワトリが喉を絞ってコケコッコーと鳴くみたいで、聞き苦しいと思うんだよね。でもトモカセンセイのことは、一途に信じているわたしだった。
高いキーで歌うため、わたしは朝に晩にマンションの屋上で、きっちり30分ずつ、特訓を始めた。朝は太陽に向かって、夜は月に向かって。
朝晩の特訓のおかげでわかったことは、マンションの屋上から富士山がみえるということ。マンションの住人は、たぶん知らない。屋上は気持ちいいよ、と何人も声をかけてみたけれど、みんな屋上と聞くだけで身体をこわばらせる。屋上はこわいところで、登ってはいけない場所らしい。
もうひとつ気づいたのは、満月の夜には、地球上の命あるものは、みな歌うということだ。満月の日だけじゃないけど、満月の日は、特別こころがひとつになる。
みんな気がついていないけれど、無意識のところでは、ひとつになって音をだしている。まるで秋の虫みたいに共鳴しあっているのだ。
ある朝、わたしは自分の頭の後ろで、ひとつの音が鳴っているのに気がついた。
それは若い雄鶏の鳴き声だ。
その声はまっすぐで、青空と山の端をくっきりとわけて天を裂くように響いていた。
その雄鶏のことを、わたしは知っていた。
故郷の、山の中腹にある神社の御祭は、毎年5月1日だった。参道の山桜は、縁日の日にはいつも満開。参道は綿菓子、リンゴ飴、ねり飴、ゴム風船の店でにぎわい、ひなびた境内もこの日ばかりは、ハラジュクの賑わいでカラフルに彩られた。
なかでも目を引くのは、ちいさなヒヨコたちで、大きな段ボールの中に入れられたヒヨコたちが、押し合いへし合い、まるでみつばちのように騒いでいた。
マゼンダ色やブルーに染められたヒヨコたちもいたが、私が選んだのは染められなかったイエローのヒヨコだ。
一匹のヒヨコを手のひらに、山道を駆け下りた、春の夕暮れ。
そのヒヨコは、ほどなくして立派な鶏になった。
雄だから、卵は産まない。ただ、毎朝3時になると、
コケコーッコー!
と雄叫びをあげるようになった。
絵本の中では、鶏は朝日に向かって鳴いていたが、じっさい鳴くのは夜明け前。夜の闇はまだ深く、その声を聞くとこどもは跳ね起きて、こんな夜中に喉を絞り上げるようにけたたましい声をあげなければならない雄鶏という生き物に、驚嘆し、困惑した。
その雄叫びは夏中つづいた。そして秋になっても、真冬でも、夜明け前のくらい空の下で、雄鶏は喉をしぼって鳴いていた。
家族はその鳴き声に悩まされた。あるとき自転車にかごを載せた老人が、その雄鶏をつれていき、我が家の朝は静けさを取り戻した。
発声練習。地声で。
アアアアアアアアアー
頭の後ろから聞こえる、雄鶏の声の周波数と共鳴する。ああそうだったのか。あの子は、ただ「その時の声」を上げたのだ。そこに苦しさはない、切なさはない、遠慮もない。
そのとき、その場所で、命の音をたてた。それだけのこと。
生きていたから。
アアアアアアアアアー
わたしも同じだ
生きているから、音をたてている。
アアアアアアアアアー
マンションの屋上で、雄鶏と、コオロギと、太陽と、わたしの声が、ハーモニーを奏でている。