37.それ何ですの?
ガシャンッ、と耳腔の奥を突き刺すような破裂音に、使用人の男は思わず肩をすくめた。
部屋の壁へ乱暴に投げつけられた陶器製の花瓶。無惨に砕けた花瓶の欠片が、男の足元まで飛散した。
「くそっ……! また失敗しただとっ!? 役立たずどもが……!!」
使用人の男が伏せていた目を恐る恐る開く。が、いまだ怒り冷めやらぬ様子で肩を震わせる主人を視界に捉え、再びそっと目を閉じ首を垂れた。
「申し訳ございません……!」
謝罪の言葉を述べながら頭を下げる使用人を、老齢の男が忌々しげに睨みつける。
「お前は、事の重大さを理解しているのか!?」
「も、もちろんです」
「では、なぜたかが小娘一人を始末できんのだっ!!」
使用人の男が唇を噛む。男が主人からある命令を受けたのはニヶ月ほど前のこと。
短期間で驚異的な発展を遂げた新興都市、エステル。その立役者であり、実質エステルの頂点に君臨している娘を暗殺する。これが使用人に与えられた命令だ。
当初、簡単な仕事だとたかを括っていた使用人だったが、その目論見はあっさり外れた。
これまで、数度にわたり刺客を差し向けたものの、誰一人戻ってこない。冒険者崩れで、腕に覚えのある刺客を差し向けたにもかかわらず、だ。
「恐らく……凄腕の護衛がついているのかと」
「だったら、もっと腕の立つ刺客を差し向けろ!」
主人の怒りはいまだ冷める様子がない。まあ、それも仕方がないことだろう、と使用人は思った。
王家のお膝元である王都は、紛れもなくデュゼンバーグにおける経済の中心地だった。が、新興都市エステルの誕生によって状況は一変した。
これまで眼中にすらなかった、吹けば消し飛ぶような小集落。それが、今では強固な壁と強力な武器によって軍事要塞のように姿を変えたばかりか、独自の経済圏を築きつつある。
このままでは、間違いなく近い将来、エステルは国内一の経済都市になるだろう。そしてそれは、ご主人様にとってあまり都合のよいことではない。
主人が背を向けた隙に、使用人は小さくため息をついた。と、そのとき──
「……あなた? 何かありましたか?」
部屋の扉が開き、一人の女性が入ってきた。使用人が振り返りざまに腰を折る。主人の妻だ。
「ん? ああ……何もないよ。ちょっと、商売の議論で熱くなってしまってな」
「そう、ですか。何かトラブルでも……?」
「君が心配することじゃないよ。商売やうちの商会のことは、僕に任せておいてくれればいい」
先ほどまでとは打って変わり、にこやかな笑みを浮かべて対応する主人を目にし、使用人は思わず背筋がぞっとするのを感じた。
「心配はしていませんよ。あなたの商才を信じていますから。だからこそお父様もあなたを後継者にしたのでしょうし」
「ああ、そうだな。おっと、アルノー、もういいぞ。さっきの件、速やかに頼むぞ」
「はい。では失礼いたします」
使用人の男、アルノーは内心ほっとしながら主人の部屋を退室した。そして、主人の怒り狂っていた顔と、先ほど妻に見せていた柔和な表情を思い浮かべる。
いったい……どちらが本当のご主人様なのだろうか。ときには部下への制裁に暴力も辞さず、邪魔と感じれば小娘さえ手にかけようとする。
一方で、奥様の前では常に柔和な表情を崩さず、声を荒げることもない。あの豹変ぶりは、何度目の当たりにしても慣れない。
「……怖いお方だ」
巨大な屋敷のなかに用意された自室へと足早に向かいながら、アルノーはぼそりと呟いた。
──どこか、懐かしい感じがするのはどうしてだろう?
デュゼンバーグ王都の冒険者ギルド。受付カウンターの内側に立つミウは、業務が一息ついたタイミングでじっくりと周りに視線を巡らせた。
忙しい時間帯を過ぎていることもあり、冒険者の数はまばらだ。ふと、目が合った冒険者が親しげに手を振っている様子が目にとまり、ミウは軽く会釈した。
ここで働き始めてすでに五日目。ミウはすっかりギルドに馴染んでいた。
「よう、ミウさん。この依頼受けようと思うんだが、手続きしてくれねぇか?」
微かにぼーっとしていたミウが「はっ」と我にかえる。目の前には、数回対応したことのある冒険者、デュランが手に持った依頼書をひらひらさせながら立っていた。
「あ、すみません……! ええと、依頼内容を確認しますね」
「おう」
手渡された依頼書に視線を落としたミウだが、その眉間に微かなシワが刻まれた。
「? どした、ミウさん?」
「あ、その……デュランさん、今Cランクでしたよね?」
「ああ」
「なら、この依頼はやめておいたほうがいいかもしれません」
デュランがきょとんとした顔になる。それもそのはず、彼が受けようとしている依頼はそれほど難しい内容ではない。
「おいおいミウさん。たかが暗闇草の採取だぜ?」
暗闇草は目の疾患に効く薬草の一種だ。
「この時期の暗闇草は、まれに強い毒素を放つことがあるんです。もし採取場所が空気の流れの悪いところだったら、毒にやられてしまうかもしれません」
「ま、まじか……」
「ええ。状態異常無効化の魔法でも使えれば話は別ですが。そうでないなら割に合わない依頼だと思いますよ」
デュランがごくりと喉を鳴らす。生え際がかすかに後退しかけの額には、うっすらと汗もかいていた。
「や、やめとくわ……」
「それがいいと思います」
「それにしても、ミウさん物知りなんだな。その辺の冒険者なんかよりよっぽど知識がありそうだぜ」
別の依頼を探すわ、とデュランが背を向けて歩いていく。一方、ミウは硬直していた。
……まただ。どうして、どうして私はあんなことを知っている?
現役の冒険者さえ知らないようなことを、なぜ私が知っている? 先日にいたっては、私を助けてくれた女の子たちに高等魔法の講義までしてしまった。
私は魔法なんて使えないのに。使えないはずなのに。
私は、私はいったい何なんだ。どうして、私には記憶がないんだ。
受付カウンターのそばに呆然と立ち尽くしながら、ミウはぎゅっと唇を噛み締めた。
──お気に入りのソファに仲良く腰をおろし、幸せそうに焼き菓子を頬張る愛弟子たちを見て、リズがくすりと笑みをこぼした。
「やっぱ先生の家は落ち着くわー」
「そうですね。私たちにとって第二の我が家みたいなものですものね」
「ここに住みたい」
好き勝手なことを言いながらくつろぐ、ユイにモア、メル。
「ふふ。ここ何日か稽古をつけてあげられませんでしたが、自主練はしていましたの?」
「うん!」
「さぼってません!」
「もちのろーん」
三人娘が自慢げに胸を張る。私の弟子たちは思った以上にまじめなようだ。とリズは内心にんまりした。
「いい子たちですの。じゃあ、自主練の成果を見せてもらいますの」
ソファから立ち上がるリズを見て、三人娘が慌てて紅茶を喉に流し込む。
庭に飛び出した三人娘は、横並びに整列してリズと向き合った。
「さて、軽く模擬戦でもしましょうか。三人でかかってきなさいな」
リズの言葉を聞いた三人娘が、顔を見合わせてにんまりとする。その様子に、リズは微かに首を傾げた。
何ですの、今の? もしかしてあの子たち、三人で連携する練習でもしてたんですの?
怪訝そうにするリズを、ユイとモア、メルの三人が取り囲む。
……ふむ。強敵を相手に複数名で取り囲むのはよい選択ですの。そして、そこから繰り出すのは──
ユイとモアがそれぞれ二つ、メルが三つの魔法陣を眼前に展開する。魔法陣が眩い光を帯び、増幅された魔力が閃光となって一斉に放たれた。
魔導砲による三方向からの一斉砲撃。まともに食らえばただでは済まないだろう。まあ、人間やその辺の魔物であれば、の話だが。
「『魔法盾』」
リズの全身を覆うように光の盾が顕現する。ユイたちが放った魔導砲はあっさりと受け止められてしまった。
が、なぜか正面に相対するユイの顔には悔しそうな表情が浮かんでいない。あの、人一倍負けん気の強いユイが、だ。
リズが訝しがりつつも魔法盾を解除したそのとき──
「……!?」
背後に強力な魔力の高まりを感じたリズが、ハッとした顔で振り返る。視界に映るのは、メルと三つの魔法陣。
リズは思わず口元が緩んだ。
なるほど、時間差攻撃ですのね。一斉砲撃と思わせて、私が魔法盾を解除したタイミングでメルが撃ち込む。素晴らしいですわ。でも──
リズの魔力が一気に高まる。そして、そのまま腕を横へ薙ぎ払うと、三つの魔法陣から放たれた魔導砲はあっさりかき消されてしまった。
「あちゃー! やっぱダメか……!」
「さすがリズ先生です」
「むう……悔しい」
ユイとモアは頭を抱え、メルはリスのように頬を膨らませた。
「こうなったら……モア、メル! あれもやるよ!」
ユイの呼びかけに応じ、モアとメルがまじめな顔で頷く。
「ふふ。あなた方、連携が上手になりましたわね。次は何を見せてくれるのか、とても楽しみですわ」
にんまりしながらリズが言う。楽しみ、というのは紛れもなく本音だ。愛弟子の成長を実感できることほど嬉しいことはない。
それにしても……いったい何をする気ですの? ずいぶん念入りに魔力を練っていますが。実戦でそんなに悠長にしてたらやられてしまいますわよ? というのはこの際言わないでおきましょう。
「さあ、いつでもいらっしゃ──」
刹那、リズの肌が粟だった。ハッと足元を見やると、いつのまにか魔法陣が展開している。
しかも、ただの魔法陣ではない。三つの魔法陣が重なり合い融合している。
な、何ですのこれ? 煉獄……のようですが、こんな術式見たことありませんの──
リズには確信があった。この魔法は、この術式はまずい。
困惑するリズを尻目に、三人娘が同時に、そして高らかに魔法を詠唱した。
『『『三角陣煉獄!!』』』